米澤嘉博記念図書館へ行く

週末にかけて東京へ出張。今年度の科研の打ち合わせで、方針を確認する。

帰りの飛行機まで時間がたっぷりとあったので、かねてより来てみたかった、明大の米澤嘉博記念図書館へ。ちょうどいま、「吾妻ひでお展」が開催されている。これが目当て。

明大の建物が林立する一角のビルをまるまる使った図書館。1階が展示室、2階以上が閲覧室と書庫。吾妻ひでお展は展示室の一角を使った展示。そのほかにも、常設とおぼしき、米澤嘉博のコレクションの一部がケースに入っているのを見ることができる。これを見るだけでも面白い。

さて吾妻ひでお展。米澤氏はかつて吾妻ひでおを論じるときには「阿島俊」名義を用いていたほどのファン。吾妻ひでおもまた、作品の中に米澤氏をモデルとしたキャラクターを登場させており(そのキャラの出ている作品の原画も展示されていた)、単なるファンと作家といったありきたりな関係ではなかったものと思う。

展示では、初期から現在までのすべての単行本が横一列に並べられ、その下にテーマごとの作品や原画、小説の表紙などめずらしい仕事の数々が一堂に会していた。話には聞いていたものの今となっては「実物」を手に入れることのできないものが多く、眼福である。

ベーホの「ふるむまかおめら」、クルムヘトロジャンの「へろ」。初めて見た。装丁の違いによる版がいくつかあったことも初めて知る。

「不条理日記」の解題は、「吾妻ひでお大全集」をベースにしていると思うが、元ネタに訳者の違いによるいくつかのバージョンがある場合すべて網羅してあってよりマニアックになっていた。

これほどの規模の(といっても、ビルのワンフロアのさらにその一角、なのだけど)吾妻ひでおの展覧会は、おそらく、これが最初で最後であろう。ちょっとでも気になる人は絶対に行くべし。

だっこをしながら講義を聴くと

昨年に引き続き、北翔大学にて乳幼児発達論の非常勤。

指定された教室は160人はいるだだっ広い部屋。そこにちんまりと、6名の学生さん。女性4名、男性2名。再来週以降、部屋を代えてもらうことにした。

初日なのでオリエンテーションだけで終わりにしようかとも思ったが、今年は趣向を変えて、先日レンタルした赤ちゃん人形を使った実習っぽいことを行う。特に難しいことではなく、ただだっこしてもらい、その後おむつ換えを経験してもらうだけ。

肌着と上着を脱がせ、うんちが入っていると想定したおむつを外して新しいのをつけ、脱がした服をもう一度着せるという作業。教室の長机に人形を置いて一連の作業をするとちょうど中腰になり、窮屈そう。作業手順が多くて大変だという感想が出た。

一人、年の離れた弟の世話をしていたという男子がいて、彼はやたら手早く作業をしていた。おむつを替えるときに両足首を片手でつかんで腰を浮かせていたのを見て、やり慣れてることが分かった。

おむつ替えを終えて10分くらいの出産場面の映像を見せる段になり、人形がぽつんと置かれてしまうなと思ったので、予定外だったが、だっこしながら見てください、と指示した。「たぶん、腕がだるくなると思いますので、そうしたら隣の人にだっこを代わってもらってください」と言うと、みんなすなおに従ってくれた。映像を見ている学生さんの様子を前から眺めていると、抱いている腕の形がすんなりおさまるようになっていた。だっこしながら講義を聴くなんて、まずやったことはないだろう。

学生に赤ちゃんというと、「かわいい」「いやされる」という反応が多いのだが、実際に相手にすると、「腕がだるくなる」といったネガティブな反応も出てくるはず。そういう感情も含めて赤ちゃんのことを考えてくれるといいなと思う。

赤ちゃん人形が来た

来週月曜の非常勤で乳幼児心理学が始まる。その一発目でお出まし願いたいと思い、赤ちゃん人形を探していた。

赤ちゃん人形とは、看護学校や母親教室などで使う、沐浴や抱っこの練習用の人形のことである。

適当に検索すると簡単に見つかる。ただ、買うとなると非常にお高い。

さらに検索すると、何日かだけレンタルしてくれる業者を見つけた。今回は初日だけ使えればよいかと思い、早速発注した。「クリエイティブ九州」という、鹿児島にある、教材を取り扱う会社である。

クリエイティブ九州

沐浴人形2体ペア(新太郎くんと桃子ちゃん)を3泊4日でレンタル。火曜日に発注して、金曜日には届いた。早いなあ。

こうした人形は、今の息子が生まれる前、区の保健センターで開催された両親教室で沐浴の練習をしたときに初めて触れた。そのとき一緒に、妊婦体験なるものもした。子ども騙しだなとそのときは思ったのだが、今では、重要な経験だと思っている。

乳幼児の心理学を学ぶに当たって、やはり実際の赤ちゃんに触れているかどうかでは学び方が違うのではないか、そう思ったのである。ただ、授業でそれをするのは実際にはかなり難しい。それでもアマネが小さい頃、一度非常勤に連れて行ったことがある。机の上にごろんと横たえて学生に代わる代わる抱っこしてもらった。

それに代わるものとして、人形をもっていくことにしたのである。大事なのは、重たさ、大きさではないかな、と思っている。沐浴人形は実際の新生児ほどの重さ、大きさである。触った質感も、何というのだろう、「しとっ」とした肌触りである。それを自分の感覚で確かめておくことは、けして無駄ではあるまい。

たぶん、大事なのは想像力である。その一助となればと思う。

集団となって初めて生まれる動き

言語発達の研究をしているとずっと思っていたが、もう少し視点をずらして「集団となって初めて生まれる動き」の研究をしている、と考えてみてはどうかと考えている(ややこしいね)。

ある小学校の先生から教わったアクティビティに、フラフープを使ったものがある。数人で輪になり、それぞれ片手の人差し指を出す。出した指の側面にフラフープを乗せる。みなで協力して、フープにつけた指が離れないようにしながら、それを地面近くまで降ろしていく、というものである。

2人くらいでやればごく簡単なことである。肩の高さから、地面まですっと降ろすことができる。3人くらいでも大丈夫。だが、それ以上になってくるととたんに難しくなる。地面に降ろすことができないどころか、すすすっと上がってしまうのである。やってみるとすぐに分かる。

個々人の目標は集団内で共有されていて、みなそれに沿った動きをしようとする。そのために、強い結束を結ぶ。しかし、結果的に目標とは反対の方向に行ってしまう。この解決策は、目標の統一が同意された時点で、実際に活動にたずさわるメンバーを少数に減らすことである。逆に言えば、何人かはあえて傍観者にならなければならない。結束が強い分、傍観者は罪悪感を伴うかもしれないが、それが一番よい結果を生む。

これはゲームだから従事者と傍観者を切り離せるが、多くの社会的活動ではそうはいかない。特に教育の場には、子どもを集団的活動の従事者として動くよう圧力が強く働く。傍観者でいることはできない仕組みである。そうしたときに生まれる動きというのは、教育の場にはたくさん見られることだろう。

私が「集団となって初めて生まれる動き」と言うときに念頭に置いているのは、こうした現象である。