指定討論の恐怖

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先週末は京都大学へ。発達心理学関係の学会に参加してきました。

学会に参加して何をするのかと言いますと,個人やグループでの個別研究発表を聞いて動向を確認するのはもちろんのこと,講演会や,複数の研究者によるあるテーマをめぐるシンポジウム,そしてもう少しラフな場で議論をするラウンドテーブルといったイベントに出席するのです。

そうしたイベントにただ聴講しに参加することがたいていですが,どういうわけか,自分の研究について「話題提供者」として話しをする機会をいただいたりもしますし,提供された話題に対して「指定討論者」として質問したりコメントしたりすることもあります。

ぼくはこの「指定討論」がほんとうに苦手です。いままで,学会が終わってから後悔しなかったためしがありません。

多くの場合は話題提供者の方から事前に発表資料をいただきますので,それを読んでおいてだいたいのコメントを考えておきます。ただ,個別の発表にコメントを返すことが果たしていいのかと悩むこともあります。どういうときかと言いますと,そのシンポジウムなりラウンドテーブルでの全体の議論を活性化することが求められるような場合です。これに失敗すると,「おとしどころ」が分からずに場の空気を読めないコメントばかりが口をつくという最悪の事態に陥ります。

案の定,先日の学会でもそういうことになってしまい,学会終了後は憂さを晴らすべく痛飲しました。

発達心理や教育心理の領域で著名なヴィゴツキーという研究者について,その理論の背後にいる哲学者のスピノザとの関係性について議論するシンポジウムを企画し,ご高名な先生方に来ていただくことができました。ぼくは僭越ながらその先生方への指定討論を仰せつかったのですが,ぎりぎりまで何を話せばいいのかよく分からないまま,結局その場ででっちあげたのは自分とヴィゴツキーとの出会い方というどうでもよい話しでした。

こういうときは,帰りの飛行機の中で「ああ,こう言えば良かった」というアイディアがぽんぽん出てくるのです。

そういうわけで,思いついたことを書き付けておきます。ヴィゴツキーが格闘したのは彼が生きていた時代や社会における具体的な諸問題であったはずであり,そういう諸問題について考える上でスピノザを参考にしたのでしょう。つまりヴィゴツキーはスピノザと「ともに」具体的諸問題を考えようとしていたはずです。一方,私たちはこの時代,この社会における具体的な諸問題と格闘しており,その方向性を考える上で「スピノザを読むヴィゴツキー」を読むのが適切なのだとしたら,その問題とはいったい何だろうか,という問いを,話題提供の先生方に投げかければよかったなあ,と思いました。

「あらゆる時代,あらゆる社会,あらゆる心理的諸問題」に適用可能な心理学理論や心理学概念はありません。ある理論やある概念は,個別の具体的な問題状況から生まれ,それを解きほぐすために用いられます。ヴィゴツキーの理論や概念もまたしかり,でしょう。だとしたら,どういう問題状況にとって,スピノザ経由のヴィゴツキー理論の適用が適切なのだろうかという疑問だと言い換えられます。

ある先生はこの資本主義化された社会における個人の解放を問題としたいと言うでしょうし,ある先生は幼児期におけるごっこ遊びの意義について考えるため,と言うでしょう。理論をめぐって空中戦を戦わせるよりは,よっぽど具体的な話しができただろうと今にして思います。

指定討論を,学会が終わって3日後くらいにメールで行うとかいったルールにすればいいのになあ。