【翻訳】「インプロをすべての教室へ」が出版されました

私も翻訳の一部を担当した本が出版されました。

キャリー・ロブマン、マシュー・ルンドクゥイスト 著
ジャパン・オールスターズ 訳

インプロをすべての教室へ:学びを革新する即興ゲーム・ガイド 新曜社

演劇の一つのメソッドであるインプロ(即興)を通して,「学習と発達」の関係を見直しましょう,という本です。

お手にとっていただけましたら幸いです。

【出版】翻訳本が出ました

私も翻訳の一部を担当した本が出版されました。

キャリー・ロブマン、マシュー・ルンドクゥイスト 著
ジャパン・オールスターズ 訳

インプロをすべての教室へ:学びを革新する即興ゲーム・ガイド 新曜社

演劇の一つのメソッドであるインプロ(即興)を通して,「学習と発達」の関係を見直しましょう,という本です。

どこでも翻訳

ただいまJALのラウンジにいるんですが,ここでも翻訳中です。

ラウンジはビールが飲めるのでよいですね。

p.xii

ニューマンと私は,(「私たちのヴィゴツキー解釈」では遊びの一つの形態なのですが)パフォーマンスとは新しい存在論ontologyであることに気付きました。つまり,人間がパフォーマンスperformすること,発達をパフォーマンスすることを,私たちからすれば,心理学者たちは取り入れる必要があります。★4このことは私たちの後の研究や執筆のトピックとなったばかりでなく,同時に,私たちの実践の方向性を定めましたし,仲間たちはそれをセラピー,教育,文化的プロジェクトに取り入れました(Holzman ,1997, 2009; Holzman & Newman, 2012; Newman, 2008; Newman & Holzman, 1997, 2006/1996)。

 簡単な要約であるとともに,その後の拡張や最新情報でもあるこの文章によって,『変革の科学者』においてニューマンと私が作り出した用語法や,ときに濃密な文章へと読者を案内してみたいと思います。英語という言語は非常に静的で,時間と空間を表そうとしており,なにより「モノ化」thinifiedされています。ですから,物事の流れ,動き,一元論,統一体,同時性,弁証法的関係性を取り上げようとする人たちにとっては大きな障害となるのです。私たちには,書き言葉で遊ぶ自由,新しい表現法を作り出す自由があります。必ずしもすべてが理解できるわけではないかもしれません。その場合でもおそらく,言語が見方や考え方をどのように制約しているのか,あるいは拡張しているのか,ということについて少なくとも注意が向くでしょう。

★4 ヴィゴツキー自身は演劇に夢中になっていて,『芸術心理学』(1971★邦訳は○○年)という著作は非常に興味深いものです。しかし,(彼が書いたものから言いうる限り)ヴィゴツキーは遊びplayと舞台上の劇playsあるいはパフォーマンスとを結びつけてはいませんでした。

■席捲するヴィゴツキーVygotsky's expanding influence

 この20年間,急速に,しかも予想不可能な形で世界が変わる中で,心理学は自分自身を作り直そうと苦闘してきました。世界とのつながりを保とうとするために,心理学は競合しがちな二つの道筋を切り開いてきました。一つは自然科学との結びつきを保とうとする道です。このことは,脳科学や認知科学,健康科学と心理学との連携に明らかですし,数量化する方法論や「エビデンスに基づく」evidence-based方法論の希求と促進によっても分かります。もう一つの道は,心理学を文化という方向に向けています。このことは,芸術家と手を組んだり,共同研究をしたりすることや,創造性研究が現れたりしたことに明らかです。また,新しい質的方法論が開発されたことからも明らかで,ここには,客観性について心理学がこだわることに対する直接的な反動としてデザインされたものも含まれます。後者の方向性を採用する心理学者や教育者の中には,劇やパフォーマンス,集団過程もしくはアンサンブル過程,人間の発達や学習,クオリティ・オブ・ライフにこうした人間の活動が果たす役割に熱視線を送る者もいます。ヴィゴツキーに由来し,現代の社会文化的(そして,もしくは,文化歴史的)心理学に端を発する概念や方法は,これら二つの道筋に影響を与えてきました。

 心理学において起きた上述とは別の発展によっても,ヴィゴツキー派の考え方が受け入れられていきました。1990年代までの間に,哲学における「言語的転回」linguistic turnが心理学や他の社会科学にも取り入れられました。このような動きにより,言語が哲学的探求の主要な焦点となりました。現実性realityを反映したり,それに対応したりするものとしてではなく,言語は現実として受け止められるものを構成しconstitute,構築するconstructものとして今や見なされているからです。主流の心理学に対して批判的な多くの心理学者がこの考え方によって奮い立ち,自らの抱える不満について理解し,語れるようになりました。心理学が研究の対象を現実のものとして構築し,「現実のもの」として示すのは,その言語,言説discourse,そしてナラティヴを通してなのです。この言語的転回は,主流の心理学に対する主要な認識論的批判である,社会構築主義social constructionismとして今では知られるようなアプローチを生み出しました。

p.xiii

知識,認知,情動は,いずれも主流の心理学にしたがえば個人の内部に存在するものですが,今やそれらは社会的に構築されるものとして見なされますし,社会的実践としてのみ研究可能なものなのです。客観性という点について言えば,もはや相手にするようなものでもありません。なぜなら,それは不可能ですから。(研究者も含めて)人間は(科学的意味も含めて)意味を作るという主張が「意味する」ところは,人間の主観性が前提として存在するのであり,したがって,客観的科学objective scienceはありえないのです(K. J. Gergen, 1991, 1994)。

 社会構成主義者social constructionistsがただちにヴィゴツキーに気づいたわけではありませんでしたし,ヴィゴツキーを紹介された後で全員が一気にヴィゴツキーを取り入れたわけでもありませんでした。児童心理学者,教育心理学者としてヴィゴツキーが1970年代から90年代にかけて名声を博したにもかかわらず,彼の著作を読む理由はないと考えていたのでしょう。しかし,心理学が言語的転回を認め,それにしたがって探求する上で,ウィトゲンシュタインは重要な人物でしたので,ヴィゴツキーとウィトゲンシュタインとを統合するニューマンと私の試みは注目を集めました。二元論に対する批判や,弁証法的方法論,人間の思考や行為についての社会文化的存在論,(外的な現実,内的な現実を問わず)言語が現実を反映するという見方を排するための完成completionという独自の概念など,『変革の科学者』は社会構成主義者に対してヴィゴツキーのアイディアを紹介しました。★5

 ヴィゴツキーの名が知られ始めた心理学の領域には,他に,青少年young peopleの生活についての研究や,青少年育成youth developmentを促進するようデザインされた学校外での取り組みinterventionについての研究があります。研究と実践のフィールドとしての青少年育成(青少年の健全育成と呼ばれることもありますが)は,学際的でグローバルな現象として急速に広がっています。そこでは,創造性とリーダーシップを発揮する機会を提供するプログラムや組織を通して,青少年を生産的で積極的な活動に従事させています。こうした機会を学校が青少年に対して提供しそこなっていること,および,研究や取り組みの予防モデルprevention modelsに特徴的ですが,十代の妊娠や薬物使用といった問題に一つの視点から焦点を当てることに対する,社会的に組織された対応として見なすことができます。この領域にヴィゴツキーが果たす大きな貢献は,学習と発達の社会性についての理解の仕方,および,効果的なプログラムにおいて支援する大人や仲間との関係性が決定的に重要だという理解の仕方にあります。青少年育成にかかわる実践者は,『変革の科学者』でのヴィゴツキーを知ることによって,青少年が自身を越えたパフォーマンスをできるようにすることが実践者の仕事だと見なし,その方向で組織を作っていくことができます。そこでの青少年は,何者かであると同時にその者ではない存在as who they are and other than who they areであるのです。その仕事ぶりについては後述しますが(pp.xvii-xix),私の仲間たちがオールスターズプロジェクトAll Stars Projectにおいて,このような考え方をもったリーダーとして奮闘しています。サボ・フロレスSabo-Floresは,発達と遊びplayについてのヴィゴツキーの見方を(そしてパフォーマンスについてのニューマンと私の見方を),近年現れつつある新しいフィールドである,青少年の参加的評価youth participatory evaluation(Sabo-Flores, 2007)に導入した人ですが,こうした考え方をもって活動する人たちもいます。

 人間の発達と学習には創造性が結びついているという「新しいアイディア」はビジネスの業界(そこでは市場で成功するためには創造性が重要だと認識されていたわけですが)から現れ,教育と心理学に広がっていきました。ケン・ロビンソンKen Robinsonが簡潔に述べていますが,「学校が創造性をつぶしている」のです(この2006年のTEDトークは,1500万人近くが見ているのですが,2012年現在最も多くの人が視聴したものです★以下,URL)。遊びと幼児期の発達,想像,芸術の心理学に関するヴィゴツキーの著作を知る者にとって,このことはヴィゴツキーの多面性に新たに気づくきっかけとなりました。

p.xiv

およそ10年前から,ヴィゴツキーの影響を受けた,創造性や発達と学習に関する議論が,認知発達についての平凡な議論をよそにして起こってきました。これにより,新しいトピックや新しいパラダイムが教育心理学にもたらされ,パフォーマンスすることや芸術に注目が集まってきたのです。★6

■「私たちのヴィゴツキー解釈」を深めるDeepening 'Our Vygotsky'

★5 社会構成主義についてのガーゲンの浩瀚な著作(最も新しいのはK. J. Gergen, 2009; M. M. Gergen & Gergen, 2012)の他にも,理論的な嚆矢としてショッターShotterが人間の主観性や,人間の関係性一般,あるいはより最近ではサイコセラピーにおける「他者性otherness」を探求し続けています。そこには,ウィトゲンシュタインやヴィゴツキー,ヴォロシノフとバフチンが現れています(Shotter, 1997, 2003, 2008; Shotter & Billig, 1998)。この点で言えば,ロックとストロングLock, A and Strong, T.も多作です。二人の書いたSocial Constructionism: Sources and Stirrings in Theory and Practice(2010)ではヴィゴツキーにまるまる1章が割かれていることにも注目です。マクナミーとガーゲンMcNamee and Gergenが1992年にTherapy as Social Constructionという論文集☆5を出版してからこのかた,関係論的で,意味を形成するmeaning-making,非客観論的non-objectiveなカウンセリングやセラピー実践が行われていますが,それらは協働的collaborative(Anderson, 1997; Anderson & Gehart, 2007),言説的discoursive(Pare' & Larner, 2004; Strong & Lock, 2012; Strong & Pare', 2004),ナラティヴ(McLeod, 1997; Monk. Winslade, Crocket, & Epston ,1997; Rosen & Kuehlwein, 1996; White, 2007; White & Epston, 1990)という名でも知られるようになっています。

☆5 野口裕二と野村直樹による邦訳が『ナラティヴ・セラピー:社会構成主義の実践』(1998年,金剛出版)として出版されている。

★6 ヴィゴツキー派のジョン・シュタイナーJohn-Steinerはこの方向性での先駆者として研究を進めており,2つの本の共編者にもなっています。その2つの本とは,Creativity and Development (2003)とVygotsky and Creativity: A Cultural-Historical Approach to Play, Meaning Making and the Arts (2010)です。かつてはジャズミュージシャンだったソーヤーSawyerは,このところ,創造性と即興についての著作を幅広い読者に向けて書いています(R. K. Saywer, 2003, 2007, 2012)。最近ではニューマンと私の昔の学生たちが,遊びの一つの形式として演劇パフォーマンスと即興のもつ大きな可能性について強調しており,学校内での生活に創造性を持ち込もうとしています。マルチネスMartinezは教授学習のためのテクノロジーについて(2011),ロブマンとルンドクゥイストLobman and Lundquistは学校で行える即興の練習について(2007),ロブマンとオニールLobman and O'Neillおよびその仲間たちは様々な場面での遊びとパフォーマンスについて(2011),それぞれ発言しています。さらには,組織や国を超えて研究者たちが協働し,現在,研究や介入プロジェクトを進めています。これにより,教師や生徒,支援を必要とする人々vulnerable populationが創造性と遊びを知るところとなるでしょう(例えば,アメリカ合衆国や日本,フィンランド,スウェーデンでのプレイワールドプロジェクト★URL,ブラジルやセルビアやボスニアヘルチェゴビアのNGOZdravo da Steが行う,複数の世界Multiple Worldsと他の教育プロジェクトがあります★URL)。

ひたすら翻訳

今日も今日とて翻訳です。だんだん調子が出てきましたが,やはり遅い。

尊敬する柳瀬尚紀先生に負けないような「正確な」訳を目指しているのですが,いかんせん,日本語の知識がなく,移し替える先がないことに愕然とします。


 こうした世界規模での活動の渦を作り出している一人として,ニューマンと私による本,そこで示されたアイディア,それに影響された実践を再検討し,この2010年代に大きく変化した政治的背景への現在的な関連について推測する機会を得たことを嬉しく思います。

『変革の科学者レフ・ヴィゴツキー』でのヴィゴツキーをめぐる議論には,最初に出版した当時には類例のない特色がありました。一つには,この本の中でヴィゴツキーをマルクス主義的方法を採用する者として示しました。彼をソヴィエト連邦成立当初の時代背景の中に位置づけると同時に,私たちの時代の新しい心理学に対して彼の人生や著作がどのように貢献するのかを描き出しました。このようにして,ニューマンと私は,ヴィゴツキーがマルクス主義者であったかどうかをめぐる論争に加わりませんでした。彼がそうであったという考え方も,彼の革命性をその科学的姿勢から切り離す考え方も,どちらも曲解だと私たちは確信していました。

p.x

弁証法的活動としての方法(ヴィゴツキーは,「方法の探究searchは,同時に,研究の道具であり,結果でもある」(Vygotsky, 1978, p.65★Mind in Society)と述べています)を★イタリック/創造しようと/苦闘する,史的唯物論者としてのマルクスに方法論的に密接なつながりを有する人としてのヴィゴツキーa Vygotskyを紹介したかったのです。応用のための道具的なものとしての方法という慣習的な概念を,私たちは「結果のための道具tool for result」と揶揄しましたが,ヴィゴツキーはそれをなんとかしてやろうとしていたわけで,このような革新的な打開radical breakを強調するために私たちは「道具と結果」方法論('tool-and-result' methodology)という言葉を作り出しました。

 ヴィゴツキーは,その時代の心理学における革新的打開を行う中で,いかにして人間は学習し,発達するのかという実践的な問題に関するマルクスの洞察insightを持ち込みました。★3私たちはヴィゴツキーの心理学の中に,人間における,個人の発達,文化的発達,そして種の発達に固有な特徴とは,(個人中心的でparticularistic反復の結果として起こるcumulative行動behaviorの変化とは違って)質的であり,かつ変化をもたらすような人間の活動だということを見いだしました。人間は,刺激に対して単に反応するだけでなく,社会的に規定された有用なスキルを獲得したり,規定してくる環境に対して適応したりするのです。人間の社会生活の固有性とは,規定してくる環境を我々自身が変えることです。人間の発達は個人的に成し遂げられるものではなく,★イタリック/社会文化的な活動/なのです。『変革の科学者』(★LVRSをこう訳すか?)が提示したヴィゴツキーとは,後に私たちが「生成becomingに注目する新たな心理学」と呼んだものの先駆者です。それは,成長growthのための新しい道具を作る過程で,人間は自身の社会的本質や集合的創造活動collective creative activityの力を経験する,というものです(Holzman, 2009)。

 方法に関するヴィゴツキーの概念を,弁証法的な道具と結果としての方法と理解することにより,私たちは,あまり注目されていなかったヴィゴツキーの3つの洞察に行き着きました。

 一つ目は,どのように発達と学習とが関係し合っているかについての,慣習から外れた見方です。学習が発達に依存するとか,発達に後続するとかいった見方を排して,ヴィゴツキーは,学習と発達とが弁証法的な統一体unityであり,そこでは学習が発達に先行するか,あるいは発達を導くのだと構想conceptionしました。「指導が効果を持つのは,発達に先行するときだけである。そのとき,発達の最近接領域の内部で成熟しつつある一連の機能全体が目覚め,あるいは駆動する」(1987, p.212)。ニューマンと私は,「学習が導く発達」(あるいは「学習と発達」。どちらも,ヴィゴツキーの構想を短く要約したものです)を,マルクスの弁証法的活動に関する構想を心理学に持ち込む上での重要な貢献として理解するに至りました。そのように理解すると,ヴィゴツキーは,学習が文字通り最初に来ると言っているのでも,それが発達に時間的連鎖として先行すると言っているのでもありません。社会文化的,関係的な活動として,学習と発達は不可分であると言っているのです。つまり,一つの統一体として,学習は発達に対して,連鎖的にではなく弁証法的に結びついているということです。学習と発達は互いを同時に作り合っています。これは,私たちにとって,共に作り合うこのような関係を生み出し,支えるような環境とはどのようなもので,そして,いかにしてこうした環境がそうでない環境と異なるのかに注意を払わねばならないことを意味します。そうでない環境としては,ほとんどの学校がそうなのですが,発達から学習が切り離され,何かを獲得するという学習が目指されるようなものがあります(Holzman, 2007)。

 小さな子どもが,ある言語の話者になる過程に関するヴィゴツキーの記述の中に,このような発達的環境を見いだすことができます。そこでは,赤ちゃんとその養育者は,言葉による遊びを通して,環境を創造する道具と結果の活動に,そして,学習と発達に,一度にかかわっています。


★3 何十年も前に,スクリブナーScribner, S.とコールCole, M.が同様の指摘をしています。その指摘によれば,ヴィゴツキーの社会文化的アプローチsocio-cultural approachは,「人間には固定された本質があるわけではなく,生産的活動を通して自己およびその意識を常に作り出しているという,マルクス理論における心理学的な部分を拡張する試みを示すもの」(Cole & Scribner, 1974, p.31☆4)です。しかしこれは,教育界の人々に知られるようになったヴィゴツキーの姿ではありません。

☆4 若井邦夫による邦訳が,『文化と思考:認知心理学的考察』(1982年,サイエンス社)として出版されている。

p.xi

在ること(being)と成ること(becoming)の弁証法的な過程がどのようなものか,そこに見て取ることができます。つまり,小さな子どもにおいて,現在の姿(例えば,バブバブ言う赤ちゃん)と,今のところはそうではない姿,あるいはそう成りつつある姿(例えば,話し手)とが,いかにして同時に関係づけられるのかが見えるのです。ニューマンと私は,これは革命的な発見だと確信しました。もしもこの発見が広く理解されたなら,人間の発達過程に対する心理学者の理解の仕方を変えることができるでしょうし,学習する子どもの人生the learning livesだけでなく,学習する大人の人生に対しても,心理学者や教育者の向き合い方が変わってくるでしょう。このようにして,『変革の科学者』ではヴィゴツキーを発達研究者として提示しました。当時におけるヴィゴツキー派の研究や発言がほとんどすべて学習(特に,学校内の学習)を強調していたのと対照的です。

 ヴィゴツキー派の洞察から掘り出した別の領域は,考えることと話すことthinking and speechについてのものでした。ニューマンと私は,言語と意味に対して大きな関心を持っていました(彼は言語哲学を学んでいた頃から,私は言語学を学んでいた頃から)。言語が思考を表現するという受け入れられた知識に対するヴィゴツキーの挑戦は,私たちには聡明で,きわめて現代的なものとして見えました。「発話speechは発達した思考を単に表現するものではない。思考は発話に形を変える間に再構成される。思考は表現されるのではなく,言葉において完成するのである」(Vygotsky, 1987, p.251)。これは私たちにとって,ヴィゴツキーによる人間の活動についての弁証法的な理解の形を変えた例でした。私たちはこうした理解を,ニューマンが広く研究してきた哲学者ウィトゲンシュタインのそれと統合しました。「発話は思考を完成させる」というヴィゴツキーの言葉は,私たちにとって,ウィトゲンシュタイン派の言う「生活形式form of life」(Wittgenstein, 1958, pp.11, para.23)でした。「完成」という概念を他者へと拡張しました。つまり,あなたの言葉を「完成」させるのは他の人でもありうるのです。非常に小さな子どもが他者とともに,あるいは他者を通して,いかにして話し手になるのかという問題に戻るなら,養育者はバブバブ言う赤ちゃんを「完成させ」,完成させる養育者を赤ちゃんは創造的に模倣するものと仮定できます。診察室や会議室といった,ヴィゴツキー派の研究者がヴィゴツキーのアイディアを持ち込んでこなかった場所を含め,人生を通して学習と発達の起こる機会がいかにして創造されるのかという問題について,このようなヴィゴツキー派の洞察から私たちはヒントを得ました。

『変革の科学者』では,子どもの発達における遊びの役割についてのヴィゴツキーの理解に注目し,若者や成人の発達における遊びの重要性へと視野を広げました。ヴィゴツキーが遊びについてほとんど書いていないことはニューマンと私にはたいしたことではありませんでした。幼児期の想像遊びやごっこ遊びについてであろうが,あるいはもう少し大きくなってからしょっちゅう行われるようになる,より構造化された規則に従うゲーム遊びについてであろうが,彼が書いたことは私たちにとってものすごく重要だったのです。特に重要だったのは,次の文章です。「遊びの中で子どもはいつもその平均的な年齢や,日常的に行うことを越えた行動をする。遊びの中では,子どもは頭一つ分の背伸びa head taller than himselfをしているかのようだ」(Vygotsky, 1978, p.102)。私たちは彼の言う「頭一つ分の背伸び」が何を意味するのか格闘したのですが,人間の発達が在ることと成ることの弁証法であるということの喩えだ,という理解に落ち着きました。そのように理解したことで,同じような弁証法的な質をもつものとして演劇的パフォーマンスtheatrical performanceを検討することになりました。なぜなら俳優は,現在の姿と今はそうではない姿とを同時にもつからです。

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ニューマンと私は,(「私たちのヴィゴツキー解釈」での遊びの一つの形態である)パフォーマンスとは新しい存在論ontologyであることに気付きました。

翻訳を始めました

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石川晋「学校でしなやかに生きるということ」(フェミックス)

学校でしなやかに生きるということ


現在、上士幌で教師をされている石川晋先生より、ご著書をご恵贈いただいた。石川先生にはしばらくお会いしていないが、先生の動向はずっと気になっている。でも、ご著書を出されたことは迂闊にもチェックしていなくて、思いがけずお送りいただいたのは望外の喜びだった。

上士幌中には一度おうかがいしたことがある。この本に書かれているように、木のかおりのただよってきそうな、いかにもぴかぴかとした新築の学校だった。

おうかがいしたときは、ちょうど子どもたちがライティング・ワークショップを繰り広げているところだった。校舎のあちこちで子どもたちがたたずみ、おそらくは自分で選んだのであろうテーマで書くことに向き合っていた。

そういう一つ一つの子どもたちの動きを可能にする、石川先生の職場内での教師としての「仕事」が訥々と語られていく。この仕事がなければ、子どもたちが授業時間中に校舎をうろうろすることに対してあっという間にクレームがつくかもしれない。それくらい大事な仕事なのだが、あまりおおっぴらに語る先生は多くない。石川先生はそこを丁寧に書いておられる。

若い教師の悩みに「あなたがうまくいかないと嘆いていること、それらすべてを含めて仕事というんだよ」と言いかけてやめた(p.83)、というエピソードが象徴的だ。

堀裕嗣先生の言う教師の「生活力」にも通じると思うが、要領というか、教師が社会の中で生きていく賢さの一つのかたちが語られている。

教師教育にたずさわる者として、しかし、ここで困難に直面する。こうした賢さのかたちを紹介することはできるものの、では、この賢さを学生に育てることはどのようにすればよいのだろうか、と悩むのである。職場や子どもたちといった条件が変われば、賢さのかたちは当然変わってくるはずで、かたちだけ真似すればよい、というものではないのである。

だから、学生にこの本を薦めてよいものかどうか、実は本気で悩んでいる。読ませたい。しかし、かたちの安易な模倣に導いてしまうのではないか。こういう悩みも、学生を信頼し切れていないからなのかもしれない。