スカイツリー

 そういえば、先日の東京行きで、スカイツリーを見てきました。

 京成線の押上駅を地下から出るとすぐ目の前にそびえ立っていました。 

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 架線が見えることからわかるように、建設現場は東武線の線路のすぐそばです。なんでも、タワーの建設主体は東武なのだとか。

  押上駅近辺はただの住宅街でなんにも見るべきところはありません。ですが、最近は見物客も多くなったようで、確かにぼくが見た限りでも道行く人はほぼみなカメラでタワーを撮っていましたね。

 もうすでに東京タワーの高さは抜いたようで、早いところ全貌を見たいモノです。高所恐怖症のぼくはたぶん登ることはないでしょうが。

 PAP_0000.JPG (おまけ・浅草吾妻橋たもとから、アサヒビール本社ごしに見る)

言語科学会に行ってきた

 土日に調布の電気通信大学で開催されていた言語科学会に参加してきました。といっても発表してきたわけではなく、情報を収集してきたわけですが。

 言語科学会の初代会長が大津由紀雄先生だったことがあって、チョムスキアンのイメージがどうしても強く、なかなか足が向かずにおりましたが、自分の研究を対外的に発表する場を広げるためにどんなもんか確かめに来たのです(なんだか偉そうですが)。

 自分の関心に近い発表ばかり目に入ったせいなのかもしれませんが、言語獲得研究の中でもインプットの性質についてナチュラリスティックに調査した研究が目立ったように思います。

 たとえば複数の言語を話す子どもが家庭などでどのようにコードスイッチングしているのか、あるいは逆に、そのような家庭で親が子どもに対してどのように話しかけているのか。

 ナチュラリスティックな調査の宿命ではありますが、どうしても少ないケースしか相手にすることができない。で、そうしたデータをもってどのように説得力を持たせるかが鍵となります。このあたり自分も自戒を込めているわけですけれども、やはり理論が背景にある必要があります。

 もちろん言語獲得はものすごく複雑な現象ですから、理論化にはまだ早く、現状は博物学的に現象のリストアップをし続けなければならない段階なのかもしれません。

 このような状況を見るに、大津先生がかつて、インプットのナチュラリスティックな調査には理論がないと批判したことを思い出します。そして、言語学が科学であるためには理論が必要だと強調していました。

 かつての自分はそれに対しててやんでえと思っていましたが、最近ではそうかもねと納得するようになってきました。

授業のリズム

 いくつかの授業を見てきて思うことは、同じ単元であっても、先生によって授業の進め方はまるで違うということだ。

 特に、やりとりの進め方が異なる。具体的に言うと、顕著なのが、リズムだ。コミュニケーションのリズムに気を遣っているかどうかは先生によってだいぶ意識に差がある。

 リズムに気を遣う先生は、自身の話し方にメリハリをつけることはもちろんなのだが、それを子どもたちにも求める。というのも、いくら自分の話し方でリズムを整えようと思っても、受け答えをする相手がそれに乗ってこなければ、トータルとしてのリズムはいびつなものになるからである。

 餅つきにたとえれば、先生がテンポよく「こねどり」をすることによって、子どもたちの杵を上げ下げするテンポが先生のリズムに引き込まれていくような、そんな感じを目指しているように思えた。

 たとえばある先生は、発問に対する子どもの回答があまりにも長くなると、途中でも切ってしまうという。発言する内容が事前にまとまっていなければ、子どもたちは「あのー、それでー、だからー」と、だらだらとした話し方になってしまう。これでは、先生の発話のテンポがよかったとしても、コミュニケーション全体のリズムは整わない。そういうときには、「、(てん)」で終わるのではなく、「。(まる)」で終わりなさいと指導されるのだそうだ。当然、「短く言い切る」の言い換えである。

 発言を短く言い切ることができるようになれば、自ずと先生と子どもたちのやりとりのリズムは整然としてくる。それは、とりもなおさず、先生が自身の話すテンポに自覚的にならなければならないということでもある。

 いずれにせよ、コミュニケーションのリズムが教室全体で整っていくことにより、子どもたちの授業への集中の度合いは高まっていくように思われる。これはまだ観察者の直感的なものである。

 ただ、授業中の子どもたちのとある非言語的行動を時間軸に沿って見ていくと、コミュニケーションにリズムがあるなと感じた授業については、時系列グラフにそのリズムがはっきりと見て取れる。その点についてもう少し掘り下げていくと面白いのではないかと最近考えている。

プールと灯台

 つい1か月前に桜が咲いたと思ったら,もう真夏日である。札幌の春から夏への速度は尋常でない。今日などは予想最高気温が29℃だという。朝の5時からすでにカンカンと日が照っていた。

 なので北区のガトーキングダムのプールに入りに行く。オープンの10時に到着したが,家族連れが続々と集まっていた。

 温水プールなので,水がぬるまるのを待つまでもなく,もうすでに外のプールも一部オープンしている。風は少々涼しいが,なにしろ日差しが強いのですぐに肌が赤くなってくる。

 1時間半ほどふやけてから,隣のホテルでランチバイキング。食後,またプールに戻る。今度は同じ建物内にある天然温泉へ。

 午後まるまる時間が空いたので,せっかく北区まで来たのだからと,茨戸川を越えて石狩へ。実は石狩は初めてであった。

 石狩浜の海水浴場に行ってみると,水着姿の人がけっこうな人数砂浜を歩いている。海にも何人かつかっていたようだ。こちらはすでに温泉に浸かった身,海は遠慮させていただく。

 その代わり,隣接するはまなすの丘公園を散策。砂丘に赤と白の縞模様が目立つ灯台が建っているのだが,『喜びも悲しみも幾年月』の舞台となった灯台だそうだ。「♪おいらみさきの~」という歌は父親がよく歌っていたので小さい頃から耳になじんでいた。

 公園のビジターセンターにはロケ当時の佐田啓二や高峰秀子の写真が。若いときの佐田啓二って本当にいい男だよなあ。

SAP研

 Kさんと共謀して,SAP研なるものを立ち上げる。自分たちの仕事の進捗状況のランドマークとして,あるいは強制的な締め切り機能をもつものとして,定期的に研究発表を行うという会である。

 昨日はその第1回。院生さんやら職持ちの方やら,発表者含めて5人が集まってくれた。

 ぼくとKさんとで,それぞれ修正締め切りの迫る論文の中身を発表。

 ちなみにSAPとは,セキララ,アクチュアル,プラクティカルの略。セキララであるから,研究の裏話や審査者からのコメントもあけすけに開示。

 個人的にはこういう研究会を定期的に開くことが野望だったのでとても楽しかった。Kさんありがとうございました。

政治と言葉

 このところの政局の動きにあわせて,さまざまな立場の人が百家争鳴の様相をなしている。

 個人的な仕事の立場からすれば,そのときどきの行政の方針にただ従うのみである。窮屈かもしれないが,人生の喜びはそんな状態からも生まれうると信じているので気は楽だ。

 なので政治とはなるべく距離を保っていたいのだが,喧しく囀る百家にはときおり首をかしげ,ややもすれば一言申し上げたくなる。

 それは言葉の使い方である。正確には,カテゴリーの運用だ。

 日本国民とはすべて日本という国に籍を置くすべての人間を指す。当然である。

 にもかかわらず,ある種の人は,たとえば「組合ではなく国民の声に耳を傾けよ」と言う。またある人は「国民を守るために基地は必要であり,県民の負担やむなし」と言う。

 定義上,国民とは日本という国に籍を置くすべての人であるから,「組合の主張を聞く」ことと「国民の声に耳を傾ける」ことは矛盾しない。「国民を守る」のであれば県民という国民も同時に守らねばならない。

 おそらくは「組合およびその身内ではなく,国民のうち非組合員の声に耳を傾け」「県民以外の国民を守るために基地は必要であり」と言いたかったのであろう。

 誤解されないようにしてほしいが,私自身は上記の言明に単純に首肯するものでも拒否するものでもない。関わりようによっては,賛成にも反対にも回るだろう。

 現在の私の希望は,言葉を正確に使っていただきたいということにつきる。

 政治とは利害が対立する立場同士で「手打ち」をする儀式だ。あちらを立てればこちらが立たないのが当然であり,そこを三方損(損するもう一人は調停者)という形に落として「手打ち」するのが政治である。そういう見方からすれば,意見の相違は当然であり,前提である。

 政治家とはある立場にある人々の意見を代弁する存在である。だから,そういう人の物言いには,必然的に「私たち○○の立場からすれば」という枕詞がついているはずだ。

 にもかかわらず,その枕詞をあえて無視するかのように「国民の皆さんを守るために」「市民の感覚からすれば」「みんなの生活をよくするために」などと宣う。あまつさえ,党の名前にさえしてしまう。

 ことが政治家だけであればまだいいのかもしれないが,マスコミや評論家も同様の言葉づかいに余念がない。

 以上の百家にお願いしたいことは,日本という国に在籍する人間すべてを包括するカテゴリーは適切に運用して欲しいということである。聞いてて気持ちが悪い。