ファン誕生か?

 本日はオープンユニバーシティ。高校生を中心とした一般市民に大学を開放し、広く研究の成果や大学生活のあらましを知らせる日である。私は学部のなんちゃら委員をおおせつかっているので、オープンユニバーシティにもかり出される。日曜の朝から妻子を残し出勤する哀れ父親よ。

 わが学部では、午前と午後で同じプログラムを2度やることになっている。私が担当するのは学部のカリキュラムやゼミについて30分で紹介するというもの。先日の一日体験入学ですでに話をしているので、だいぶ楽ではある。

 例年平日か土曜に行なっていたこの企画だが、今年は日曜の開催となった。そのためかどうか知らないが、午前午後合わせて250人を越す参加者があり、大盛況とあいなった。

 どうしても学生の関心は心理学に向きやすい。質疑応答でも「臨床心理士になるには」「心理系を卒業した後の就職先は」といった質問が出た。そうした質問が出るのは想定内なので、私と同じなんちゃら委員の先生方は「心理もよろしいが、高校生のいまから目標をしぼるのではなく、アンテナを幅広くしていろいろな勉強をしてみるのがよろしかろう」と諭す。大人である。

 休憩時間中に、ある女子高校生が私の方に接近してきた。

 「あの」
 「はい」
 「名刺をいただけますか?」
 「はい?」

 私のつたない学部紹介を聞いて、ファンになってくださったか?と一瞬色気が出た。まさか名刺を使うことになるとは思わなかったので、名刺入れをあいにく持ってこずにいた。さいわい、非常用に財布に何枚か忍ばせていたのでそれを渡す。

 「こんなものでよければ」
 「ありがとうございます」

 こころなしかその女子高校生の目は潤んで見えた。

 しかし解せぬ話ではある。なぜ名刺か?そこで、すぐそばで一部始終を見ていた事務の方に、なんだったんでしょう、今のは、と尋ねる。事務の方の話によれば、どうやらとある高校ではオープンユニバーシティへの参加も授業の一環らしく、参加したという証拠に教員から名刺をもらってくることが義務づけられているのだそうだ。あとから数人、同じように名刺をもらいに来たのがいた。

 なーんだ。勘違いしそうになっちゃったよ、おじさんは。

 しゃべり疲れ、立ち疲れ、ヘロヘロになって夕方帰宅。アマネは今日も元気でした。

近所の観光地

 札幌の自宅から歩いて20分くらいのところに、アサヒビール園がある。ビール工場とビアレストランの隣接する施設である。札幌の観光ガイドにも1/8ページくらい割かれている観光地だ。

 昼間家族で散歩がてら行ってみた。

 爽やかな風のそよぐなか、ベビーカーを押しながら歩く。途中でアマネは力尽きて船をこぎ、沈んだ。

IMG_0020.jpg 

 沈んだ赤ちゃんを脇に置いて、レストランで食事。昼食バイキングをいただく。アサヒビールはふだんあまり飲まないのだが、琥珀の時間と熟撰があったので、メンチカツ、アジフライとあわせていただいた。

IMG_0017.jpg

 30分くらいでアマネが目を覚ます。妻のとったきつねうどんから麺を分けて口に運んでやる。彼の最近のブームはうどんである。前世は香川県人ではないかと思うくらいだ。彼の地の人に「1日3食うどんなんじゃないの」と言うと、「とんでもない。一日5食が基本やろうが」と怒るらしい。たぶんアマネは3食うどんでも満足するだろう。それくらい食いつきが違う。

 ビール工場でも見学して(無料で試飲もして)帰ろうかと受付に行くも、予約なしだと2時間待ちだそうで、断念して帰途につく。

前期終了

 今週水曜で非常勤2つが終了。ひとつはレポートだが、もうひとつの方は試験を来週に行なう。採点を8月頭に終わらせて、ようやく肩の荷がおりる。もうひとふんばり。

 終了後、北大にとんぼ返り。坂元忠芳先生が来校され、セミナーを開くとの情報を受け、それに参加するため。3時から始まっていたので、途中からの参加とあいなった。

 先生のご尊顔は初めてお見かけしたのですが、まあお元気な方でした。しかし70を越えてらっしゃると思うのですが、いまだにバリバリと本を読みこなしているところがすばらしく、我が身の無知に恥じ入って話しかけることはできませんでした。

 豆知識。どうも先生的には、ユングが来る、らしい。

【案内】 発達と学習研究会のお知らせ

発達と学習研究会(愛称 ハガ研)のお知らせ

第1回 言語と実践共同体論

 学習科学に関連したさまざまな文献を検討し、研究の底力を鍛えるための集まりを開きます。
 つきましては、第1回会合を以下の通り開催いたします。関心のある方の多数のご参加をお待ちしております。なお、レポーターも随時募集しております。

 ◇期日 8月9日(水) 10:00~17:00
 ◇場所 教育学研究科附属子ども発達臨床研究センター C302

 ◇検討する文献
 Barton, D. and Tusting, K. (2005) Beyond Communities of Practice: language, power and social context. New York: Cambridge University Press.

 Contents
 1 Barton, D. & Hamilton, M. Literacy, reification and the dynamics of social interaction.
 2 Tusting , K. Language and power in communities of practice.
 3 Creese, A. Mediation allegations of racism in a multiethnic London school: what speech commnities and communities of practice can tell us about discourse and power.
 4 Rock, F. “I’ve picked up some up from a colleague”: language, sharing and communities of practice in an institutional setting.
 5 Kreating, M. C. The person in the doing: negotiating the experience of self.
 6 Martin, D. Communities of practice and learning communities: do bilingual co-workers learn in community?
 7 Harris, S. R. & Shelswell, N. Moving beyond communities of practice in adult basic education.
 8 Lea, M. R. ‘Communities of Practice’ in higher education: useful heuristic or educational model?
 9 Myers, G. Communities of practice, risk and Sellafield.
 10 Gee, J. P. Semiotic social spaces and affinity spaces: from The Age of Mythology to today’s schools.

 参加希望の方、レポート志願の方は下記連絡先まで。
伊藤 崇(tito at  edu.hokudai.ac.jp  または 内線3293)

ちょいとびっくり

 空には雲があつくかかり、しかし晴れ間から強い日差しが降る、じっとりとした陽気。札幌でも、年に数日はこんな日がある。

 研究室で学部の雑用にかかっていると、扉をこんこんとノックする音が。

「こんにちは~」と顔を出したのは、も、茂呂先生?大学院での師匠である。

 奥様が北海道のお生まれで、二人で里帰りに来ていたのだそうな。奥様はこちらに残り、先生だけ今日8時の便で東京へ発つとのこと。大きな荷物から深川名物ウロコダンゴが取り出され、「おみやげです」とくださった。

 ちょいとびっくりした。先に言ってくれればいいのに。

 佐藤先生とともに構内のレストラン、エンレイソウで食事。筑波大の最近の様子などをうかがう。ちょっとショッキングな、しかしある程度想定内のニュースを聞いた。うーーーーむ、ぼくが学生のときから噂は聞いていたが。

 茂呂先生を見送り、ふたたび仕事に取りかかる。しかし暑いのでうじうじしながらである。

 本日は幼児園では年長さんがお泊まり会をすることになっている。午前中に円山に登り、動物園を散歩した後、園に戻ってからみなで近くの銭湯に行ってきたようだ。

 夕食はカレーとざるそばとざるラーメン。ちょっとお相伴にあずかる。子ども用のカレーの甘さもなかなかよろしい。

 かれらはこれからキャンプファイヤーと花火とくらやみさんぽと映画鑑賞をするとのこと。みんな、超が3つくらいつくほど興奮している。上気した顔をうしろに、帰路につく。

 帰りの地下鉄は浴衣姿の若い奴らでいっぱい。どうも豊平川あたりで花火があるようだ。

 団地の5階の我が家にたどり着き、ベランダから北の方を眺めてみると、打ち上げ花火の大輪がはるか夜空に浮かんで消えた。

【案内】 運動と発達 勉強会のお知らせ

 7月31~8月2日に開講予定の佐々木正人先生の集中講義に先立ち、 生態心理学についての学習会を以下の予定で開催いたします。

日程 第1回 7月20日(木)17時~20時
    第2回 7月27日(木)13時~18時

場所 教育学研究科附属子ども発達臨床センター C302

 

 当日、集中講義のテクストである「ダーウィン的方法」をお配りします。(代金もいただきます。) それを補足するために以下の文献を読みたいと思います。

・ギブソン、J. J. 1992 山上暁(訳) アフォーダンスについての覚書 安西祐一郎・石崎俊・大津由紀雄・波多野誼世夫・溝口文雄(編) 認知科学ハンドブック 共立出版. pp.629-639.)
・リード、E. S. 2000 アフォーダンスの心理学 新曜社 pp.1-140
・ギブソン、E. J. 2000 知覚の発達のための生態心理学者のプロレゴメナ:機能的アプローチ 現代思想、28(5), 128-141.
・佐々木正人 2005 地面や空気から「心」について考えることもできる:早わかりアフォーダンス 岩波科学ライブラリー105 ブックガイド〈心の科学〉を読む pp.115-126.

 参加を希望される方は、下記連絡先まで。また、事前に文献を入手したい方もご連絡ください。

伊藤 崇(tito at edu.hokudai.ac.jp)

怒鳴る度

 卒論やら調査やら会議やら非常勤やらアマネとの遊びやらで忙しく立ち回っているうちに七月になった。茫然である。

 昨夜は非常勤先の試験問題を徹夜で作成した。どろんとした眠い目でその非常勤先で講義を始めようとするとざわざわと相変わらずうるさい一角があり、思わず「うるせえな、静かにしなさい」(原文ママ)とマイク越しに怒鳴った。

 このあいだは、卒論生が「こうすればいいですか、ああすればいいですか」と研究の進め方についてあんまりにも人任せにするので「いちいち聞くんじゃねえ」(原文ママ)と怒鳴った。

 どうも気持ちに余裕がなく、怒鳴る度が高まっている気がする。いかんなあ。

うっちー

 ここ三四日ほど、自分も含めて家内の者の体調が思わしくない。

 まず妻が8度強の熱を出してダウンし、いまだに頭痛に悩んでいる。次いで自分が腹を下し、こちらは晩酌のできるまでに回復した。

 そして最後にアマネが熱を出し、いっとき9度に迫ろうかというところまでいった。が、機嫌が悪いものの本人はいたって元気である。顔に湿疹らしきものもあるようで、少し心配ではある。ただ、ごはんは食べるし(一時期に比べればびっくりするほど食べるようになった)、遊んでやらないと文句を言うしで、大事ではないと高をくくっている。

 体調が悪いながらも最近のアマネはいくつか新技を覚えた。「5秒スタンディング」と「うっちー」である。

 5秒スタンディングとは、つかまり立ちをした後でつかまっていた手を離し、直立することである。せいぜい5秒しかもたないのでその名をつけた。親は「立っちしたね」と大喜びである。

 うっちーとは、首を横にかくんと倒し、対面する相手に向けてにこ~っと微笑むというもので(図1)、一種の懐柔策だと見ている。うっちーという名は妻がつけたものだが、理由は知らない。

IMG_0007_R.jpg 図1 うっちー(食事時)

 もう10か月になった。8月には1歳である。

沈黙を見ねばならない

 沈黙は多様である。このことを分かりやすく示しているのが、小津安二郎の映画『お早よう』(1959年、松竹)である。

 高度経済成長期の日本の庶民生活をユーモラスに描いたこの映画は、「黙っていること」が主要なモチーフだと思われる。そこでは2種類の沈黙が登場する。

 第一の沈黙は、発話の不在という形式をとる。映画に登場する林家の2人の子どもは、テレビを両親にねだる。そのあまりのやかましさに、父親の笠智衆は「男の子は黙っていろ」としかる。へそを曲げた子どもたちは、誰とも口をきかなくなる。

 家族や隣近所の人々とも口をきかないし、学校の授業中にもしゃべらない。結局このストライキは、父親がテレビを買ったために終了する。ここで、子どもたちのしたことが第一の沈黙である。

 一方、第二の沈黙の場合、発話が存在する。子どもたちはある青年(佐田啓二)の家に英語を習いに通っていた。その青年の元へ、子どもたちの若き叔母(久我美子)が仕事を依頼しにたびたび訪れる。青年の姉は彼に、彼女に対する好意を指摘するが、青年は答えをはぐらかす。

 こうして映画のラストシーン、当の2人が駅のホームで偶然出会う。天気のことなどたわいない話題を交わすだけで、結局2人のお互いに対する気持ちははっきりとは語られない。ここで観客が、2人の会話の背後にあると感じるものが、第二の沈黙である。

 第一の沈黙が典型なのが狭義の沈黙、すなわち不在の発話である。一方で、第二の沈黙の場合、発話は存在するものの、聞く者にとってその発話は、会話の核心だとは思われず、結果的に、「話し手が話すべき核心」の存在が浮かび上がる。つまり、聞き手は話し手について、あることについては話し、それとは別のあることについては沈黙している、と推測するのである。こうして第二の沈黙は、未遂の発話として捉えられる。

 ひるがえって、言語発達研究、あるいは相互行為研究の文献を読むと、沈黙が単にデータの不在としてしか捉えられていないことが分かる。人々にとっては話すことが至上の命題なのであって、沈黙とは「話す」という必死の作業の合間の止まり木のようなものでしかない。そのように描かれるのだ。

 しかし上で見たように、沈黙はシンプルなものではない。そこでも人々はいろいろなことをしているのである。ある人は、生命について知るには死についても知らねばならないと言ったそうだが、発話について知るには、沈黙についても知らねばならないようだ。