学術出版の行方

 しばらく前から、たけくまメモがそのエントリーのいくつかを費やして、マンガをめぐる出版システムの将来を構想していました。たとえば、最新の話は電子出版をめぐってのものでした。

「輸出産業」などともてはやされるマンガも大変なようですが、ながらく「輸入産業」などと揶揄されてきた人文社会系研究の学術出版は、さてどうなんでしょう。

 個人的な体験ですが、生協書籍部をふらふらしていて、何気なく「月刊言語」を手に取りました。言語学の一般向け雑誌としてはメジャーかつ老舗であるこの雑誌ですが、最近は背表紙のタイトルを見て買うかどうか決めていました。

 最新号は昨年の12月号。目次を読むとすべての連載が最終回を迎えており、特集もなんかしんみりしている。最終ページをめくると、「休刊」の2文字が。だいぶ前から報道はあったようですが、寡聞にして知りませんでした。残念なことです。

 版元である大修館も厳しいのでしょうが、そういう中でも「学びの認知科学事典」といった好企画も生まれている。

 一般的に言って、ナイスな企画を実現させるには、相当のノウハウ、人脈、そして知識と知恵もつ編集者という基盤が必要でしょう。学術出版社の社会的な役目にはそういう人材を育てることもあるのではと思います。このような基盤は大切な財産ですから、絶対にしっかりと残していただきたいし、私もおよばずながらそのお手伝いをしたいと思っています。(だから、「事典」は買いますよ)

障害者イズム

 DVDを借りてきて観た。

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 脳性麻痺による身体障害をかかえた3人の方々が自立生活をしたいと奮闘し、実際に自立生活を送る日々を追ったドキュメンタリー。

 自立支援の文脈で観ると、役所との対立という図式はとても分かりやすくて、実際に本作でもそういう場面(たとえば、年金に生活保護を足せるかどうか、とか)は多々出てくる。

 でも、本当に嫌ったらしいのは役所なんかじゃなくて、本作がこういう形で世に出ることも含めて、うすーく社会に漂う何かである。それが何かは分からないが。

 観ていてとても気になったのは、自立生活を送ったときの食事である。うまそうなもん食ってない。レトルトのカレーを袋ごとトースターで温めて、「爆発しないように見張ってるんです」というのはもう。栄養があってうまいものを腹一杯食べてもらいたいと強く思った。

 が、当の本人にとっては、そんなことどうでもいいんだろうなとも思った。「自分の意志でそういう食事を選んで食べている」という実感の方がとても大事なんだろうな。自立前の生活では、施設にせよ、家庭にせよ、そもそも「食べるものを選ぶこと」そのものがかなわなかったわけで。

ごーやちゃんぷる

 いろいろあって、大学を出るのが遅くなった。

 地下鉄南北線の平岸で降りて、てくてくと住宅街のなかをあるくと、電光掲示板にあかあかと「沖縄料理」と出てくる。「ごーやちゃんぷる」である。

 おばあがやっている沖縄料理居酒屋。2~3カ月に1度くらい顔を出す。

 たまに顔を出すといつもカラオケの宴会をしているのでそこに混じって大騒ぎをしているうちに深夜過ぎて次の日は午前中使い物にならなかったりする。そんなところである。

 今日は新人2名がカウンターでまじめな話をしている脇で、他に常連さんがめずらしくいないのでおばあとゆっくりと話す。

 ビール、泡盛。お総菜、おでん、手羽先、「すば」。「これあけちゃって」と泡盛のボトル1本出してくれる。

「さーたーあんだーぎー」の話になって、「おばあのは食べたことがない」と言うと、「じゃ、作ってあげる」。

 卵と小麦粉を混ぜてぱぱぱっと作ってくれた。むっちゃくちゃうまい。本当にうまい。

「これ食べたらほかのは食べられないさー」とおばあが誇らしげである。

学問と社会

 自分の子どもに、大学に入ってほしいかどうかを(だいぶ先取りして)考えたときに、正直なところ「どちらでもいい」と思う。

 それよりも、社会のなかで義理人情しがらみ云々を抱えながらきちんと本分を果たしてほしいと思う。

 よくよく考えると、大学という場所は社会とそりが合わないところである。「学問の自由」を本当にとことんまでつきつめれば、どうしても反社会的にならざるを得ないこともあるからだ。

 実際、ある時代まで大学はそうとう反社会的な場所だった。今では助成金をめぐってだいぶ牙を抜かれてはいるが、その「ウリ」である学問にはそもそも反社会性が内在しているのだからその牙はまだどこかで眠っているはずである。

 ついでながら言えば、ある時代までは小学校だってそうとうに反社会的な場所だったはずだ。家業の一番忙しい時期に働き手を閉じこめておくことは、共同体の運営にとっては痛手だったはずである。

 では、だからと言って大学が学問という手段で現在の社会に背くことなく奉仕すればよいかと言うとそれもまたまずいのではないかと思う。社会を対象化、目的化することには全体主義という危険性がつきまとうからだ。ちょっとばかり自分が賢いと思っている人が社会に影響力を与えるような実権をにぎるとろくなことにならないというのは歴史をひもとけば分かる。

 何を書いているのか分からなくなってきたが、要は、地に足をつけて自分のできることを精一杯やってほしい、その上で周りの人を少しずつ幸せにしてあげてほしい、ということである。

 そのために学問や大学が必要となるならそれでもいい。そうでなければ行かなくていい。それだけのことである。

ぷんすか

 最近のアマネは、ちょっと自分の意志が通らないことがあると、すぐにふてくされる。

 ふてくされ方がおもしろくて、両手の甲を左右それぞれの腰に当てて、口をとがらせて頬をふくらませ、目をつぶる。

 最後の目をつぶる、というのはなぜだかよく分からないが、手や口や頬の形は、「ぷんぷん怒っている人」の漫画的な表現そのものである。

 そうやって怒っている大人は我が家にはいないし、そういう人を周囲で見たことがない。誰から学んだのだろうか。

 あ、もしかすると、保育園の先生か。ああいうポーズで「めっ」と怒られてるのかな。

Sentence first–verdict afterwards

 パブリックドメインになって400円で売られていたディズニーの「アリス」のDVDをアマネが気に入ってよく観ている。

 トランプの女王がアリスに向かって「判決が先、評決はあと!」と叫ぶのを聞き、足利事件と同じかもしれないと思った。

‘Let the jury consider their verdict,’ the King said, for about the twentieth time that day.

‘No, no!’ said the Queen. ‘Sentence first–verdict afterwards.’

‘Stuff and nonsense!’ said Alice loudly. ‘The idea of having the sentence first!’

‘Hold your tongue!’ said the Queen, turning purple.

‘I won’t!’ said Alice.

‘Off with her head!’ the Queen shouted at the top of her voice. Nobody moved.

http://www.gutenberg.org/files/11/11-h/11-h.htm#2HCH0011

 評決ではなく、判決をもって目の前に現れる他者に対して、私は「stuff and nonsense!」と叫ぶことができるのだろうか。

どうする教育心理学実験

 2時間続きの教育心理学実験、1カ月ぶりの授業のため感覚つかめず、大量に作業を残してあえなくタイムアップ。とある保育園の3、4歳児にピアジェの保存課題をやってもらうのだが、とりあえず教示の仕方だけでも確定させることはできたのでよしとするか。

 先方との打ち合わせも不十分。学生の授業実態も把握しておらず、スケジュール調整に難儀している。調整の難しさを予見できなかった自分のミス。けっこう困っている。

 保存課題を説明するのにYouTubeにあがっている下のような動画を用いているのだが、「最後はかわいそうな実験です。子どもはこうして大人はずるいということを知っていくのですね」と言うと必ずウケる。

よい思い出になれば

 土日のセンター試験は大過なく終わり…というわけにもいかなかったようだ。

 ぼくの担当は初日のリスニングの監督補助という比較的責任の小さな役どころのみだったので、昼過ぎに大学に出かけていって、リスニングが終わればそのまま試験関連の仕事も終了であった。

 使い終わったICレコーダを箱に入れて本部に運び込むと、別室で監督をしていた同じ学部の先生がそそくさと部屋を出て行くのにすれ違った。

「どうしたの」
「再開テスト」

 ふと見ると、部屋の隅の机の上に赤いランプがずっと点滅し続けているプレイヤーが置いてあった。故障のようである。受験生にとっても災難だ。

 明けて次の日は朝からこれでもかと言うほどの大雪。JRは止まり(北海道で列車が止まるなんていうのは相当な量の雪である)、おかげで試験開始が1時間ほど繰り下げられたらしい。

 受験生たちはこの2日間にかけているわけで、こうした天災に見舞われることほど本人としては腹立たしいことはないだろう。願わくは数年後、あんなこともあったねえとよい思い出になってくれれば。

「読み聞かせ」についての特別授業

 現在担当している授業に「基礎演習II」というのがありますが、今年はそこで「読み聞かせ」について検討しています。「読み聞かせ」に関心を持っている2年生が8名と3年生が3名の計11名が、論文を読んだり、実際に子どもたちに読み聞かせをしたり、インタビューに出かけたりしています。

 演習の正規の開講期間は今月末までなのですが、今年は特別に延長して、来月2月に特別講義を開きたいと考えています。

 講師には、上士幌町立上士幌中学校の石川晋先生にお願いをすることができました。私などはどうしても研究の領域上、読み聞かせは赤ちゃんや幼児、あるいは小学生向けのものという頭があるのですが、先生は中学校で読み聞かせの実践をされておられるそうです。中学校という場と読み聞かせという実践がどう結びついているのか、ぜひうかがってみたいです。

 当日は、幼児向けの読み聞かせを実際に行ったり、演習のメンバーによる研究発表をしたりと、盛りだくさんのプログラムにしたいと考えています。メンバーには苦労をかけますが、楽しい時間になればいいなと思います。

 日時は2月26日(金)、だいたいお昼過ぎ頃からを予定しています。場所は未定ですが、教育学部棟かその辺りになると思います。どなたでもご参加いただけるような会にしたいと思います。参加費は無料です。ご関心のある方はtito + edu.hokudai.ac.jpまでご連絡ください(+を@に変えてください)。

安息の地は奈辺にありや

 盆と正月に茨城の実家に帰るわけだが、ここ数年困った事態になっている。家にいるとたまらなく目がかゆくなってくるのである。

 おそらくはアレルギーだろうと思うのだが、室内にいてかゆくなるので何かの花粉というわけではないだろう。部屋の中の何に反応しているのかは分からない。数年前にリフォームしたのでその際に使われた化学物質なのかもしれない。

 原因はともかく、安息を得るために帰省しているのにもかかわらず、かえって不快になってしまうのは残念なことである。(もちろん帰省する理由は他にもあるわけだが)

 ではずっと札幌に暮らしていればいいかというと実はそうでもない。ここ数年来、冬になると、乾燥による肌のかゆみが悩みのタネとなっている。特に太もものあたりやひざの裏がかゆくて、気がつくとぽりぽりとかいているといった具合。なにしろ寝ながらかいていたりもする。

 結果として、肌が炎症を起こしてさらにかゆくなり、真っ赤にただれてしまう。去年は服の布地とこすれて歩くたびに痛くてたまらなかった。

 今年は二の轍を踏まないように、もう今の時期から保湿液を足に塗りたくっている。そのせいか、今のところはかゆみはない。

 実家に帰れば目が、札幌にいれば足が、それぞれかゆくなり落ち着いて暮らすことができないとは、難儀なものである。