たくあん(3)

研究室に置いておいたたくあんであるが,3週間ほど放っておいた。

気がつくと妙な香りが研究室を漂うようになってきた。そういえば,と,漬け容器を棚から取り出してみると,ぬかの上に浮いてきた水にカビが生えていたではないか。

中のたくあんは無事だろうか。たくあんを救い出そうにも,部屋の中で開けたらにおいが充満するだろう。ここは仕方なく,研究室の入っている建物の外に出て開けてみることに。

とはいえ,12月の札幌の屋外は雪景色である。雪の中で漬け容器を開け,ビニール袋を手袋代わりにしてぬかをかき分け,その中から大根を取り出した。さすがにぬかには塩もとうがらしも混ぜてあったので大根それ自体が腐っていたとかカビだらけだったとかいったことはなかった。安心。

ビニール袋に取り出した大根を入れ,きつく封をして自宅に持ち帰る。

あらためてぬかをきれいに洗い流し,薄く切って食す。…塩辛い。

どうしたものかと悩んだが,とりあえず全部半月切りにして,それをお湯につけてみた。塩が抜けるかと思ったのである。

一晩おいてからまたかじってみると,おお,ちょうどいい塩加減。

そういうわけで,苦節2ヶ月,ようやく自家製のたくあんを食べることができた。息子には好評で,毎食パリパリと食べている。

「来年は12本漬ける!」と息巻いているが,すべての面倒を見るのは誰だと思っておるのだ。

たくあん(2)

ほどよく干さった大根をいよいよ漬け込む。ちなみに「干さる」は北海道弁である。「なんらかの状態に自ら変化する」といったニュアンスだ。

でも,たくあんって何に漬けるんだろうか。ぬか漬けはぬかに漬ける。梅酢漬けは梅酢に漬ける。たくあんは?

調べたら,ぬかに漬けるらしい。ぬかに,なんやかや入れたものの中に大根を入れると。

「なんやかや」を揃える手間を省くために,その「なんやかや」がはじめから混ぜてある市販品のぬかを買ってくる。大きな漬け樽を買っても置いておく場所がないので,ホームセンターで浅漬け用の容器も買ってくる。なにしろ初めて作るので買ってくるものが多い。たくあんを買ってきた方が早いではないかと何度も思うが,ぐっとこらえる。

容器に大根を入れる。本当はまるまる一本切らずに入れていくそうだが,小さめの容器を買ってきたので曲げても入らず。しかたなく半分に切って重ねて入れていく。隙間にぬかをがばがば入れる。全部入れ終えて上から押さえ板でおさえつける。以上。

さて,どこに置いておくか。この段階で,容器からぬかのにおいがけっこう漂ってくるのである。部屋の中に置いておけばそこはぬかくさくなる。ベランダに置いてもいいが,札幌の冬の屋外は氷点下になるのでうまく漬からないかもしれない。

たらい回しにされた末,大学の研究室内に置いておくこととなった。研究室でたくあんを漬ける大学教員は,小泉武夫先生以外では初めてではないか。

大根を買ってきてから1ヶ月近くなるが,まだ食べられない。

たくあん(1)

今年の冬はたくあんを漬けた。息子が「たくあん作りたい」と言い出したのである。

ぬか漬けはぬか床を作ってそこに漬けておけばすぐに食べられる簡単なものだ。うちのじいさんもよく作っていて,浅いのもよく漬かったのも小さい頃から食べ慣れている。たくあんもそういうものかと思っていろいろと調べてみると,どうもいろいろ面倒なようだ。

それでも,「ぜひ作りたい」と言うので,ものは試しと,重い腰を上げてやってみることにした。

札幌では秋になるとスーパーの店頭で漬物用の大根や白菜の束が大量に積まれている。ホームセンターではプラスチックの大きな漬け樽や漬け物石も並んでいる。冬になると野菜が手に入りにくい北国にあっては,漬け物が重要なものなのだな,と改めて思う。とはいえこちらは狭い家なので漬け樽を置く場所もない。まずは試しと言うことで大根を4本買ってきた。

たくあんを作る手順として,第一にこれを干すそうだ。確かに街を歩いているとひもに結わえられて軒下からぶら下がっている大根をよく見かける。軒下がないのでベランダの物干しにひっかけておくことにした。

大根の頭の葉っぱを落とし(実は漬けるときにこの葉っぱが必要なのだ,ということを後から知ることとなる),よく洗ってヒモに結わえて干す。ところが結わえる作業がなかなかうまくいかない。結わえ方を解説したサイトを参考に,ビニールの荷ヒモをひっかけようとしたのだがなんだかずりおちそうだ。仕方なく,物干しの棒の上に渡して「置く」ことにした。

ちなみに,近所の仲卸市場では,すでにヒモに結わえられた大根の束が10本2000円程度で売られていた。来年はおとなしくこれを買うことにする。

この後の作業は,ひたすら干し上がるのを待つだけ。雨の日も,風の日も,ひたすら外に出し続けた。

3週間くらい放っておくと,ちょうどいい感じに干からびてきた。札幌ではそろそろ雪も降ろうかという時期だ。いよいよ漬けてみる。(以下次号)

「ない」で「ある」を説明できるのか

ある出来事の不在によって,後続するある出来事の発生を説明できるのか。できるともできないとも言えない,というのが私の考えである。ある出来事は,先行して発生するある出来事に起因するというのなら分かる。しかし,ないことがあることの原因となるとはっきりは言えないだろう。

例えば,出生後の日本語聴取経験は,その後の日本語使用をもたらす。これはいい。また,出生後の英語聴取経験の不在は,その後の英語使用をもたらさない。これもいい。

では,出生後の英語聴取経験の不在はその後の日本語使用をもたらすか。もたらすとももたらさないとも言えない,というのがすぐに分かる。英語を聞かずにタガログ語を聞いたのなら日本語使用はもたらされない。日本語を聞いたのなら言わずもがな。

何かがあったからこそ,続く何かが起こるのであって,何かがないことは続く何かの発生を何も説明しないのである。

こんなことを考えたのは,「幼少期に思い切り遊ばなかったから,思春期になって対人関係のいろいろな問題が起こるのだ」という言い方を,私の身の回りでよく聞くからだ。

幼少期の遊び経験の不在によって,後の対人関係問題の発生を説明できるのか。さきほどの推論が正しければ,できるともできないとも言えないはずだ。

遊びの不在という表現は幼少期における具体的な経験を何も記述していない。現代の子どもが何をどのように経験しているのか,このことをこそ明らかにすべきである。

「ない」では「ある」を説明できない。だから,「ある」を説明する「ある」の探求にもっと力を注ぐべきだ。

付記
そもそも,「ない」という認識の仕方そのものが精神の働きによるものであるのだから,精神の働きを説明する心理学は「ない」という物言いに依存した説明はしてはならないと思うのである。結果で原因を説明するようなものだから。