帰宅するとき何か食べたくなって

 昨夜は三徳六味で食事。一人でした。妻と息子がママ友達といっしょに定山渓へ温泉旅行に行ったためです。

 カウンターの端に腰を下ろし、まずはビールをのどに流し込みます。さあ、今日のおすすめは何でしょう。お、
桜鯛なんてのがもう出てますか。あ、もう売り切れちゃったの、残念。では、ツブ貝をお造りにしてもらいましょうね。

 ほかに酒と合わせられるもの、それに焼き物と揚げ物も欲しいところです。タコの酢みそがけ、アスパラ焼き、
椎茸の揚げ出しをもらいましょう。

 1杯目のビールを空けたところでツブ貝が来ました。「今日のはコリッコリで甘くて、最高ですよ」とはマスターの亮さんのお言葉。
では、いっしょに飲むお酒を選ばせてください。亮さんがすすめてくださったのが「綿屋」(宮城)です。ではそれを1杯。う~ん、
すっきりとした飲み口です。それでいて芯がしっかりしているというのでしょうか、お酒らしさがきちんと残っています。
これは食べ物をじゃましない、居酒屋向けのお酒ですね。ツブ貝もいただきます。ほう、これは本当にコリコリとして、甘くて。
美味しくて無言で箸が進みます。

 ツブを食べている合間にアスパラが焼き上がりました。北海道のではなく、福岡のものだそうです。「見てくださいよ、この太さ」
と亮さんが焼く前のものを見せてくれましたが、親指ほどもある立派なアスパラ。それを2本焼いて、4等分したものが井桁に組まれ、
お皿に盛りつけられて出てきました。甘い!ぱらぱらとふりかけられた粗塩が甘さをひきたてます。

 お酒が空いてしまいました。美味しかったので、もう1杯同じのを。

 ご夫婦がお店に入ってきました。ぼくのすぐとなりにご主人が座ります。「あれ、
そういえば日記をごらんになったって言ってましたよね」と亮さんがそのご主人に声をかけます。
どうもこのご夫婦はぼくの日記を見たことがあるらしく、それで三徳のことを知った由。「いやあ、どうも。お恥ずかしい」と頭をかきます。

 三品目は椎茸の揚げ出し。たっぷりとだしのはられた片口に、椎茸の肉詰め、ナス、さいまき、
ハスがいっしょに揚げられて浮かんでいます。トッピングには蕎麦の実、お好みで黒七味をどうぞ、とのこと。濃いめのだし汁が腹にしみます。
ここらで胃にたまるものがほしかったところ。

 お酒のピッチもあがって3杯目に突入。もうこのころには記憶が朦朧としてきたのでよく覚えてませんが、「大信州」
をいただいたような気がします。ラベルがなかったので、いわくのあるものだったのですかね。

 ちょっと順番が遅いような気もしますが、タコの酢みそがけが出てきました。
どうもタコがあると食べずにはおれないのは酒飲みの業でしょうか。

 ひさびさに三徳の料理を存分に堪能しました。どうもごちそうさまでした。

 家に帰ると誰もいるわけでなし、冷凍庫の中華ちまきをレンジでチンして夜食に、先週撮った「水曜どうでしょう」
を眺めながらふとんに潜り込みました。

a memorandum for analyzing conversation of children (2)

 Goffman(1961)において提起された、状況的活動システム(situated activity system)と状況的役割(situated role)という2つの概念を見ておきたい。

 状況的活動システムとは、活動の目標を共有する参加者たちが構成するある程度閉鎖的なまとまりであり、状況的役割とは、そうしたシステムが反復されることで形成される、参加者が遂行すべき行為のパターンである(Goffman, 1961, 邦訳 p.98-100)。

 状況的活動システムの身近な例は会話であろう。会話の「輪」がシステムの境界を指し示し、「話し手」や「聞き手」といった会話上の役割が、「輪」の中での適切なふるまいを参加者にとって予期可能なものとする。


文献
Goffman, E. 1961 Encounters: two studies in tehe sociology of interaction. New York : The Bobbs-Merrill Company. (佐藤毅・折橋徹彦(訳) 1985 出会い:相互行為の社会学 誠信書房)

a memorandum for analyzing conversation of children (1)

 GoffmanとSacksのそれぞれの相互行為についての見方には、安易に統合できない違いのあることが指摘されている。高原・林・林(2002)は、Goffmanにさかのぼるコミュニケーション研究のパラダイムを「相互行為分析」、Sacksにさかのぼるそれを「会話分析」とそれぞれ呼び、その発想の違いに触れている。

 たとえば、相互行為分析と会話分析のひとつの違いは、ある行為の「原因」をどのように説明するかにある。前者の見方によれば、「原因」の一部は参与者の内的な認識に求められる。ある発話が起こるのは参与者がそれを用いてなんらかの効果を相互行為の場にもたらそうと「意図した」ことによる。

 一方、後者の会話分析では、参加者たちは行為の「原因」なるものを互いに提示し、承認しあいながら相互行為を進めていくという見方を取る。相互行為分析では「原因」の一つとされた参加者の「意図」の扱いに関して、Sacksに影響を与えたエスノメソドロジーでは、その実在の真偽を問わない。むしろ、相互行為において参加者が実際に何を「意図」や「動機」と見なし、またそれらについていかに語るかを明らかにすることを目指す。

 行為の「原因」なるものをいかに捉えるかは興味深い問題である(「原因」としての知覚と行為に関する議論として、高木(2000)がある)。


文献
高木光太郎 2000 行為・知覚・文化:状況的認知アプローチにおける文化の実体化について 心理学評論, 43(1), 43-51.
高原脩・林宅男・林礼子 2002 プラグマティックスの展開 勁草書房

かーふんふん

 授業が終わって成績も出して一段落というところ。雪不足で雪まつりもどうなるかと思われていたが遅れを取り戻すがごとくどかっと降り積もって帳尻があった。

 昼に食った弁当の飯粒が鼻の奥とのどの奧のちょうどあいだあたりに引っかかったようで午後いっぱい「かー」「ふんふん」とのどをならしっぱなしだった。

 「かー」「ふんふん」と生協のATMに預金しに行こうと背をかがめ左右の手をジャケットのポケットにつっこんで大学の中央ローンを突っ切って歩いているとやってしまった。今年に入って初めて転んだ。その勢いでジャケットの背の縫い合わせがビリリと破けてしまった。

 そのショックを晴らすために「かー」「ふんふん」と書店をのぞく。本日は野崎昭弘『不完全性定理』に廣松渉『もの、こと、ことば』に森本浩一『デイヴィドソン』をふらふらと買う。

 デイヴィドソンのことはよく知らなかったが森本氏の紹介を読むにひさびさに腰を据えて読まねばならない相手を見つけたような感じである。だって「言語が、多くの哲学者や言語学者が考えてきたようなものだとすれば、そのようなものは存在しない」「つまり、学習されたりマスターされたり、あるいは生まれつき持っていたりするようなものは何もない」(”A Nice Derangement of Epitaphs” p.11)だって。それならこれまでの言語発達研究って何なのってわけでしょう。おもしれー。

 去年出たジャッケンドフの『言語の基盤』もようやく買えたしこの春はデイヴィドソンとジャッケンドフで決まりである。「かー」「ふんふん」。

 のどの飯粒は帰宅してからもまだしぶとく残っていたがアマネと風呂に入っている間にいつの間にか取れていた。

早期教育へ誘う言葉

 大学から帰り、たどり着いた団地の地階にある集合郵便受けを開けるたび、早期教育について考えざるを得なくなる。

 たとえば「今回が最後のご案内!」とデカデカと書かれた封書を開くと、親が1歳児とどのように遊べばよいのか、
その指南を教材とともに送ってくれるという案内が、見本教材とともに飛び出してくる。

 「最近、お子様との遊びがマンネリ化していませんか?」
 「1歳頃のお子様は知的能力が急速に発達しています。ワンパターンの遊び方ではお子様が飽きてしまうのです」
 「お子様の成長にあわせた教材を毎月お送り致します」
 「ワタシニデンワシテクダサイ」

 最後のは違うか。

 この会社の案内はまだましである。うさんくさい封書として面白かったのは、「脳活性化」モノ。なんでも、
脳を活性化させる遊びをさせると、IQが160になるのだそうである。

 その他、近所の英会話教室のチラシが入ってくる。1歳頃の子どもには、歌や踊りで遊びながら英語に親しむことから始めるのだそうだ。

 ちょっと前まではどうでもよいものとしてポイポイ捨てていたが、最近はとっておいて集めるようにしている。なぜか。

 「早期教育への誘い」はいかなる語り口によってなされるのか、について調べるためである。

 先日読んだ、苅谷剛彦・増田ユリヤ『欲ばり過ぎるニッポンの教育』には、
早期から子どもを外国語に触れさせようとする親の言葉が紹介されていた。最近は英語ばかりか、中国語に触れさせようとする人もいるらしい。

 こうした親の行動を引き起こすきっかけは、おそらくごく素朴なものだろう。
たとえば郵便受けの中に入り込むチラシやDMの類というのは、地味ではあるが、静かに効いてくるのではないか。
最近そのように考えるようになった。

 第一子を育てている親にとって子どもの発達とはいかなるものか不明である。毎日、
手探りの中で子どもの反応をみながらやりくりしているだけである。もちろんそれしかできないのだし、それでよい。ただ、
先が不明であるということは、ちょうど霧の中をさまよっているように、現在の状態を解釈する手掛かりがないということでもある。

 早期教育へと誘う媒体は、そうした不明の現在を解釈するひとつの手掛かりを与えている。たとえば、先に紹介した「遊びのマンネリ化」
は、親子の現在の状態を枠づける機能を果たすだろう。もちろん、実際のところ、
子どもにとって家庭内の遊びが退屈なものになっていたのかもしれない。それはそうなのだが、重要なことは、早期教育へと誘う媒体は、
子どもに対するオルタナティブなパースペクティブを親に与えるかもしれない、ということである。

 もちろん、親というものはチラシやDMの情報に簡単にひっかかるものだ、などと言っているのではない。
チラシやDMは言語的情報であるがゆえに、それらを読むことにより、
親が子どもについて語ったり考えたりする際に用いる語彙が増える可能性がある、ということを言いたいのである。

 子どもを可能性のかたまりと見なすこと、子どもをその能力によって語ること、そして、子どもを投資の対象と見なすこと。
早期教育とは、子どもに対する見方や語り方となんらかの仕方で結託して成立する活動であるはずだ。

 では、そうしたチラシやDMはどのような語彙を用いて子どもを語ろうとするのか。こうして先の調査目的に戻る。
調査といっても趣味としてやるものなのであるが。

 現在、我が家に届いたDMの一部が研究室に置いてある。これからも増えるだろう。
このようにして私は労せずに資料を手に入れているのである。