言語学習を目的としない言語学習:学習論としての「あまちゃん」(04)

外国語学習の科学―第二言語習得論とは何か (岩波新書)

外国語教育の方法について考えるにあたり,導き手が必要ですね,このことについてとても分かりやすく解説してくれているのが,白井恭弘「外国語学習の科学」(岩波書店,2008年)です。以下,白井(2008)に基づいて,どのような外国語教育が効果をもたらしてくれるのだろうかということについて考えてみましょう。

教育再生実行会議の提言を受けて文科省が検討している事項の中には,小学校3年生からの外国語活動の導入,および5年生からの教科化が含まれていました。議論が起こりやすいのはこの点にあります。ある人は,外国語学習を発達のなるべく早い段階から始めたいと考えています。一方で別の人は,外国語学習の早期化には弊害があると考えています。

どちらの考えをとるにせよ,そもそもなぜ,外国語教育の早期化が提言されているのでしょうか。その心理学的な根拠は何でしょうか?

白井(2008)は,外国語学習の成否を左右する要因として次の3つを挙げています。

1 学習開始年齢
2 外国語学習適性
3 動機づけ

このうち,教育開始時期の早期化と関係するのは1番の学習開始年齢ですので,まずはこの点について検討しましょう。なお,2の外国語学習適性については,本講義では取り上げませんが,興味があればぜひ白井(2008)に戻って確認してみてください。

1 学習開始年齢

学習を開始する年齢がどのように外国語学習に影響するのでしょうか。白井(2008)はその可能性を3つ挙げています。

1つは,そもそも生物学的に,ある年齢を過ぎると外国語学習ができなくなってしまう,という可能性です。

大人にとって外国語学習は難しいものですが,私たちは子どもの頃に母語を学習することはできました。それは当然,非常に早い段階から,胎児の頃からすでに,母語を聞いて育ってきたからだと考えられます。

では,何かの理由によって母語に触れる機会がきわめて限定されたまま成長してしまった子どもは,その後であらためて母語を聞かせればそれを学習することはできるのでしょうか。これは,言語習得には「臨界期」があるのかという伝統的な問題に置き換えることができます。臨界期とは,ある時期を過ぎるとある能力の習得が困難になるその時期のことを指す用語で,言語については12歳頃が学習の臨界期ではないかと指摘した研究者(例えば,エリック・レネバーグ)がいました。つまり,12歳を過ぎても自然言語に接することがなければ,その後いくら言語を教えようとしても困難である,というわけです。これを言語習得の臨界期仮説と呼びます。

レネバーグが指摘した12歳頃という年齢が妥当なのか,そもそも言語習得に臨界期があるのかなど,臨界期仮説を支持するには確たる証拠も少なく,いまだに議論のまっただなかです。ただ,小学校高学年以前からの英語学習をすすめる人たちの中にはこの仮説を根拠としている人たちもいることは確かです。

2つめは母語の影響です。年齢が上がるにつれて母語の知識は増加しますので,開始時期の早期化は,母語の知識がまだ未熟な段階から外国語学習を始めることを意味します。この影響には外国語学習を促進する可能性と,阻害する可能性の2つが考えられます。

母語が外国語学習を阻害する背景には,常に「母語のフィルター」を通して外国語を理解しようとしてしまうことが指摘できます。例えば,英語にはaとかtheとかの冠詞がありますが,日本語にはありません。日本語を母語とする者は冠詞を使わないことを学習しているので,冠詞を使う英語の学習は非常に困難だと言えます。

反対に,母語が外国語学習を促進することもあります。例えば,韓国語は日本語と文法がほとんど同じなので,日本語を母語とする者はそれだけで韓国語の学習に有利だということになります。

このような母語と外国語学習の関係について,心理学では「学習の転移」という用語で説明することがあります。転移とは,すでに学習したことが,後の学習に影響を与えることです。転移には,いい転移と悪い転移があります。日本語を学習することが英語の学習を阻害することは悪い影響で,「負の転移」(または干渉)と呼びます。逆に,日本語を知っていることが韓国語学習にいい影響をあたえるのは「正の転移」と呼ばれます。

外国語学習の開始年齢が学習過程に影響する可能性の3つ目は,学習開始の際の年齢によって,学習環境が変わるというものです。具体的に言い直すと,外国語を学習しやすくなる環境が,ある年齢を境に形成されにくくなるという可能性です。

ジアとアーロンソン(Jia & Aaronson, 2003)は,国から国へと移住したときの年齢によって,その後の外国語学習の進度や洗練さに違いが生じることを明らかにしました。中国からアメリカに移民した中国人はたくさんいますが,何歳のときに渡航したかには個人差があります。移民として暮らし始めた後,かれらが英語をどのように学習したのかについて調べられました。ちなみに,調査に協力してくれた人々の中には,5歳の時にアメリカに来た人から16歳のときに移住した人までが含まれていました。

結果として,9歳を境にそれよりも小さいときにアメリカに来た人と,それよりも後で移住した人とでは,移住1年後は使用する言語はどちらのグループも母語(中国語)でした。これは予想通りの結果です。しかし,2年目以降は,移民当時9歳よりも若かった年少グループの方は,母語ではない英語を好んで使っていたのに対して,年長グループの方は反対に中国語を好んで使っていました。

なぜそうなるのでしょう。実は,年齢グループ間で,かれらが形成する仲間関係が異なっていたのです。年少グループは英語を話す友達と多くつきあっており,反対に年長グループは母語の中国語を話す友達と多くつきあっていることがジアらによって明らかにされたのです。すなわち,小学校低学年までの子どもは,自然な発達の姿として,誰とでも比較的すぐに垣根を取り払うことができます。一方で,思春期以降の子どもは自分と似ている人とグループを形成しやすい,という一般的な傾向があります。

また,ここで示されている過程を推測すると,外国語を使う友達と仲良くなる過程で,結果として外国語が学習され,その結果として外国語の友達が増えるという循環が年少グループには起きていただろうと思います。逆に,年長のグループの方は,外国語を使おうとするものの,結局は同じ言語を使う者同士で固まってしまい,結果的に外国語を使うチャンスを失ってしまうという循環があったのではないかと思います。

これらの3つの可能性をまとめますと,人間の生物学的条件,言語の構造的条件,そして社会環境的条件の3つの側面から,外国語学習開始時期を早めることの利点が指摘できると言えるでしょう。

ただし,最後の社会環境的条件については違う見方をすることもできます。と言うのも,現代の日本の学校教育では,多くの子どもが仲間関係を作る相手は日本語を話す人々だからです。たとえ学校の活動や教科として英語に触れるとしても,日本語を使う他者と日常的にコミュニケーションをとるのであれば英語習得は進まないだろう,という予想も先ほどのジアの研究から示唆されることです。

この点を解消するには,2つの方策があるでしょう。1つは外国語学習に対する強い動機づけをもつことです。もう1つは,それと関連しますが,外国語を使うような強い要請がはたらく生活環境に身を置いてしまうことです。

2 動機づけ

学習し対象となる言語を話す人々の文化や,そこに住む人々自身に好意をもち,理解しようとする動機のことを「統合的動機づけ」と呼びます。統合的動機づけの高い人は,好意を持つ人々と同じように振る舞おうとするとするため,外国語学習に向けた動機は強いと白井(2008)は述べています。なお「動機づけ」とは,なんらかの心理的要因または環境にある物理的要因によって,ある人の行動が引き起こされる過程全体を指します。

反対に,お金を手に入れるとか入試に合格するとか,自分にとっての利益を手に入れるための手段として言語を学習しようとする志向のことを「道具的動機づけ」と呼びます。要するに,外国語は自分の利益のための道具だというわけです。ただ,だからといって道具的動機づけが悪者だというわけではありません。そうした欲望あるいは衝動が「何かが欲しい!」という精神の運動をもたらすわけです。ただ,それが持続すれば学習は続くので外国語学習はうまくいくだろうと思われます。

しかし総じて,統合的動機づけを持つ人の方が最終的には外国語を上手に使いこなせるようになるようです。その例として,日本語がうまく話せるようになった外国人の例を出してみましょう。それは,外国人力士です(宮里,2006)。外国人力士は,単身で日本語を母語としない国からやって来て,相撲で強くなるという目標をもって日々稽古をしているはずです。かれらの目標は優勝であり,周囲の人は蹴落とすべきライバルだということでしょう。

大相撲の外国人力士は,日本で金を稼ぐという大きな目的のために日本語を学習します。つまりは道具的動機づけに突き動かされていると言えます。しかし最終的には,自分を日本の文化に同化させてしまうのです。そうでないと,部屋のある地域で生きていけないからでしょう。したがって,自然と,統合的動機づけの方が強くなるのです。

統合的動機づけの高い人にとっては,外国語を使う人々に好意を持ち,そこに文化に飛び込み,同じような人になることが第一義的な目的です。したがって,言語の学習は二次的な目的です。言語の習得は,結果的に起きてしまう現象だというのが統合的動機づけを重視する立場だと言えるでしょう。

3 外国語教育の方法

学習者の特徴については明らかになったとして,では,どのような方法で外国語教育を実施したらいいのでしょう。

従来の外国語教育法としては,オーディオリンガル教授法とコミュニカティブ・アプローチが主流でした。

このうち,時代的に古いのはオーディオリンガル教授法です。これは,言語の形を学習させることを目的とするものです。文の形式的な比較と反復学習が特徴で,これにより,言語的な知識,例えば音声の知識,語彙の知識,文法の知識を学習させるというものです。

しかし80年代ごろより,オーディオリンガルでは結局学習者が外国語を使えないという批判が現れました。むしろ大事なのは,外国語を使って人々と円滑に会話をすることだというのが,この批判の背景にある思想です。そのために必要なのは談話能力(文と文をつないで意味を作り出す能力),社会言語能力(状況でことばを使い分ける能力),方略的能力(コミュニケーションの目的を達成しようとする能力)といった,言語形式の学習以外の能力でした。これら3+1(言語能力)をまとめて,「コミュニケーション能力」と呼びます。

コミュニケーション能力の学習のために現れたのがコミュニカティブ・アプローチと呼ばれる方法でした。これは,語彙や文法知識が不十分でもとにかくそれを使って意味のあるメッセージを相互に伝達し合おうという目的を明確にするものです。現在の大学の英語教育でも同様の進め方をしている先生もいるかもしれません。

コミュニカティブ・アプローチとオーディオリンガル教授法の大きな違いは,コミュニカティブ・アプローチで用いられる文章や活動は学習する人にとって日常生活と近く,その意味が分かりやすいことだと言えます。一方でオーディオリンガル教授法は文の形式に注目させるので,なぜその文を話したり用いたりしなければならないのかが,学習者には分かりにくいのです。学習者は,本人にとって意味のないことについては学習者になることが難しいかもしれません。

これらとは別に,統合的動機づけの重要性に依拠した,言語学習を最終目的としない言語教育法が提案されています。それは「イマージョン教育」と呼ばれます。イマージョンとは「浸る」という意味で,1960年代のカナダで始められた教育法だそうです。何をするのかと言うと,要は,英語はもちろんのこと,英語以外の教科もすべて英語を用いた授業を行うという方法が代表的です。

コミュニカティブ・アプローチとの違いは,コミュニカティブ・アプローチがあくまでも外国語「を」学習することを目的としているのに対して,イマージョン教育は外国語「で」何かを学習することを目的としていることにあると言えます。イマージョン教育ではすでに外国語学習は目的でなくなっているのです。これが,「言語学習を目的としない言語学習」いうタイトルの意味になります。

イマージョン教育はコミュニカティブ・アプローチをさらにおしすすめたものと考えることができます。学習者は強い目的意識に動機づけられて活動に参加しますが,活動に参加する意味は学習者にとって強く意味づけられたものだと考えられます。

4 なぜアキは訛りをすみやかに覚えたのか

最後に「あまちゃん」に戻りましょう。アキは何も「訛りを覚えよう」と思って覚えたわけではないだろうと思われます。つまり,言語学習を目標としてはいなかったのです。では,何を目標としていたかと言うと,北三陸という場所に居続けること,そこで好きな人たち,特に祖母の夏とともに暮らすということだったのではと思われます。

このことは,先ほどの概念を使えば,道具的動機づけというよりも統合的動機づけに基づいていると言えます。また,周りに北三陸訛りを話す人たちだらけの環境で,実際にその言葉を使わなければならないわけですから,イマージョン教育的な学習環境であったとも言えるでしょう。もちろん,同じ言語の訛りと外国語とをいっしょにして考えることは相当乱暴です。

一方で外国語学習にとって重要なポイントもここから挙げることができます。それは,「何のために」学習するのかが明確であるだけで,学習が容易に進みうる,ということです。アキにとっての北三陸とは,自分の話す言葉を変えてでも居続けたい,そういう目標であったことが訛りを速やかに学習したというドラマの流れから推測することができるでしょう。


文献
Jia, G., & Aaronson, D. (2003). A longitudinal study of Chinese children and adolescents learning English in the United States. Applied Psycholinguistics,24(1), 131-161.
宮崎里司 (2006). 外国人力士はなぜ日本語がうまいのか(新装版) 明治書院
白井恭弘 (2008). 外国語学習の科学:第二言語習得論とは何か 岩波書店

現代的課題としての英語教育:学習論としての「あまちゃん」(03)

外国語教育をどうするかは,日本の教育において大きな問題であり続けてきました。近年の動向としては,より早期の段階で公的な英語教育を開始することが目指されているようです。

内閣の諮問機関である教育再生実行会議が平成25年5月28日に出した第三次提言は,現行の教育制度をグローバル化に対応させるという方向性を強く打ち出したものでした。

そこでは,初等中等段階においてもグローバル化に対応した教育が必要だとして,小学校における英語学習の拡充が提言されています。

国は,小学校の英語学習の抜本的拡充(実施学年の早期化,指導時間増,教科化,専任教員配置等)や中学校における英語による英語授業の実施,初等中等教育を通じた系統的な英語教育について,学習指導要領の改訂も視野に入れ,諸外国の英語教育の事例も参考にしながら検討する。

(「これからの大学教育等の在り方について」(第三次提言)(平成25年5月28日)p.4)

上記はあくまで内閣に対して行われる「提言」であり,そのまま実行に移されるわけではありません。ただし,文部科学省はこの提言を受けて小学校における英語教育の拡充について検討しているとのことです。

参考 下村博文文部科学大臣記者会見録(平成25年10月25日)

おそらく,この動きは提言でおさまらずに,きわめて近い将来,実行に移されるだろうと思われます。そのとき私たちは,小中学校の児童生徒が英語を駆使できるようになるためにどのような教育を行えばよいのでしょうか。

さきほどの問い,「アキはなぜすみやかに北三陸の訛りを習得できたのか」に対する答えは,英語教育の成果を実りあるものとするための条件を考える上で1つのヒントになるのではないでしょうか。なにしろアキはすぐに訛りを使えるようになったのですから。

ここで,私なりの結論を先に言いますと,「アキがすみやかに訛りの習得ができたのは,統合的動機づけにもとづく,北三陸訛りイマージョン教育の成果だ」ということになります。

「統合的動機づけ」とか,「イマージョン教育」とかいった言葉が並んでいます。これから,これらの言葉について解説していきましょう。

なお,「あまちゃん」を題材として外国語教育について論じるに際して,以下の点についてはひとまず置いておきます。

現代の日本において議論の対象となっているのは,特に小学校段階における英語教育の導入・拡充であり,アキは高校生であることから,教育対象となる子どもの発達段階が大きくずれています。また,そもそも,言語間の近さによって一般的な習得の容易さは異なっており,日本語と英語の場合は他の言語(例えば,韓国語)と比べると言語間の距離が遠く習得が困難であること。それに比べれば,訛りは一般に,1つの言語のバリエーションです。言語間の近さは最大限に近いと言っていいでしょう。

すなわち,アキの訛り習得の過程は,小学生の英語習得と同じだとはとうてい言えません。ただしここでは,外国語学習について考える上で基礎的な概念を紹介することを目的としていますので,あえて無視しているのだということとしてご了承ください。

訛りのすみやかな習得:学習論としての「あまちゃん」(02)

「あまちゃん」を素材として講義をするにあたり,2つの問いを設定しました。まずは,東京から岩手県の海沿いにある北三陸に来たヒロイン天野アキが,非常にすみやかに「訛り」を習得したのはなぜなのか,という問題について。

この問題の前提を理解するためには,「あまちゃん」のあらすじを少し説明する必要がありますね。

岩手県の北部海岸沿いにある北三陸市出身の母親春子に連れられてアキがやってくる。春子は東京でアイドルになるために家出同然で北三陸を飛び出し,20数年ぶりに帰ってきた。春子を呼んだのは幼なじみの大吉。春子の母親夏が倒れたとウソのメールを出して呼び出した。

家出した春子に夏は冷たい。春子は北三陸に居場所がなく,東京へ戻ろうとするが,しかし娘のアキは帰りたくないという。というのも,アキは夏が海女として働いているのを見たり,ウニを食べたりしているうちに,北三陸が気に入ってしまった。また,東京では学校に友達もおらず,春子曰く「地味で暗くて向上心も協調性も個性も華も無いパッとしない子」。

当初は冷たかった夏だったが,次第にアキには優しくなっていく。アキも夏になついていく。このような親密な関係ができあがった瞬間に,アキの訛りがとつぜん始まってしまう。

アキが初めて北三陸の訛りを使って話すのは,第4話でした。

天野家・居間(夜)

  ウニ丼に食らいつくアキ。
  寝転んで缶ビール飲みながらテレビ見ている春子。

アキ 「うめっ!うめっ!超うめっ!」
春子 「……」
夏  「悪ぃな,売れ残りで」
アキ 「全然いい,むしろ毎日売れ残って欲しい」
夏  「コラっ,縁起でもねえこと言うなっ!」
アキ 「ヘヘヘヘ」
夏  「罰どして明日はウニ丼売り,手伝ってもらうど」
アキ 「じぇじぇ!」
春子 「(うんざりして舌打ち)」
夏  「今日ウニいっぺえ仕入れだがら40個作っから,20個ずづ,どっちが早ぐ売れるか競争だ」
アキ 「やったあ!北三陸鉄道リアス線さ,まだ乗れる!」

(シナリオ集第1部,pp.47-48)

東京生まれのアキが話していた言葉は,当然,ドラマが始まった当初は標準語でした。彼女にとって,北三陸の訛りははじめは外国語のようだったようです。アキにとっての訛りのインパクトを強調するかのように,第1話では,海女たちが話す言葉に「字幕」がついていました。

もちろん標準語と北三陸訛りとでは,発音や語彙は部分的に異なるものの,文法は同じです。ですから,だいたいはアキにとっても理解することはできましたし,自分の標準語の知識を使って模倣することもたやすかった,と言えるでしょう。

しかし標準語使いのアキは,北三陸にしばらく滞在すると決めたときから,使用する言葉が標準語から北三陸訛りの日本語へと,ぱたっと変化してしまいました。

このときのアキに起きたことは,ある種の「外国語学習」だった,と考えられないでしょうか。第1回目の今日の講義では,外国語学習と外国語教育について考えてみたいと思います。

「教育学入門」を構想する:学習論としての「あまちゃん」(01)

あまちゃん 完全版 Blu-rayBOX1

「教育学入門」というタイトルの講義がありまして,昨年からその担当になっています。前期に「教育学入門1」が,後期に「2」が開講され,私は後期の方の担当です。大学の時間割の関係で「1」の履修者は教育学部の学生が大半らしいのですが,「2」の方はいろいろな学部からの学生が受講しに来ていて,280人くらいが履修登録をしています。300人教室がいっぱいになり,熱気がすごいです。

担当とは言っても,全部で15回の講義を同僚の臨床心理学がご専門の先生と半分ずつ担当することにしています。今年の私の担当は後半の7回でした。

15回の講義を統一するテーマとして,臨床の先生と相談し,「学校」を取り上げることにしています。前半に,学校を中心とした心理臨床的な相談についてご講義いただき,私がそれに続いて学校での「学習」について議論するという流れです。

初回はいつもオリエンテーションを行うのですが,その際に私は下記のような文章を用意して講義の目的をお話ししました。

(教育学入門2の)後半では,私たちの社会の中にある,さまざまな教授学習の仕組みについて考えるための「思考の道具」を身につけてもらいたいと思います。

教えることと学ぶことを,ここではまとめて教授学習と呼びます。現代の私たちの社会において,教授学習を目的とする代表的な制度が「学校」です。

しかし,社会全体に視野を広げてみると,学校以外にもさまざまな教授学習の機会があることが分かります。例えば町を歩けば「塾」や「茶道教室」など,学校ではない「教室」の看板があります。また,学校を卒業して社会人として働く中で教えられ,学ぶこともたくさんあるでしょう。そもそも,入学前の幼い子どもは生活に必要なさまざまな技能を家族から教えられ,学んでいるのではないでしょうか。

では,学校における教授学習と,社会の中にあるその他の教授学習は,何がどう違うのでしょうか。

本講義では,こうした問いに答えるための概念や理論を,ドラマを具体的な例として示しながら紹介していく予定です。

上記の文章の最後にちらりと「ドラマ」と書かれていますが,それが指していたのが実は「あまちゃん」でした。「あまちゃん」はご存じの通り,2013年4月から放送されたNHKの朝の連続テレビ小説。私はこのドラマを6月くらいから見始めました。はじめは家族がテレビをつけて見ていたのを横目で眺めていた程度だったのですが,何がどう良かったのか(今でもなぜ引き込まれたのかがよく分からないのです),いつの間にか毎日見なければ気が済まなくなってしまっていました。それくらい,はまったのです。

はまったとは言え,ドラマはドラマ。大学での自分の仕事とつなげて考えてはいませんでした。当初は。

しかし,9月の放送終了直後から2か月おきにドラマのDVDがリリースされると知って,「『あまちゃん』を素材とした学習論についての講義ができるんじゃないか」「9月にDVDが出るのなら,ちょうど後期の講義開始に間に合う」などと考え始めました。

「あまちゃん」のストーリーについて簡単に触れておきますと,主人公の高校生,天野アキが母親とともに岩手県の架空のまち,北三陸市にやって来たところからドラマが始まります。彼女がそこで見たのは自分の祖母,夏が「北限の海女」として海に潜ってウニをとっている姿でした。それに感化されたアキは海女となるのですが,若く(そこそこ)かわいい彼女がインターネットで紹介されると,とたんにアイドル的人気が出てしまいます。すると今度は,親友の足立ユイとともに町おこしのための地元アイドルユニット「潮騒のメモリーズ」を結成。2人は東京からのスカウトに目をつけられてアイドルグループ「GMT47」のメンバー候補として上京することになります。いろいろあってアキ1人だけが上京し,そこでGMT候補の仲間とともにアイドルとしての下積み生活を始めます。

物語はさらに続くのですが,ここから分かるように,アキは海女やアイドルというプロフェッショナルの世界に新人として入っていき,そのどれからも中途半端な状態で抜けて次のプロフェッショナルの世界に飛び込むことを繰り返します。

プロフェッショナルの世界は,現場で学び,学んだことがその世界の立ち位置の変化として可視化される場でもあります。例えば,海女の仕事は海に潜って海産物をとり,その姿を観光客に見せたり,実際にとったものを売ったりすることです。ですから海女の仕事には,まず,長く潜れること,海産物をとること,自分が泳ぐ海域についての知識を得ることといった知識・技術の習得がかかせません。そして,それぞれの知識・技術の習得は,そのまま,海女として「やらせてもらえること」の範囲の拡大,ひいては,海女のコミュニティ内での立ち位置や評価の変化にもなります。

仕事の世界に特有なこうした教授学習過程は,学習科学の分野では「状況論」や「ワークプレイスラーニング」といった領域として確立しています。そのことについて「あまちゃん」を素材に語ることができるのではないか。さらに,学習を目的とした制度ではない職場などでの学習を取り上げることで,学習のための制度である「学校」の特色に気づいてもらえるのではないか。9月の段階で思いついたことはこれくらいのことでした。

11月からの後半の講義開始を前に,文献や本を集めるのはもちろんのこと,DVDも見て(11月にはちょうどDVD第2集もリリースされていました),だいたいの話す内容を精査していき,最終的に「アキの訛り」と「成長しないヒロイン」という2つのテーマをめぐって3回ずつ,6回の講義プランを立てることができました。

2013年度北海道大学全学科目「教育学入門2」の後半,「学習論としてのあまちゃん」はこのようにして始まったのです。

新年早々

新年あけましておめでとうございます。更新の少ないブログですが,今年もよろしくお願いします。

さて,新年早々の大失敗といい話です。

息子とスキーに行ってきました。彼は年末,藻岩山でやっているスキー教室に通っていたのですが,慣れているところで滑りたいというので,藻岩山スキー場に行きました。

ぼくはスキーをするときも家の鍵やらiPhoneやら財布やらをウェアのポケットに入れておきます。ただ,落とすといけないので,中のものが飛び出ないようマジックテープでポケットの縁を閉じることのできる場所に納めておきます。

雪が降ったりやんだりの天候の中,午前中からひとしきり滑り,昼を食べながら休憩。ぼくがコーヒーを飲む間,息子がゲームをしたいというのでiPhoneを貸しておきました。

休憩を終えて滑り始める前,息子に貸したやつをポケットに戻しました。ただ,そのポケットはウェアの中に着た普通のシャツの胸ポケットでした。

さて,ファミリー向けのゲレンデ滑っていると,バランスを崩して豪快に転んでしまいました。息子はその様子を見て大笑い。

4時間も滑り,くたびれたので帰途につきます。

帰りの車の中で,胸ポケットをまさぐると,入れたはずのiPhoneがありません。あちこちのポケットを探してみましたが,どこにもないのです。思いつくのは,午後に転んだときに胸ポケットから落ちたのに気づかなかったという可能性です。

自宅に戻り,iPadのFind iPhoneアプリを起動させてみると,藻岩山スキー場にあると表示されました。ただ,ゲレンデに落ちているものと思っていましたが,iPhoneの方の電源が生きているということは,寒い場所ではなく暖かい室内に置かれている可能性があります。

ということで管理事務所に電話をしてみると,「届いています」とのこと。よかった,助かった,と安心して,再び藻岩山へ。

管理事務所に行ってみると奥から出してくれたのは確かに自分のものでした。聞いてみると,スキー教室で滑っていた小学生が拾ってとどけてくれたとのこと。

新年早々の大失敗でしたが,小学生に助けてもらいました。読んでくれている可能性はほとんどないと思いますがお礼を書いておきます。ありがとうございました。