遠さ

 昨夜、祖父が他界した。

 ゼミの飲み会に出ていたところ、妻からメールがあって知った。

 明治の最後の年の生まれだから、96になる。ここ数年は老人ホームで過ごしていた。

 最後に会ったのは、今年の正月だった。しばらく見ないうちに頬がすっかりこけていた。

 仕事もあり、アマネも本調子ではなく、なにしろ遠い。通夜も葬式も出られない。

 暖かくなってから3人で線香をあげに行く。

ロタで入院、だがそのとき父親は…

 アマネが入院することに。

 ロタウイルスに感染したらしく、食べたものも飲んだものもすぐに吐いて受け付けない状態が一昨日から、と同時に色の薄いロタ特有の下痢が一日に何度も。

 一時は小児科で点滴をうってもらって持ち直したものの、今朝になってもう一度その小児科で診察してもらったところ、脱水症状がひどくなったので入院してきちんと体力を養いましょうという話になった。

 妻が大急ぎで入院の準備をし、ぼくとアマネは小児科から紹介された病院へ先回り。「ママどこー」と泣き通しであった。不安なのだろうな。

 妻にアマネを託し、ぼくは今函館にいる。明日、学部生を連れてはこだて未来大学を見学するためである。こればっかりはぼくがいないとどうもならないので。

 ほんと、タイミング悪いよ。

 函館に着いて電話をしたら、「絵本とおもちゃを買ってきて」。ロタ持ちなので、病院の共有のおもちゃは貸し出せないからだそうで。そらそうだな。

 とにかく明日は、見学が終わったらすぐに汽車を早めて札幌に戻る。

愛情の欠乏

 アマネが再び微熱を出して鼻風邪をひいた。ずびずび鼻をならしながら寝ていたからかどうなのか分からないが、
昨夜は睡眠の波の周期にそって、何度もびええと夜泣きをした。泣くたびにつきあって起こされていたら、気がつくと夜が明けていた。
6時半にようやくぐっすりと眠りにつくことができた。

 そんななので、本日の非常勤最終講義はもうへろへろ。足ががくがくし、のどは痛くなる。とうとうイスに座って講義をした。
たまには楽をさせていただこう。

 講義が終わるとテストの心配をしに来る学生がちらほら。

「出題はどんな形式なんですかあ」

 チミたち、たまには講義内容について質問にきたまえよ。

 この非常勤、来年も受けることにした。半期半期で1コマずつである。

 思えば、ぼくにとって「心理学」についての概説をしなければならないという必然性は、
この講義の講師を務めることによってもたらされた。
正直なところ心理学については何も知らなかったということを知ることができたのが一番の収穫であった。

 しかし別の思いももたげてきた。果たしてぼくは心理学という学問が好きなのだろうか。
どうもぼくは心理学を愛していないのではないかという疑いが年々増してきているように思う。

 愛しているのならもう少し情熱的に語ることがあってもよさそうなものだが、自分で反省するだにぼくの語り口は冷たい。
「~ってなことが言われてるみたいっすよお」と、教科書に毛の生えたくらいの情報を聞き伝えのように話す程度なのである。授業評価に
「熱心な先生です」と書かれれば嬉しい反面、そんなに熱心でもないけどなあと恐縮する。

 心理学の概論を半期でも通年でも語るネタを確かにぼくはもっている。それは必要に迫られてのことだが、貴重な財産になった。しかし
「心理学なるもの」に対してはあまり関心がない。そんなものあるのか?とも思うし。今日、たまたまナラティヴ・
セラピーについて話をしたからますますそう思うのだろうかね。

 最近では、むしろ教育学におもしろさを見いだすようになってきた。これは多分に、
同僚の先生方のされていることを見たり聞いたり話したりしていることに由来するだろう。
コミュニティにおけるアイデンティティの変化にともなって、有意味と見なす学習内容そのものが変化している。まさにLPPだ!

UKさんと飲む

 ちょっと前のこと。東京よりUKさんがいらっしゃるとのことで、飲みましょうという話になった。

 UKさんとは大学院時代にいろいろと研究会などでお世話になった。大阪の大学院で日本語教育の勉強をされた後、あちらこちらに行かれ、今は経産省関連の団体にお勤めを始められたそうである。今回は、とある用事で札幌と北見を視察されていくとのこと。

 さて、どこにお連れしようか。

 メールには、時計台そばで5時まで仕事です、とあった。時計台のそばで知っている美味しい店は「こなから」くらいしかない。5時半から予約した。

 スーツ姿のUKさんと待ち合わせ。

「こんな格好でねえ」

 お互い、院生時代の姿しか記憶にないので、苦笑しながら歩いた。

 ビルの細い階段を上った2階に店がある。引き戸を開けると、どうも我々が口開けのようだ。「こなから」は3度目。以前食べた亀の手が忘れられない。

「さて、なんにしましょうかねえ」

 メニューからUKさんに選んでいただく。鮭児のハラス、それに鰯を刺身で。コマイの卵の醤油漬けなんてのもいきましょう。北海道らしいし。

 ジョッキを打ち合わせ、ぐいぐいと飲み干しながらお互い近況報告。なるほどそんなお仕事をされているのですか。お、空きましたね。では酒にしましょう、これとこれね。つまみはと、酒盗クリームチーズとタチぽんをお願い。

「相棒が今、今日の仕事先のみなさんと飲んでいるんですが、いっしょにどうですか」

 飲みながら、UKさんからお誘いを受ける。おもしろそうなので、一も二もなく賛同。ごちそうさまでした。

 そんなわけで二次会は、札幌駅西口高架そばのJR55ビル内にある「Suntory’s Garden 昊」。すでに盛り上がっていたところ、UKさんといっしょに紛れ込む。

「北大の伊藤と申します」
「はじめまして、○○の○○と申します」
「どうぞよろしく」
「こちらこそ」

 名刺のやりとりのあと、ようやく落ち着いてビールを乾杯。

「教育学部でしたら○○さんはご存じですか」
「はいはい」
「実は○○さんにはこれこれでお世話になって」
「ええ、そうなんですか?」
「よろしくお伝えください」
「いやあ世界は狭いですなあ」

 大学にいると見えない世界が厳然とそこにある。商売をされる方のフットワークの軽さ、行動力、先を見通す目、覚悟。北海道という不況のただ中からなかなか抜け切れない地で商売をするということ。

 お開きになった後、UKさんと落ち着いて飲み直しましょうということですすきのまでてくてくと歩く。大通公園には雪像を造るための枠組みができていた。

 ふところもいよいよ心許なく、こういうときは最近通わせてもらっている「金富士」である。とにかく安い。キャバクラの入ったビルの入り口を開けて地下に潜ると紺地に白字の暖簾が待っている。

 相も変わらず盛況の様子だが、カウンターがすいていた。並んで座る。ここに来たら酒は男山しかない。UKさんは冷や(常温のことである)、私はお燗してもらう。

 妙な具合に盛り上がり、深夜1時まで話し込んだ。

「研究会をやりたいですね」
「やりましょう」
「やっぱりこういう仕事してると勉強する時間が」
「そうそう」
「読みたいのがあるんですよ」
「なんでしょう」
「最近はハーバマスですね」
「いいですね、やりましょう。いやいや、ぜひやりましょう。決めましたからね」
「温泉につかりながら」
「いいですなあ」
「実は2月頭が空いているんです」
「手帳に書いちゃいましたよ」
「絶対ですよ、やりますからね」

 堅く手を握りあい、次の日北見に行くというUKさんと別れた。それぞれお銚子2本ずつ飲み、焼き物もひととおり頼んで、勘定は二人で二千円ちょっと。やはり安い。

 1日たって、酔いの覚めたUKさんから、6月か7月にしませんかとメールが。私もそれがいいと思います。

 というわけで、今年の夏は北海道でハーバマス『コミュニケイション的行為の理論』を読むことにしました。興味のある方はぜひご参加ください。

通夜の祈り

 北大留学生センターの関道子先生がご逝去された。60歳のお誕生日を迎えられてすぐの12日のことだったという。

 学内の組織改編の関係で関先生との接点が生まれたのは4年前のことだった。教員親睦会の幹事をしていたので、
職場の飲み会のときにスピーチをお願いした。とても楽しいお話をしてくださったように記憶している。

 先生は北大が留学生センターを設置した当初からのスタッフだったが、
その前は教育学部附属乳幼児発達臨床センターで長らく事務や研究にあたってこられた。
北大幼児園黎明期は先生のご尽力により支えられたと聞く。幼児園をご存じの方は思い出されると思うが、
園庭の隅にある築山は先生が苦労されて造られたものだし、夏や秋になると実を結ぶ栗やあんず、
胡桃といった木々は先生が植えられたものである。「食べられるものばかり植えたの」とお話しされたと、
どなたかからうかがったように記憶する。あるいはご本人からだったかもしれない。

 12歳で受洗された敬虔なクリスチャンだった関先生にお別れをする通夜の祈りが今夜、札幌キリスト教会でとりおこなわれた。
晩年は留学生支援に力を注がれた先生らしく、たくさんの留学生の姿が見られた。すすり泣く声があちこちで響く。

 賛美歌を歌い、祈りの言葉を捧げ、花を祭壇にたむけた。壇上の先生の写真は、いつもの笑顔だった。

 ご冥福をお祈りいたします。

 伊藤 崇

届かないところへ

 正月休みが明けてまもなく学部の卒論発表会があった。ぼくが指導を担当した2名も、何とかクリアした。お疲れ様である。

 本番二日前に行った発表練習では、パワーポイントの使い方など徹底的にダメ出ししておいた。翌日行った2度目の練習でもまだ流れが悪い。結局、当日の午前中に最終的な確認をしてそのまま本番に突入した。

 かれらが発表終了後の質疑応答で教員からやいやいつっこまれている現場に立ち会っていると、妙な冷や汗をかいた。たまに、修論発表会では見かけたことがあるのだが、質問に指導教員自身が答えるということがある。そんなことをしてはいけない。してはいけないと知りつつも、つい答えてしまう指導教員の気持ちが痛いほど分かった。そうするのが楽なのである。指導する教員にとってもこれは試練である。

 一度登壇してしまえば、もうそこはかれらの舞台である。そこに手を出すことは許されない。かれらは手が届かないところにいるのである。教員は舞台までの道を伴走するだけだ。

 教えるという作業は、将来教えなくても済むようにすることである。教える側の手の届かないところに行ってしまった後で、教わった者がなんとか生き延びられるようにすることである。そんなふうに、職業上の関係が切れた後のことまで人の身を案じるというのは、教員という職務に含まれた因業であろう。

 指導した2名のうち、1名は院生としてまだ残るが、もう1名は学校に非常勤で採用されたようだ。手の届かないところに行くわけだが、4月までの短い間、何かできることはあるだろうか。

卒論発表会終了

 3日間開かれていた卒論発表会が本日で終了。指導した卒論生の出番があったので、のこのこと出て行く。

 4人の発表には、案の定、情け容赦ないコメントがびしびしとつっこまれていた。そこでうろたえる人とそうでない人に分かれるわけだが、それまで打たれ弱そうに見えた人がコメントにすらすらと返答している姿を見ると、成長の片鱗を覗いた気がして嬉しいものである。

 それにしても今年は、特に研究の根幹にかかわる部分につっこみがあったように思う。これについてはひとえにぼくの指導力不足と言うしかない。

 言い訳であるが、今年は特に時間がなかったということがあり、学生のやりたいことを研究の文脈に乗せてあげることがうまくできなかったのである。

 来年に向けて反省。

謹賀新年

 新年あけましておめでとうございます。  ただいま実家に来ています。ここ、茨城は穏やかな晴天です。北海道や日本海側では雪で荒れているようで、大変そうです。帰ったら車を掘り出さねば。

 紅白も何も見ずに、持ってきた仕事にひたすらかかっておりますよ。と言っても、アマネと遊ばねばならないし。本日はこれから妹夫婦と子どもたち2人がやってくるので、そちらとも遊ばねば。

 それではみなさま、今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 伊藤 崇