音楽の社会心理学

 イギリスはローハンプトン大学のデイヴィッド・ハーグリーヴス教授が文学部の招聘で来札されるとのことで、講義を拝聴しに出かけた。

 教授のご専門は音楽の社会心理学。音楽心理学というと、音響知覚研究がかつては主流であった。しかし、私たちが日常出会うのは実験室の人工的な音ではなく何かしら意味のある「音楽」である。そうした音楽を私たちはどのように作り出し、どのように消費しているのか。そうしたことが教授の関心にある。ご自身ジャズも演奏されるそうで、持ちこまれたキーボードを使ってボブ・ディランやエリック・クラプトンの曲を楽しそうに弾いておられた。

 3日連続講義の初日にあたる本日はイントロ。枠組みの整理が主題だったためさほどエキサイティングではなかったものの、随所に興味深い話がもりこまれていた。

過去との強制的邂逅

 基礎ゼミ。本日が最後。

 これまで、別冊発達から関心のあるテーマを扱った章を1つずつ選んでレポートしてもらってきた。それだけだと、どうしても「こーいうことがあいてありました」で終わってしまう。そこで、各章で取り上げられていた研究を身近な人数名で追試する、という課題を正月前に出した。その結果をラスト3回で発表してもらうのだが、今日はその最終回でもあった。

 5名の発表があったが、一人の学生さんが自分が2歳の時のホームビデオを引っ張り出して持ってきてくれた。彼女はごっこ遊びについて発表してくれていたのだが、「2歳頃にふり遊びができるようになる」という文献中の記述を確認するために、自分の過去の姿を見てくれたのである。

 ビデオで彼女は手にしたカバンの中にもう一方の手を突っ込み、「グー」の形をしたままテーブルにその手を置いた。そして再び、その手をカバンの中に突っ込んだ。さて、テーブルをはさんで彼女のおじいさんが座っていたのだが、おじいさんは彼女の「グー」がカバンの中に去った後、それがあった場所の空気をつかみ、その手を自分の口に持っていった。

 こう記述すると動きが分かりにくいが、見たところ、2歳のこの学生さんはカバンから「パン」を取り出し、テーブルの上に置いたらしい。おじいさんはその「パン」を手にとって食べるふりをしたというわけである。

 現実にはそこには手しかないのだが、あたかもパンがあるかのように2人ともふるまっていたという点で、この場面は象徴遊びの萌芽として解釈できるのではないか、というのが発表者の結論であった。

 結論に異論はない。発表を聞いてひとつ感慨深く思ったのは、現在の学生さんは自分の小さい頃の映ったビデオを利用することができるのだなということ。現在20歳の学生が2歳のころだから1990年。もうすでにその頃には家庭用ビデオカメラはだいぶ普及していたことだろう。誕生日や旅行といった家族のイベントごとに撮影が行なわれたこともあったに違いない。

 おそらく学生たちの実家のどこかに眠っているであろうそうした幼少期のホームビデオ映像を使った授業は何かできないか。来年度、どこかでやってみよう。

 アマネはその点、短めのムービーばかりなのでちょっとどうかな。最近きちんとビデオを撮っていないので、そろそろ長めに回してみるか。

はじまってしまえば

 当学部では、若手教員が集まって自主的に研究会なるものを開催している。ちなみに、「若手」の定義は多分に恣意的である。本日は、昨年より赴任された先生をお迎えして夕方より研究会が開催された。修士を修了されて長らく在野で発達支援やスクールカウンセラーをされていた方で、札幌のとある区の相談業務の現状とSCで出会ったケースについて語っていただいた。

 内容についてはここで述べるべきでない話だったので、割愛。

 そのメンバーで打ち上げと称して居酒屋「こなから」へ。名前は聞いていたが初めての店である。刺身が非常に美味しいし、酒・焼酎の揃えも大変よろしい。生まれて初めて「亀の手」を食べた。塩でゆでてもらったのだが、見た目と違って大変にうまい。

 酒が回り始めた頃、メンバーの日頃の思いの丈が机上を飛び交った。その内容も割愛。

 話はがらりと変わるが、昨日でセンター試験が大過なく終わった。やはり話題の中心は今年もリスニングにあったわけだが、どうだろう。 1974年に共通1次試験が始まったころ、マスコミの論調は「そんな試験止めろ」という傾向にあったのではないか。確認してみないと分からないけど。それが今では、センターそのものに異議を唱える声は少数だ。むしろあらゆる受験生にフェアな試験が提供されることが「当然」であるかのよう。

 つまりは、はじまってしまえばそのうち人は適応してしまうというわけだな。リスニングもきっとそうなるだろう。

(あえて)無題

 本日、ほぼ18:05より、きっかり30分間、日本全国津々浦々あわせて497,508人がいっせいに沈黙した。

 まったくの静寂につつまれながら、かれらの耳にはイヤホンがつけられ、その目は前に置かれた紙と中空を往復し、その手はせっせかと紙の上の円の列を黒く埋めていった。

 こういう状況が全国735の場所でいっせいに起こったのである。

 さて、ここで説明されているのはいったい何か。

 正解は、平成19年度大学入試センター試験第1日目英語リスニングテストである。

 今日明日とセンター試験が開催される。不肖私、昨年は試験本部を担当したのだが、今年は室内監督員となった。受験生の皆さんをびしばしと監督する役目である。監督員は初めての経験である。

 問題用紙と解答用紙を配り終えた後はさしたる仕事もないため、机間巡視をするか、窓の外を眺めるか、空想に耽るかしかない。あとは、受験生の持っている受験票を確認しながら、「お、昭和64年1月7日生まれ(昭和最後の日)」とか「お、○○○○(知り合いの名前)」とか、ささやかな発見をするくらいである。

 そんななか、本日、センター最大の山場、リスニングが実施された。なにしろ1件でもトラブルがあれば、再開テストの可能性がある。そうすると再び30分のテストを繰り返さなければならない。受験生にも監督員にもひどくスリリングなことである。

 天に祈りながら待つ30分は長かった。無事に終えて本部にて解散。また明日、である。

カネゴン現る

 お金が好きです。あ、ぼくの話ではなくて、アマネです。もちろんぼくも好きですが、好きの意味が違う。

 彼は、小銭を持ってくわえてみたり、貯金箱のスロットに入れてみたりといった行動をとります。そうした行動をとっている最中に小銭を取り上げると、取られた小銭を要求する行動をとります。こうしたことから私は彼のお金好きを判断するわけです。

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 彼のお金好きは、何によるものでしょう。モノとして好きなのだろうということが一つ考えられることです。手で持つにはちょうど良い大きさだということです。その証拠となるのかもしれませんが、彼はあまり500円玉には手を伸ばしません。10円玉か100円玉あたりがお気に入りです。ちょうど、そのくらいの大きさが彼の手にフィットするということなのかもしれません。

 もう一つ考えられるのは、親がそれを使って何らかの目的を達するから好き、ということです。最近とみに親のまねをしたがり、食事時にはスプーンを、風呂上がりには歯ブラシを、洗面台の前に立てばヘアブラシを持ちたがります。これらは親が手段として用いているモノです。小銭も同様に手段として用いられていることを考えると、アマネのお金好きは親のなんらかの行動のまねなのかもしれません。

 それにしてもまったく、お金に執着してると、カネゴンになっちゃうよ。

卒論の何が難しいのか

 先週は卒論発表会、今週は修論発表会がそれぞれ開かれた。本日、副査として出なければならない発表が終わり、これで一連の発表モノが一段落することとなった。息つく間もなく、来週からは来年度に向けた資料作成が始まる。

 卒論生は昨年クリスマスに本文の提出がすんでいるのだが、発表用の資料作りは正月明けてからとなった人が大半であった。今年の発表会は成人の日の連休明けてすぐに始まったため、資料作成にあてることのできる期間が少なかった。発表会の直前まで資料を束ねるのに苦労していたようだ。

 15分という短い限られた時間の中に1年間かけて書き上げた内容を圧縮することは難しい。ここにも一種の「捨てる技術」が必要となる。捨て所を間違え、自分の「主張」のみを言おうとして、根拠を示したがらない学生もいる。パワーポイントを作成しても、主張の根拠として「グラフを出せばいいのに」と思うのだが、どうしても主張を「文」としてスライドに盛り込みたがる。そういう点は事前の練習会で徹底的にたたいておいたので、発表当日はなおっていた。

 これで卒論生たちは1年間の重荷からほぼ完全に解放されたわけである。おつかれさま。

 それにしても、卒論と聞くとなぜに学生は(かつての私も含めて、だが)身構えてしまうのか。「問題を発見し、それについて根拠を示しながら自分の主張を述べる」という課題は、おそらく彼らにとっては生まれて初めてのものではないだろう。研究の文体を取っていなくても、日常生活でおそらくごく些細な場面で行なっている活動である。たとえば、こんなふうに。

「○○ってなんだったっけー」←問題の発見
「△じゃねーか。ケータイで調べてみっか」←主張の陳述、調査
「どうだった?」
「やっぱり△だったよー、ほれ」←根拠の提示

 上のような日常的な友人とのやりとりにも、「問題の発見」「根拠の提示」「主張の陳述」といった一連の課題の含まれていることが見て取れるのである。

 それを一定の形式に載せるというのが、おそらく難しいところなのだ。その点が試練なのであり、かつまた私たち指導教員にとっても試練なのである。

見失わないために

 新年明けて仕事がおおっぴらに始まり2日が経った。1月から2月にかけてはどこの大学関係者もそうであろうが、卒論やら修論やら試験やらで多忙を極める。

 来週は卒論発表会。これを通過しなければ単位を差し上げることはできない。本日、何名かの発表予行練習を行なったが、改善の余地がおおいにあるところであった。どうもパワーポイントの上手な使い方が身についていない。レジュメをぶつ切りにしたかのように、文字ばかりである。映像を出すことの意義は視覚的インパクトにあると知るべし。

 午後からは教授会。ここで、来年度より正式に助教になることが決まった(助教授、ではないので注意。待遇は変わらず、ただ職名のみの変更である)。「原則学位持ち」のところ、「原則」のマジックパワーを最大限に発揮させていただいたようである。その力をお借りしなくてもよいようにがんばらねばならぬということだろう。

 現在かかり切りの仕事がいくつかある。高校生向けの学部パンフレット作成なんてのもある。この関係で研究科内の各教員にひたすら連絡を取りまくるという作業をしている。これで半日がゆうにつぶれる。私の場合は電話やメールによる連絡だけでは心許ないという思いが強い。できれば直接相手の面と向かって用件を伝えたいのである。そのためにやたら時間がかかる。

 アニュアルレポートの原稿も書かねばならぬ。C先生から、デッドラインは2月10日との情報をいただく(だそうですので、もう少し大丈夫ですよ、びっけさん)。再来週から2年間撮りためたビデオの書き起こし作業を開始する予定だが、その結果を出すのには間に合わないので、5年前に発表したものを英訳してなんとか埋め合わせしようと目論む。

 再来週には修論の副査が2本入っている。1本はざっと目を通し、もう1本にはこれからかかる。

 とにかく、再来週。再来週から2月にかけて2年間のビデオを見る。これをまとめないことには、私がここにいる意味はない。

書き初め

P1000812.jpg イノシシとったどー

 新年明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 さて、年末年始はとにかくひたすら子どもたちと戯れておりました。あと2,3年もすれば彼らだけで勝手に遊んでくれるのでしょうが、まだまだそうもいかぬ年頃のゆえ、一緒に遊んでやらねばなりません。

 アマネはすべり台に夢中でありました。近所の公園に行くとローラーコースターがあるのですが、こちらはそれなりに楽しそうなものの、あまり興味を示さない。むしろ、実家にあるお子様用の小さいヤツにご執心で、何度も何度もやってくれとせがみます。 

 それと、車の運転に興味をもつようになりました。札幌では車に乗っていないのですが、実家に帰れば移動はどこでも車です。後ろの座席から運転中の私をながめていて、どうもハンドルに触ってみたくなった様子。本物は無理ですが、少しだけ夢をかなえてあげました。

 遊び疲れた大人は、酒をあおって9時前にさっさと就寝する毎日でありました。おかげで、除夜の鐘も紅白もなーんも知りません。