幼稚園に行き始めました

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先週,娘が幼稚園に入園しました。

3歳になったばかりの,まだまだ赤ん坊の雰囲気の残る子どもですが,制服を着て集団の中に入ると,それなりにいっちょまえに見えてくるので不思議です。

上の息子の時は保育所だったのでセレモニー的なものはなかったのです。今回初めて,年少児の入園式なるものを経験しました。

泣き叫ぶ子,お母さんから離れない子,イスをもってうろうろする子,後ろに座った子とケンカを始める子,いろんな子がいます。ご多分に漏れず我が子もイスから離れてうろうろし,最後は先生の膝の上で壇上の先生の話を聞いていましたが。

明けて今週から園バスに乗って幼稚園に通い始めました。当分は慣らし保育なので午前中で帰ってくるようです。

本日月曜は初日で,泣いて帰ってくるか,「もう行きたくない」とごねるかと,不安ではありましたが,本人はいたって楽しかったとのこと。

まあ,これからですね。園の先生にはいろいろお世話になります。

七五三に際して

娘の名前は「みのり」という。「穂」と書いて「みのり」だ。

いろいろ考えた。

最初は,「ちいほ」か「ちほ」にしたいと思っていた。字は「智穂」。

由来は,古事記だ。黄泉の国に落ちたイザナミが,醜く変わり果てた姿を見られたイザナギに対して放った呪いの言葉がこうである。

汝國之人草。一日絞殺千頭。

おまえの国の人を一日千人殺すぞ。

それに対してイザナギは。

爾伊邪那岐命詔。愛我那迩妹命。汝爲然者。吾一日立千五百産屋。

ようし分かった,一日に千五百の産屋を立てるぞ。

千五百と書いて,「ちいほ」とか「ちいお」とか読む。

多産こそが,人がやすやすと死んでいくこの貧しい国土に生きる私たちの対抗策なのである。そういう土地に生きているということだ。

稲穂のみのりにもまた,多産の意味がある。

具体的な個々の女性に対して勝手に多産の幻想を抱くことは意味がない。ここで想定しているのは,多産の象徴としての女性性である。

イデオロギーをふりまわす人には,土地がない。もちろん,誰も住んでいない離れ小島に執着する人もまた,イデオロギーの固まりだ。イデオロギーなんて,まっぴらだ。

宮崎駿は,イデオロギーの人だ。あの人は,「飯なんてガソリンと同じなんだから,とにかくつめこめばいい」と言う。そうだけど,そうじゃない。

地べたに這い蹲って,毒やら放射能やらをいっぱいに受けながら,それでも生まれた土地で死んでいく,そういう人間が強烈に悲しく,また,いとおしくもある。宮崎駿がナウシカの7巻で描いたのはそういう世界観だった。イデオロギーの人がそこまでに至るのは相当であったろうと思う。

わんわ

娘は1歳半を過ぎました。

初語とは言えないまでも,意味のありそうな音は「まま」「ぱぱ」など発していました。4月くらいから「わんわ」も出てきていましたが,最近はもうはっきりと動物のようなものに反応して「わんわ」と言っています。

様子を見ていると,何か対象を指し示すとか,言及するとか,要求するとか,そういった機能の側面からこの時期の言語を分析するのはあまり意味がないなあという感じがします。

それよりもむしろ,目に映る何かに対する全身的な反応の一部として「わんわ」という音が口から漏れ出た,という出来事として,私の目には映ります。思うに,「子ども-対象」の姿に機能的な関係性を読み込んでしまうのは,この二者を観察する私の目の方なのではないでしょうか。

タンスの3段目

早いもので娘ももう1歳を過ぎました。歩くのもだいぶ上手になり,家の中をポテポテとうろつき回っています。

動くのがうまくなるということは,こちらの目が離せないということでもあります。視界から消えてしばらく静かにしているなと油断していると,たいていはろくでもないことを夢中になってやっています。

部屋に置かれたタンスから服を引っ張り出すのも日常茶飯事。せっかくたたまれてしまわれていたのに,全部外に出してしまいます。それで,出した服の山に埋もれてみたり,ズボンを首に巻き付けてみたり,「洗濯物をたたむマネ」をしてみたり。集中して遊んでいるので怒ることもできず,こちらとしてはため息をつきながらもニコニコと眺めています。

しかしながらその様子をよく見ていますとあることに気づきます。部屋のタンスは5段あるのですが,なかでもよく狙われるのは「3段目」のようです。もちろん背の届かない,上から1~2段目はそもそも開けられないのですが,もっと楽に中身を見渡せる,下から1~2段目はあまり開けようとしません。

なぜ3段目なのでしょう。

上の映像を見てみますと,なんとなく理由が分かりそうです。

彼女は引き出しの中をあさるのに「つま先立ち」していますね。つま先立ちをして手の届く範囲(3段目)とは,彼女にとって無理せずに手の届く範囲(下から1~2段目)と,無理をしても絶対手の届かない範囲(上から1~2段目)の,ちょうどあいだにあります。これが決め手になっているように思われます。

彼女が3段目を狙う理由,それは,そこがちょうど「今」の彼女にとって「おもしろい」範囲だから,だと考えられないでしょうか。

ちょっと頑張れば手が届く,ちょっと頑張ればのぞくことができる。この「ちょっと頑張れば」が知覚でき,かつ,実行に移すことができるとき,そのときどきの「おもしろさ」が沸いてくるのでしょう。逆に言えば,簡単に手が届く範囲にある下から1~2段目をあさることは,今の彼女にとっては「おもしろくない」のです。

注意したいのは,あらかじめ「おもしろさ」を感じることが分かっていて引き出しを開けようとし始めるわけではないだろう,ということです。要するに,「おもしろさ」の知覚→引き出し開け行動,という順序で発生しているわけではないだろう,ということです。おそらくは,つま先立ちをして手をのばしたところ,見えるか見えないかというギリギリの目の高さに服が詰め込まれているのを発見し,それをポイポイと外に出しはじめたらおもしろかった,という順番だと思われます。要するに,引き出し開け→「おもしろさ」の知覚という順序で発生したと考えられます。

このように,つま先立ちをして手が届く範囲におもしろさを感じるとともに,それがその後に続く学びを主導していくという考え方は,私のオリジナルではありません。フレッド・ニューマンとロイス・ホルツマンという,アメリカの哲学者・心理学者が,学びとは何なのかを考える上で,「頭一個分背伸びをすること」がもつ,学びにとっての本質的な意義について議論しています。その議論の背後には,ロシアの心理学者ヴィゴツキーの発達学習理論が横たわっています。

心理学をちょっと勉強した方ならば,もしかすると「最近接発達領域」の話かなと思われるでしょうが,その通りです。ただし,私がニューマンとホルツマンの議論に同調するのは,2人は学習者が感じる情動的な側面,ここで言うところの「おもしろさ」が,学びの成立に欠かせないと看破しているところです。娘の話に戻れば,彼女はほんとうに夢中になって服を取り出しています。この行動の背後には情動的な衝動があるように見えるのです。

学びというと私たちはつい,何かを意識的に記憶したり,自分自身を自己反省的にふりかえったりといった認知的な側面ばかりを重視してしまいがちです。しかし,その発生時点までさかのぼると,むしろ情動が大きな役割を果たしているでしょうし,そう考えると情動と認知を区別することはできないだろうというのが,ニューマンとホルツマンの考え方です。

この考え方を,例えば学校教育に敷衍するならば,教師は子供の学びをどのように導けばよいのかという問いと結びつくように思います。子供の学びを発生させる初発の情動的な衝動を起こすことがうまくできているでしょうか。「なんだろう?」という好奇心もそうでしょうし,「え?ほんと?」といった驚きもあるでしょう。そうした情動を起こすような問いであるとか素材を子供に提示できるといいんじゃないかな,と思います。

子供の学びを引き起こすもの,それは,1歳児にとっての「タンスの3段目」のような対象の存在だと言えるでしょう。

もうすぐ歩けるか

北海道の短い夏が過ぎて後期が始まりました。

1月に生まれた娘もはや8ヶ月となり,非常にアクティブになってきました。

寝返りを始めたなあと思ったらすぐに匍匐前進に移り,そうこうしている間にハイハイで家中を探検するように。最近ではつかまり立ちがお気に召したようで,ちょうどいい高さに手がかりがあるとそこに寄りかかって「うお」「うふー」と興奮しています。

しかし,すぐにズデンと転び,頭を打ってびえーと泣くのですが。

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お宮参り

娘のことをぜんぜん書いてませんでした。

おかげさまで順調に育っていまして,2ヶ月で体重が倍になりました。

雪もだいぶ融けてきましたので神様にご報告をとお宮参りに北海道神宮に行ってきました。

写真スタジオで着物を借りて,神宮へ。ちょうど入学式直前の日曜でしたので,ランドセルを背負った新1年生を連れた家族がたくさん来ていました。

お祓いはしてもらわずに,お詣りだけ。つつがなく完了しました。

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ふたりめ

1月20日,二人目の子どもができました。

女の子,3682g。でかいです。

2013年度一発目のブログ記事は娘誕生の話にしようと思ってずっと待っていましたが,なかなか出てこず,予定日になっても生まれず。

しばらく過ぎてようやっと顔を見せてくれました。まあなんというか,二人目は親の方も一人目と違って落ち着いていて動じないと言いますが,孫を見るような目で見られますね。本当にかわいい。これから健やかに育って欲しいなあと素朴に思うのであります。

twitter,facebookでご報告したところ,多くの方からお祝いのお言葉をたまわりました。感謝申し上げます。

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↑きょうだい初のご対面の図