社会と心理学の接点

 以下の文章は、10月30日に開催される北海道心理学会で行われる予定のシンポジウム「心理学が社会にできること」にて話そうとしていたものである。

 書いていてなんだか面白くないし、話が抽象的だし、結論もありきたりだし、将来の具体的な道筋も描けていないので、棚上げすることにした。ただ、ふくらませられれば面白くなる可能性はあるような気もする。そこで、議論のたたき台にでもなればと、人目にさらすことにした。何かご意見がある方はコメントいただければさいわいです。


 心理学は社会にたいしてどう貢献できるのか?この問いを向けられてどう答えるか。

 そもそも心理学も社会の大きな営みの一部だと考えれば、この問いは、研究者集団とそれ以外の人びととの分業体制をどのように調節するのか、と読み替えることができるだろう。

 この分業体制のあり方にはいくつかの種類があるだろう。少なくとも3つ挙げられると思う。

(1)社会からの要請とそれへの応答
 研究者集団がなんらかの社会的課題を解決するという依頼を受け、そのための基礎研究を実施。研究結果を社会的課題を抱えた現場へ還元する。

(2)心理学概念の社会的普及
 研究者が説明に使用する概念を、研究者以外が使用する。日常的経験で得られた知を体系化するうえで不可欠である。

 私的な経験だが、子育てサークルに参加したときのこと、3ヶ月くらいの子どもを連れてきた母親が、子どもの成長の程度を紹介する際に「喃語」という言葉を用いた、ということがあった。

「喃語」という言葉は、現在では一般的に使われることは少ないが、そもそもは、ぺちゃくちゃしゃべること、男女がいちゃいちゃしゃべることを指す。
 くだんの母親は明らかに発達心理学用語としてこの単語を用いていた。子どもの成長の説明に心理学概念が入り込んでいる例といえるだろう。

 (1)(2)はいかにも成功した分業体制であるように思われる。知を得たいものの道具も時間もない人びとと、知を得ることに道具と時間をかけている人びととが相補的関係にある。

 しかし、これら2つの集団には、分業しているがゆえに、互いに見えない部分がある。成果を求める側は知見が生産された現場を見ていないし、知見を生産した側は成果が用いられることに無力である。その結果、次の(3)のような接点を考えねばならなくなる。

(3)心理学概念の暴走
 研究者の使用する概念が普及する一方で、概念の埋め込まれていた作業仮説や理論が失われ、概念のみが先走ってしまうこともある。

 たとえば、現在、脳の研究から得られた知見を教育に活用しようとする動き、あるいはそのような要請がある。ためしにAmazonで「脳」「教育」をキーワードとしてAND検索してみた(2005年10月28日調べ)。157点のヒットがあったが、1980年から2001年までは年間10冊以下の出版点数で推移していたものの、2002年以降、2003年を除いて、出版点数が年間20冊を超えていた。近年の出版界での「脳と教育」ブームを示す結果と言えよう。

 このことについて「世界」2005年11月号が、伊藤正男、榊原洋一、柳沢正史、河原ノリエ各氏による討論を掲載している。
 討論の趣意は、こうである。現在脳科学では分子的レベルとより高次の意識や心のレベルという2つのレベルでの議論がおこなわれている。分子的レベルでの知見は確実に積み上げられているが、それと意識のレベルとをつなげるブレイクスルーはいまだ見えない。ただ、研究者は橋渡しはいつか可能と信じて研究を続けている。

 この段階では実にさまざまな作業仮説が生まれる。たとえば、同性愛者と異性愛者のあいだで、脳内のある部位の活動や神経伝達物質の多少に差異が見られたとする。すると、当の物質が同性愛の原因である可能性はある。

 この研究結果はあくまでも相関に基づくものであり、因果関係をつきとめたわけではない。なぜならクリティカルな原因が別にあるかもしれないからだ。研究者はそのことを重々承知しており、可能性の指摘にとどめる。研究はこの可能性の確からしさを上げていくことにターゲットをしぼっていく。

 一方で、作業仮説を独自の文脈で読み解こうとする人びともいる。討論で主として挙げられていたのは、教育学、ジャーナリズム、そして一部の企業である。これらにかかわる人の中には、作業仮説にすぎなかったものを科学者お墨付きの結論として採用し、広報に努める。仮説はいつのまにか事実となるわけで、その際には科学的言説が一種の権威として用いられるのである。

 では、研究者は、果たしてこの状況を指をくわえてただ眺めているだけでよいのかだろうか。

 何がどこまで分かっているのか、それはどのようにして分かったのか、結局のところ何が分かっていないのか。少なくとも、これらのことを真摯に伝えようとする努力は必要だろう。そのためには研究者集団とその他の集団とのあいだを橋渡しする良質の翻訳者が必要だ(優秀な翻訳者が優秀な研究者であるケースもあろう)。流布する知を批判的に眺めるサイエンス・リテラシーの教育もそれを下支えするはずだ。

 都合のいい概念を得て先走ろうとする社会的動向がどこかにあるならば、それをなだめることはいかにして可能か。おそらく、分業のあり方を見直す作業から明らかになるだろう。

子育て支援センター

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昼過ぎから、ベビーカーに子どもを乗せて、妻と3人で札幌市子育て支援総合センターを訪れた。2~4ヶ月児向けの歌遊び講座に参加するためだ。妻が申し込んでくれた。

 札幌市子育て支援総合センターは、昨年誕生したばかりの新しい施設である。札幌の繁華街、すすきのの中心から歩いて5分ほどの場所にある。繁華街のそばにありながら周囲は閑静なたたずまい。それもそのはずで、小学校の敷地内に、保育園と小学校に隣接して建てられている。さらに、正面入り口のすぐ脇には交番まである。

 歌遊び講座には15組ほどの親子が参加していたろうか。妻の友だち関係のみなさんを中心に小さな輪ができる。

 センター職員の方だろうか、講師となり、赤ちゃんを相手にしてちょうどいい歌を、参加者がそれぞれ自分のところの子どもに歌って聞かせる。歌といってもたいそうなものを覚えなければならないのではなく、子どもに向かい合うという姿勢とリズミカルな歌い方と肌と肌で直接触れ合うことを心がけましょうという程度。単純だが、確かに大事なこと。

 帰りがけに、行きつけの居酒屋に行き、子どもの顔を見せた。子どもを見るとみなにこにこしてくれる。そう言えば、地下鉄駅のエレベータではご高齢の方々がみな子どもの顔を見てにこにこしてくれる。街というものの持つもう一つの顔が透けて見える。

冬が来る前に

 先日のこと。妻が子を連れて札幌大通公園へ散歩に出かけたとき、小さな羽虫の大群が空中にぷかぷかただよっており、そいつらが子どもの鼻の穴や目に入って大泣きしたのだそうな。

 おそらく雪虫というやつだろう。札幌に来てから初めて知った。この虫が飛んでからしばらくすると、雪が降り出すのだそうな。雪を知らせる虫であるが、服や顔にぺとぺとつくので始末が悪い。

 雪虫が飛んだからというわけではないが、ストーブの準備をした。昨シーズンの残りの灯油を使って試運転をする。夏前に整備に出しておいたせいか、火をつけるとグオーという音とともにストーブ本体が小刻みに揺れるという現象はなくなっていた。よかった。灯油の値上がりが気にかかるが。

 今年の冬は子どもとともに過ごすわけで、ハイハイなどし始めたらストーブのそばに近づけないよう親はいつも気が休まらない。そこでストーブのまわりに置くサークルを買った。これでも安心はできないけどやるべきことはしておく。

 街路樹の葉はもう紅く、スーパーに行けば大根と白菜が野菜売り場の主役に躍り出ている。

 大学では、学生が卒論でそろそろ目の色を変え始めている。

 3度目の冬である。

YP-F1ZBを試してみた

 自然な会話を録音するために、デジタルオーディオプレイヤーを使っていることを書いた。

 そこで最後に紹介したYP-F1ZBを購入したので、早速試してみる。

 まず、個人的に一番のポイントであるところのクリップだが、しっかりした作りで、襟元や胸ポケットに指しても動かない。しっかりしているためにクリップ自体がだいぶ重いのだが(スチール製だと思う)やむをえないか。

 PCとのインタフェースは、USBを介する。YP-F1ZBは、PCに接続するとそのまま1GBのメモリとして使える。Windowsのエクスプローラからファイルの操作が可能である。
 YP-F1ZB側にあるUSBケーブルの接続口が変わっていて、イヤホンジャックの穴と共用である。充電はUSBからとる。

 さて、朝から夕方まで、1日これを胸ポケットに装着して生活してみた。普段の発話をどこまで鮮明に録音できるのか、バッテリーはどのくらいもつのかを確認するためである。

 結果、6時間連続録音したところでバッテリーが力尽きた。まあバッテリーのもちは十分すぎるくらいだろう。
 次に、録音された音声(WAV形式で保存される)を聞いてみる。エクスプローラから録音されたデータを見ることができる。ファイルサイズは、6時間で92MB!たったそんなもの?小さすぎる。
 案の定、録音された音声は非常に聞き取りづらいものであった。胸元にあるにもかかわらず、わたしの声すら聴き取りにくい。音質の面では、残念ながら、iRiver N-10とは比べものにならないくらい低い。ちょっとこれでは使えない。

 まとめると、装着する際の容易さと安定度、およびバッテリーとメモリの容量は満足のいくものであったものの、音質が悪く、会話音声の明瞭な記録という目的に照らせば不十分であった。

 これで、N-10にしっかりとしたクリップをつけるという解決方法がどうやらベストであるらしいことが判明。やはり買ってみないと分からないことは多いものだ。

 なお、研究の目的からすると不適の烙印を押されたYP-F1ZBであるが、1GBのUSBフラッシュメモリとして余生を過ごしていただくことにする。

行列のできるカレー屋

 非常勤講義の出席者の人数は、先週の1人から一気に3倍、3人となった。

 教務の方の話では、結局閉講はせず、このまま開講するとのこと。さすがにこの人数では一方的な講義はつまらない。いっそのこと、4人で何か本を読むか。ちょっと思案中。

 帰宅の途につく。いつもは地下鉄で帰るのだが、たまにはと、バスに乗る。自宅から歩いて5分のところにあるバス停のそばにはカレー屋がある。いつもは閑散としており、特にそこで食べようという気にはならなかった。ところが、そのバス停で降りたとたん目に飛び込んできたのはカレー屋の前にできた行列。

 行列が出来る理由には心当たりがあった。先日たまたま見ていたテレビ番組にこの店が紹介されていたのだ。北海道ローカルタレントの大泉洋がおすすめのカレー屋、ということで、久本雅美とともに訪れていたのである。しかも全国ネットの番組だった。

 こんなことになるんだったら、閑散としているときに食っておけばよかった。

子どもの発話を録音するために

 子どもの自然な発話を、特に、大勢が集まる場所で子どもが話す言葉を研究の対象としている私にとって、その声をいかに効率よく採集できるかが生命線である。

 ビデオカメラを使って、映像と音声を同時に採集するというのが、最近では最もポピュラーとなった方法だろう。カメラもさほど高い買い物ではなくなったし、民生品ではDV、DVD、HDDと、ラインナップも充実している。

 しかし、ビデオカメラは音声採集には不向きだ。内蔵マイクでは周囲の音を拾いすぎる。外付けのズームマイクを利用してもまだ不十分だ。大勢が走り回る中、ある特定の子どもが何を話したのか、ズームマイクで拾った音を何度聞いてもさっぱり分からない。ただ、ひたすら喧噪が鼓膜を打つのみである。

 こうなると、発話データも不完全なものにならざるを得ない。勝手な推測を補うわけにはいかないから、分からない部分はおとなしく「不明」としておかねばならない。結果、子どもたちの発話のほとんどに「不明」印が置かれる。

 この問題を回避するにはいくつかの方法が考えられるが、現在私が採用しているのは、ターゲットとなる子ども自身にマイクをつけてしまうというものである。

 この方法は結構昔から使っていて、ワイヤレスマイクを装着してもらっていたこともある。しかしワイヤレスではトランスミッターもつけてもらわねばならない。よくテレビ番組で、出演者が尻ポケットなどに入れておく黒い四角いもの、あれがトランスミッターだ。しかし、これは子どもの動きを大きく阻害する。

 ICレコーダを子どもの胸あたりにつける、あるいは胸ポケットに入れておくということもやろうとした。しかし、ICレコーダはなかなか重たいものである。もう少し軽いものがほしい。

 そう考えていたあるとき、よいものを発見した。

 iRiver社製デジタルオーディオプレイヤーN10

 重さはたった22グラム。マイクは内蔵されており、256MBモデルで約4時間は録音が可能。録音した音声データは付属のUSBケーブルを経由してWindowsパソコンに取り込むことができる(付属のソフトでWindows標準のWAV形式に変換可能)。おお、なんというすぐれもの。これなら子どもの胸につけてもさほど重くはないだろう。(いまちょっとiRiverのウェブサイトをのぞいてみたら、新モデルN11が発表されていた。FMチューナー付きだと!ふぬー。)

 現在は子どもの胸にN10をテープで貼り付けて発話を採集している。これだと、静かなところならごく小さい声(たとえば、ささやき声)もやすやすと聞き取ることができる。

 しかし、これにも問題はあった。コンパクトなのだが、テープで胸に貼り付けて固定しておかねばならないのである。スマートではない。

 この不満を解消してくれるかもしれないものをごく最近見つけた。Samsung社のYP-F1ZB。なんと、クリップ付きである。これなら、子どもの服の襟元に引っかけることができる。まだ入手していないが、音質がN10と同等ならば大量に購入してみたい。

 夢は、幼稚園の子ども全員にこういったマイクをつけて、発話をあますことなく集めることである。

サビスィ

 えー、いずこの大学でも後期の講義が始まったようで。

 前期に引き続いて、とある大学で非常勤の講義を受け持った。半期で終わる内容を前後期2度繰り返しで行う。なので講義内容やレジュメを新しく準備する必要もなく、余裕で初日を迎えた。

 履修登録はすでに前期に済んでいて、聞いたところでは受講者は5人ということだった。ちなみに前期は12人だった。教室をキャパ40人程度の小教室に代えてもらった。

 教室に向かうと、1人の男子学生が所在なげに立っていた。予鈴が鳴っても新しい学生は来ない。

 受講者、1名。

 彼と差し向かいで、パワーポイントで準備しておいたオリエンテーションを行う。プロジェクタなど必要ない。ノートPCの画面を2人でのぞき込んで話をした。これではまるでサラリーマンの営業活動である。

 この大学では、受講者が5人に満たないと閉講(と言うのか?)となる。ぼくもこの仕事を失う。どうやら彼にとってこの講義は必修だったらしいのだが、それでも閉講となる可能性がある。来週までに教務課が開講するかどうかを決定するという。

 なんだかサビスィね。

 帰りがけ、彼が「なんだが学生相談みたいですね」と言った。一対一だったからね。新しいかもしれない。学生相談式講義。学生の悩みそのものをリアルタイムで講義のネタとしてフィードバックするの。

指しゃぶり

 ちょっと遅いけど、阪神優勝おめでとう!胴上げの時に見せた藤川選手の涙には、ビールを飲みながらもらい泣きしてしまったよ。選手の皆さんにはぜひとも「2年前の忘れ物」を取りにいっていただきたい。

 はてさて。

 アマネが最近指しゃぶりを始めた。夕方から夜にかけてぐずるのが日課なのだが、何がどういう拍子にか、その際に、自分の指をしゃぶるようになったのである。

 指しゃぶりといっても親指をちゅうちゅうという感じではなく、人差し指から中指にかけてをのばし、それをまとめて口にくわえている。

 おしゃぶりを用意してそれをくわえさせているものの、いつの間にかはき出して、指しゃぶりに落ち着いている。

 腹をこわさないか、心配である。

FW2 14-17

     The oaks of ald now they lie in peat yet elms leap where askes lay. Phall if you but will, rise you must: and none so soon either shall the pharce for the nunce come to a setdown secular phoenish.

 古き樫らはいま泥炭の中に眠るが、トネリコ男のいるところでニレ女が萌えいずる。転んだにしても、起きねばならぬ。そしてまだ先だがさしあたっての茶坊主劇は堅気に終わるだろう。

 The oaks … lie in peat: 泥炭の中で保存された木のことを、bog-oakと呼ぶ。オーク、つまり樫の木でなくても、こう呼ぶようだ。日本語では、「神代」(じんだい)とか「埋もれ木」とか呼ばれるものに相当する。

 The oaks … askes lay: この文には、ヨーロッパで聖なる木として崇められた植物、すなわちoak、alder、ash、elmが埋め込まれている。

 ald: alder(ハンノキ)、old。

 lie in peat: lie in peace(安らかに眠る)

 elms leap where askes lay: 北欧神話では、最高神オーディンが最初の人間を造ったことになっている。トネリコ(ash)からアスク(Askr)という男が、ニレ(elm)からエンブラ(Embla)という女が造られた。

 Phall … must: この一文は、ジェイムズ・マクファーソンJames Macphersonによる詩『フィンガル』(Fingal)"の一節"If fall I must, my tomb shall rise"に基づく。
 phall: fall
 "will … must"の対比は、自由意志に基づく非決定論と、必然性に基づく決定論の対比を表す*1。とすると、落ちるのは意志によるものだが、そこから復活するのは必然ということか。

 pharce: farce(茶番劇)

 for the nonce(さしあたって)

 the nonce come to setdown secular: secular(俗人)をcome to setdown(降ろしに来る)のだから、nonceはnuns(尼僧たち)でもあるだろう。

 phoenish: Phoenix (不死鳥、フェニックス・パークのことも指す)、finish。


*1 McHugh, R. 1980/91 Annotations to Finnegans Wake. Johns Hopkins University Press.

FW2 11-14

     O here here how hoth sprowled met the duskt the father of fornicationists but, (O my shining stars and body!) how hath fanespanned most high heaven the skysign of soft advertisement! But waz iz? Iseut? Ere were sewers?

 おお、ここここになんと広がる姦淫主義者たちの父が黄昏に塵と会うが、(おお、わが輝ける星と体!)至高の天空になんとのびゆく優しき告知!でもこれは何だ?イゾルデ?ほんとうに?

 McHughはこの段落全体がイザヤ書48章13節を念頭に置いているとする*1
 「ヤコブよわが召たるイスラエルよ われにきけ われは是なり われは始また終なり わが手は地のもとゐを置(すえ)わが右の手は天をのべたり 我よべば彼等はもろともに立なり」(イザヤ書48:12-13)
 ここでヤコブに呼びかけているのは神ヱホバである。

 またCampbellはここでのイズーIseut(あるいは、イゾルデIsolde)の役割に注目する*2
 彼によればイゾルデの役割は二重である。第一に、すべての者の父を誘惑し、堕落させる女性である。第二に、遺骸から新しい命を再生させる女性である(p.33)。

 how hoth: how hath(haveの直説法3人称単数現在形)、Howth。

 sprowled: sprawled(のびのびと広がる)、prowled(うろつく)。

 met: meetの過去分詞であるとともに、オランダ語のwithに相当。

 the duskt: dust(塵)、dusk(黄昏)。

 the father of fornicationists: 直訳すれば「姦淫主義者たちの父」。
 met the duskt the father…: 「塵が父と出会った」。この塵はのちにアダムとなるのだろう。

 my shining stars: 成句で"my stars!"(ああ、びっくりした!)

 fanespanned: finespun(きめ細かい)、fane(旗、風見鶏)、span(虹が空にかかる)。

 most high heaven the skysign of soft advertisement!: 珍しく普通に読める英語だが、何を指しているのか?Campbellの解釈では、ノアあるいはモーゼにとっての神の契約の証としての、天空に広がる虹である。したがってadvertisementとは神の言葉である。

 But waz iz! Iseut!: "Was ist? Isolde?(What is? Isolde)" ワグナーの『トリスタンとイゾルデ』、トリスタンの第一声。

 Ere were sewers?: are you sure?(ほんとう?)


*1 McHugh, R. 1980/91 Annotations to Finnegans Wake. Johns Hopkins University Press.
*2 Campbell, J. & Robinson, H. M. 1944/2005 A skelton key to Finnegans Wake. New World Library.