CiNii八分?

先日,とある雑誌にとある先生のご著書について書評を書かせていただいた。たった2ページの駄文である。

自身のサイト(ここね)に業績一覧を掲載しているので,CiNiiに書誌情報が載っていればそこにリンクでも貼ろうかと,検索してみた。

…ひっかからない。しかし,当の文章が掲載された号の他の論文は書誌情報がある。どういうことなのだろう。いろいろなやり方で検索をかけてみるも,いずれもダメ。

要は,当の文章の情報はデータベースに登録されていない,ということなのだろう。

お目汚しのような文章なので,人様に知られないというのは歓迎すべき状況なのかもしれない。それは別にいいのだが(本当はよくない。ちょっと怒っている),ここで俄然気になるのは,出版された論文はどのような手続きによってCiNiiに登録されるのかという点である。

しかしもっと気になるのは,このような場合,当の文章は「なかったこと」になってしまうのではないか,ということである。例えば,雑誌そのものを閲覧できなければ,記事をCiNiiなどで検索して必要な論文だけ入手するわけだが,そもそも登録されていないので検索に引っかからない場合,ある論文が存在すること自体知ることができない。

かつて,Googleのデータベースから抜け落ちていて,検索で引っかからないものは,ウェブ上では存在しないことになってしまう,という「グーグル八分」が話題になったが,CiNiiのデータベースでも同じことが起こる。「CiNii八分」とでも言おうか。

たぶん,このへんにコンタクトすれば修正なりなんなりしてくれるのだろうが,なんとなく自分でやるのは気恥ずかしい。どうすりゃいいんだろう。

保育環境のアンビエント・サウンド

日本の保育所や幼稚園はうるさい。もう慣れてしまった人間からすればなんてことはないのだが,初めて足を踏み入れた人間からすると相当うるさい環境である。入園したばかりの子どもはまずこの「うるささ」に慣れなければならないのだろう。

ということからすると,保育所や幼稚園を「音」という観点で記述すること,そこにおける子どもの行動を,特有の音環境に「ニッチ」を発見し利用する過程として記述することはおもしろいのではないか。

多数の人間が集まって音を出し合っている環境を,「社会知覚的エコロジー」という視点で見てみよう。英語で言うと"socio-perceptive ecology"。教育社会学者F.Ericksonが学校教室を「社会認知的エコロジー(socio-cognitive ecology)」と呼んだのにならってである。「認知」ではなく「知覚」という語を入れたのは,人と環境との接面において起こる出来事を生態学的アプローチに依拠して記述したいから。要するにギブソン流に行く,という宣言である。

音とは,とどのつまり空気の振動だ。人は空気という媒質の振動に囲まれている。ギブソンにならえば,「包囲音波」(ambient sound)とでも言おうか。たとえれば,音の波が常に全身に打ち寄せている。無生物と異なるのは,打ち寄せ方を人自身が決められる点である。

人にとっての包囲音波には人工的なものも含まれる。最も身近なのが人の出す言語音声だろう。それ以外にも人は多様な音をまき散らしている。まき散らされ方は環境の構造を特定する。たとえば,視覚障害者が地下通路を歩くときなど,音の反射の仕方などで壁との距離が知覚できるという(伊藤精英先生の研究による)。音のまき散らし方を人は伝承してきた。その意味で文化的なものでもある。マリー・シェーファーはそのあたりを汲んで,サウンドスケープと言ったのである。

はじめに戻ろう。保育所や幼稚園は独特なサウンドスケープである。幼児はそうした環境に特定的な包囲音波においてどのように身を置き,自らそこで新たな音波を作り出すのだろうか。

保育所や幼稚園でよく見られる活動に,同じ言葉を複数人で一斉に言うものがある。かつて自分は「一斉発話」とか「同時発話」とか呼んだものである。例えば,朝の集会や食事前のごあいさつとして,あるいは合唱として,子どもたちは声を重ね合う。これによって,家庭などではあまり起こらない,独特な包囲音波が作られる。

どの辺が独特かというと,園で普通に会話しようとすると,うるさいなかで話さなければならないので,背景となる通奏音から自分の声を際だたせる行為が必要なのだが,一斉発話では反対に自分の声を他者の声に重ね合わせ,まぎれこませる必要がある。この点で一斉発話は独特なのである。

他者と声を重ねることを,協調的にタイミングを同期させた身体運動として見れば,それは発達初期から見られる人間の基礎的な能力である。一斉発話を単なるタイミング協調過程として記述してもダメだろう。子どもたちは自身のもつ基礎的な能力を用い,特定の環境で,どのような目標を目ざして,どのような行為を行うのかを記述することが重要である。というのも,能力そのものの発達を記述してもしょうがないから。能力とその環境はカップリングして発達しているはずだから。

これは日本の保育所・幼稚園に共通してみられるような環境であり,そこでの行為はあちこちで反復される可能性がある。だから1カ所の保育所・幼稚園を観察すれば,それで十分である。例えば,ある子どもの一斉発話における発声行為パターンはそうした環境であれば誰もが発見可能なニッチに基づいたものである可能性が高い。

という方向性で一斉発話研究を改めて見直し,書き直す。

保育と美学

無藤・堀越(2008)は,保育実践の質的な分析をおこなう上での視点として,美学の概念を導入した。イギリスの批評家テリー・イーグルトンの『美のイデオロギー』に依拠しながら,美的なもののもつ可能性を次のように整理する。

美的なものは人間に感覚的な方向づけをもたらす。その方向づけには2つの側面がある。一つは,自律的な行為者として内面的な統一感がもたらされる。もう一つは,他者との一体感が感覚的にもたらされる。

後者は重要で,これによって,言語など概念的な媒介をぬきにして他者との合意を形成することができる。これは,特殊な個人がそのまま普遍的な公共的存在に同化することを意味する。したがって,「~しなければならない」という法や「~であるはず」という法則は,強制によってではなく,むしろ喜びを通して内面に形成される。

言語的な媒介ぬきの一体感の感得というと,乳児期の自他関係を思い起こす。無藤・堀越の論は,幼児期におけるそうした出来事の分析を可能にする視座を与えてくれる点で,面白い。


無藤隆・堀越紀香 (2008). 保育を質的にとらえる 無藤隆・麻生武(編) 質的心理学講座1 育ちと学びの生成 東京大学出版会. pp.45-77.

複式学級の数は減っている

複式学級数.jpg

複式学級に興味が出てきて,とりあえず文科省の統計をごそごそと調べている。

平成15(2003)年からの学校基本調査がウェブから拾えたので,全国の小学校における学級数と複式学級のそれぞれの総計について,昨年度までの年次変化を視覚化してみた(ただし,公立校に限定)。

上に示したのがそのグラフ。左側の軸が単式,複式,特別支援ぜんぶ含む学級総数を,右側の軸がその中の複式学級数を示す。すでにこういうグラフは誰かが作っているかもしれないが,まあ自分の勉強のために。

パッと見て分かるのは,学級数は08年まで増加し,そこをピークにじわじわ減少してるのに対し,複式学級数は一貫して減少していること。

グラフには出していないが,学級数が増加しているのは特別支援学級の増加によるもの(03年:21,342→10年:30,329)で,単式学級数はほとんど横ばいか近年は微減。その中で複式学級が着実に減っているのはどういう意味があるのか。

こういう話って,自分が知らなかっただけで,教育学者の間では有名なのかな?日本で一番複式学級に詳しい人って誰なんだろう?

集団となって初めて生まれる動き

言語発達の研究をしているとずっと思っていたが、もう少し視点をずらして「集団となって初めて生まれる動き」の研究をしている、と考えてみてはどうかと考えている(ややこしいね)。

ある小学校の先生から教わったアクティビティに、フラフープを使ったものがある。数人で輪になり、それぞれ片手の人差し指を出す。出した指の側面にフラフープを乗せる。みなで協力して、フープにつけた指が離れないようにしながら、それを地面近くまで降ろしていく、というものである。

2人くらいでやればごく簡単なことである。肩の高さから、地面まですっと降ろすことができる。3人くらいでも大丈夫。だが、それ以上になってくるととたんに難しくなる。地面に降ろすことができないどころか、すすすっと上がってしまうのである。やってみるとすぐに分かる。

個々人の目標は集団内で共有されていて、みなそれに沿った動きをしようとする。そのために、強い結束を結ぶ。しかし、結果的に目標とは反対の方向に行ってしまう。この解決策は、目標の統一が同意された時点で、実際に活動にたずさわるメンバーを少数に減らすことである。逆に言えば、何人かはあえて傍観者にならなければならない。結束が強い分、傍観者は罪悪感を伴うかもしれないが、それが一番よい結果を生む。

これはゲームだから従事者と傍観者を切り離せるが、多くの社会的活動ではそうはいかない。特に教育の場には、子どもを集団的活動の従事者として動くよう圧力が強く働く。傍観者でいることはできない仕組みである。そうしたときに生まれる動きというのは、教育の場にはたくさん見られることだろう。

私が「集団となって初めて生まれる動き」と言うときに念頭に置いているのは、こうした現象である。

いろいろあった日

なるべく歩くようにしている。風邪を引いたときにかかった医者で、血液検査を受けたところ、肝機能の数値が思わしくなかったので、運動しようと思ったのだ。

地下鉄数駅分を歩く。つい先日、大通りと札幌駅を地下でつなぐ空間が完成したので、大通りから北口のエルプラザまですたすた歩いていけるのである。

そのまま大学へ行くかと思いきや、駅地下の喫茶サンローゼに入り、モーニングコーヒーを飲みながら原稿を書く。10時までコーヒーが200円なのでお得。先月末までに出すはずだった、たった2ページの原稿をようやっと書き上げた。サンローゼは仕事がはかどってよろしい。

意気揚々と大学へ。途中、副学長を長く務められた逸見先生とばったりお会いする。その職をめでたく勤め上げられ、今月退かれる。この後は読書にいそしまれるそうだ。関わった一人一人のことを本当によく覚えておられる先生の鑑のような先生。うちの子どものこともきちんと覚えておられるのである。見習いたいが、難しく、恥ずかしい。

昼過ぎから会議。センターの整備をどうするかについて、さくさくと話し合う。まったく紛糾もなく1時間で終わってしまった。

その間もメールの応対やらなにやら。その間に郵便メールボックスをチェックすると発心研の新しいのが来ていた。K田さんには昨日届いていたというのにこの差はなんだ。ともかく、何を書いたのかすでにさっぱり忘れてしまった自分の論文が掲載されているのをチェック。一安心。

夕方から、お世話になっている小学校へ。今日は修了式と離任式があった。授業を観察させていただいた先生の中にもよその小学校へ異動される方が何人か。ご挨拶をしたかったのだが、お会いできなかったので来週またうかがうことに。

一度大学へ戻り、学院学部ウェブサイト担当の引き継ぎに備えて作業を。やろうと思えばいくらでも仕事が生まれる役回りであったが、それも来週でいったん終わり。今年度できることはすべてやっておきたいので、とりあえず年間行事予定表を23年度のものに差し替え。

帰宅し、家族とそのまま外食。とは言っても、肝機能の数値のことがあるので、たっぷりこってりしたものは避けたい。サラダと冷やし野菜うどんを食す。

そうそう、業者さんから電子辞書を受け取っていたのだった。CASIOのEX-word XD-B10000。本来であれば今頃真っ最中のはずだった学会が中止になったので、その旅費に割いていた予算が急遽浮いてしまい、使い切るために前から欲しかった電子辞書を取り寄せたのだった。ちょこちょこ遊んでいるが、とても便利。紙の辞書にもそれなりの良さがあるが、この手軽さにはちょっとかなわないな。

データ取/撮り完了!

今日の調査で、この2年間継続して行ってきた、小学校の授業観察を一段落させることにした。

「継続して観察」と書くとご大層なことをやっているように思われるかもしれないが、たかだか、1年に2度ほど、1時間の授業をビデオにおさめるだけの話である。本当にきちんと「継続的に観察」されている研究者や、それこそ毎日授業をされている教師の方からすれば、ちゃんちゃらおかしいだろう。

それでも、昨年は1、3、5年生を各2学級ずつを観察し、今年はそれぞれ2、4、6年生になったところをフォローした。さらに今年は、新1年生2学級を3度にわたって観察させていただくことができた。

観察の方法として、ぼくはいつもビデオを使っている。原則として自分もその場にいるが、分析はビデオの映像に基づいて行う。そこに写った人々のやりとりをできるだけ細かく見ていくことによって、コミュニケーションの基底にある何らかの仕組みを探りたいと思っている。

中田基昭先生が、ビデオを見たって授業の本質は分からないというような主旨のことを書いておられた。ぼくはそうかもしれないなと思いながらも今のところは反発している。ビデオでなければ分からないことがあるのだし、現にそうしたことを見つけ出せている。

そうした方法上の副作用として、分析にやたら時間がかかる。この2年間、観察の合間合間に映像の分析をしてきており、その一部を切り売りして発表してきたが、まだまだ膨大にデータがある。映像の分析はともかく、同時に録った子どもたち一人一人の発話も書き起こしできていない。よくある、気になるところだけ、という書き起こし方針はとらない。定量的な分析をしたいので、できればすべて書き起こしをしたいのである。

そんなわけで、今年一年は分析とアウトプットにかまける。というようなことを正月の抱負に書いた気がする。

今回の調査には、協力をしていただいた学校の先生方、保護者のみなさん、そして児童の皆さんの助けが不可欠でした。札幌に根のないぼくにとって、学校とのコネを作るところから始めなければならないところ、当たって砕けろと飛び込み営業しにきた若造を受け入れてくださった校長先生、教頭先生には感謝してもしきれません。

ご厚意に報いるにはとにかく分析を完成させることしかない。がんばりますよ。

文体としての教育

「ぼくは田舎教師でいるつもりです」

一日授業公開の振り返りの時間、おっしゃったこと。

「子どもたちは卒業後、このコミュニティで暮らしていきます。コミュニティで暮らす上で、仲間内で話し合う能力は絶対に必要です」

「自分たちの学校の図書館に必要なもの」をテーマにした子どもたちの議論を参観した先生の質問に対して、おっしゃったこと。

「オルタナティブな教育を求めて、自分でそういう場を作ってこられた方もいます。でもぼくは、公立の学校という制度の中でもう少しやっていきたい」

先日、上士幌中学校の石川晋先生が一日授業公開をされたので参加してきた。上の発言は正確ではないものの、記憶に頼って再現した石川先生の言葉。

公立学校は、公教育の理念を実体化する場である。これは多分にぼくの憶測を含むが、恐らく、先生は公教育の理念の「内容」ではなく、「方法」を方法において実体化しようとされているのではないだろうか。

内容はどうでもいい、という話ではない。内容にはそれに応じた方法がある、ということだ。そしてこの現在、目の前にいる子どもたちに応じた方法もあるだろう、ということだ。

文芸になぞらえるならば、言ってみれば文体としての教育である。文体とは、内容、読者、作者の三者による関係性のもとで生まれる何かである。内容と文体の関係はよく知られたものであるが、文体は誰が送り手で、誰が受け手かに応じても変わる。

石川先生は、この文体そのもののシフトに対して臆さない。授業における文体も柔らかい。硬直していない、と言った方がよいか。

自分の中では、まだあの一日のことを消化できていない。ただその印象を語るのに、これを書きながら「文体」という言葉がふと浮かんだ、というくらいである。

石川先生、参加者の皆様、上士幌中の先生方にはお世話になりました。子どもたちもすれ違うたびあいさつしてくれてありがとう。場違いなぼくが「ここにいていいんだ」という気持ちになりました。

グロテスク・リアリズム

グロテスク・リアリズムとは,民衆の〈笑いの文化〉のイメージ・システムのこと。

物質的・肉体的原理が,肯定的原理,普遍的で全民衆的なものとして把握される。宇宙的,社会的,肉体的要素は分割できない生きた総体,それは陽気な,愛想のいいもの。

ゆえに「孤立して自分の中に閉じこもる一切の動きと対立する」(p.24)し,「抽象化された観念性とも対立し大地と肉から解放された独立した意義なるものを僭称する立場を一切認めない」(ibid)。

システムを共有するのは「ブルジョワ的エゴイスティックな個人」ではなく,「民衆」。

このシステムの主要な特質は,格下げや下落,つまり,「高位のもの,精神的,理想的,抽象的なものをすべて物質的・肉体的次元へと移行させる」(p.25)ことにある。

メモは以上。なお上記文中の引用はすべて,以下の文献による。

ミハイール・バフチーン 川端香男里(訳) 1980 フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化 せりか書房

Youtubeで学ぶ心理学概論(2)―認知発達編

次は認知発達編。ぼくの場合は,教科書をなぞってPiagetの発達論を主軸として,追加的になるべく新しめの知見を紹介するという授業構成にしている。

共鳴動作について。生後10分の新生児の顔の前で,大人が舌を出すと新生児も口をもごもごとさせる。

共鳴動作がおサルさんでも起こるかどうかを確かめた実験。確かに人間が口をぱくぱくさせると,おサルさんも口をさかんにもごもごしているように見える。この実験はFerrari P.F., Visalberghi E., Paukner A., Fogassi L., Ruggiero A., Suomi S.J. (2006). Neonatal imitation in rhesus macaques. PLoS Biology, 4(9): e302.にまとめられているようだ。PDFも公開されてる。

物の永続性について。赤ちゃんの目の前にあったオモチャが隠されると,赤ちゃんはすぐにそっぽを向く。

物の永続性と関連して,A-not-Bエラーについて。物の隠し場所を変えても,赤ちゃんは以前隠された場所を探してしまう。永続性に関する実験結果については解釈が本当に難しいようだ。

ピアジェの言う自己中心性について。いわゆる三つ山課題を使って,他者の視点から説明が可能かどうかを問う。

ピアジェの発達段階論で言う「前操作期」の典型的反応を3種類の保存課題で確かめる。1つ目の課題は水面の高さが変わっても液量は操作前後で等しいかどうかを問うもの。2つ目の課題は並べられた幅が変わってもコインの枚数は操作前後で等しいかどうかを問うもの。3つ目は…なんだろうね。量と数の区別ができているかどうか,ということを確認する課題?ちなみに学生に見せると一番いい反応が返ってくるのがこの課題。「こうして彼女は”大人は卑怯だ”ということを学んでいくのですね」と言うとうける。

ピアジェの発達段階論で言う「具体的操作期」と「形式的操作期」の反応の仕方の違いについて。現実世界ではあり得ない前提から演繹的に結論を導くことができるかどうかを問う。映像では「羽根でガラスをたたくとガラスが割れます」「太郎君は羽根でガラスをたたきました」「ガラスはどうなりましたか」と聞いていく。

大学生にとって,乳幼児に触れる機会というのはそうない。そのような場合,乳幼児の発達過程について説明する際に,ただ単に言葉を並べるよりは,映像で具体的な姿を見せてあげると反応がよい。ともすると「赤ちゃんは癒される」とか「子供はかわいい」とかいった,のんびりとした感想しか返ってこないかもしれないが,それでもイメージを残してやることが大切なのかなと思う。