落ち込みに行く

 日曜、月曜と、名古屋にて研究会。大学院の頃からの仲間内で出す本の編集会議である。

 自分の担当した章が締め切りに間に合わず、シノプシスだけ提出しての参加であったため、まことにばつが悪い。無能さをひけらかしに行くようなものである。どんなに画期的なアイディアがあったとしても、期限に間に合わなければただのゴミくずである。卒論や修論を書く学生にふだんそう言っているだけに、落ち込み度+3。

 書いたものの受けもあまり芳しくない。落ち込み度+2。

 せめてまっとうな文章を書いて、締め切りに遅れず、迷惑をかけないようにしよう。

 行き帰りの移動で、高木先生の「証言の心理学」を読了。

証言の心理学―記憶を信じる、記憶を疑う (中公新書)
高木 光太郎
中央公論新社
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 書かれた言葉から一貫した人格を復元するという作業が、先生たちが最後にたどりついたスキーマ・アプローチだという理解でよいだろうか。そうだとするなら、それは俳優が台本から登場人物の内的な一貫性を探るというスタニスラフスキー・システムに似ている。ヴィゴツキーが「思考と言語」第7章で触れている、あらゆる言葉に映し出された意識とは実はそのことではないか。

 あとがきを読み、高木先生にも書けなくなることがあるんだとなんだか安心した。落ち込み度少し回復。

なんとか

 アマネの誕生日を祝ってからだいぶ間が空いてしまいましたが、その間何をしていたかというと、仲間内で出す本の原稿を必死こいて書いていたのです。

 分担する分量としてはそれほど多くなかったのです。ただ、担当した章に書く内容が、自分にとっては思い入れの強い対象だっただけに、何をどう書こうかと最後までねちこく悩んでいたら、締め切りが過ぎてしまいました。編集担当のお姉様から、最終締め切りは25日朝6時というお達しをいただき、ようやくたったいまなんとか筋だけはつけてメールで送りました。肩の荷が5トンくらい落ちました。

 日曜から名古屋へ飛んで、そこで編集会議です。暑いんだろうなあ。

 それにしても、8月はずっとこの本のことが頭にあって、ちょっとしんどかったです。卒論のときもこんな感じだったなあと思い出しました。

 でもいいこともありました。「ヴィゴツキー『思考と言語』は○○○である」という仮説を思いついたのです。○○の中はひみつです。近日、このブログでそのネタを公開します。

 そうそう、9月なかばまでにY草先生にラウンドテーブルの原稿を送らなければ。やることはたくさんあるのう。一難去ってまた一難じゃ。

一年前のあの日

 妻は、ずいぶん暑かったと言っているが、ぼくはよく覚えていない。ただ、病院の中でコトがどのように進んでいたのかはおぼろげに覚えている。

 前日から陣痛室に泊まり込み妻の背中をぐいぐい押していた。陣痛の間隔が空いてしまったため、促進剤を点滴で入れた。だいぶいい感じになってきた午後2時頃、分娩室に入った。それから1時間くらい台のまわりをうろうろと歩き回り、助産師さんの手際を妻の肩越しに食い入るように見ていた。

 そうしてアマネが生まれたのだった。

 1年たち、あの日のふにゃふにゃした人は、しっかりと自分の二本の足で地面を踏めるようになった。ご飯もぱくぱく食べるし(今日の夕食など用意したものでは足りなかった!)自分で今したいことを要求できるようになった。

 近い将来、さらに1年たって今日のことを振り返ったときによく思い出せるように、ぼくたちはふだんとはちょっと違うことをした。世間では、それを誕生日のお祝いという。

 ところで、アリスのハンプティ・ダンプティは、ベルトではなくネクタイを、 誕生日の贈り物として白の王と女王からもらったのだった。困ったアリスはこう言う。

`I mean, what is an un-birthday present?'
`A present given when it isn't your birthday, of course.'
Alice considered a little. `I like birthday presents best,' she said at last.

 ぼくもアリスに同情します。364日の非誕生日よりも、たった1日の誕生日の方がプレシャスだよね。

 誕生日写真集

mochi and cloth.JPG 実家からもちと服をもらいました。

mochi1.JPG もちをリュックに詰めて。

mochi2.JPG おもちを背負います。これが1歳の誕生日にやる儀式です。

cake.JPG 誕生日にはもちろんケーキ。卵アレルギーなので食べられないのですが。

present.JPG 妻の実家からいただいた図書カードで買った絵本をプレゼント。

sunset.JPG 一日の終わりには、きれいな夕日が見られました。

First bomb.JPG おまけ

第1回ハガ研

 昨日は恵庭市で実施されているブックスタートの見学に行ってきました。これについては、後期に学生とともにまた見学に来ようと考えているので、そのときに詳細を書きます。

 さて本日は発達と学習研究会(愛称ハガ研)でした。シリーズ化しようと考えているのですが、どうなることやら。

 読む本は、Barton&Tusting (2005) Beyond communities of practice。大きく社会言語学にくくられる研究者たちが、Lave & Wenger (1991)やWenger(1998)を下敷きにしつつ、言語学の知見で拡充しようという試み。室蘭ご出身のMさんが北海道に遊びにいらっしゃるとのことで、それにあわせて企画したのですが、勢いがついてよかったかもしれません。

 Mさんがお昼頃到着され、研究室で近況を報告。その後札幌については何でも知っているKくんご推奨の食堂「ねこや」でランチ。グルメのMさん、いたく気に入られたご様子でなにより。

 クーラーの効いた部屋へ移動してぼちぼち読書会を開始。

 1章は不肖私の報告。 WengerのCoP論とアクターネットワーク理論や活動理論など社会を分析する他の理論との接合について論じられる。そのためにもっと物象化reification概念に注目せよという感じ。本書の導入ということもあり、社会的実践として、言語あるいはリテラシー実践を見るという視座が宣言される。

 2章は、Hくんの報告。Wengerの報告するような職場の言語実践には、社会的構造を反映した言語形式が反映されている、と同時に、その使用が社会的構造を再構築していくという感じの話。したがって、ミクロな言語的相互行為から社会的構造の変革が起こりうる。言語実践のもつそうした性質は”nursery of change”と呼ばれる。変化の揺籃ということか。

 3章は、Kくんの報告。ぐっと具体的になって、ロンドンの多民族を要する高校の話。学校での日常生活で差別を受けたと感じたクルド人移民の子弟の一部が、ある日の朝、学校の門の前で「差別する教師がいる、わたしたちは平等に扱ってもらいたい、よりよい教育を受けたいだけだ」という大意のビラを配り授業をボイコットする。それに対してその日の昼に、カリブ系の黒人生徒から「私たちは教員からすでに平等に扱われている、だからぎゃあぎゃあ騒ぐのは学校全体を貶める子どものような行為だ」という大意のビラがまかれる。学校側、特に校長先生は、後者のビラに同調する。
 社会言語学的な観点からすると、言語を共有する共同体(スピーチコミュニティ)としては、クルド人も黒人も同じ共同体に属していた。他方で、実践共同体論からすると、黒人や教員は学校において支配的な言説に参加しており、クルド人それに参加できずにいた。ここに、 CoP論とスピーチコミュニティ論との相互補完をするような理論の必要性があるのだとされる。

 本日はここまで。またもやKくんご推奨のお店、大学正門前の「駿」にて飲み会。Mさんのおしゃべりと食い気を見て気分が良くなり、ふだんよりもお酒をかぱかぱとあけてしまいました。

 遠いところからおいでいただきましたMさん、あとレポーターのお二方、おつかれさま+ありがとうございました。第2回はあるのか?

暑い親バカ

 暑いです。こういうときはクーラーのない部屋をうらみます。

 アマネはただでさえ体温が高い上に動き回るので汗をかきまくっています。今日お風呂に入れているとき、おむつの腰回りのところにあせもができてました。

 ちょっとでも涼しくなるように、以前実家からもらっていた甚平を着せてあげました。

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 ただ、ゴワゴワするからか、着せたとたん泣きじゃくります。しかたないので脱がせてやりました。

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 今週末には1歳になります。バースデーケーキと記念写真の予約は済ませました。

 こうして書いてみると、単なる親バカですね。

あせあせ

 全国的に暑いそうですが、札幌もこのところはなかなかのものです。それでも朝晩は涼風が網戸を通り抜けてゆくので気持ちがいい。なので最近は、日中はアマネと遊び、お仕事は早朝やっております。

 今週はちょいとハード。

 10月に開かれるLD学会に呼ばれてしゃべることになった。読み書き障害のシンポジウムで、音韻分解関係の話をすることに。ただいま継続中の共同研究の理論的枠組みをお話しすることにした。抄録に載せる原稿を書かねばならない。なんと天野先生もいらっしゃるとのこと。ひええ。

 9日に研究会を開く。『実践共同体を越えて』と題された本を読む。そのレジュメを作らねば。この本、 Lave&Wengerの議論を主として社会言語学者が発展させるというものだが、ひとつの方向としてはあるように思う。要は、 reificationのしくみを、言語を対象として明らかにするということだ。

 8日には、恵庭市で実施されているブックスタートの見学に行く。研究協力のお願いも兼ねているので、そのための準備を月曜にせにゃならぬ。

 一番でかいのは、再来週締め切りの理論本の原稿。あせりつつ、ただいま本を読みながらちょこちょこ書いている。いまから罰ゲームに備えて腹筋でも鍛えようかな。袋叩きにあいそう。

感想よ、お前もか

 非常勤のレポートを採点中。

 2つの課題を出して、どちらか1つを選択せよとした。1つは、教育実践に心理学の概念がどう使われているのかを調べること。もう1つは、斎藤環『心理学化する社会』を読んで要約を作り、感想を述べること。

 後者の方は我ながら意地が悪いと思う。さんざんカウンセリングだの脳だのといった話しを講義中にしておいてから読ませるのだから。「けっきょく心理学ってなんなの?」と、ちょっとでも混乱してくれたらそれでいいと思った。

 で、何人か読んだ感想を書いてきたのだが、読んでいてどうも違和感をもつものがあった。学生のレポートを読んだことがある人なら誰でも抱く(だろう)あの感じ。どうも、異質な文体が複数混在しているようなのだ。

 ふと思い立ち、件の本のタイトルでネットを検索。

 あ、見つけた。レポートと同じ文章がネット書評に。

 この野郎。感想までパクるんじゃねえよ。いやあ、要約部分くらいはネットからパクる人がいるかもなと思っていたが、感想もとは。いいよ、まねしても。読んだってわかんねえのかもしんねえから。ただ、きちんと定められた形式で引用をしろよ。

 …と文句を吐きながら、もしかすると学生は、引用のしかたを習っていない、あるいは忘れたのではないかと思い直した。

 決めた。レポートを課題にするときは、1時間使って、引用のしかたを徹底的に教える。それに則っていないものは剽窃として問答無用で落とす。もー決めた。レポートの書き方は1年生の時に習ったはずでしょう、などと言うのは時間のムダだ。他の教員が教え損なったものを教え直すのは、同僚としての義務かもしれない。教育に分業制はあわないのだ。と自分に言い聞かせる。はあ。

 それにしても、文体の違いって一発でわかるよなあ。「~節」ってのもあるし。このことを講義で話そうかな。故波多野完治先生がやっていた文体研究を引き継いでいる人って、いないのかね。

31歳の時に

 31歳になりました。団塊ジュニア、貧乏くじ世代などと呼ばれる私たちではありますが、元気に1年暮らしていく所存であります。

 ところで世界の偉いひとたちは、31歳の時に何をしてたんだろう?ふと疑問に思ってぐぐってみました。

 オーギュスト・ロダンの秘書になった31歳。これは、リルケ。
 横尾忠則らと天井桟敷を設立した31歳。これは、寺山修司。
 『ラストタンゴ・イン・パリ』を監督した31歳。これは、ベルナルド・ベルトリッチ。
 遣唐使として唐に入り留学僧となった31歳。これは、空海。

 …。

 がんばります。

集中講義

 31日から本日2日にかけて、大学院の集中講義に佐々木正人先生がいらっしゃいました。

 佐々木先生と言えばアフォーダンス。いろいろと日頃より募る疑問もあったのですが、仕事柄裏方に徹することが多く、ろくすっぽお話しせぬまま終わってしまった感じです。

 今回の講義は、最新の著作『ダーウィン的方法』および『動く赤ちゃん事典』の紹介を中心に進められました。

 ダーウィン的方法とは、理解できた範囲で端的に申し上げれば、行為によってなぞられる輪郭をもって環境を描くための方法です。

 たとえば階段とは常識的には上階に移動するための通路ですが、そのほかにもいろいろと使い道があります。座ることもできるし、ひな飾りのように物を並べて飾ることもできます。このように、ふだん私たちが簡単に「階段」と言って済ませる環境が、行為によって多様な仕方で利用されていることが分かります。この仕方をできるかぎり列挙することが、とりあえず現時点で佐々木先生の取っている生態心理学へのアプローチであり、それをダーウィン的方法と呼んでいる、と理解しました。

 『動く赤ちゃん事典』の紹介もありましたが、なかにこんな映像がありました。

 10か月の男児が、いっしょうけんめい冷蔵庫の脇にある棚の引き出しから、調味料やら小麦粉の袋やらを取り出している。「何をしているんだろう?」と見ていると、中の物を取り出すのをやめて、やおら立ち上がり、引き出しの縁に手をついて片足をあげようとしている。どうも、引き出しの中から物が出されて空いたスペースに、自分の体を入れようとしているらしい。

 こんなことは、小さな子どもを見ているとよくあるわけです。そのたびに、「なんでこんなことをするんだろう?」と不思議に思います。はたまた、「なんでこんなこともできないんだろう?」と考えることもあります。たとえば、おとなしくごはんを食べるとか。

 しかし、佐々木先生のアプローチからするなら、小さな子どもの行動からわたしたちが感じることとは、「人間って、こういう環境に出会ったとき、こんなこともできるんだ」という驚きなのだと言えます。

 佐々木先生がおっしゃっておられましたが、環境とは「ある-ない」の世界ではなく、「ある」しかない世界です。「ない」のない世界なのですね。当たり前ですが、このことは人間の認知発達を考えるとき、絶望的なほどに重要です。

 人間の行為もそうで、「なんでできないんだろう」「なんでこんな(アホな)ことをするんだろう」と、ついつい陥りがちなこれらの思考スタイルは、言ってみれば、人間の行為に欠損を見ているわけですね。そうではなく、常に肯定形で行為を記述することが、私たちの住む世界によりそった方法と言える。肯定形ですから、人間のやってしまった行為群はいずれもすべて対等に記述されるべき価値を持つ。だから羅列的にどうしてもなってしまう。事典製作プロジェクトは、赤ちゃんの行為を「とにかくたくさん集める」というところから出発したのだそうです。

 おもしろい方法だと思います。特に共感を覚えたのは、否定形のない世界(これがギブソンの言うリアリズムの一面だと思います)に私たちが住んでいるというところ。そして言語心理学的に面白いのは、そうした世界に住みながら、言語的には否定形を用いているという事実です。