七五三に際して

娘の名前は「みのり」という。「穂」と書いて「みのり」だ。

いろいろ考えた。

最初は,「ちいほ」か「ちほ」にしたいと思っていた。字は「智穂」。

由来は,古事記だ。黄泉の国に落ちたイザナミが,醜く変わり果てた姿を見られたイザナギに対して放った呪いの言葉がこうである。

汝國之人草。一日絞殺千頭。

おまえの国の人を一日千人殺すぞ。

それに対してイザナギは。

爾伊邪那岐命詔。愛我那迩妹命。汝爲然者。吾一日立千五百産屋。

ようし分かった,一日に千五百の産屋を立てるぞ。

千五百と書いて,「ちいほ」とか「ちいお」とか読む。

多産こそが,人がやすやすと死んでいくこの貧しい国土に生きる私たちの対抗策なのである。そういう土地に生きているということだ。

稲穂のみのりにもまた,多産の意味がある。

具体的な個々の女性に対して勝手に多産の幻想を抱くことは意味がない。ここで想定しているのは,多産の象徴としての女性性である。

イデオロギーをふりまわす人には,土地がない。もちろん,誰も住んでいない離れ小島に執着する人もまた,イデオロギーの固まりだ。イデオロギーなんて,まっぴらだ。

宮崎駿は,イデオロギーの人だ。あの人は,「飯なんてガソリンと同じなんだから,とにかくつめこめばいい」と言う。そうだけど,そうじゃない。

地べたに這い蹲って,毒やら放射能やらをいっぱいに受けながら,それでも生まれた土地で死んでいく,そういう人間が強烈に悲しく,また,いとおしくもある。宮崎駿がナウシカの7巻で描いたのはそういう世界観だった。イデオロギーの人がそこまでに至るのは相当であったろうと思う。