SAPICAを買った

 札幌市営地下鉄で「のみ」使えるICカード乗車券SAPICA(サピカ)を手に入れた。

 札幌近郊ではすでにJR北海道が「Kitaca(キタカ)」というICカード乗車券を導入しているのだが、SAPICAとの相互利用は今のところできない。だから「のみ」なのである。ちなみに、同じ経営主体であっても、バスでも市電でも使えない。ゆくゆくは使用できるようになるのだろうが。

 さて、入手方法はいたって簡単、切符を買うのと同じ券売機で「ICカード」を選択すればよい。

 カードには「無記名カード」と「記名カード」(と、あと定期券)がある。カード残高が一定以下になると自動的にクレジットカードからチャージしてくれる「オートチャージサービス」を利用したかったため、最初から記名カードを選んだ。

 記名カードを作るのもいたって簡単。券売機でICカード→記名カードを選択した後、画面の指示に従い、自分の名前、生年月日、電話番号を入力すればよい。このとき、文字や数字のキーアイコンが指先の大きさに比べて微妙に小さくて押しづらい。ご高齢の方は悩みそう。

 すべての項目を入力し終えると、自分の名前が印字されたICカードがにゅうと出てくる。

 これをもって、改札上部のICカードリーダ部に触れれば難なく入場。

 駅を出るとき、試しにカードを裏返してリーダにかざしてみた。きちんと認識してくれる。すばらしい。

 というのも、札幌市営地下鉄の自動改札機は、裏返された切符やプリペイドカードを認識することができないのである。技術的な問題なのかなんなのか、とにかくそうなのだ。

 それが、IC化で一気に解決。カードの裏表を気にしなくても良くなった。これはありがたい。

 内地ではSuicaをはじめとしたICカード乗車券がもはや常識になりつつある今、こんなことで騒ぐことはバカバカしいのかもしれないが、はじめて扱った人間からすれば素朴に嬉しいのである。

豆腐もつかめる魔法のお箸

 まあ、魔法ってほどでもないのですが。

 去年の暮れに実家に帰ったとき、サンタさんからもらったのが「エジソンのはし」。

 これはアマネにとって使いやすいようで、使い始めたときから上手に食べ物をつかむことができていました。どうも箸の先が少し平べったくなっていて、すべりにくくなっているようです。掲題のように、味噌汁に浮かんださいの目の豆腐までくずさずつかむこともできます。これはすごい。

 つかむことが嬉しいらしく、隣で食べている親の腕や箸までつかもうとしますので、そこだけ困りものですが。

 知らなかったですが、世の中便利なものがあるもんですねえ。

助動詞「ない」の連用形中止法

 学生のレポートなどを採点していると、ときに、自分にとって「据わりの悪い」日本語表記に出会うことがある。

 たとえば、鉤括弧を閉じた中に句点を追い込む表記。「そうなんですよ、山本さん。」のようなもの。

 私の教わった限りでは、鉤括弧の中の文末には句点を打たないことになっていたはずだった。なので、最初の頃はそのように書いてきた学生には修正させていた。ところが、どうも追い込む表記で習わなくなったらしい。あるとき松井豊先生の『心理学論文の書き方』(河出書房新社)を読んだところ、そのようなことが書いてあった。それ以降は、修正させることはなくなったものの、やはりいまだに個人的には据わりの悪い表記である。

 あと、しばらく前から気になっていた表記として、こういうのもあった。

 レポートを提出しなければならなく、時間もなく、困っています。

 一読、個人的に強い違和感をもつ個所がある。最初に出てくる「なく」である。これが「~しなければなら、云々」という表記であれば違和感はない。また、二番目の「なく」はこのままでも違和感はない。どうしてだろう。

 調べてみると、上記例文の中途に現れる「なく」のような表現は「連用形中止法」と呼ぶらしい。後続するはずの用言を落として連用形だけ残した表現であり(←これもそうだ)、特に珍しいものではない。「時間もなく」の場合は、形容詞「ない」の連用形で終わっている形である。

 どうも違和感をもつのは、「ない」が助動詞の場合のようだ。「花は咲かなく、鳥も飛ばない」。うーん、変だ。

 では、正書法からして誤用かというとはっきりしない。たとえば「教えてgoo」に以下のような投書があり、それに対しては「誤用とは言えない」という回答があった。

  「楽しいときでも笑わなく」が不自然な文法的根拠

 助動詞「ない」を連用形中止法に用いることは、誤用ではないが、慣用されてもいない、といったところだろうか。

本を紹介していただく

 以前、『デザインド・リアリティ』をご恵送くださった慶應の岡部大介さんに、何かお礼はできないものかと部屋をあさっていたら、かつて仲間内で書いた『卒論・修論のための心理学理論ガイドブック』が1冊出てきたので、それをお送りしました。

 そうしたら、ブログにとても丁寧な書評を書いてくださいました。ありがたいことです。

あとがきを見ると、7年もの歳月を費やしているとある。相当の時間を費やして文章を練り上げてきたがゆえの読みやすさでもあろう。

 他の執筆者のみなさんについては分かりませんが、私の章にかんして裏話をすれば、実際に文章を練り上げるのに費やした時間は3ヶ月弱もないくらいです。

 7年間というのは、その間に開催された研究会を通して、浮かび上がる澱を濾しながら執筆者間の共通認識を精製するのに費やした時間です。短期間で擱筆できたことは、編者の方の力によるところが大きいのですが、実際、そういう下地があったことも同じくらい大きかったように思います。

 懐かしいなあ(遠い目)。

 岡部さん、ありがとうございました!

初日終了

 某試験のスタッフを終えて先程帰宅。

 今年は試験監督ではなく本部付きである。試験時間中うろうろできるしお茶も飲める。

 午前、午後と滞りなく進み、このまま無事に終わるかと祈るように18時35分を迎えた。

 具体的な数字は差し控えなければならないと思うが、今年は、出た。

 受験される方にとっては悪夢のようであったろう。お気持ち察するにあまりある。実施する側の者にとっても、
むろん仕事だから粛々とこなすが、気持ちのよいものではない。

 もうこんな心臓に悪い試験は止めよう。本当に止めようよ。誰に言えばいいの?

アニソンカラオケ→居酒屋

 先日、以前から飲む約束を取り交わしていたMさんとすすきのに繰り出してきました。

 2次会でカラオケに行くことはよくありますが、今回は意識がはっきりしているうちに歌っておこうということでまずはカラオケへ。なぜだかアニソンを歌いまくろうという話になりました。

 2人とも最近のアニメはとんと分からないので、どうしても60~80年代の曲に限られます。しかしその頃の歌は、深いメッセージ性のあるものばかり。一番熱かった頃と申し上げてよろしいでしょう。もちろん歌うのは絶叫するものばかり。

 それにしても私個人としては昔のアニソンはけっこう知ってるつもりでいたんですけどね、案外知らない歌もありました。

 2時間で切り上げ、先週に引き続き金富士へ。平日の夜は8割の入りといったところ、ちょうど先客がテーブルを空けてくださったところに滑り込みます。

 ビールと酒をかわし、アテを適当につまみながらあれこれの話をとりとめもなく。3時間ほどで暖簾がしまわれたのをきっかけにお勘定。2人でおよそ3500円。激烈に安いですなあ。

2つのたこ焼きから

 先日、金富士で飲んだ帰りに、飲み直しで平岸のとある飲み屋へ。

 縄のれんをくぐった先のカウンターには1人のおじさん。マスターとなにやら楽しそうに話している。

 この店、いつ来ても客がおらず、しかもテレビではなくラジオがかかっており、落ち着く感じが好みで、飲みながら仕事をしに来たりするのである。この日も論文を読みながら飲もうと思い、やってきた。

 カウンターにつき、レモンハイを頼んだところで、件の先客氏が話しかけてきた。「これどう?」

 お皿に載っているのは大きなたこ焼きが2つ。

 「うまいよ、そこのたこ焼き屋のなんだけど。ああ、こんなことしちゃいけないかな、あはははは」と、マスターの顔を見ながら言う。

 「これはどうもありがとうございます」とお礼を言うものの、実のところ腹はいっぱいである。思い切ってぱくぱくと口に押し込んだ。

 「世の中、なんか変になっちゃったねえ」と先客氏。「ええまあ」と私。

 たこ焼きをおごっていただいた以上、話につきあわざるをえないだろう。コップを傾けながら相づちをうつ。

 「やっぱり家族が大事ですよ」と先客氏。「そうですね」「いや、あなたの顔は大事にしていない顔だ」「ははは」

 「私は島根の生まれ、あなたは?」「茨城です」「ああそう、(中略)で、どこの生まれだっけ?(以下2回同じ質問)」

 「島根というと、宍道湖、境港、出雲大社」と私。「おお、よく知ってる。まあ飲みなさい、何飲んでんの?レモンハイ?なんだそんなハイカラなもの。マスター、ぼくとこちらに熱燗1つずつ」「すいません、いただきます」「やっこ食う?やっこ」「はあ」「マスターやっこ2つ」

 「私は40で結婚したんだけど、60過ぎて子ども育てることになるとは思わなかったよ。あんた子どもは?」「3つが1人」「ああそう、かわいいときだよね」

 「昭和46年、オリンピックの前に札幌に来てね、そのころはすすきのに屋台が出てたんだよ」「そうですか」「ビニールをばさっとかけたやつでね、吹雪の中命からがらその中に駆け込んで食べたラーメンがやたらうまくてね」

 そんな昔語りを聞きながら、結局3杯の酒と冷や奴と厚揚げをごちそうになってしまった。

 「いやあ楽しい、ねえマスター楽しいねえ」「そうすか、よかったすねえ」

 その御仁は南区のはずれに居があるらしく、終電に間に合うよう12時前にふらふらとした足取りで地下鉄の駅に消えていった。

 心配になって見送ったマスターとともに再びカウンターに落ち着く。「なんだか調子のいいおじさんでしたねえ、常連さんですか」と私が言うと、「いや、はじめて」

金富士本店と支店

 このところ、機会があれば金富士に行くようにしている。

 金富士には本店と支店がある。本店はススキノのほぼ中心、
地下鉄南北線のすすきの駅を出て南へ、東宝公楽にそって左手に折れた先の北専ビル地下1階にある。支店は狸小路をひたすら西へ西へ、
アーケードがとぎれてもさらに西へ進んだ先にある。

 本店と支店、両方に行ったことがあるが、品書きやシステムはだいたい同じ。酒を頼めばそれに応じてお通しがついてくるとか、
串ものの作り方(肉のあいだにタマネギを挟む)とか。ただ、微妙な違いもある。本店は酒の種類が多く、ワインやサワーも置いている。また、
総じて料理の数も多いようである。

 昨年末、家族が一足先に帰省した際、院生のHくんとともに支店へ。
カウンターの先客に挟まれるようにして空いていた2つのイスに座る。向かいあった壁に貼ってある品書きに、煮込みの文字が追加されていた。
冬季限定らしく、10月ごろに初めて訪れたときにはなかった。まずは瓶ビールと、煮込み、それに串ものを適当に、忘れちゃならない卵焼き。

 煮込みは想像していたようなモツ煮ではなく、牛肉を煮込んだものだった。んまい。酒に切り替えて2人で7本ほど空ける。
それにあわせて串を追加、加えて湯豆腐に塩辛。

 これだけ食って飲んで2人で4000円ちょっとである。安い。

 昨日は、飲む約束をしていた方が急病になり、蓄積されていた飲む気を発散すべく、ひとりで本店の方へ。
金曜夜7時の店内は激烈に混んでいたが、ちょうど最初のお客さんが帰る頃で、空いたカウンターの端に陣取ることができた。

 まずは瓶ビール、お決まりの卵焼き、それにポテサラ…え、売り切れ?早いなあ。では、とりもつにガツ。
座っているのはカウンター一番奥の席だが、この目の前にはテレビが置かれている。一人飲みにテレビはなかなか重宝なものである。
酒を1本もらい、塩辛で飲む。

 30分ほど飲み、満足して切り上げる。1800円ほど。

非常勤終了

 本日で、4年間つとめた非常勤講師としての授業が終了。30日に試験をして採点を送れば完全にお役ご免である。

 最後の授業の内容はピアジェの発達理論。構成主義とは何なのかというのをぐじぐじと話す。

 講義の最後、「これでこの大学でお話しするのは最後です」と言い、学生にお礼を述べて終えた。非常勤講師室に戻り、スタッフの方にもお礼を述べた。

 札幌学院大学の森先生からお話しをいただき、心理学の概論的な講義を持たせていただくことになったのが4年前。そのときは自身の勉強のつもりで生涯発達について議論しようと思い、レジュメを作り込んだ。そのときのレジュメは、束ねれば一冊の本になる。

 その後の3年間は、発達ばかりでなく基礎系の話もしなければと認知心理、臨床心理、社会心理を広く浅く伝えることに腐心した。おかげで、講義を持っていなければ絶対に買わないような本もネタ本として買い続けることとなった。おそらく、いただいた給料の半分は本代に消えたろう。

 初めの2年間は受講者の数がやたら少なく、ともすると教室に学生1人ということもあった。「どうしましょうか、休講にしましょうか」「せっかく来たので」と笑いあいながら、普通にスライドを使って話をした。

 続く2年間はやたら多い受講生をさばくのに必死だった。試験を難しくしすぎて6割不合格という不本意な結果になったこともあった。申し訳ない。

 まあ、終わってみれば思い出深いのである。

 「心理学の講師」としての力量もだいぶ上がった気がする。気がするだけだけど。それまでは社会文化アプローチだの状況論だの、正統派心理学からはみ出た人たちの話しか知らなかったので、心理学の歴史については無知だったわけである。だいぶ、正統派心理学のいいところと悪いところについて、自分なりに理解することができた。教えることが最大の学びであることよ。

 お世話くださった森先生に深くお礼申し上げます。

卒論発表会終了

 3日間開かれていた卒論発表会が本日で終了。指導した卒論生の出番があったので、のこのこと出て行く。

 4人の発表には、案の定、情け容赦ないコメントがびしびしとつっこまれていた。そこでうろたえる人とそうでない人に分かれるわけだが、それまで打たれ弱そうに見えた人がコメントにすらすらと返答している姿を見ると、成長の片鱗を覗いた気がして嬉しいものである。

 それにしても今年は、特に研究の根幹にかかわる部分につっこみがあったように思う。これについてはひとえにぼくの指導力不足と言うしかない。

 言い訳であるが、今年は特に時間がなかったということがあり、学生のやりたいことを研究の文脈に乗せてあげることがうまくできなかったのである。

 来年に向けて反省。