石川先生のことはこのブログでも何度か書いてきた。小学校での教室談話を新たな研究テーマとするに際して右も左も分からないとき,帯広のセミナーにうかがってお話をしていただいたのが石川先生だった。エントリーを確認してみたら,2009年のことだった。
爾来10年,ご著書をお送りいただいたり,北大にお越しいただいたり(この11月にも来ていただけることとなった),たいへんお世話になっている。
10年の間に学校に対する私の客観的な立ち位置も変わってしまった。どういうわけだか,私のような者が,とある小学校の校内研修の「助言者」となった。教室の様子を知らないのでぜひ教えてくださいと言って参観していたのだけれども,こうした方がよいのではないですかと言う立場になってしまったのである。
校内研修という活動がどのようなものか,それは『学校とゆるやかに伴走するということ』の「『評論家』のいない授業検討会をつくる」(pp.81-86)に書いてある。
同様の役目に就いたことのある他の方はどうかは存じ上げないのだが,少なくとも私は,「助言者」という役割は正直に言えば荷が重い。私の話を聞くよりも,授業の様子を撮影したビデオをもう一度見直した方が,授業者にとっては何倍も気づくことがあるだろうと思う。授業がうまくいったかどうかを知るには,なにより,子どもの様子を見ればいいに決まっている。
期待されたことには精一杯応えたいのも確かだ。すると不思議なことに,かつては授業というコミュニケーションを批判的に見ていたものが,「先生ガンバレ」という視点に変わってしまうのである。つまり,授業に参加する子どもの視点をいつの間にか忘れてしまう。これではまずい。
石川先生が北海道の学校を辞めてから全国の学校に入って試みていることに,まずは驚く。「砂に水をまくような仕事」という表現が本書には出てくるが,おそらく,石川先生がどこかの学校に入って次の日から劇的に何かが変わりましたなんていうことはないだろう。
石川先生の授業を何度か受けたことがある(模擬的な授業だけれども)。そのときにいつも感じるのは,教室の中の人々が目の前にして共有する「教材」に対し敬意を払い,そのものの「価値」を丁寧に考えていきましょう,という先生の態度である。この態度をとると,学習者はもちろん,授業者も「教材」の背後に退くこととなる。
たぶん,学校を訪問される際も同じような感じなのではないか。その学校の価値,そこで働く先生ひとりひとりの価値,学校に通う子どもひとりひとりの価値とは何か。それを外から値踏みするのではなく,あくまでも自身が見いだす,その過程を伴走すること。
授業の助言ってなんなんだろうと悶々とする人と一緒に読みたい一冊。