「ない」で「ある」を説明できるのか

ある出来事の不在によって,後続するある出来事の発生を説明できるのか。できるともできないとも言えない,というのが私の考えである。ある出来事は,先行して発生するある出来事に起因するというのなら分かる。しかし,ないことがあることの原因となるとはっきりは言えないだろう。

例えば,出生後の日本語聴取経験は,その後の日本語使用をもたらす。これはいい。また,出生後の英語聴取経験の不在は,その後の英語使用をもたらさない。これもいい。

では,出生後の英語聴取経験の不在はその後の日本語使用をもたらすか。もたらすとももたらさないとも言えない,というのがすぐに分かる。英語を聞かずにタガログ語を聞いたのなら日本語使用はもたらされない。日本語を聞いたのなら言わずもがな。

何かがあったからこそ,続く何かが起こるのであって,何かがないことは続く何かの発生を何も説明しないのである。

こんなことを考えたのは,「幼少期に思い切り遊ばなかったから,思春期になって対人関係のいろいろな問題が起こるのだ」という言い方を,私の身の回りでよく聞くからだ。

幼少期の遊び経験の不在によって,後の対人関係問題の発生を説明できるのか。さきほどの推論が正しければ,できるともできないとも言えないはずだ。

遊びの不在という表現は幼少期における具体的な経験を何も記述していない。現代の子どもが何をどのように経験しているのか,このことをこそ明らかにすべきである。

「ない」では「ある」を説明できない。だから,「ある」を説明する「ある」の探求にもっと力を注ぐべきだ。

付記
そもそも,「ない」という認識の仕方そのものが精神の働きによるものであるのだから,精神の働きを説明する心理学は「ない」という物言いに依存した説明はしてはならないと思うのである。結果で原因を説明するようなものだから。

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