続・読み聞かせについて考えるのココロだー

上士幌中の石川晋先生のブログ「すぽんじのこころ」にて、先生が拙文をご紹介くださいました。

日刊『中・高校教師用ニュースマガジン』(中高MM)☆第2979号☆「読み聞かせる教室づくり」(17)石川晋(北海道)

北海道の学校の先生方とお近づきになりたくて、石川先生たちの主催される研修会にたまたま参加させていただいたのがお会いした最初だったと思います。参加するたびにショックを受けて帰ってくるのですが、一番のショックは、「学校の先生のサークル活動ってこんなに楽しいのか!」というものでした。

中でもすごく楽しそうにお話をされているのが石川先生で、そのお話の中身もずっと聞いていたくなるようなものでした。あらゆることがつきぬけているんですね。それ以来、石川先生は、私にとって「心の師匠」であります(ちなみに、心の師匠は30人ほどいます)。

その先生にご紹介いただき、感激しました。ので、こうして綴っているのです。

石川先生の読み聞かせについての考え方は、その後、ぼくが読み聞かせをしたり、誰かが読み聞かせをしているのを見たりするときの、感じ方のひとつの基準となっています。

教育の目的は文化の継承にあります。教育にたずさわる教師は、継承する文化の体現者でなければなりません。この考え方は早稲田の宮崎清孝先生が斎藤喜博について考察している中で述べていることですが、ぼくもそう思います。

本が文化であることはもちろんですが、本を誰かに読んであげることそのものも文化でしょう。石川先生は、教室の中で、読み聞かせという文化を体現しておられるのだと思います。読み聞かせの内容を通じて文化を伝えるのではなく、読み聞かせという文化そのものを伝えること。

以前、石川先生の上士幌中での授業を実際に拝見したことがありますが、中学1年から3年生まで、すべてのクラスで授業中に先生は読み聞かせをされていました。生徒たちはそこでは内容を聞くと同時に、「本を読んで聞かせる大人」と出会っているのだと言えます。生徒たちは、ゆくゆくは、「なぜその大人が読み聞かせをしてくれたのか」「その大人の背後にはどんな文化がそびえていたのか」について気がつくときが来るのでしょうが、それは中学を卒業した後のことでしょう。すぐには結果の出ないことなのです。

ランドセル

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来年4月の入学をひかえ、気が早い話なのですが、息子のランドセルを買いました。

最近はA4サイズがすっと入るような大きさなのですね。ぼくらの頃はプリントはなんでもB5が基本だった気がします。

そのせいか、やたらとでかい。ランドセルが子どもを背負っているような感じ。

札幌の小学校は制服もなく、指定の靴や運動服もなく、他の子とおそろいなのはたぶんランドセルくらいだろうと思います。見てるとほんと自由なんですよ。

教育制度の国際比較

iPhoneにすっかりはまってしまい、こちらはごぶさたしておりましたが、なんとか生きております。

今年度に入り、同僚の川田先生と学部・大学院ゼミを運営しています。学部の方は3年生に実践的な経験を積ませる方針でアクティブに活動しています。大学院の方には日本人はおらず、研究生を含めてみな日本以外の国・地域から来た学生ばかり。

後期に入り、フィンランドから1年限りの交換留学生がそこに加わりました。もうこうなると共通言語は英語しかありません。

そこで、川田先生の提案で、自分のバックグラウンドを英語でそれぞれプレゼンするという集まりをすることになりました。

本日その第一回が開かれました。テーマは「教育制度」。それぞれの国・地域における幼児教育から高等教育までの制度設計について説明してもらいました。

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予想していたとはいえ、実に多様です。ただ、おおよそ12歳くらいまでの初等教育はだいたい似通っているようでした。多様性が出て来るのはその後の中等・高等教育の段階のようです。

似通っているはずのその初等教育も、その教育内容やスタイルといった点ではだいぶ異なるでしょう。そこは、例えば現在行っている小学校での調査を英語にして国外で発表する際には気をつけなければならない点です。前提となる教育制度について、一通り説明しておかないと通じないことがらがたくさんあるはずです。あらためてそう思いました。