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Jordan, B., and Henderson, A. 1994 Interaction analysis: foundations and practice. IRL Report No.IRL94-0027. (http://lrs.ed.uiuc.edu/students/c-merkel/document4.HTMにフルテクストがある。)
0.0 はじめに
ひとびとの相互行為を分析するためには、テープレコーダーやビデオカメラなど、さまざまな機器を利用するのが有効だ。しかし、ただ漫然と使うべきではない。背後にあるパラダイムや機器使用によるメリット・デメリットをきちんとおさえておく必要があるだろう。
方法としての相互行為分析に特化した文献として、Jordan&Henderson(1994)がある。およそ20年前と、新しくはないものの、いまだにこの文献を読む意義は薄れていない。なぜなら、相互行為分析が一般化しつつある黎明期にあった一種の緊張感が感じられるうえ、なによりも、相互行為分析が可能な世界観というものをはっきりと自覚しているからである。以下、冒頭に挙げたJordan&Henderson(1994)の章立てにしたがい、途中筆者自身のコメントや現在の状況などについて交えながら解説をすすめていきたい。したがって、以下の内容はJordan&Henderson(1994)の要約ではない。なお文中特に断りのない限り引用はJordan&Henderson(1994)からのものである。
1.0 背景と前提
1.1 相互行為分析
相互行為を分析の対象とするというだけでは、素朴すぎる。相互行為という現象をどのように切り取るか、切り取ったものへどのようにアプローチするか、これらに特殊なやり方で答える方法論や態度(たとえば、西阪(1997)の言う「相互行為分析という視点」)を背景にもったひとつの手法が、いわば大文字の「相互行為分析」である。
手法としての相互行為分析が開発されたのはひとつの学問領域においてではないし、利用される領域も広い。学説史における大きな流れとしては、人類学、キネシクス、社会学が相互行為分析の源流とでも呼べそうだ(p.1,P1,2)。
手法の開発に潜在的な貢献をしたのはそうした領域の研究者ではなく、画像・映像や音声を記録する機器の開発と普及を果たした産業だろう。相互行為分析の歴史は、産業が先行して開発するさまざまな機器を、研究者が導入してきた歴史なのである。たとえば、グレゴリー・ベイトソンはバリ島調査に写真機を携行している(Bateson,1947;佐藤良明訳「精神の生態学」に所収)。すでにルポルタージュに採用されていた機器を、人類学的研究に応用したのである。これで撮影した連続写真を使い、彼はバリにおける母子間の相互行為を記述することに成功した。動画となると、分析を目的として撮影をおこなった先駆的研究として、たとえばCondon&Sander(1974)を挙げることができる。彼らは大人と新生児の行動(身体動作と発声のような)を16mmフィルムで撮影し、両者が緊密で同期的な相互行為をおこなっていることを明示した。
コンドンらがおこなったように、研究対象をフィルムに収めることは、いくつかの領域でそれまでもなされてきた。それは出来事の記録、および保存という性質を利用したものであった。しかし、相互行為分析において利用されたのは、動画がそもそも連続写真にほかならないという性質だったのである。フィルムで言うコマ、ビデオで言うフレームを分析の単位とすることは、写真の一枚を取り上げることと同じだ。これ以後の動画技術は、原理的にベイトソンが利用したような連続写真を高度に洗練したものだと言えよう。
ベイトソンやコンドンらが利用していた、高価で、専門性を要し、できることも限られていた初期の撮影技術しかなかったら、相互行為分析は研究の手法として定着しなかっただろう。安価でさまざまなニーズに対応した民生品の普及によって、多くの研究者の「やりたいこと」に応えられるようになったとき、はじめて体系的な手法となりえたのである。
こうしてビデオが普及するにいたり、J&Hが念頭に置く映像・音声記録の分析が可能となった。ビデオを用いる利点として、繰り返し再生できること、そして複数人で分析できることが挙げられている(3.0 なんでビデオなの?で詳説)。グループで作業が可能であるとは、すなわち、相互行為分析という手法を共有するサークル(学際的なので、学派とは呼ばないだろう)が形成されたことをも意味する。合衆国での中心のひとつは、パロ・アルトにあるゼロックスの研究所であった。かれらが対象としたフィールドや課題は多岐に渡り、そこでの研究をもとに世界的に著名な業績をあげたメンバーも大勢いる。
相互行為分析とはこのように、歴史的にも、環境的にも、特殊な背景において醸成された手法なのである。
1.2 枠組みと前提
すべての手法の背後には理論的な前提がある。J&Hは相互行為分析について大きく二点を挙げた。
前提1 知識や行為は本質的に社会的である。
前提2 相互行為の参与者にとっての世界は観察者からも見える世界である。
まず1について。知識と行為は起源、編成、使用といった面においてそもそも社会的なものであり、特に社会的・物質的生態環境social and material ecologyに状況づけられている。認知を個人の脳内に還元せず、社会や生態環境に分散するものとみなすので、実践コミュニティ(Lave&Wenger, 1991;Jordan,1992)のメンバーのあいだで日常的になされるごく普通の相互行為を理論化の対象とする。相互行為分析の目標は、複雑な社会的・物質的世界にあるさまざまなリソースを、操作し統合するやり方にある秩序regularityを同定することだ(p.2,P2)。
次に2について。「世界」の分析には検証可能な観察が基本中の基本となる。経験的な個別事例から知識と行為の理論を構築して一般化generalizeする。この態度の背後には、参与者が触れられる世界には、観察・分析者も同様に触れることができるという前提がある。ということは、分析するには、自分自身も実践コミュニティの有能なメンバーとして経験を積んでいなければならない、ということになる(p.3,P1)。
さて、以上の前提からどのような態度が帰結として導かれるか。
相互行為分析は、日常的状況の社会的秩序social orderがいかに達成されているかに関心を向ける。参与者はお互い他方の行為に意味づけをする。そうすることで、相互行為は協同的に達成されるものと見なされる。このときの秩序性や予測/計画可能性projectability(オリジナルは会話分析にある。次の反応が緩やかに決まるしかたを言う。訳語は串田(1997))を可能にするリソースは何か、そして参与者はそれらをどのように使っているのかを探求するのだ。学習という現象も同様である。ひとびとが学習なるものをし、そしてまた学習されたと認識される、そういう出来事が社会的に分散された過程として生起しているとみなされる(p.3,P2;p.4,P1)。
上記の態度は、ハロルド・ガーフィンケルの創始したエスノメソドロジーや、ハーヴェイ・サックス、イマニュエル・シェグロフ、ゲイル・ジェファーソンらの打ち立てた会話分析と共通するものだと言える。これらは、ひとびとの行為を研究者独自のカテゴリーで分類・記述・解釈する社会学者に対する批判として生まれた理論である。
1.3 概要
J&Hは以下の構成で筆を進める。次の2節では、典型的な作業手順が概略される。3節では、ビデオ記録をデータとして用いる際の長所と短所が述べられる。4、5節では、ビデオで撮影することにともなう制約が指摘される。もっとも大きく割かれた6節では、相互行為分析でのポイントが簡潔にまとめられている。
それでは、実際の分析作業に移ろう。
2.0 作業手順
2.1 エスノグラフィー
J&Hがビデオを持ち込むのは、エスノグラフィック・フィールドワークと呼ばれる作業においてである。フィールドワークは、参与観察、インタビュー、歴史の再構成、人工物やドキュメント、文脈を構成するネットワークの分析といった下位作業から成る。
フィールドワーク中の留意点について、J&Hは「ホットスポット」、つまりビデオを回すとおもしろそうな活動を探すことを挙げる。エスノグラフィは相互行為の微視的分析に際して、背景情報をもたらす。と同時に、相互行為分析で明らかになったことからエスノグラフィが見直されることもある。
2.2 目次作り
撮影が終わったらできるだけすぐ、観察者の記憶のあせないうちに映像を視聴し、打刻された時刻(あるいはテープカウンター)、見出し、出来事のおおまかな記述という構成で「目次ログcontent log」「目次リストcontent listing」を作る。この段階では細かいことを気にしないようにする。たとえばあらかじめ動作のカテゴリーを作るなどして一貫性をもたせることに気を遣うのではなく、出来事の直感的な記述にとどめるべきだ(p.5,P1)。実のところ、最初に見た印象の記述が、その出来事をもっともよく代表していることもある。その場にいる参与者もある行動を「最初に」見るのであるから、相互行為分析の前提2にしたがうなら、観察者が参与者にもっとも近い立場にある作業かもしれない。
なお、J&Hには付録Dに実例が示されている(p.55)。これは一例であり、いろいろな書き方があると思うので、各人ケースに応じて好きなように作成すればよい。最低限気をつけなければならないのは、後からその場面を映像の中から見つけ出しやすいマーキングをしておくこと、そしてあまりこだわらないことの二点である。
2.3 グループ作業
多くの場合、映像データを保管し、最初に視聴するのは、その現場に足を運んだ観察者本人であろう。当然その場で起きたことに関する情報の量は、そこにいなかった人間よりも多いはずだし、本人もそうだと思っているかもしれない。2.1で述べたように、こうした知識は相互行為を分析する際のリソースのひとつとなる。しかし同時に、バイアスとなることも念頭に置いておかねばならない。それを避けるためのひとつの方法が、グループでの分析作業である。
紙と鉛筆のフィールドノーツに基づいたエスノグラフィは、ある出来事をなにものかとして「書く」時点ですでに、それ以外を「書かない」実践でもある。つまり、フィールドノーツを二次資料とする者にとっては、書かれたものがどのような状況に置かれていたかを知ることはできないのである。書きたいものしか見ないという「確信バイアスconfirmation bias(Hutchins,1991)」の危険性も指摘される(p.7,P1)。ビデオテープの何度でも再生できるという特徴によって、「生起していた」と記述されることの検証が可能となる。そしてそれができるのは記述した本人以外がビデオを視聴するグループ作業の場においてなのだ。
では、グループ作業の実際の手順はどのようであるか。基本的には映像データを視聴し、それについて参加者がコメントすることによって作業は進行する。J&Hが説明するやり方は以下のようである。
データの保管主がひとり、ビデオテープの走行(再生、早送り…)を操作し、他の参加者はコメントしたいことがあればそこで停止してもらう。次に、停止を申し出た人が映っていた相互行為について仮説を提案する(p.6,P1)。その仮説は映っている映像に基づいて妥当性を議論できるようなものでなければならない。ここでも、あくまでも参与者が相互行為するために利用したリソースは、まさにそれが行なわれている場において観察可能な形でディスプレイされているはずだという前提が適用される。なお、グループ作業をしているあいだにたくさんの仮説がでてくるので、それは後の分析のために録音しておくとよい。グループ作業の場で出されるたいていの疑問は、もう一度フィールドに戻ったり、さらなる調査をするなどしなければ答えられないものだから(p.6,P2)、その場では分からないと潔く認めるべきだ。憶測で答えることほど危険で無駄なものはない。
グループ作業の参加者は、あくまでも映像に基づいて、対象となる人たちの「心の状態」「心の出来事」を語る努力をしなければならない。J&Hが挙げる事例(p.7-8)は、最終的にはノートに同じ答えを書いた4人の学生の会話である。知識のあるなしを議論する際、「そもそもその学生が知識を所有していたか」という問いは無意味だ。この問いは、相互行為分析の前提にしたがえば、このように言い換えられなければならない。すなわち、学生は自分たちの「知識」を相互行為の中でいかにして提示し合っているか。事例では、ひとりが正答を言ったあと、なにもコメントせずにノートに書く作業を続ける者と、何と言ったのか聞き返す者とがいた。後者の行為は答えを「知らない」ものと、参与者にとっても観察者にとっても解釈できる。相互行為分析は動機や意図などを語れないというわけではなく、あくまでも映像に基づいて語るのである。
2.4 ひとりでの作業
グループ作業で録音した議論のなかから、自分の分析に有益な部分をつまみ食いする(p.8,P2)。ここまでの手順は一方向的なものではなく、グループ作業で出されたコメントを検証するために、もう一度フィールドに戻ったり、別の事例についてひとりで検討してみるといったように、行きつ戻りつの道筋をたどる。
さて、観察する過程は何を見たいかに左右されるわけだが、分析を進めていくにつれある程度見るべき場所が絞られてくる。この過程において、何が相互行為のパターンを形成し、何がランダムで、何が不明の原因によるものかを評価しなければならない。こうしてできた仮説は、同じデータにある他の事例にあてはめてみて一般化可能性を確認する必要がある。たいていの場合は、複数のデータをあたって頑健性を確認する(p.8,P3)。ゆえに、相互行為分析とは、複数の経験的観測から一般的なパターンについて述べる、帰納的過程だと言える(p.9,P2)。
J&Hが挙げた分娩室の事例では、そこに電子モニターがある場合、助産師は子宮収縮が起こるとモニターに目をやる、というパターンが一事例から導出できた。それは別の病院や、他の国の病院でも見られた、一貫した行動であったことが分かった。そうでない場合には、それなりの理由が見つけられる。次の段階として、電子モニターを使っていない現場を検討することがある。そこでは、子宮収縮が起こると女性に注意が移っていた。最終的に一般化すると、ハイテク機器がある場合には、参与者の注意は患者ではなく機械の方へ向くという仮説が出された。
2.5 書き起こし
仮説を例証する上で決定的なデータがいくつか集まったら、書き起こし作業の段階に入る。書き起こすべき要素は、例証したい仮説とデータの性質に大きく依存するが(音声だけのデータで動作を書き起こそうとしても無理な話だ)、最低限、参与者名とその発話は欠かせない。関心に応じて、非言語行動や道具の操作について注釈を加えてもよいし、コンピュータを介した相互行為を対象としたなら、コンソールとディスプレイも書き起こしておきたい(p.10,P1)。
ここでひとつ問題になるのは、何をどの程度まで書き起こせばよいのか、ということだ。何かを書くことは別の何かを書かないことだと述べたが、これに過剰に気を取られると、結局何も書けない、あるいは余計なことまで書きすぎるという最悪の事態になる。まず、どのような分析をしたいかをはっきりさせておく必要があるだろう。書き起こしは、出来事の再現などではなく(ビデオすら再現ではない)、仮説を例証するためのデータなのだ。どのような分析にも適用できる、標準化された書き起こし方法などはない。むしろ、目的に照らして、今目の前にある「この」書き起こしがどれほど適切であるかを問うべきである(p.10,P2)。
とは言え、多くの研究者が採用する書き起こしフォーマットがあるにはある。会話分析で多く用いられるのが、Jeffersonのシステムである。詳細は、西阪(1997;2001)を参考にしてほしい。だがこれとても十分なものとは言えないので、p.58からの付録を各自参照してほしい。
書き起こしは、やれば分かるが、大変な作業だ。講演やインタビューなどを専門に書き起こしてくれるトランスクライバーという職業があり、現在ではそうしたところへ下請けに出す研究者もいる。だが、書き起こしをしているうちに新たな仮説や洞察が得られると場合も往々にしてある。せめて学生のうちは、すべて自分で書き起こすようにすることを薦める。しかしやはり大変な作業であることには変わりない。J&Hは、必要な部分はとにかく細かく、その他は必要な分だけ書き起こすことにしたという(p.11,P1)。
現在では、コンピュータの高速大容量化にともない、ビデオ編集から書き起こしに至るすべての作業をコンピュータ上で行うことが当たり前になってきた。10分程度の映像なら、速度の遅いノートブック型コンピュータでもそれほど支障なく再生できる。音声のみならば30分程度は記録できるだろう。後の処理を考えると、はじめから電子テクストで起こした方がよい。現在、書き起こしを補助してくれるソフトウェアとして「SndPlay」、「おこしやす」などがある。これらを有効に活用すれば、多少は作業の負担を低減できるだろう。
2.6 ビデオ・レビュー
撮影した映像を、そこに映っている参与者自身に見せるという方法が、ビデオレビューである。ビューイング・セッションなどとも呼ばれ(Erickson&Schultz,1997)、固定した名称はないと思われる。
そのときの視点や意識していることを参与者に発話させる方法が、ヴントらによって内観法として初期の心理学研究に用いられたことは有名である。行動主義から新行動主義(現在の認知心理学もここに含まれてしまう)にかけて、内観法は廃れてしまったわけだが、それは研究の対象を第三者が客観的に観察できるものに制限したからだ。その後、認知心理学にもいわゆるプロトコル分析(被験者に作業をさせながら注意の移り変わりなどをその都度報告してもらい、その発話を分析対象とする分析手法、海保・原田(1993)に詳しい)が導入された。ビデオ・レビューの場合は、かつてその人が行ったことについて説明してもらう点が、内観法やプロトコル分析と異なるところでもある。
グループや個人での作業においては、特に動作の分析には顕著であるが、出来事に対してエティックeticな見方がなされる。たとえば、相互行為の最中に右腕を挙げたとき、観察者の記述は「右腕を上に持ち上げる」というレベルにとどまる。一方、行為の当事者は右腕を挙げた場面を見て、「ああ、このときは右脇がかゆかったから、掻くのに腕を上げたんだ」と説明するかもしれない。この記述には、腕を上げたことになんらかの意味を付与しようという態度があるようだ。こちらは人類学的に言えばイーミックemicな見方である。ちなみに、eticとはphon"etic"、emicとはphon"emic"に由来することばである(p.11,fn.16)。
重要なのは、当事者による説明が事実だとは考えてはいけないということだ。過去の出来事について、そのときの意図を忘れているからとかそういうことではない。そもそも、内観法やプロトコル分析にも言えることだが、その発話はあくまでも研究者に向けた「説明」として、その場その場で構成されているのである。
ビデオを用いない単純なインタビュー形式によって、対象としたい出来事を想起してもらうということもあろう。当事者の発話は、ビデオを用いようが用いまいが、基本的に研究者が仮説を例証するためのひとつのリソースに過ぎないのである。ただ、ビデオを視聴することが、当事者と観察者の両者にとって、「過去の出来事を語る」という活動を進める上で効果的なリソースとなりえており、そういうものとしてビューイング・セッションを理解するべきである。
具体的な作業であるが、研究チームに当事者を呼び視聴セッションに参加してもらうか、あるいはフィールドに赴いてインタビューをしながらビデオを見てもらう。当事者が重要だと思うところでテープ走行を止めさせる方法をとる研究者もいる。この方法だと、当事者が出来事の何に意味を見ているのか追うことができる。さらに、分析する人間には分からない、当事者が何をリソースとしたかを知ることもできる。たとえば、医者と患者とが診察している場面をそれぞれに見せると、テープを止めた箇所は同じだったにもかかわらず「なぜ」止めたのかという理由の説明は異なっていたという例をJ&Hは出している(p.12,P1)。
3.0 なんでビデオなの?
どういうとき、ビデオを用いた相互行為分析を採用すればよいのか?厳格な基準があるわけではないが、J&Hは自分たちの経験から3つを挙げている。
3.1 出来事の再構成
出来事の参与者が行う、自分たちの行為についての説明と、実際の行為とがずれているようなときに、相互行為分析を採用すると効果的だ。ひとびとの語ることはあくまでも行為についての「説明」である(2.6の議論を参照)。実際に起きていたことに関心がある者にとっては、映像がなによりのデータである。
われわれは何かを見るとき、必ずそこになんらかの「物語」を見ている。他者の行為についても、バラバラの動作の連続ではなく、意味(あるいは、意図)を背後に含む行為として解釈しながら見ている。したがって、フィールドノーツとして直接観察した出来事のデータを作ったとしても、そこには「物語」が混入するのである。もちろん、映像を見てそこから解釈するときにもそうした物語の混入はあるはずだ。しかし、より現象に近いものを解釈の対象としたい、そうした研究者にとってビデオを用いた相互行為分析はふさわしい(p.13,P1)。
3.2 一次データの保存
一次データを何度でも見られることも、ビデオの有利な点である。複数の研究者で共有したり、協同作業したりできるほか、早送り・コマ送りも可能である。これによって、分析を修正できるし、より深い分析も可能になる(p.14,P1)。
3.3 相互行為の複雑さ
ビデオの威力がもっとも発揮されるのは、大勢の人間が同時に立ち働く場面を分析するときである。たとえば、職場や教室など、さまざまな社会・制度的場面には、たいていの場合二人以上の参与者がいる。ビデオを使わずに、かれらの行動を追うことはほぼ不可能であろう(p.14,P2)。
また、動作そのものが複雑であること、それを記述する言語を持たないことも、ビデオが必要な理由である(p.15,P1)。
4.0 ビデオと現実
ここまで、ビデオを用いることの利点を述べてきた。しかし、ビデオを採用したことによる制約があることにも自覚的でなければならない。紙と鉛筆によるフィールドノーツに出来事のすべてを書ききる能力がないと言うならば、ビデオカメラも現象のすべてを映し撮る能力はないのだ。あくまでも相対的な違いに過ぎない。むしろ、ビデオカメラというテクノロジーだからこその制約もまたある。
4.0および5.0ではこうしたビデオカメラ使用の欠点あるいは制約について述べる。利点と同時に欠点をおさえておくことが、テクノロジー使用には肝要なことだと思う。
4.1 人的制約
カメラをある方向に向ける、という作業は、別の方向には向けないということを意味する。これは、フィールドノーツによる記述で指摘したことと本質的に同じことだ。見ようとしていることが現象の記録に決定的な影響を及ぼすのである。重要なことは、現象の「すべて」を記録しようなどと、はじめから気負わないことだ。われわれにできることは(ビデオというテクノロジーをもってしても!)、とりあえず得られたデータから何が言えるか、これに焦点を合わせることのみなのである。
とは言え、そうした仮説を例証するための証拠は多い方がよいことは確かだ。カメラを操作する人間のバイアスを抑えるためにJ&Hが提案するのは、たとえば、フィールドノートをつける、固定カメラにする、カメラを2台にする、同時にテレコで録音するなどして、情報を落とさない工夫である(p.15-6)。
カメラをどこに向けるかが操作者のバイアスを示すひとつの証拠だと、ポジティブに考えてもよい、J&Hはそう述べる。彼女らが挙げる分娩室の事例では、出産の際に生まれてくる赤ちゃんをカメラで映していたために、母親と看護婦のやりとりは映せなかったという。しかしこれは、どうしても赤ちゃんを見てしまうという文化的バイアスの存在を示すひとつの証拠となるのではないか。同様なことは発達研究にも応用できそうだ。たとえば、子どもにカメラ(スチール、ムービーいずれも)を渡し、遊び場面を撮らせるといった方法が可能かもしれない。遊び場の風景を子どもがどのように見ているのか、かれらなりの世界の切り取り方が映像に反映されているかもしれないのだ。
4.2 技術的制約
通常のビデオ機器は、あくまでも映像と音声を記録するために作られた道具である。そのため、状況を構成するいくつかの要素、たとえばその場の匂いや温度、物の肌触り、人の気配を記録することはできない。温度を測定したい場合はサーモトレーサーで撮影されたサーモグラフィを見ればよい。だが、何より高価であるし動き回る対象には適用しづらい面があるので現実的ではない。結局、視覚・聴覚以外の情報については、フィールドノーツなど補助的手段で記録しておくのが、現在もっとも妥当な方法だろう。どんなにいい機材を使っても、すべてを満足させることはできない、このことを自覚すべきである。
もう一点の注意として、逆説的だが、ビデオはすべてを映してしまい過ぎる、ということがある。相互行為分析において知りたいことは、あくまでもある参与者の振る舞いを明らかにすることだ。具体的には、参与者がその場の何をリソースとして用いつつ行為したかが分かればよいのだが、ビデオにはそうしたリソース候補がふんだんに映りこむ。たとえば、夢中になって仕事をしている参与者や、パーティションを挟んで座る参与者など、その場で起きていたことのすべてをリソースにはできない場合が考えられる。しかしビデオは、パーティションを挟む二人の参与者を同時に映すことができる。観察者はこのようにしてある状況を特権的に俯瞰することができるが、その視点を参与者の視点と混同することはあってはならない(p.16,P3)。
5.0 カメラ効果
多くのフィールドワーカーが抱える問題が、このカメラ効果である。参与者にしてみれば、見張られている、悪く言えば監視されているという感想をもらしてもおかしくはない。デリケートな制度的状況、たとえば病院や障害者施設にカメラを持ち込むときにはしばしば現場にいる人たちからの拒否の態度がともなうし、法廷や取調室などはじめから撮影が許されていない場もある。
本当に参与者はカメラを意識しているのか?確かに、撮影開始時にはカメラから背を向けて動く、あるいは逆にカメラの方に頻繁に視線を向けるといった行動が観察される場合がある。これはカメラ効果のひとつだろう(p.17,P1)。
しかし、時間が経過するにつれ、カメラの存在に慣れることもある。このことは、カメラを固定させた場合、最低でもファインダーの後ろに撮影者がいない場合にはだいたいあてはまる。カメラが参与者にとってインテリアの一部となってしまえば、それほど特別に意識されることはないのだろう。その意味で、もしも参与者が限られた空間のなかで活動するなら、三脚や壁にカメラを据え付けた撮影は非常に有効である。広角レンズなどを用いてなるべく参与者の動きそうな空間全体がファインダーに収まるようにしておく。活動時はずっと録画状態にしておいて、観察者はその間、フィールドノーツで記録したり、もう一台カメラを用意し、固定カメラではフォローできない細かな作業などを録画したりするのがよい。
カメラが与える影響は、結局、研究者が研究の目的に照らして臨機応変に考慮すべき問題である。無視してもいけないし、慎重になりすぎても意味がない。結局、どのような記録方法でも、その場に研究者が赴いてデータを収集する以上、それはすでに場の相互行為の中に組み入れられているのだから、出来事に与える影響を避けることは不可能である。重要なのは、こうしたことをふまえた上で分析や解釈をすすめることなのだ(p.19,P2)。
6.0 分析の焦点
本節のタイトルに、なぜ「焦点」という単語が用いられているのかを説明しておく。J&Hは、たとえば分析の「カテゴリー」という単語を用いてもよかった。しかしそうしなかったのは、この単語(カテゴリー)には、次のような含意が読み取られるからである。
たとえば、心理学の実験においては、被験者の行動は実験者の観察によって、あらかじめ設定されたいくつかのカテゴリー(正解・エラーなど)に落とされた後、分析がなされる。これにしたがえば、被験者の行動について、その意味を決定するのは、(いかに分析カテゴリーの妥当性が保証されようとも)実験者である。このように、J&Hはカテゴリーということばに、相互行為する当の本人の意味世界を無視した、研究者による(ことばは悪いが、勝手な)意味づけ作業を見て取ったのだろう。
しかし、ウィトゲンシュタインを援用しながら、ハロルド・ガーフィンケル(1964/89)が述べたように、実験の被験者が用いる記号の用法は、かれ自身がしたがう「言語ゲーム」内において合理的なのである。したがって、実験者と被験者の各言語ゲームが共通している保証がない以上、実験者が用意する分析のカテゴリーに被験者がいかにしてしたがっていたのか、は問題として立ち得ない。あくまでも被験者自身の用いるカテゴリーは何か、がエスノメソドロジーの問題である。
J&Hが用いている「焦点」ということばは、まずもって、相互行為する人びとが行為の手がかりとして用いていることがらを指している。つまり、人びとが世界を見る焦点のことだ。そして、この焦点は相互行為に参加する人びとに観察可能である限りにおいて、観察者にも観察可能となる。ゆえに、観察者にとっても分析の焦点となりうるのである。
以下、この意味における「焦点」として、「出来事の構造」「活動の時間的組織化」「ターンテイキング」「参加構造」「トラブルと修復」「活動の空間的組織化」「アーティファクトとドキュメント」の7項目について概観していく。もちろん焦点はここで挙げられたものに限られるわけではない。ぜひとも自分自身の焦点を今後の分析を通して発見してほしい。
6.1 出来事の構造
人間の運動は連続していて切れ目などない。しかしわれわれは動作に対して文脈に応じたなんらかの名付けをすることによって、未分化な連続を秩序立てられた非連続に変えている。それがわれわれの持つ、時間という感覚であろう。
相互行為を枠付ける時間感覚について、Erickson&Shultz(1982)はカイロスとクロノスの二種類を区別している(pp.72-3)。カイロスとは「さっきでも、次でもなく、まさに今」のように指示される時間感覚であり、相互行為の時系列的な順序性を説明するのに適した語である。一方クロノスとは時計で計られるような時間のことを指すが、これは相互行為に潜むリズムや周期性を示すのに用いられる。このようにErickson&Shultz(1982)は、どちらの道具立ても相互行為分析には必要だと述べた。
J&Hが本節と次節で述べるのは、Erickson&Shultz(1982)が指摘したような相互行為における時間的な順序性と周期性についてなのだが、これらふたつの時間感覚が検知する非連続なまとまりには、相対的に大きなものと小さなものとがありそうだ。相対的に大きなものうち、この6章1節では「出来事event」と呼ばれる単位に焦点が合わせられる。
相互行為する者が意味ある単位と見なし、またそれが意味ある単位として流通する相互行為のまとまり、それが出来事である。食事ということ、食卓をしつらえるということ、食べ物を口に入れるということ…、いずれも出来事であるが、これらの間には連鎖的な関係や階層的な関係、入れ子の関係などさまざまある。重要なことは、本章冒頭で述べたように、出来事は相互行為の参与者にとって意味ある単位だということだ。J&Hによれば、参与者が容易に同定できる行動の単位は「エスノグラフィック・チャンク」と呼ばれる。これを同定する作業が分析への最初の段階であり、実際われわれはすでに映像データから目次ログを作る際にこの作業を通過しているのだ。
さて、具体的な手順としてJ&HはBamberger&Schon(1991 ※oにはウムラウト有)の議論を引用する。かれらはまず、書き起こしに基づいて「なにか新しいこと」が起きた時点にしるしをつけていったのだが、この段階では区切る基準を考えない。つまり直感にたよる。分節の基準をはっきりとした形で書きつけるのは次の段階での作業となるという。あくまでも参与者にとって意味ある単位を出来事と呼ぶので、エスノグラフィック・チャンクを同定するには、その文化の知識が当然ながら必要となる。そのためには、入念にフィールドワークするか、グループ作業するのがよいだろう。
6.1.1 開始と終了
観察者が単位を同定する上でもっとも有力な基準となるのは開始点と終了点の確定であり、それらに挟まれた間になんらかの名付けをすれば出来事となる。たとえば食事という出来事を開始するには、公式的には「いただきます」といった挨拶が、非公式的には最初の一口を成立させる箸の把持が必要である。同様に、「ごちそうさま」や食器の片づけが終了点をわれわれに示す。
ここで、公式的な開始や終了を宣言することと、相互行為のなかである出来事が始まったり終わったりしたと見なされることとは、一致する必然はない。「いただきます」と言った後で、実際に食べなくてもよいのである。ただし、その場に居合わせた者からすれば、これは奇妙であるだろう。また、「いただきます」ということばには他者からの「はい、どうぞ」という応答や、あるいは他者も同時に宣言するといった、それが開始の宣言であることの認証が伴われることもある。このとき、もしも「はい、どうぞ」という応答がなければ、食べ始めにくくなるかもしれない。
つまり、「いただきます」と宣言したとしても、それによって食事という出来事が自動的に動き出すわけではないのだ。
6.1.2 分節化
連続する時間の流れをあるまとまりに分節化することsegmentationは、相互行為の参与者が実際にしていることだという見方は、くどいけれども相互行為分析の前提から導かれる必然である。もちろんそうした分節化作業も相互交渉されなければならない。この交渉過程で用いられる、分節化を知らせ合うための手続きやリソースを明示化することが、観察者の実際の作業目標となる。
食事場面の例を続けよう。食事という出来事は、(料理を作る)、お膳を揃える、開始宣言、摂食、終了宣言、(片づけ)という下位の出来事に分節化できそうだ。しかし参与者はこの手順にしたがっているのではなく、これをひとつの図式として用いている。これが相互行為分析の採用する見方だ。同様に、身体動作やその空間的配置(たとえば、視線など)や、さまざまなアーティファクト(物を片づけるなど)も、出来事の区切りを交渉する際のリソースとなりうる。また、これらは観察者が分析に用いる焦点でもあるのだ。
もちろん、分節化の交渉がうまく達成されない場合もあるだろう。しかし、それを「トラブル」と見なすためには、同時に、出来事としての全体性を修復するためには、やはりさきほどのようなリソースが用いられるのである。そして、分節化の失敗あるいは成功によって、リソースを共有する実践コミュニティのメンバーシップであることもお互いに可視化される。
6.2 活動の時間的組織化
6.2.1 マクロレベルでの構造
ここで言うマクロレベルでの時間構造には、たとえば1年を単位とする周期(季節、移住など)から、カレンダーに書き込まれたスケジュール、学校や職場の1日の構成するプログラムなどが含まれる。
マクロレベルでの時間構造に研究の焦点を当ててきたのは、従来は社会学者だったという。かれらがあくまでもマクロをマクロとして扱うのに対し、相互行為分析におけるマクロとは、瞬間瞬間において達成されるものとしてのマクロ、あるいは行為を秩序づける際のリソースとしてのマクロである。たとえば学校での時間割を考えてみよう。当然ながら時間割という概念それ自体に、時間を割る能力はない。しかしわれわれは、時間割を目に見える形に表し(紙に書かれた表やチャイムにより)、そこに行為の体系づけに用いるべきリソースとしての正統性を見いだす。もちろんこの正統性も社会的な交渉において確認されるものである。通常の社会学がマクロのマクロ性を前提として議論を進めるとすれば、相互行為分析においてはそれが成立するための要件を微視的な行為のうちに発見しようとするのだ。俗に言うマクロ-ミクロの接合は、相互行為分析においては以上のようにしてなされる。
マクロレベルでの時間の秩序は、ある特定の出来事が特定の時刻に起こるように調整する参与者の振る舞いとして観察される。こうした調整を参与者自身がどう経験し、どう可視化しているのかが具体的な問題となるのだ。
6.2.2 リズムと周期性
人間活動におけるリズムと周期性には多様なレベルが見られるし、また多様なリソースによって構成されている。物理的、生理的なレベルでも、制度的なレベルにおいても、周期性は構成されている。
もちろん、周期性の同定には連続する時間に区切りを入れる、すなわち分節化(6.1.2を参照)というわれわれの実践が前提とされる。周期性を問題とする場合には、実践上の前提がもうひとつ必要となる。二度と同じことは起こらないはずなのに「同じこと」が反復すると見なす、そういう実践である。たとえばJ&Hが挙げる例では、赤ちゃんがスプーンを口に運ぶ動作にたいして、「食べる」ことの反復か、それとも「(スプーンを)もてあそぶ」動作へ切り替わったのか、両親が評価していた。このように、本節で挙げる他の焦点と同様、物理・生理的レベルであったとしても、周期性には意味の社会的な交渉過程が分かちがたく含まれているのだと言える。
周期性の事実とは、確認したように、交渉されなければならない。交渉過程は、反復される「同じこと」の同定と、ある具体的な行為をその「同じこと」のカテゴリーに含めるかどうかの判断から成るだろう。同定と判断から成るこの過程から、次に何が「同じこと」として出現するかの予期が生じる。すなわち、反復される「同じこと」とは、交渉を通じて構成されるはずの何かであると同時に、それを用いて自らの行為を導くリソースでもあるだろう。
周期性として概念化することにより、出来事と出来事の「あいだ」という一種の出来事に焦点をあてることができる。忙しい時間帯に対する暇な時間帯、授業中に対する休み時間などは典型的な「あいだ」である。しかし一方で、この出来事とあいだの関係はそれほど明瞭でもなく、あいだを構成すると一般には考えられる行為が出来事のなかに侵入しつつも、さもその出来事が進行中であるかのように振る舞うといった事態がありうる、このようにJ&Hは指摘している。たとえば、授業中に机の下で漫画を読みふける生徒の事例がそれである。このことも、周期性が社会的に構成されていることから理解することができよう。
活動の周期性は実践への参加過程へも密接に関与している。J&Hが指摘するように、新参者が実践についてかれらなりの意味を形成する際に、周期性は知らねばならない対象でもあるし、自らを実践のメンバーとしてディスプレイするための有効なリソースでもある。また、先述した「あいだ」は、実践への直接的な関与から離れて、熟練者が新参者に指導することを可能にする。
以上見てきたように、活動の時間的な組織化過程は相互行為分析の重要な焦点となりうる。Erickson&Shultz(1977)が指摘したように、時間とはひとつの文脈(When is context)である。つまり、行為の適切さは、今がどのような時間なのか、およびいつそれを行うべきかという、ふたつの意味で時間に依存する。この点で、われわれの行為において構成されつつそれを枠づける時間は相互行為分析の焦点である。
6.3 ターン・テイキング(順番取り)
1978年、雑誌Languageに1本の論文が載った。A simplest systematics for the organization of turn taking for conversationというタイトル、著者はハーヴェイ・サックス、イマニュエル・シェグロフ、ゲイル・ジェファーソンの三人である。この論文を皮切りに、一見無秩序に流れるだけのような日常会話に、科学の対象としての地位が与えられた。ここでターンとは、会話の場において発話する番を指す。Aさんが話し、次にBさんが話す。この意味での「番」である。サックスらが提起した問いは、会話において発話の順番はいかにして決められていくのか、というものであった。通常の日常会話では、こうした発話順があらかじめ決まっていることはない。また、たとえば式次第のような形式であらかじめ「決まっていた」としても、ここまでの議論をふまえれば分かるように、式次第自体は相互行為を導く上でのリソースに過ぎず、いかにして式次第を実行するかという問題はまた別に立てられなくてはならない。
さてサックスらが提起した、発話の順番取りが可能になるためのシステムとは以下のような要件から構成される(以下は、高原・林・林(2002)pp.136-7からの引用)。
1 話し手はターンを交替でとり、その交替は繰り返される。そして少なくともターンの交替は発生する。
2 一方の話し手だけが圧倒的な頻度で話すことがある。
3 2人以上の話し手が同時に話すこともあるが、そのような同時発話は長く続かない。
4 1つのターンから次のターンに移動するときは普通ギャップやオーバーラップが伴わない。たとえ、わずかなギャップやオーバーラップがあっても大抵は問題なくターンが移行する。
5 ターンをとる順番は多様で決まっていない。
6 ターンを持つ長さは多様で決まっていない。
7 ターンにおける発話の長さは前もって決められていない。
8 会話者が話すことは前もって決められていない。
9 ターンの割り当ては前もって決められていない。
10 会話への参加者数は変化する。
11 ターンにおけるトークは切れ目なく続くこともあれば、中断することもある。
12 ターンの割り当てには、決まったテクニックが使われる。
13 「ターン構成ユニット」の長さは1語の場合もあれば、文の場合もあり、その長さは多様である。
このうち、12に登場するターンを割り当てるテクニックとは以下のようなものである。
(1)最初のターン構成ユニットのターン交替には次のシステムが働く。
a ターンを持っている話し手が次の話者を選ぶ場合は、選ばれたその話者だけがターンを取る義務と権利を持つ。
b ターンを持っている話し手が次の話者を選ばない場合には、その話し手以外の会話の参加者全員が自分から次の話しのターンを取る権利をもち、最初に話し始めた者がターンを保持する権利がある。
c ターンを持っている話し手が次の話し手を選ばず、かつ、会話の参加者のなかに次のターンを取る者がいない場合には、現在ターンを持っている話し手がターンを持続することができる。
(2)最初のターン構成ユニットのターン交替においてcが作動する場合には、その次のターン交替に再びa~cが適用され、それ以降もターン交替にはその適用が繰り返される。
注意したいのは、上記前半の12項目は現象の観察から得られた一般的な結論である一方で、後半の2項目は「一度にひとりが話し、話者は交替しうる」という現象が成立するための条件だという違いである。実は後者は現象だけをいくら見ていても、帰納的作業によっては抽出し得ない。現象から得られるのは、前半12項目のように、会話の多様性だけだ。多様を作り出しうる原理的なものを見つけようとしたのが、サックスらのこの論文の主眼なのである。
さてJ&Hの議論に入ろう。相互行為分析の場合、順番取りは発話のみならず、非言語的な行為の交替としても観察される。ジョーダンは、発話、非言語行為、道具使用などすべてを順番取りを構成する要素ととらえた上で、相互行為を活動を媒介するものの別によってふたつのカテゴリーに分けている。ひとつは、言語が主要な媒介物となる相互行為で、「会話型相互行為talk-driven interaction」と呼ばれる。たとえば、インタビューや会議などがそれである。もうひとつは、道具を主要な媒介物として達成されるもので「道具型相互行為instrumental interaction」と呼ばれる。外科手術や宿題などがそれだ。むろん、あらゆる相互行為には発話、動作、道具のすべてが用いられているのだが、何が中心的な媒介物かによって分けているのである。
この区別、特に道具型相互行為というカテゴリーは、多様なテクノロジーを媒介として成立する仕事場などの分析には有効だろう。たとえばJ&Hはこうした場合における順番取りの特徴として次のような現象を指摘する。発話によるターンの次に非言語的行為によるターンが伴われることが多い(Aさん「スイッチを押してください」→Bさん、無言でスイッチを押す、など。行為→発話の順もある)。相互行為のトピックが会話型よりも長く維持される。沈黙の時間帯が長くなる。進行中の相互行為が道具によって中断させられる(電話、故障など)、など。
ある特定の役割を担う参与者が順番を管理する状況もある。会議における司会、授業における教師などがそうした役割に含まれる。特に、生徒の話す順番を決定する、すなわちフロア(発言権)を配分する教師の役割について多くの文献で指摘されている。注意したいのはフロア配分はあくまでも分配者とそれに従う者との相互的な達成だという点である。フロア分配者としての役割を、そもそもある具体的な人物が担っているわけではない。「教師」という役割が「生徒」との関係のなかで相対的に規定され、そうした実践に共同で参与する状況が成立して初めて、「教師」になった人物がフロアを配分することが適切となるのだ。教職員の会議など、授業ではフロアを管理していた同じ人物が、今度は司会者-参加者という新たな役割関係の下に自らを置くことによって、勝手にフロア配分者という役を獲得することはできない、こうした事態を想像すればよい。
6.4 参加構造
本節でJ&Hは参加構造participation structureに触れている。参加構造とは、「相互行為の場で動的に展開する、参与者の関与のしかたの全体的な配置」のことである。たとえば、教室を考えてみればよいだろう。授業という実践においては、ある者に話す権利が与えられる、このことはすでに前節で触れた。同時にこのとき、話者以外にはそれを聞く義務がある。ここで義務とは、実際には聞いていなくても、少なくとも聞く態度をディスプレイしていなければならない、ということを指す。話す権利を有する者と、聞く義務を負う者とは、同時に、しかも相対的に決定される。「全体的な配置」が指すところはここである。
J&Hによれば、参加構造にはある活動に関与するかしないかという問題も含まれる。「全体的な配置」がどこまで広がりを持つのかという問題である。かれらが提示した事例では、分娩室というひとつの部屋に、ふたつの参加構造が観察された。ひとつは出産を控えた女性とその夫、もうひとつは医者や看護婦などのスタッフである。構造間の境界は、会話の相手に誰が選択されるか、少し広く言えば相互行為の相手として誰が志向されるかとして可視化される。この境界は互いに入り込んだ関係にもある。医者たちの参加構造のなかに妊婦が位置づいているのは確かだが、相互行為の相手としてではなく、あくまでも医者たちが相互行為によって解決すべき課題としての位置にあるのだ。
このように、観察した範囲で、同時に複数の参加構造が生起することは往々にしてある。このとき、参与者がいずれにも相互行為の相手として参加できる場合もあれば、そうでない場合もある。また、人間同士が空間的に近接していなくても参加構造が成立する場合もある。たとえば電話を介したコミュニケーションが典型的な事態だろう。
相互行為分析の関心は、以上のような参加構造の形成と維持、あるいはそれらの横断を、参与者がいかにしておこなっているのか、という点である。
6.5 トラブルと修復
実践の円滑な遂行が妨げられる経験がトラブルである。だが行為自体はトラブルのあいだも途切れなく進行している。あくまでもトラブルとは参与者がある現象をそれとして意味づけることで可視化される出来事である。トラブルが相互行為分析の焦点となるのは、それを修復repairする過程から、ひとびとが行為を組織化する際の暗黙のルールや用いられていたリソースが見えるからだ。
現象としてのトラブルはさまざまな形態を取る。参与者がしばらく沈黙してしまったり、似た行為を繰り返したり、物理的にコンピュータが操作不能になったりと、いずれもトラブルと目される出来事である。このように相互行為分析では言語的なトラブルのみならず、非言語的な側面でのそれも対象となる。そこには、すぐに修復されるために多くの場合気づかれないものも、なかなか修復されずに強く自覚されるものもある。
一般にはトラブルとは見なされないが、同様に、行為を組織化するのに日常用いられるルールとリソースを明らかにする出来事として、新参者の参入事態がある。たとえば新入園児が園のさまざまな慣習と出会ったとき、何にとまどい、何にとまどわないかは、園独自の慣習が何かを明らかにするだろう。
6.6 活動の空間的組織化
時間を組織化していたように(6.1~6.2を参照)、われわれは活動のなかで空間も組織化していると言える。ここで組織化されるものには、たとえば身体間の距離や(いわゆるパーソナル・スペース)姿勢といったことがある。
J&Hはいくつかの論点を挙げている。たとえば、航空管制室ではワークステーションという不動のアーティファクトを中心に身体的配置が規定されている(逆に、動かすことのできるアーティファクトなら、そちらを移動させて人間の配置は変えないということがあり得るだろう)。また、空間そのものに相互行為する上でリソースとなりやすい場所とそうでもない場所があるようだ。上座-下座やお誕生日席として指示される空間がそれである。これら空間的リソースが制度的な構造や権力関係と密接に関係することも指摘されている。仕事場において監督的な立場にいる者は、その場全体を見渡せるような空間を占めることが多いのもその現れである。こうした空間的な位置取りが慣習化し、無標化されているとき、通常はその位置に立つことの期待されていない人間がその場所を占めると、有標化された行為としてきわめて目立つこととなる。やや散漫に羅列してきたが、いずれの空間的側面も相互行為を導くリソースであるとともに、相互行為のなかで調整されるべき対象なのだ。
人間同士の身体的配置が相互行為分析においていかに取り上げられてきたかもう少し見てみよう。二人の人間が同じ活動に関与するとき、姿勢の向きが行為を方向付けることがある。横に並行して並んだり、正面から向かいあったり、一方の後ろに回り込んだりするだろう。こうした配置が、食事、カウンセリング、教育的指導といったさまざまな活動に応じて使い分けられ、調整されているのだ。
自由に動くことのできる領域は不動のアーティファクトによっても決まるが(ふたつの物体が同時に同じ場所を占めることはできないという制約による)、その出来事がどのようなものかによっても規定されている。熱心に議論する会議室に堂々と入っていくことができるだろうか?授業中に生徒が各自の机を離れて歩けるだろうか?もちろん、原理としては可能であろうが、出来事を構成しつつ確認する相互行為の過程においては、すぐさま逸脱行為として顕在化するはずである。これを逆に捉えると、何が人間の活動を阻害しているのかという問題が立ちうる。たとえば、教室に置かれた机の配置が、実は活発な議論の生起を抑制しているのかもしれない。
相互行為分析は空間的な物理的配置がどの程度固定的で、どの程度参与者の自由になるのかを検討する。また、このような制約がいかにして参与者の行為に影響し、どのように実際の行為で交渉されているのかを検討する。J&Hはこのように述べた。
6.7 アーティファクトとドキュメント
ここまでの議論でもたびたび指摘されていたが、われわれの環境にはわれわれ自身が作り出したアーティファクトが満ちあふれている。これらモノそれ自体を、活動に関与する一種の行為者としてとらえるのも相互行為分析のひとつの特徴であろう。また、相互行為分析とは関係がないが、同じ発想を共有するフランスの科学社会学者であるラトゥールやカロンが提起するアクター・ネット理論は、顕微鏡や細菌といったモノも人間と同様のアクターとしてとらえ、意味の社会的ネットワークにそれらが入り込む過程を明らかにしようとしている。
アーティファクトと活動との関係は相互行為分析の焦点のひとつだが、われわれの環境には実に多様なアーティファクトが同時に存在するため、まず何が活動と関連しているのかを同定する作業が必要となってくる。机とイスがあるからといって、それが授業中のある相互行為に関連したアーティファクトだということにはならない。同定するためにJ&Hが提起するひとつのポイントは、新しいアーティファクトが活動に導入される事態に注目することである。その上で、活動がどのような変遷をたどるか、どのような場面でアーティファクトが用いられるか、誰が使うか、どのように配分されるか、いかにして相互行為が構築されるか、といったことを問いとすればよい。
気をつけたい点は、アーティファクトの機能はひととおりではない、ということである。たとえば会議に持ち込まれた書類の主要な機能は情報を提示することであろうが、それ以外にも多様な機能を果たす。暑ければそれで顔を扇ぐことができるし、紙を揃える動作は会議の終了を合図する。また、アーティファクトの象徴的な機能にも注意しておくべきだろう。J&Hが例示するように、聴診器の機能は第一に心音を聞くことだが、それを首にかけていることが医者という役割の象徴となる場合がある。
相互行為を規定するアーティファクトの機能に関してJ&Hが特に注目を促すのは、所有と配分の問題である。ある道具を所有すると見なされる役割、ある道具を使ってよいと見なされる役割、ある道具の改変をしてよいと見なされる役割など、アーティファクトをめぐる社会的関係性は相互行為を規定する。また、黒板やモニターなど、パブリックな位置にあるアーティファクトは、複数の参与者が同時に参照することをアフォードするが、ここからいかにして参与者間で注意の焦点を交渉し共有するかという相互行為上の問題が生まれる。
アーティファクトはあらゆる相互行為に関与する。それ抜きの分析は不可能であろう。このことを常に念頭に置かねばならない。
7.0 結論
J&Hが論文を出版した1994年から20年が経とうとしている。その間、このアプローチにどのような進展があっただろうか?実はなにも変わっていないようにも思われるのだ。もちろん、ビデオを担いでフィールドに赴く研究者やひとびとの相互行為に関心を持つ研究者の数は着実に増えている。日本でもいくつかの自主的な研究会が開催されるようになった。
最後に、もう一度確認しておきたいが、ビデオを活用した相互行為分析には、精神や行為や世界に向けられた独特の観点がまとわりついている。これを無視した研究をしても無駄である。認識論と方法論は密接に結びついているのだ。
文献
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Garfinkel, H. 1964 Studies in the routine grounds of everyday activities. Social Problems, 11, 225-250.(北澤裕・西阪仰訳 1989 日常活動の基盤:当たり前を見る 日常性の解剖学:知と会話 マルジュ社 pp.31-92.)
海保博之・原田悦子(編) 1993 プロトコル分析入門:発話データから何を読むか 新曜社
串田秀也 1997 ユニゾンにおける伝達と交感:会話における「著作権」の記述をめざして 谷 泰(編) コミュニケーションの自然誌 新曜社 Pp.249-294.
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高原脩・林宅男・林礼子 2002 プラグマティックスの展開 勁草書房