高木(1992)について解説した文章も発見されたのであげてみた

L&Wが世に出て,日本において最も早い反応をしたうちの一人が,高木(1992)であった。

80年代中頃までの「状況論アプローチ」とは,複数の研究者がおおまかに共有する世界観であった。その研究者には,ロシアの心理学者とその系譜(ヴィゴツキー,レオンチェフ,コール,ワーチ),アメリカの生態学的知覚心理学者(ギブソン,ナイサー),および仕事場を主なフィールドとする社会学者や文化人類学者(レイヴ,ハッチンス,オール,サッチマン)といった研究者らがいた。

80年代後半以降,おおまかに共有された世界観ではなく,それを明示的な理論に組み上げようとする試みが始められた(エンゲストロム,ニューマン・グリフィン・コール,ワーチ)。L&Wはその1つとして理解してよい。ここで高木(1992)がL&Wに注目する理由は,それがエスノグラフィをもとに作り上げられた新しい枠組みだからである。高木がもとにするのは,Lave(1991)の議論である。
徒弟制のエスノグラフィから導かれたLaveのLPP概念は,以下の事実を説明するためのものである。①明示的な教育構造がなくとも,スキルの習得は生起する。②スキルの習得が共同体内のアイデンティティ形成と関連する。

Lave(1991)は,自分の採用するアプローチを”situated social approach”と呼ぶ。ここで高木(1992)は,彼女の用いる「活動」と「社会的世界」という言葉の意味を明らかにする作業を通じて,LPP理論における世界観を分析した。

まず「活動」とは「複数の主体が何らかの形で構造化された共同作業を通じて,ある目標の達成を目指している過程全体を意味」(p.268)すると高木(1992)は考える。次に「社会的世界」とは,「主体たちの社会的交渉によって意味づけられ,構造あるものとして主体たち自身にとらえられた『活動』」(ibid.)のことである。この定義を繋ぐならば,活動が社会的世界を作るとともに,社会的世界が活動を導くという,相互構成的な図式が完成する。このことを高木(1992)は,「『活動』のメンバーとして共同的行為に従事(中略)することによって,経験され解釈された『活動』としての『状況(※引用者注,社会的世界のこと)』が主体にとって成立する一方で,そのようなものとしての『状況』が存在しないことには,主体にとっては常に『状況』への何らかのコミットであるところの『活動』は成立しえないということ」(ibid.)として述べる。

もう一つの特徴として高木(1992)は,この「状況」そのものが歴史的に変化することが,LPP理論では前提とされている点を挙げる。まとめれば,「具体的世界において受肉化された共同的行為として実現される「活動」と,各行為主体によって経験される『状況』の相互構成的な関係に『活動』の歴史的変化という通時的軸を導入しようとする立場である」(ibid.)。

ここで高木(1992)は,主体がひとり,状況や活動の意味や変化を知覚することとして,上記の図式を読むことを拒否する。あくまでも,そうした知覚過程も状況や活動の内側の関係性において理解されなければならないのである。高木(1992,p.269)は,「活動に取り組んでいる人々の諸関係こそが学習(learning),思考(thinking),知ること(knowing)である」というLaveの言葉を引いている。関係論的視座への徹底は,後に高木(2000)でも見られる。

このような視座から要請される必然として「参加」概念はあったと,高木(1992)は述べる。参加は個人的出来事ではない。それは,常に人々の活動への関与であり,かつまた,活動や状況を変えていく継起をともなう出来事でもある。このような特徴を持つ「参加」概念は,LPP理論の前提を満たす。「『参加』という行為は,主体の学習過程とコミュニティの維持,変化過程が同時に現れてくる場なのである」(p.270)。

高木(1992)はここから,ヴィゴツキーの方法論として「単位分析的方法」を抽出し,それとLPP理論との接合を試みる。単位分析的方法とは,内的に葛藤する二つの構造の関係を「単位」として同定し,そこでの「振動」を図として描き出す手法である(高木,1992,2001)。高木(1992)によれば,ヴィゴツキーの言う「コトバの意味」,すなわち「単位」は,LPP理論で対応させれば,「参加」概念にほかならない。

他方で,高木(1992)は,LPP理論の抱えるいくつかの課題について触れている。まず,単位が同定されたとき,主体/分析者にとって,「主体と状況の関係全体のうち,ある部分が可視的になり,ある部分は見えなくなる」(p.271)。ゆえに分析者は,何が見えて何が見えなくなっているのかを把握する必要がある。第二に,参加は比較的安定した共同体を念頭においた概念であるがゆえに,主体の変化が共同体における位置取りとして描かれるという問題がある。この帰結として,主体が何者であるかを判断する基準がその共同体だけとなること,主体の変化が共同体内の配置換えとして読まれてしまうことが挙げられている。

第一の点と第二の点をあわせると,参加者にとって,共同体に参加するほど,違和感や矛盾が「見えなくなる」ことになる。違和感や矛盾として現象するはずの契機は,参加と同時に存在していたはずである。だが,「見えなくなる」のだ,と高木(1992)は言う。これは,共同体を安定的なものとして描いたこと,あるいはL&Wが安定的な共同体を対象としたことに由来するだろうとも推測されている。

LPP理論にひそむ,要素の相互構成的な性格や徹底的な関係論としての読みは,原典しか入手できない1992年という時代的状況にあって,出色であった。

文献
Lave, J. (1991). Situated learning in communities of practice. In L. B. Resnick, J. M. Levine, & S. D. Teasley (Eds.). Perspectives on socially shared cognition. APA. Pp.63-82.

高木光太郎 1992 「状況論的アプローチ」における学習概念の検討:正統的周辺参加(Legitimate Peripheral Participation)概念を中心として 東京大学教育学部紀要, 32, 265-273.

高木光太郎 2000 行為・知覚・文化:状況的認知アプローチにおける文化の実体化について 心理学評論, 43(1), 43-51.

高木光太郎 2001 ヴィゴツキーの方法:崩れと振動の心理学 金子書房.

佐伯先生の解説に基づいてLPPについて2004年に書いた文章が今見るとわりとちゃんとしていた

下記の文章は,私が2004年に書いた文章です。今見てみるとわりとちゃんとしたことを書いている(と言っても,それは佐伯胖先生の論文を解説しているだけですが)ので公開してみます。なお,LPPとは言うまでもないですがLegitimate Peripheral Participation(Lave & Wenger, 1991)のことです。

(ココカラ)

佐伯(2001)は,Lave & Wenger(1991)を日本に紹介した訳者によるLPP論の最近の解説である。そこでは,LPP論の「わかりにくさ」の原因が挙げられ,それに由来するいくつかの誤解が紹介される。さらに,これらの誤解をただす形で,LPP論の要点がおさえられている。短いながらも,Lave & Wenger(1991)の要諦を見渡すことができる文献である。以下,佐伯(2001)で挙げられたポイントをまとめてみよう。

LPP論の「わかりにくさ」の原因として2点挙げられている。1つは,LPP論が徹底した「関係論」を採用すること,2つ目はこれがあくまでも「分析の視座」にすぎないことである。まず,「関係論」という点から確認しよう。たとえば実体論的な立場からすれば,「学習」という言葉で指し示される現象は,脳内の神経系の変化として実際に観察可能である。一方,関係論は「学習」という現象を単に1つの実体の変化には還元できないと考える。この立場からすると,「学習」(も含むあらゆる現象)は人々が生きて暮らすうえでの関係性から立ち上がるものとして理解される。LPP論はこうした関係論に依拠する。

第二に,LPP論は「分析の視座」であり,そのため,あらゆる現象はLPP論の枠内で解釈が可能である。世界観の一種と言ってよい。ゆえに,LPPは既存の制度を理論的に深化させたものではないし,LPP論にふさわしい学習とそうでないものとがあるのでもない。もちろん,学校での暗記学習がLPP的に間違いで,徒弟制など学校外の学習制度において真正の学習が期待できるなどと言っているわけでもない。これらは佐伯(2001)が「誤解」として退けたものである(p.38)。我々はいついかなるときも何かを「学習」しているのである。それを「参加」や「実践」などの概念を用いて関係論的に分析する枠組みがLPP論なのである。

さて,このような特徴をもつLPP論は,学校での実践に対していかなる役割を果たすのか。すでに見たように,LPP論それ自体が望ましい学習制度を提起するわけではない。佐伯(2001)は,「私たちが子どもたちを本当に「参加」させたい共同体はどういう共同体なの」か,「そういう共同体に出会わせ,そこに参加させるにはどうすればいいか」,「そういう実践を通して,子どもなりにどういうアイデンティティをもってもらいたいのか」,といった問いを,実践に関与する共同体の成員一人一人に突きつける問題提起にLPP論の役割を見出した(p.40)。

「実践」「共同体」「参加」は,こうした問いを立てる上で,あるいは分析を進める上で,我々が注目すべき点をガイドする重要な概念である。ところがここにもいくつかの誤解が潜むと佐伯(2001)は言う。例えば,実践と共同体の関係性である。学校を例に取ろう。学級は複数の人々で構成されているため,一見,共同体の体をなしている。では,学級は,即,実践共同体だと言ってよいか。LPP論の立場に立つならば,そのように言うことはできない。LPP論によれば,はじめにあるのは人々が生成し,継承していこうとする「実践」である。Lave & Wenger(1991)は,「共同体」をあらかじめ規定しようとはしない。実践をめぐって関与する人々の集まりを,いわば事後的に,共同体としてみなすのである。もちろん,「共同体」を作ることそのものが「実践」になる場合もある。しかしこの場合も,まず実践の単位を切り出すことが重要なのである。したがって,「文化的に真正な実践」がどこかにあるわけでもなければ,そうした実践が営まれるホンモノの共同体があるわけでもない。佐伯(2001,p.40)が述べるように,これも誤解である。徒弟制の工房も,学級も,それぞれ等しく実践共同体なのだ。

最後に,最も難しい概念が残された。「参加」である。佐伯(2001)は,「学習」を「参加」として捉えるメリットの1つとして,その前提となる「共同性」に目を向けることを挙げた。我々は,ある実践に参加し,その実践にとって「学習したかどうか」が問題となる何らかの「知識」を「学習した成員」として立ち現れる。これは社会的共同の結果として成立する。たとえ一人での自学自習においてもそうである。

佐伯(2001)が指摘した誤解の最後のものは,この点に関わる。参加者にとって,「学習したかどうか」が問題となる「知識」の改変は可能なのだろうか。我々は実践共同体が認める「知識」をただ黙って受容するだけの存在なのか?これにかんしてLPP論ははっきりと否定する。だが,ときにLPP論は,参加者が実践共同体に存在する文化的知識を無批判に受けいれることとして受け止められてきた。しかしこの誤解は,Wenger(1990)がすでに「文化的透明性」という概念を用いて回避しようとしたものであった。

結論からすれば,我々はある実践において何が「知識」となるべきかを批判したり話し合ったりして,その都度決めていくという実践を構築することができる。その意味で,我々はまったく受動的ではない。ただし,ある実践に深く入り込んでしまった者にとって,この作業は容易ではない。先ほどの「文化的透明性」概念を使って解釈すれば,ある実践がよく「見える」ようになったとき,同時に,他の実践は「見えなく」なってしまっている。そのために十全的な参加者は,「知識」を決める実践があるなどとは思いもよらないし,あったとしても拒否してしまう可能性がある。Wenger(1990)によれば,何が「知識」かを決める実践に参加しやすいのは,逆に,本来の実践に「周辺的」「周縁的」に参加していた人々である。Wenger(1990)は,結びつきの弱い他の実践共同体から,「知識」としてふさわしいものを押し付けられるのではなく,当の「知識」を用いる実践共同体の内部において批判的に再定義していく実践を生み出すことを提案する。また,佐伯(2001)は,批判を当の実践共同体ではなく,外側の(あるいは,当の共同体の未来の姿としての)実践共同体へと向けていくことも可能性の1つとして提起する。

以上は,佐伯(2001)をほぼ要約したものである。ここから分かるように,LPP論は幾多の誤解を受けており,そのために無用の批判や不要な論争に巻き込まれてきた観がある。もちろん,きちんと応答すべき批判もその中には多かったはずだが,基本的な世界観は洗練されており,90年代初頭においてもきわめて完成に近い枠組みだったと思われる。その後,Wenger(1998)やLave(1996)といった論考において,「アイデンティティ」や「参加の軌道」といった概念の重要性が指摘されてはきたが,本質的に1991年の枠組みから離れるものではない。

今後我々は,LPPという世界観とどのようにつきあっていけばよいのだろうか。

文献
Lave, J. (1996). Teaching, as learning, in practice. Mind, Culture, and Activity, 3(3), 149–164.

Lave, J., & Wenger, E. 1991 Situated learning: legitimate peripheral participation. New York : Cambridge University Press.(佐伯胖(訳) 1993 状況に埋め込まれた学習:正統的周辺参加 産業図書)

佐伯胖 2001 学習とは,実践共同体への参加である 子どもの文化, 33(8), 36-43.

Wenger, E. 1990 Toward a theory of cultural transparency: elements of a social discourse of the visible and the invisible. Doctoral dissertation, University of California, Irvine.

Wenger, E. 1998 Communities of practice: learning, meaning, and identity. New York: Cambridge University Press.

X(Twitter)をやめました

2010年前後から断続的に続けてきたX(Twitter)ですが,もう使うのをやめることにしました。

理由はいくつかあります。1つに,マスクを被った社会の人々が言葉で殴り合う姿をもうこれ以上見ていたくないことがあります。非常に嫌な言葉を見ると腹の底から怒りに打ち震えるのですが,それを押さえ込むのに年々苦労するようになりました。年を取ってきたからだろうと思います。あと何年生きていられるか分からないのにどこの馬の骨とも知らない奴の言葉に右往左往して寿命を縮めるのもバカらしい。

また,時間が余るとついつい眺めてしまうクセがあったのもやめる理由の一つです。時間がやはりもったいない。

いろいろな情報を手に入れたり,こちらから情報を発信するにはいまでも有用なツールであることは間違いない。そう思っているのは確かなのですが,もうこれからは現実に手の届く範囲のことを丁寧に関わっていきたいのです。

北海道の居酒屋の真髄を作る―「北海道の居酒屋の真髄を探る」第14回

居酒屋の真髄を探る旅も最終局面です。

札幌市北区民センターの料理室をお借りして,受講者それぞれが「北海道の居酒屋の真髄を表す料理だ」と思うものを1人1品ずつ作ることにしました。

どんな料理ができあがったのか。それは下のリンクから「通信」をお読みいただければ分かると思います。

居酒屋の真髄通信第14号

この演習の報告も今回でひとまず終了です。実際には料理をした次の週に全体の振り返りを行い,全15回の演習を終えました。

毎回の演習の後に作成していた「居酒屋の真髄通信」を現在とりまとめる作業をしています。売るとか不特定多数に無料頒布するといったことは考えていません。単なる記録として作成しているものです。上のリンクでたどり着ける今回の「通信」は,その編集途中の冊子からの抜粋です。冊子の雰囲気がつかめるのではないでしょうか。

関心をもってお読みくださったみなさま,ありがとうございました。

のれんを作る―「北海道の居酒屋の真髄を探る」第13回

居酒屋の入り口を飾る「のれん」。最終プレゼンを行う料理室にも飾りたい,ということで,受講生に作ってもらいました。

「店の名前は何にする?」と尋ねると「第三伊藤センター」と返ってきました。みんなで訪問した「第三モッキリセンター」が印象に残っているのでしょう。申し訳ないのですが名前を拝借いたしました。

ちなみに,「のれんを作る」というアイディアは,第4回の演習に来ていただいた上平崇仁先生からいただいたものです。この場を借りて御礼申し上げます。

居酒屋の真髄通信第13号

ジンギスカン(羊肉)とワイン―「北海道の居酒屋の真髄を探る」第12回

「北海道の食と酒」シリーズ最終回のテーマは,ジンギスカンとワインでした。

今回の演習実施に際しては,北海道ワイン教育研究センターに大変お世話になりました。センター長の曾根先生に厚く御礼申し上げます。

居酒屋の真髄通信第12号

牡蠣とウイスキー―「北海道の居酒屋の真髄を探る」第11回

受講生と共に北海道の食と酒を探る第4回目。

今回のテーマは「牡蠣とウイスキー」です。道東の自然を背景にして人々が作り出した味覚について考えます。

居酒屋の真髄通信第11号

ラーメンサラダと甲類焼酎―「北海道の居酒屋の真髄を探る」第10回

受講生と共に北海道の食と酒を探る3回目。今回のテーマは,ラーメンサラダと甲類焼酎です。その背後にある大きなテーマは「バブル」と「安さ」です。

居酒屋の真髄通信第10号

ニシンと日本酒―「北海道の居酒屋の真髄を探る」第8回

「北海道の居酒屋の真髄を探る」。今回から5週にわたって,北海道の居酒屋において過去から現在までの時代時代を彩ってきた料理と酒について取り上げます。

教員がレクチャーするのではなく,受講生に調べてきてもらい,プレゼンをしてもらうこととしました。

その初回となる今週のテーマは,ニシンと日本酒です。

居酒屋の真髄通信第8号