どこでも翻訳

ただいまJALのラウンジにいるんですが,ここでも翻訳中です。

ラウンジはビールが飲めるのでよいですね。

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ニューマンと私は,(「私たちのヴィゴツキー解釈」では遊びの一つの形態なのですが)パフォーマンスとは新しい存在論ontologyであることに気付きました。つまり,人間がパフォーマンスperformすること,発達をパフォーマンスすることを,私たちからすれば,心理学者たちは取り入れる必要があります。★4このことは私たちの後の研究や執筆のトピックとなったばかりでなく,同時に,私たちの実践の方向性を定めましたし,仲間たちはそれをセラピー,教育,文化的プロジェクトに取り入れました(Holzman ,1997, 2009; Holzman & Newman, 2012; Newman, 2008; Newman & Holzman, 1997, 2006/1996)。

 簡単な要約であるとともに,その後の拡張や最新情報でもあるこの文章によって,『変革の科学者』においてニューマンと私が作り出した用語法や,ときに濃密な文章へと読者を案内してみたいと思います。英語という言語は非常に静的で,時間と空間を表そうとしており,なにより「モノ化」thinifiedされています。ですから,物事の流れ,動き,一元論,統一体,同時性,弁証法的関係性を取り上げようとする人たちにとっては大きな障害となるのです。私たちには,書き言葉で遊ぶ自由,新しい表現法を作り出す自由があります。必ずしもすべてが理解できるわけではないかもしれません。その場合でもおそらく,言語が見方や考え方をどのように制約しているのか,あるいは拡張しているのか,ということについて少なくとも注意が向くでしょう。

★4 ヴィゴツキー自身は演劇に夢中になっていて,『芸術心理学』(1971★邦訳は○○年)という著作は非常に興味深いものです。しかし,(彼が書いたものから言いうる限り)ヴィゴツキーは遊びplayと舞台上の劇playsあるいはパフォーマンスとを結びつけてはいませんでした。

■席捲するヴィゴツキーVygotsky's expanding influence

 この20年間,急速に,しかも予想不可能な形で世界が変わる中で,心理学は自分自身を作り直そうと苦闘してきました。世界とのつながりを保とうとするために,心理学は競合しがちな二つの道筋を切り開いてきました。一つは自然科学との結びつきを保とうとする道です。このことは,脳科学や認知科学,健康科学と心理学との連携に明らかですし,数量化する方法論や「エビデンスに基づく」evidence-based方法論の希求と促進によっても分かります。もう一つの道は,心理学を文化という方向に向けています。このことは,芸術家と手を組んだり,共同研究をしたりすることや,創造性研究が現れたりしたことに明らかです。また,新しい質的方法論が開発されたことからも明らかで,ここには,客観性について心理学がこだわることに対する直接的な反動としてデザインされたものも含まれます。後者の方向性を採用する心理学者や教育者の中には,劇やパフォーマンス,集団過程もしくはアンサンブル過程,人間の発達や学習,クオリティ・オブ・ライフにこうした人間の活動が果たす役割に熱視線を送る者もいます。ヴィゴツキーに由来し,現代の社会文化的(そして,もしくは,文化歴史的)心理学に端を発する概念や方法は,これら二つの道筋に影響を与えてきました。

 心理学において起きた上述とは別の発展によっても,ヴィゴツキー派の考え方が受け入れられていきました。1990年代までの間に,哲学における「言語的転回」linguistic turnが心理学や他の社会科学にも取り入れられました。このような動きにより,言語が哲学的探求の主要な焦点となりました。現実性realityを反映したり,それに対応したりするものとしてではなく,言語は現実として受け止められるものを構成しconstitute,構築するconstructものとして今や見なされているからです。主流の心理学に対して批判的な多くの心理学者がこの考え方によって奮い立ち,自らの抱える不満について理解し,語れるようになりました。心理学が研究の対象を現実のものとして構築し,「現実のもの」として示すのは,その言語,言説discourse,そしてナラティヴを通してなのです。この言語的転回は,主流の心理学に対する主要な認識論的批判である,社会構築主義social constructionismとして今では知られるようなアプローチを生み出しました。

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知識,認知,情動は,いずれも主流の心理学にしたがえば個人の内部に存在するものですが,今やそれらは社会的に構築されるものとして見なされますし,社会的実践としてのみ研究可能なものなのです。客観性という点について言えば,もはや相手にするようなものでもありません。なぜなら,それは不可能ですから。(研究者も含めて)人間は(科学的意味も含めて)意味を作るという主張が「意味する」ところは,人間の主観性が前提として存在するのであり,したがって,客観的科学objective scienceはありえないのです(K. J. Gergen, 1991, 1994)。

 社会構成主義者social constructionistsがただちにヴィゴツキーに気づいたわけではありませんでしたし,ヴィゴツキーを紹介された後で全員が一気にヴィゴツキーを取り入れたわけでもありませんでした。児童心理学者,教育心理学者としてヴィゴツキーが1970年代から90年代にかけて名声を博したにもかかわらず,彼の著作を読む理由はないと考えていたのでしょう。しかし,心理学が言語的転回を認め,それにしたがって探求する上で,ウィトゲンシュタインは重要な人物でしたので,ヴィゴツキーとウィトゲンシュタインとを統合するニューマンと私の試みは注目を集めました。二元論に対する批判や,弁証法的方法論,人間の思考や行為についての社会文化的存在論,(外的な現実,内的な現実を問わず)言語が現実を反映するという見方を排するための完成completionという独自の概念など,『変革の科学者』は社会構成主義者に対してヴィゴツキーのアイディアを紹介しました。★5

 ヴィゴツキーの名が知られ始めた心理学の領域には,他に,青少年young peopleの生活についての研究や,青少年育成youth developmentを促進するようデザインされた学校外での取り組みinterventionについての研究があります。研究と実践のフィールドとしての青少年育成(青少年の健全育成と呼ばれることもありますが)は,学際的でグローバルな現象として急速に広がっています。そこでは,創造性とリーダーシップを発揮する機会を提供するプログラムや組織を通して,青少年を生産的で積極的な活動に従事させています。こうした機会を学校が青少年に対して提供しそこなっていること,および,研究や取り組みの予防モデルprevention modelsに特徴的ですが,十代の妊娠や薬物使用といった問題に一つの視点から焦点を当てることに対する,社会的に組織された対応として見なすことができます。この領域にヴィゴツキーが果たす大きな貢献は,学習と発達の社会性についての理解の仕方,および,効果的なプログラムにおいて支援する大人や仲間との関係性が決定的に重要だという理解の仕方にあります。青少年育成にかかわる実践者は,『変革の科学者』でのヴィゴツキーを知ることによって,青少年が自身を越えたパフォーマンスをできるようにすることが実践者の仕事だと見なし,その方向で組織を作っていくことができます。そこでの青少年は,何者かであると同時にその者ではない存在as who they are and other than who they areであるのです。その仕事ぶりについては後述しますが(pp.xvii-xix),私の仲間たちがオールスターズプロジェクトAll Stars Projectにおいて,このような考え方をもったリーダーとして奮闘しています。サボ・フロレスSabo-Floresは,発達と遊びplayについてのヴィゴツキーの見方を(そしてパフォーマンスについてのニューマンと私の見方を),近年現れつつある新しいフィールドである,青少年の参加的評価youth participatory evaluation(Sabo-Flores, 2007)に導入した人ですが,こうした考え方をもって活動する人たちもいます。

 人間の発達と学習には創造性が結びついているという「新しいアイディア」はビジネスの業界(そこでは市場で成功するためには創造性が重要だと認識されていたわけですが)から現れ,教育と心理学に広がっていきました。ケン・ロビンソンKen Robinsonが簡潔に述べていますが,「学校が創造性をつぶしている」のです(この2006年のTEDトークは,1500万人近くが見ているのですが,2012年現在最も多くの人が視聴したものです★以下,URL)。遊びと幼児期の発達,想像,芸術の心理学に関するヴィゴツキーの著作を知る者にとって,このことはヴィゴツキーの多面性に新たに気づくきっかけとなりました。

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およそ10年前から,ヴィゴツキーの影響を受けた,創造性や発達と学習に関する議論が,認知発達についての平凡な議論をよそにして起こってきました。これにより,新しいトピックや新しいパラダイムが教育心理学にもたらされ,パフォーマンスすることや芸術に注目が集まってきたのです。★6

■「私たちのヴィゴツキー解釈」を深めるDeepening 'Our Vygotsky'

★5 社会構成主義についてのガーゲンの浩瀚な著作(最も新しいのはK. J. Gergen, 2009; M. M. Gergen & Gergen, 2012)の他にも,理論的な嚆矢としてショッターShotterが人間の主観性や,人間の関係性一般,あるいはより最近ではサイコセラピーにおける「他者性otherness」を探求し続けています。そこには,ウィトゲンシュタインやヴィゴツキー,ヴォロシノフとバフチンが現れています(Shotter, 1997, 2003, 2008; Shotter & Billig, 1998)。この点で言えば,ロックとストロングLock, A and Strong, T.も多作です。二人の書いたSocial Constructionism: Sources and Stirrings in Theory and Practice(2010)ではヴィゴツキーにまるまる1章が割かれていることにも注目です。マクナミーとガーゲンMcNamee and Gergenが1992年にTherapy as Social Constructionという論文集☆5を出版してからこのかた,関係論的で,意味を形成するmeaning-making,非客観論的non-objectiveなカウンセリングやセラピー実践が行われていますが,それらは協働的collaborative(Anderson, 1997; Anderson & Gehart, 2007),言説的discoursive(Pare' & Larner, 2004; Strong & Lock, 2012; Strong & Pare', 2004),ナラティヴ(McLeod, 1997; Monk. Winslade, Crocket, & Epston ,1997; Rosen & Kuehlwein, 1996; White, 2007; White & Epston, 1990)という名でも知られるようになっています。

☆5 野口裕二と野村直樹による邦訳が『ナラティヴ・セラピー:社会構成主義の実践』(1998年,金剛出版)として出版されている。

★6 ヴィゴツキー派のジョン・シュタイナーJohn-Steinerはこの方向性での先駆者として研究を進めており,2つの本の共編者にもなっています。その2つの本とは,Creativity and Development (2003)とVygotsky and Creativity: A Cultural-Historical Approach to Play, Meaning Making and the Arts (2010)です。かつてはジャズミュージシャンだったソーヤーSawyerは,このところ,創造性と即興についての著作を幅広い読者に向けて書いています(R. K. Saywer, 2003, 2007, 2012)。最近ではニューマンと私の昔の学生たちが,遊びの一つの形式として演劇パフォーマンスと即興のもつ大きな可能性について強調しており,学校内での生活に創造性を持ち込もうとしています。マルチネスMartinezは教授学習のためのテクノロジーについて(2011),ロブマンとルンドクゥイストLobman and Lundquistは学校で行える即興の練習について(2007),ロブマンとオニールLobman and O'Neillおよびその仲間たちは様々な場面での遊びとパフォーマンスについて(2011),それぞれ発言しています。さらには,組織や国を超えて研究者たちが協働し,現在,研究や介入プロジェクトを進めています。これにより,教師や生徒,支援を必要とする人々vulnerable populationが創造性と遊びを知るところとなるでしょう(例えば,アメリカ合衆国や日本,フィンランド,スウェーデンでのプレイワールドプロジェクト★URL,ブラジルやセルビアやボスニアヘルチェゴビアのNGOZdravo da Steが行う,複数の世界Multiple Worldsと他の教育プロジェクトがあります★URL)。

ひたすら翻訳

今日も今日とて翻訳です。だんだん調子が出てきましたが,やはり遅い。

尊敬する柳瀬尚紀先生に負けないような「正確な」訳を目指しているのですが,いかんせん,日本語の知識がなく,移し替える先がないことに愕然とします。


 こうした世界規模での活動の渦を作り出している一人として,ニューマンと私による本,そこで示されたアイディア,それに影響された実践を再検討し,この2010年代に大きく変化した政治的背景への現在的な関連について推測する機会を得たことを嬉しく思います。

『変革の科学者レフ・ヴィゴツキー』でのヴィゴツキーをめぐる議論には,最初に出版した当時には類例のない特色がありました。一つには,この本の中でヴィゴツキーをマルクス主義的方法を採用する者として示しました。彼をソヴィエト連邦成立当初の時代背景の中に位置づけると同時に,私たちの時代の新しい心理学に対して彼の人生や著作がどのように貢献するのかを描き出しました。このようにして,ニューマンと私は,ヴィゴツキーがマルクス主義者であったかどうかをめぐる論争に加わりませんでした。彼がそうであったという考え方も,彼の革命性をその科学的姿勢から切り離す考え方も,どちらも曲解だと私たちは確信していました。

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弁証法的活動としての方法(ヴィゴツキーは,「方法の探究searchは,同時に,研究の道具であり,結果でもある」(Vygotsky, 1978, p.65★Mind in Society)と述べています)を★イタリック/創造しようと/苦闘する,史的唯物論者としてのマルクスに方法論的に密接なつながりを有する人としてのヴィゴツキーa Vygotskyを紹介したかったのです。応用のための道具的なものとしての方法という慣習的な概念を,私たちは「結果のための道具tool for result」と揶揄しましたが,ヴィゴツキーはそれをなんとかしてやろうとしていたわけで,このような革新的な打開radical breakを強調するために私たちは「道具と結果」方法論('tool-and-result' methodology)という言葉を作り出しました。

 ヴィゴツキーは,その時代の心理学における革新的打開を行う中で,いかにして人間は学習し,発達するのかという実践的な問題に関するマルクスの洞察insightを持ち込みました。★3私たちはヴィゴツキーの心理学の中に,人間における,個人の発達,文化的発達,そして種の発達に固有な特徴とは,(個人中心的でparticularistic反復の結果として起こるcumulative行動behaviorの変化とは違って)質的であり,かつ変化をもたらすような人間の活動だということを見いだしました。人間は,刺激に対して単に反応するだけでなく,社会的に規定された有用なスキルを獲得したり,規定してくる環境に対して適応したりするのです。人間の社会生活の固有性とは,規定してくる環境を我々自身が変えることです。人間の発達は個人的に成し遂げられるものではなく,★イタリック/社会文化的な活動/なのです。『変革の科学者』(★LVRSをこう訳すか?)が提示したヴィゴツキーとは,後に私たちが「生成becomingに注目する新たな心理学」と呼んだものの先駆者です。それは,成長growthのための新しい道具を作る過程で,人間は自身の社会的本質や集合的創造活動collective creative activityの力を経験する,というものです(Holzman, 2009)。

 方法に関するヴィゴツキーの概念を,弁証法的な道具と結果としての方法と理解することにより,私たちは,あまり注目されていなかったヴィゴツキーの3つの洞察に行き着きました。

 一つ目は,どのように発達と学習とが関係し合っているかについての,慣習から外れた見方です。学習が発達に依存するとか,発達に後続するとかいった見方を排して,ヴィゴツキーは,学習と発達とが弁証法的な統一体unityであり,そこでは学習が発達に先行するか,あるいは発達を導くのだと構想conceptionしました。「指導が効果を持つのは,発達に先行するときだけである。そのとき,発達の最近接領域の内部で成熟しつつある一連の機能全体が目覚め,あるいは駆動する」(1987, p.212)。ニューマンと私は,「学習が導く発達」(あるいは「学習と発達」。どちらも,ヴィゴツキーの構想を短く要約したものです)を,マルクスの弁証法的活動に関する構想を心理学に持ち込む上での重要な貢献として理解するに至りました。そのように理解すると,ヴィゴツキーは,学習が文字通り最初に来ると言っているのでも,それが発達に時間的連鎖として先行すると言っているのでもありません。社会文化的,関係的な活動として,学習と発達は不可分であると言っているのです。つまり,一つの統一体として,学習は発達に対して,連鎖的にではなく弁証法的に結びついているということです。学習と発達は互いを同時に作り合っています。これは,私たちにとって,共に作り合うこのような関係を生み出し,支えるような環境とはどのようなもので,そして,いかにしてこうした環境がそうでない環境と異なるのかに注意を払わねばならないことを意味します。そうでない環境としては,ほとんどの学校がそうなのですが,発達から学習が切り離され,何かを獲得するという学習が目指されるようなものがあります(Holzman, 2007)。

 小さな子どもが,ある言語の話者になる過程に関するヴィゴツキーの記述の中に,このような発達的環境を見いだすことができます。そこでは,赤ちゃんとその養育者は,言葉による遊びを通して,環境を創造する道具と結果の活動に,そして,学習と発達に,一度にかかわっています。


★3 何十年も前に,スクリブナーScribner, S.とコールCole, M.が同様の指摘をしています。その指摘によれば,ヴィゴツキーの社会文化的アプローチsocio-cultural approachは,「人間には固定された本質があるわけではなく,生産的活動を通して自己およびその意識を常に作り出しているという,マルクス理論における心理学的な部分を拡張する試みを示すもの」(Cole & Scribner, 1974, p.31☆4)です。しかしこれは,教育界の人々に知られるようになったヴィゴツキーの姿ではありません。

☆4 若井邦夫による邦訳が,『文化と思考:認知心理学的考察』(1982年,サイエンス社)として出版されている。

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在ること(being)と成ること(becoming)の弁証法的な過程がどのようなものか,そこに見て取ることができます。つまり,小さな子どもにおいて,現在の姿(例えば,バブバブ言う赤ちゃん)と,今のところはそうではない姿,あるいはそう成りつつある姿(例えば,話し手)とが,いかにして同時に関係づけられるのかが見えるのです。ニューマンと私は,これは革命的な発見だと確信しました。もしもこの発見が広く理解されたなら,人間の発達過程に対する心理学者の理解の仕方を変えることができるでしょうし,学習する子どもの人生the learning livesだけでなく,学習する大人の人生に対しても,心理学者や教育者の向き合い方が変わってくるでしょう。このようにして,『変革の科学者』ではヴィゴツキーを発達研究者として提示しました。当時におけるヴィゴツキー派の研究や発言がほとんどすべて学習(特に,学校内の学習)を強調していたのと対照的です。

 ヴィゴツキー派の洞察から掘り出した別の領域は,考えることと話すことthinking and speechについてのものでした。ニューマンと私は,言語と意味に対して大きな関心を持っていました(彼は言語哲学を学んでいた頃から,私は言語学を学んでいた頃から)。言語が思考を表現するという受け入れられた知識に対するヴィゴツキーの挑戦は,私たちには聡明で,きわめて現代的なものとして見えました。「発話speechは発達した思考を単に表現するものではない。思考は発話に形を変える間に再構成される。思考は表現されるのではなく,言葉において完成するのである」(Vygotsky, 1987, p.251)。これは私たちにとって,ヴィゴツキーによる人間の活動についての弁証法的な理解の形を変えた例でした。私たちはこうした理解を,ニューマンが広く研究してきた哲学者ウィトゲンシュタインのそれと統合しました。「発話は思考を完成させる」というヴィゴツキーの言葉は,私たちにとって,ウィトゲンシュタイン派の言う「生活形式form of life」(Wittgenstein, 1958, pp.11, para.23)でした。「完成」という概念を他者へと拡張しました。つまり,あなたの言葉を「完成」させるのは他の人でもありうるのです。非常に小さな子どもが他者とともに,あるいは他者を通して,いかにして話し手になるのかという問題に戻るなら,養育者はバブバブ言う赤ちゃんを「完成させ」,完成させる養育者を赤ちゃんは創造的に模倣するものと仮定できます。診察室や会議室といった,ヴィゴツキー派の研究者がヴィゴツキーのアイディアを持ち込んでこなかった場所を含め,人生を通して学習と発達の起こる機会がいかにして創造されるのかという問題について,このようなヴィゴツキー派の洞察から私たちはヒントを得ました。

『変革の科学者』では,子どもの発達における遊びの役割についてのヴィゴツキーの理解に注目し,若者や成人の発達における遊びの重要性へと視野を広げました。ヴィゴツキーが遊びについてほとんど書いていないことはニューマンと私にはたいしたことではありませんでした。幼児期の想像遊びやごっこ遊びについてであろうが,あるいはもう少し大きくなってからしょっちゅう行われるようになる,より構造化された規則に従うゲーム遊びについてであろうが,彼が書いたことは私たちにとってものすごく重要だったのです。特に重要だったのは,次の文章です。「遊びの中で子どもはいつもその平均的な年齢や,日常的に行うことを越えた行動をする。遊びの中では,子どもは頭一つ分の背伸びa head taller than himselfをしているかのようだ」(Vygotsky, 1978, p.102)。私たちは彼の言う「頭一つ分の背伸び」が何を意味するのか格闘したのですが,人間の発達が在ることと成ることの弁証法であるということの喩えだ,という理解に落ち着きました。そのように理解したことで,同じような弁証法的な質をもつものとして演劇的パフォーマンスtheatrical performanceを検討することになりました。なぜなら俳優は,現在の姿と今はそうではない姿とを同時にもつからです。

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ニューマンと私は,(「私たちのヴィゴツキー解釈」での遊びの一つの形態である)パフォーマンスとは新しい存在論ontologyであることに気付きました。

石川晋「学校でしなやかに生きるということ」(フェミックス)

学校でしなやかに生きるということ


現在、上士幌で教師をされている石川晋先生より、ご著書をご恵贈いただいた。石川先生にはしばらくお会いしていないが、先生の動向はずっと気になっている。でも、ご著書を出されたことは迂闊にもチェックしていなくて、思いがけずお送りいただいたのは望外の喜びだった。

上士幌中には一度おうかがいしたことがある。この本に書かれているように、木のかおりのただよってきそうな、いかにもぴかぴかとした新築の学校だった。

おうかがいしたときは、ちょうど子どもたちがライティング・ワークショップを繰り広げているところだった。校舎のあちこちで子どもたちがたたずみ、おそらくは自分で選んだのであろうテーマで書くことに向き合っていた。

そういう一つ一つの子どもたちの動きを可能にする、石川先生の職場内での教師としての「仕事」が訥々と語られていく。この仕事がなければ、子どもたちが授業時間中に校舎をうろうろすることに対してあっという間にクレームがつくかもしれない。それくらい大事な仕事なのだが、あまりおおっぴらに語る先生は多くない。石川先生はそこを丁寧に書いておられる。

若い教師の悩みに「あなたがうまくいかないと嘆いていること、それらすべてを含めて仕事というんだよ」と言いかけてやめた(p.83)、というエピソードが象徴的だ。

堀裕嗣先生の言う教師の「生活力」にも通じると思うが、要領というか、教師が社会の中で生きていく賢さの一つのかたちが語られている。

教師教育にたずさわる者として、しかし、ここで困難に直面する。こうした賢さのかたちを紹介することはできるものの、では、この賢さを学生に育てることはどのようにすればよいのだろうか、と悩むのである。職場や子どもたちといった条件が変われば、賢さのかたちは当然変わってくるはずで、かたちだけ真似すればよい、というものではないのである。

だから、学生にこの本を薦めてよいものかどうか、実は本気で悩んでいる。読ませたい。しかし、かたちの安易な模倣に導いてしまうのではないか。こういう悩みも、学生を信頼し切れていないからなのかもしれない。

べてるの家のエスノグラフィ

とある理由で,この秋に,浦河町のべてるの家を見学させていただけることになりました。

これまたとある理由で,べてるの家のことについて英語で紹介されたサイトなどがないか物色しておりましたら,そこをフィールドワークした映像人類学者がいること,さらにはエスノグラフィを書いておられることを知りました。

Karen Nakamura

Diability of the soul

さっそく本を買い,サイトを参照させていただきました。

エスノグラフィについてのサイトには,フィールドワークの過程で撮影された映像をきちんと編集したフィルムが紹介されています。本を買うとついてくるDVDにおさめられているのとだいたい同じ動画です。

と,そうこうしている矢先に,件の本が邦訳されたのですね。こちらも買ってしまいました。

「言語的社会化ハンドブック」を読む(1)

大学院の演習で,オックス,シフリン,デュランティの「言語的社会化ハンドブック」を輪読することにしました。その第1回目を先日行い,私が第1章を報告しました。

以下は,その際のレジュメです。なんかの参考になれば。


Ch.1 The theory of language socialization
Ochs, E. & Schieffelin, B. B.

… language socialization research examines the semiotically mediated affordances of novices' engagement with culture-building webs of meaning and repertoires of social practice throughout the life cycle. (p.17)

Researchers view communicative practices involving novices as deeply sociocultural, in that:
– novices are socially defined and positioned as certain kinds of members;
– conversation and other discourse genres and practices are embedded in and constitutive of larger social conditions;
– semiotic forms are complex social tools that are situationally and culturally implicative;
– codes are parts of repertoires and morally weighted;
– learning and development are influenced by local theories of how knowledge, maturity, and wellbeing are attained. (p.17)

・言語的社会化とは?「言語使用を通しての社会化であると同時に言語を使うようになるための社会化」(Ochs & Schieffelin, 1986)
・言語的社会化研究の課題は?社会的なつながりをうちたてる「意味の網の目webs of meaning」(Geertz, 1973)や「無意識的な行動パターン」(Sapir, 1929)を,子どもたちがいかにして創造するか。そのためには,ミクロな相互行為,マクロな社会,子どもの発達過程のすべてに注目しなければならない。
・1980年代から,言語学,心理学,人類学研究の領域では,子どものコミュニケーション実践がなされる社会文化的環境が見過ごされていたことに気付かれはじめた。音韻や統語構造の獲得とともに,子どもが誰に対して何をどのように話すのかということが重要視され始めた。現在ではこの言語的社会化研究は複数の領域にまたがる研究としていくつもの大学で教えられている。
・ここ10年では,子どもだけでなく,大人が新しい環境に入っていく場も検討の対象になっている。

・語用論的発達developmental pragmatics: さまざまな言語形式とそれらが用いられる「状況の文脈」(Malinowski, 1935)との対応関係に焦点を当ててきた。
・言語的社会化研究は,子どもが「文化という文脈」との関係で「状況の文脈」を理解し,それを実現することに注目する。言語形式,実践,イデオロギーの文化的な解釈と社会構造をとらえることが必要なので,談話とエスノグラフィーとを統合する方法を採る。
・言語獲得language acquisition研究: 母子間の会話を主要な観察の場としてきた。
・言語的社会化研究は,社会文化的に設定された場面の中に子どもが大人や他の子どものコミュニケーション相手として繰り返し関与する場面に観察の対象を広げた。
・子どもの人類学研究も見過ごしている点があり,言語的社会化研究はそこを埋めようとしている。それは,子どもが家族やコミュニティのメンバーとして育つ過程を統合する中心として言語が果たす役割である。

・言語的社会化が持続する期間は,そのメンバーが存在を認知され始めた時点から,社会的に死ぬまで。例えば,胎児に話しかける親やそれを促す育児関連企業にとって,胎児は社会のメンバーである一方で,ある社会では話し始める前の子どもに大人は話しかけない。

■言語的社会化と行為主体性(agency)
・パーソンズの「社会化」という概念は,大人というゴールへの単一方向的で決定論的な変化を指すものとして批判されてきた。ボアズの「文化化」(enculturation)は,子どもを大人の文化を受動的に受け取る存在とみなし,受け取った思考様式に基づいて子どもは自動的に行為すると捉える。ブルデューとパスロンもボアズとほぼ同様の図式で描くが,教育を恣意的な権力関係間に発生する象徴的暴力と捉えている点が異なる。

・言語的社会化における「社会化」は上記のいずれとも異なる。むしろ,サピアの「言語は社会化の強力な推進力」という考え方に基づく。彼によれば,個人は文化や社会に従属する存在ではなく,自身の創造性や情動的な衝動をじかに満たそうとするものである。こうして個人の内側から湧き出るものによって形成される文化をサピアは「真正な文化」(genuine culture)と呼んだ。

・言語的社会化の基本的な考え方の1つ目は,あるコミュニティの新参者は,古参者によってそこでの実践への参加をうながされるのであり,決して決定されるわけではないということである。実際に,現代では,古参者の方が新参者から教えられることもある。

・新参者が行為主体性をもつと捉えると,慣習が固定化される方向性とともに,流動化するという方向性についても考えねばならない。電話に出る際の決まり文句も協働的な「達成」であるし,逆に創造的活動はルーチンにもとにして可能になる。即興はパターン化された日常を背景にして初めて創造性を帯びる。反復は単なる反復ではなく,それまでのものを「ずらす」効果があるのだ。

・言語的な慣習の流動性は,ライフサイクルや世代間においても見られる。その際に,変化しない側面が何で,変化するのが何かを研究するのは言語的社会化の射程の範囲内。
・ただ,その場合でもやはり新参者は受け身なのではなく,相互に行為主体性を発揮して,価値のある言語的能力が何なのかということが相互行為の場において構成される。

・相互行為において普遍的な現象は,知識や権力の非対称性である。何かを知っていることそのものが権力関係を含意する場合が大いにある。ということは,子どもの知識が正統的でないものとして扱われる社会的な実践もある。
・学校のような教育場面は,まさに,新参者のコミュニケーション実践において権力が行使される場である。しかし同時に,子どもの行為主体性は支配的な道徳的文脈に対する抵抗と再創造として発揮される。例えばSterponiはテキストを読む場面で,教師の目を盗む「空間」を作ろうとする子どもたちの実践を取り上げる。

■文化の話し手になる
・言語的社会化の基本的な考え方の2つ目は,新参者が円滑にコミュニケーションできるようになることは,同時に,その者がコミュニティにおける熟達したメンバーになっていくことでもある,という点である。それぞれのコミュニティには,状況ごとにいかにして話すかについての変数が用意されており,新参者は状況に関与することを通してそれらの変数を理解するようになる。例えば病院の診察を受ける子どもは医者が保護者に言うことを間接的に聞いて,何が医療に関係する言葉なのかを理解する。
・なんらかの言葉の使い方を理解することとは,同時に,なんらかの社会的な活動を行うこと。例えば,謝るための言葉の使い方を覚えることは,謝るという社会的能力を養成すること。
・したがって,言語的社会化は局所的であり状況に埋め込まれている。新参者はそこで話される言葉の使い手になるだけでなく,そこの文化の話し手にもなる。

■生まれと育ちの二分法を超えて
・言語的社会化論は通常対立的に語られるもの(発達と学習,個人と社会など)の間の媒介項として機能する。
・言語的社会化では生物学的な成熟を前提としている。同時に,子どもが社会に参入してそこで社会的に用いられる行為などに気づくことも前提する。社会的な実践の中には,乳児の生物学的特徴から必然的に普遍性をもつものもあるが,それでも文化的な多様性はある(高田のボツワナのサンの研究,Brownの共同注意研究など参照)。

・育てる方の話しとして,言語的社会化研究では,養育者が子どもの生活環境をどのようにして整えているのかに注目する。それはまた,人々の間のコミュニケーションのやり方を左右する。例えば家のドアが村の中心に向かって開け放たれているならばマルチパーティ会話が起こりやすい。
・したがって,このような子育ての生態学的な環境の差異は,子どもの会話理解をも左右する可能性がある。たとえば,誰がどうすれば「聞き手」になれるのか,の理解。

■社会化のために用いられる記号的リソース
・(1)社会化するための主要な道具であると同時に目標でもあるさまざまな記号に注目すること。(2)それらの記号がリソースとしてさまざまな意味のある社会文化的な実践(道徳,情動,関係,制度など)を維持したり変えたりすることについて民族誌学者なみに敏感になりなさい。
・文法,語彙体系,音韻,言語行動,会話の連鎖,ジャンル,レジスター,チャンネル,コードなど,記号システムを構成する諸要素がいかにして社会化を促しているかが問いとなる。例えば親族を呼ぶ際の語彙の習得は家族関係の組織化と密につながっている。
・言語人類学的観点からは何がトピックとなるのか?
記号がいかにして社会的状況とインデキシカルにつながっているのか(パース,シルヴァステイン)。コミュニティにおける異種混交性とその階層性(ブルデューの文化的資本)にそって子どもがどのように社会化され,それら言語的変異をどのように使い分けるか。

・複雑な状況の多様な理解を広く捉るために,これらの記号システムを分析する際には,①体系的なドキュメンテーション,②関連する人工物の収集,③緻密なエスノグラフィーが必要。縦断研究も,異なる生活環境での調査も必要。

・言語的社会化研究では,上記のリソースが相互行為において用いられることを観察し,人々が歴史的に社会を持続させつつ変化させる過程を探究する。

■言語的社会化実践
・意図的に行われる社会化もあるだろうが,多くの言語的社会化は記号によって媒介された実践に繰り返し参加することを通して実現する。習得内容はそこでは暗黙的implicitであり,ブルデューとパスロンの言うように暗黙的な社会化過程の方がより一般的である。
・それは,実践の場に実際に自身の身を置き,観察をしながら学習する過程。その意味で,実践的知識が言語化された学校とは異なる。ブルデューらは前者をdiffuse education(冗長な教育),後者をpedagogic inculcation(教育的な説明)と呼ぶ。
・ただ,日常的実践の場面で養育者が子どもの注意をガイドするなど積極的に手助けをしていることもある。例えば日本の養育者は,子どもが適切にあいさつできるかどうか,常に目を光らせている。道徳的な違反が起きた場合には,台湾の養育者などは子どもがそのことを恥ずかしいと思うようにしむける。同年齢同士ではうわさ話をすることが自分たちの社会秩序形成につながる。
・要するに,新参者は制度的な場でも日常的実践の場でも,社会化する機能を持つ言語的なはたらきかけ(例えば,はずかしめ,からかい,賞賛,誤用訂正,うわさ,など)の受け手となる。

■言語的社会化とスピーチ・コミュニティ
・言語とコミュニティそれ自体が変化のただなかにあること,新参者の言語的社会化も当然その影響下にあること,そして,新参者自身もその変化をもたらしていること。したがって,結果的にあるコミュニティは言語的な異種混交性をもつ。
・ゆえに,コミュニティにはPratt(1991)の言う「接触のゾーン」(zones of contact)がある。それはときには安定的に見られるものの,時には流動的である。それは,文化,言語,社会,自己意識を構成する媒体となる。(伊藤コメント ★ある者が「他者」となると同時に,その「他者」に対する自己として自己が生成される。)

・例えばシフリンが70年代にパプアニューギニアに入ったとき,すでにそこではキリスト教伝道師が入っており,言語と文化に変化が起きていた。また,西インド諸島ではフランス語をもとにしたクレオールに対して英語を高く評価する価値観が養育者の間で育っている。こうした状況を背景とした日常的なコミュニケーションは,言語のシフトが起こる現場と考えられるので,そこでの親子間会話などを微視的に見ることが大局的な言語シフトを説明する。

・若者が移民として新しい言語コミュニティに入ることも接触のゾーンを形成する。そこにおいて,自身の連続性,アイデンティティ形成,断絶,脱アイデンティティが経験される。例えばスペインに移民してきたモロッコの子どもは,学校ではスペインの子どもによる身体的・言語的実践によって直接的・間接的に低く見られる。その一方で,その子どもの家族にとってはスペインの様々な制度にアクセスするための媒介者として子どもが機能する。
・ある言語の獲得は,その社会における立ち位置と結びついている(その言語を話すからには,これこれこのような人だろうという評価を得る)。第二言語獲得による社会化,あるいはかつて話されていた言葉の習得による社会化はこのことがはっきりする過程だ。

もって生まれたもの

石川晋先生より,ご著書『学び合うクラスをつくる!「教室読み聞かせ」読書活動アイデア38』をご恵送いただいた。ありがとうございます。

「読み聞かせについてだったらいくらでも話します」という石川先生の言葉尻をつかまえて,本当にゼミに来ていただいたのが数年前。今はもうないが,幼児園の子どもたちにも絵本を数冊読み聞かせしていただくことができた。ぜいたくな時間だった,と今にして思う。

そのときに石川先生から読み聞かせについての考え方をうかがっていてだいたいは理解できたと思っていたものの,やはりまとまった文章の形で書かれたものを読むとつかみそこねていたことが分かった。例えば,読み聞かせを核とした授業を,ぼくも実際に拝見したことがあるのだが,そのいちいちの根拠についてはこうして書かれてあるのを読むと実に分かりやすい。

ふとよぎったのは「もって生まれたもの」とどう向き合うか,である。

石川先生と読み聞かせの関係についてはこの本の中でご自身の生い立ちから丁寧にお話しされているので措くとして,読み聞かせをする際の最大の道具であるところの「声」も,もって生まれたものである。先生はご自身の声をどのように意識されておられるのだろうか。

この本を開く前に,ぜひ,石川先生の実際の声を聞いてもらうのがよいと思う。たとえば,DVD「明日の教室」シリーズの1本に石川先生が登場しておられるので存分に声を聞くことができる。紹介されている「第2・3部ダイジェスト版」の方には読み聞かせをされている姿も映っている。

ぼくは石川先生が読み聞かせをするときの,なんだか飄飄とした読み方が好きで,その読み方はやはりその声をもってしてのものだろうなと思う。おそらくはもって生まれた声をそのまま出しているのではなく,磨いた上で,授業で発しているのだろう。そのこと自体が,子どもたちには,もって生まれたものを磨くというメッセージとしてどこかで受け取られているのかもしれない。

英語の文献を翻訳してみよう(6)

JamesのPrinciples of Psychology,Ch.1を訳してみる。これで1章を全文訳したことになる。

以下の原文は,Christopher D. Greenによる,Classics in the History of Psychologyに基づく。


Just so we form our decision upon the deepest of all philosophic problems: Is the Kosmos an expression of intelligence rational in its inward nature, or a brute external fact pure and simple?
そうすると,我々はあらゆる哲学的な問題の中でも最も深遠なものについて決断を下せる。すなわち,秩序とは,その内界の本質における合理的知性の表現なのか,それとも,純粋で単純な,知性のない外的な事実なのか,というものである。

If we find ourselves, in contemplating it, unable to banish the impression that it is a realm of final purposes, that it exists for the sake of something, we place intelligence at tile heart of it and have a religion.
このことについてよく考えると,我々自身,それが最終的な目標の領域であり,何かのために存在しているという印象を消すことができない。であるから,その核心に知性を位置づけて,宗教としてしまうのである。

If, on the contrary, in surveying its irremediable flux, we can think of the present only as so much mere mechanical sprouting from the past, occurring with no reference to the future, we are atheists and materialists.
逆に,一度きりしか起こらない時の流れの中で探求をする者として,未来を参照することなく過去から生まれた機械的な帰結にすぎないものとして現在を捉えることができるならば,我々は無神論者,唯物論者である。


In the lengthy discussions which psychologists have carried on about the amount of intelligence displayed by lower mammals, or the amount of consciousness involved in the functions of the nerve-centres of reptiles, the same test has always been applied: Is the character of the actions such that we must believe them to be performed for the sake of their result?
低次のほ乳類が示す知能の量,あるいは,は虫類の神経中枢の機能に含まれる意識の量について,心理学者は長いこと議論してきた。そこでは,決まっていつも同じテストが使われてきた。すなわち,それらが示す行為は,それによる効果resultを目的として行われたと考えざるを得ないようなものか,というものである。

The result in question, as we shall hereafter abundantly see, is as a rule a useful one,-the animal is, on the whole, safer under the circumstances for bringing it forth.
ここで問題としている効果は,以降しょっちゅう出てくる言葉なのだが,ふつう都合よく使われる言葉で,総じて,それが生じた環境において動物が快適であることを指す。

So far the action has a teleological character;[p.9] but such mere outward teleology as this might still be the blind result of vis a tergo.
これまで,行為には目的論的な性質をもたせていた。しかし,このように素朴な唯物論的outward目的論は,後ろから押されて盲目的に起こることとして映るかもしれない。

The growth and movements of plants, the processes of development, digestion, secretion, etc., in animals, supply innumerable instances of performances useful to the individual which may nevertheless be, and by most of us are supposed to be, produced by automatic mechanism.
植物の生長や動き,動物の成長や消化,分泌などといった生物的な過程といったように,個体にとって有効な行動には数え切れないくらいの実例があり,にもかかわらずそれらは,自動的なメカニズムによって生み出されているのであろう。そして我々が行う過程の多くもそのようなものだと考えられる。

The physiologist does not confidently assert conscious intelligence in the frog's spinal cord until he has shown that the useful result which the nervous machinery brings forth under a given irritation remains the same when the machinery is altered.
ある興奮刺激を与えた状態でカエルの神経メカニズムが生み出した有用な効果が,神経メカニズムを変化させても恒常的であり続けるのでない限り,その脊髄に意識的知性があることを確信を持って生理学者が主張することはない。

If, to take the stock-instance, the right knee of a headless frog be irritated with acid, the right foot will wipe it off.
よく知られた例を挙げれば,頭部を除去したカエルの右足のかかとの部分を酸によって刺激すると,右足全体がそれをぬぐい取ろうとする。

When, however, this foot is amputated, the animal will often raise the left foot to the spot and wipe the offending material away.
しかし,右足(の神経を)切除すると,この動物は刺激を加える物質を特定しぬぐい去ろうとして,しばしば左足を上げるのである。


Pfluger and Lewes reason from such facts in the following way: If the first reaction were the result of mere machinery, they say; if that irritated portion of the skin discharged the right leg as a trigger discharges its own barrel of a shotgun; then amputating the right foot would indeed frustrate the wiping, but would not make the left leg move.
プフリューガーとルイスはこうした事実を以下のように説明した。もしも,最初の反応が単なる機械的な結果であるなら,つまり,引き金を引いて銃身から発射するように,皮膚の部位に刺激を与えることによって右足が動くとするなら,(神経を)切除された右足は動こうとしても動けず,左足は動こうともしないだろう。

It would simply result in the right stump moving through the empty air (which is in fact the phenomenon sometimes observed).
右足は何もない空中を動くという結果になるだけだろう(実際,この現象が観察されることもあった)。

The right trigger makes no effort to discharge the left barrel if the right one be unloaded; nor does an electrical machine ever get restless because it can only emit sparks, and not hem pillow-cases like a sewing-machine.
右の銃身がなければ,右側の引き金には左の銃身から発射させる効果がない。発火させるだけなのだから,電気的に動く機械でも休みなく動くこともない。ミシンのように枕カバーの縁を縫うこともないのである。


If, on the contrary, the right leg originally moved for the purpose of wiping the acid, then nothing is more natural than that, when the easiest means of effecting that purpose prove fruitless, other means should be tried.
反対に,もともと右足は酸をぬぐい去るという目的を持って動くとしたら,その目的を果たすための最短の手段がはかばかしくないと分かったとき,他の手段が試されるはずだというのが一番自然である。

Every failure must keep the animal in a state of disappointment which will lead to all sorts of new trials and devices; and tranquillity will not ensue till one of these, by a happy stroke, achieves the wished-for end.
あらゆる失敗は動物を不快な状態に引きとどめ,そこから様々な種類の新しい試行や工夫が生まれるはずである。こうした試行や工夫が幸運にも望ましい結果を達成するまでは安定性は得られないだろう。


In a similar way Goltz ascribes intelligence to the frog's optic lobes and cerebellum.
同様に,ゴルツはカエルの知能が視覚野と小脳にあるとしている。

We alluded above to the manner in which a sound frog imprisoned in water will discover an outlet to the atmosphere.
沈めたカエルを水の中に閉じこめると,空気のある場所への出口を発見しようとするやり方について言及した中ですでにほのめかしておいた。

Goltz found that frogs deprived of their cerebral hemispheres would often exhibit [p.10] a like ingenuity.
ゴルツは,大脳半球を切除したカエルはしばしば知的な振る舞いをすることを発見した。

Such a frog, after rising from the bottom and finding his farther upward progress checked by the glass bell which has been inverted over him, will not persist in butting his nose against the obstacle until dead of suffocation, but will often re-descend and emerge from under its rim as if, not a definite mechanical propulsion upwards, but rather a conscious desire to reach the air by hook or crook were the main-spring of his activity.
カエルの上に水中でグラスを逆さにしてかぶせると,水の底から上昇しようとしてグラスの壁に阻まれつつ,さらに上に行こうとする。そうしたカエルは窒息して死ぬまで障害物に鼻をぶつけ続けることはない。しかししばしばカエルは下降しようとし,グラスの縁から浮上しようとする。固定された上昇への機械的な推進力ではなく,曲がってよけて外に到達しようとする意識的な欲望がその活動の主要なバネであるかのように。

Goltz concluded from this that the hemispheres are not the seat of intellectual power in frogs.
ゴルツはこのことから,カエルにおいては大脳半球は知能の座ではないと結論した。

He made the same inference from observing that a brainless frog will turn over from his back to his belly when one of his legs is sewed up, although the movements required are then very different from those excited under normal circumstances by the same annoying position.
ひっくり返されたカエルにとってそれは不快な姿勢であり,元に戻ろうとする。その片足を縫いつけたときに取る動きは,通常の環境で起こることとはまったく異なる。それでもカエルは元の姿勢に戻ろうとするだろうと,ゴルツは脳のないカエルを観察したことから同じような推論を行った。

They seem determined, consequently, not merely by the antecedent irritant, but by the final end,-though the irritant of course is what makes the end desired.
したがって,先行する刺激物は望む目的を生み出させるものではあるが,それだけでなく,最終的な目的によっても動作は規定されているのである。


Another brilliant German author, Liebmann[2], argues against the brain's mechanism accounting for mental action, by very similar considerations.
聡明なドイツの学者,リープマンは非常に似たような考察を通して,精神的行為を説明する脳のメカニズムについて議論している。

A machine as such, he says, will bring forth right results when it is in good order, and wrong results if out of repair.
彼によれば,そうした機械はうまく動いているときには適切な結果を生むし,故障しているなら間違った結果を生む。

But both kinds of result flow with equally fatal necessity from their conditions.
しかしどちらの結果も等しい必然性を持ってそれぞれの条件から生じるのである。

We cannot suppose the clock-work whose structure fatally determines it to a certain rate of speed, noticing that this speed is too slow or too fast and vainly trying to correct it.
その構造により,針の進む速度が遅すぎたり速すぎたりするのに気づいて修正しようと試み,一定の速度を規定するような時計仕掛けを想定することはできない。

Its conscience, if it have any, should be as good as that of the best chronometer, for both alike obey equally well the same eternal mechanical laws-laws from behind.
もしそれが判断力を持っているとするなら,それは最良の時間計測器と同等と言うべきである。どちらも,その背後にある同等の永遠の機械的法則に従っているように見える。

But if the brain be out of order and the man says "Twice four are two," instead of "Twice four are eight," or else "I must go to the coal to buy the wharf," instead of "I must go to the wharf to buy the coal," instantly there arises a consciousness of error.
しかし脳が故障して,その人が「4の2倍は8だ」と言う代わりに「4の2倍は2だ」と言ったら,あるいは「石炭を買うのに河岸に行かねば」と言う代わりに「河岸を買うのに石炭に行かねば」と言ったら,たちまち意識の錯誤という問題が浮かんでくる。

The wrong performance, though it obey the same mechanical law as the right, is nevertheless condemned,-condemned as contradicting the inner law-the law from in front, the purpose or ideal for which the brain should act, whether it do so or not.
正しい遂行と同じ機械法則に従っているにもかかわらず,脳が実際にそうするかどうかはともかく,あらかじめ存在する内的法則,つまりは脳がそれを目指してふるまうべき目的や理想と矛盾しているとして誤った遂行は非難される。


[p.11] We need not discuss here whether these writers in drawing their conclusion have done justice to all the premises involved in the cases they treat of.
ここでその結論を引用した人たちが,扱った事例において前提されることを公正に扱ったかどうかについて議論する必要はない。

We quote their arguments only to show how they appeal to the principle that no actions but such as are done for an end, and show a choice of means, can be called indubitable expressions of Mind.
ある目的のためになされ,手段の選択を示すような行為だけが,精神の疑うべくもない表現と呼びうるという原理を主張していることを示すためだけにこれらの議論を引用したのである。


I shall then adopt this as the criterion by which to circumscribe the subject-matter of this work so far as action enters into it.
そこで私は,この本の主要な課題に行為を含める際の境界線を引くための基準としてこれを採用したい。

Many nervous performances will therefore be unmentioned, as being purely physiological.
したがって,純粋に生理学的なものとしての多くの神経活動については言及しない。

Nor will the anatomy of the nervous system and organs of sense be described anew.
神経システムや感覚器官の解剖学についても新しいことは記述しない。

The reader will find in H.N. Martin's Human Body, in G.T. Ladd's Physiological Psychology, and in all the other standard Anatomies and Physiologies, a mass of information which we must regard as preliminary and take for granted in the present work[3].
本書で前提とされ当然のものとすべき情報の多くは,MartinのHuman Body,LaddのPhysiological psychologyなどといった,他の標準的な解剖学や生理学の本によるものである。

Of the functions of the cerebral hemispheres, however, since they directly subserve consciousness, it will be well to give some little account.
しかし,大脳半球の機能については,直接的に意識に関与するため,ちょっと解説しておくのがよいだろう。

英語の文献を翻訳してみよう(5)

JamesのPrinciples of Psychology,Ch.1を訳してみる。前回からの続き。

以下の原文は,Christopher D. Greenによる,Classics in the History of Psychologyに基づく。


The boundary-line of the mental is certainly vague.
精神なるものの境界線は確かにあいまいである。

It is better not to be pedantic, but to let the science be as vague as its subject, and include such phenomena as these if by so doing we can throw any light on the main business in hand.
杓子定規にせずに,科学はその対象においてあいまいにしておくのがよい。そうすることで目下の関心に光を当てることができるのならば。

It will ere long be seen, I trust, that we can; and that we gain much more by a broad than by a narrow conception of our subject.
すぐ後述するが,私の信ずるところによれば,光を当てることはできる。この学問に関する概念を狭くとるよりも広くとった方が,多くを得られるだろう。

At a certain stage in the development of every science a degree of vagueness is what best consists with fertility.
どのような科学もその発展のある段階において,ある程度のあいまいさは豊かさと同じである。

On the whole, few recent formulas have done more real service of a rough sort in psychology than the Spencerian one that the essence of mental life and of bodily life are one, namely, 'the adjustment of inner to outer relations.'
総じて,近年提案された公式化のうち,スペンサー的なそれ以外は,概略のところ心理学にとっては実質的にほとんど役に立っていない。スペンサー的なそれによれば,生の精神的側面と身体的側面の本質は同一,つまり,「内の世界と外の世界の関係を調整するもの」である。

Such a formula is vagueness incarnate; but because it takes into account the fact that minds inhabit environments which act on them and on which they in turn react; because, in short, it takes mind in the midst of all its concrete relations, it is immensely more fertile than the old-fashioned 'rational psychology,' which treated the soul as a detached existent, sufficient unto itself, and assumed to consider only its nature and properties.
これこそあいまいさが具体化されたものである。しかしこれは,環境が精神にはたらきかけるとともに,それに対して精神が反応するという,環境内における精神のありように関する事実を考慮に入れている。要するに,これは精神をその具体的な関係性の中に置いているので,魂を独立した実体として扱い,それ自体で自足させ,その本質と属性のみを考えようとする古くさい「合理的心理学」とは比べものにならないくらい豊かなものなのである。

I shall therefore feel free to make any sallies into zoology or into pure nerve-physiology which may seem instructive for our purposes, but otherwise shall leave those sciences to the physiologists.
それゆえ私は,気兼ねせずに動物学や純粋な神経生理学の領域にも,生理学者に明け渡すのではなく,手を伸ばしてみよう。それらは我々の目的に示唆を与えてくれるように見える。


Can we state more distinctly still the manner in which the mental life seems to intervene between impressions made from without upon the body, and reactions of the body upon the outer world again?
身体ぬきで与えられる印象と,身体の反応が再び外の世界に与えることとの間に,生の精神的側面が介在するその仕方について,よりはっきりと言えることはあるだろうか。

Let us look at a few facts.
いくつかの事実を検討していこう。

—-
If some iron filings be sprinkled on a table and a magnet brought near them, they will fly through the air for a certain distance and stick to its surface.
鉄粉が机の上にまき散らされていて,磁石をそのそばに近づけると,それはある程度の距離なら中空を飛んで磁石の表面にくっつく。

A savage seeing the phenomenon explains it as the result of an attraction or love between the magnet and the filings.
これを見た未開人は,磁石と鉄粉の間にある引きつけ合う力とか愛情とかの結果としてこれを説明する。

But let a card cover the poles of the magnet, and the filings will press forever against its surface without its ever occurring to them to pass around its sides and thus come into [p.7] more direct contact with the object of their love.
しかし,一枚のカードで磁石の極を覆うと,鉄粉はカードの表面に永遠にくっつくことになる。愛する対象にまっすぐ向かうためにカードの表面を迂回することもなく。

Blow bubbles through a tube into the bottom of a pail of water, they will rise to the surface and mingle with the air.
バケツにたまった水の底まで管を入れてその端から息を吹いて泡を出すと,それは水面まで上昇して空気中に融けていく。

Their action may again be poetically interpreted as due to a longing to recombine with the mother-atmosphere above the surface.
その動きも同様に,水面を覆う母なる大気と再び混ざり合おうと熱望するためと詩的に解釈できるかもしれない。

But if you invert a jar full of water over the pail, they will rise and remain lodged beneath its bottom, shut in from the outer air, although a slight deflection from their course at the outset, or a re-descent towards the rim of the jar, when they found their upward course impeded, could easily have set them free.
しかし,ビンを逆さにして水の入ったバケツに入れると,泡は上昇してビンの底にたまり,外の空気から遮断される。上昇する道が妨害されるのに気がついたなら,上昇していく際にわずかにそれていったり,ビンのふちに向かって再び下降したりすれば容易に自由になれるはずであるにもかかわらず。


If now we pass from such actions as these to those of living things, we notice a striking difference.
これらの動きを生物のそれに変えると,決定的な違いに気がつく。

Romeo wants Juliet as the filings want the magnet; and if no obstacles intervene he moves towards her by as straight a line as they.
鉄粉が磁石を求めたように,ロミオはジュリエットを求める。何も障害がなければ,彼は彼女に向かってまっすぐな線に沿って移動する。

But Romeo and Juliet, if a wall be built between them, do not remain idiotically pressing their faces against its opposite sides like the magnet and the filings with the card.
しかしロミオとジュリエットの間に壁が築かれると,カードを挟んだ磁石と鉄粉のように壁の両側からバカみたいに顔を押しつけ合ったままでいることはない。

Romeo soon finds a circuitous way, by scaling the wall or otherwise, of touching Juliet's lips directly.
壁をよじ登るか何かして,ロミオはすぐに迂回する道を見出し,ジュリエットの唇に直接触れるのである。

With the filings the path is fixed; whether it reaches the end depends on accidents.
鉄粉の道筋は固定されていて,偶発事に依存した目的地点に到達する。

With the lover it is the end which is fixed, the path may be modified indefinitely.
恋人の場合,目的地点が固定されていて,その道筋は固定されておらず調整される場合がある。


Suppose a living frog in the position in which we placed our bubbles of air, namely, at the bottom of a jar of water.
水の入ったビンの底で空気の泡を発生させる代わりに,生きたカエルを入れたと想像してみよう。

The want of breath will soon make him also long to rejoin the other-atmosphere, and he will take the shortest path to his end by swimming straight upwards.
すぐに呼吸がしたくなってカエルは外にある空気に触れたくなり,その目的に照らして最短の道を選び,まっすぐ上に泳いでいくだろう。

But if a jar full of water be inverted over him, he will not, like the bubbles, perpetually press his nose against its unyielding roof, but will restlessly explore the neighborhood until by re-descending again he has discovered a path around its brim to the goal of his desires.
しかし水で満たされたビンをカエルの上にかぶせると,泡と同様に,彼には外の大気に触れることはできない。堅い屋根に鼻を押しつけ続けるばかりであるが,たえまなく壁の外を探し出そうとして,再び下降して縁を迂回して望むゴールへの道筋をついに発見するのである。

Again the fixed end, the varying means!
またしても,固定された目的,多様な手段だ!


Such contrasts between living and inanimate performances end by leading men to deny that in the physical world final purposes exist at all.
このような生物と無生物の振る舞いの比較から結論されることは,自然界には最終的な目的はまったく存在しないということである。

Loves and desires are to-day no longer imputed to particles of iron or of air.
愛や欲望は今日ではもはや鉄粉や空気に帰せられることはない。

No one supposes now that the end of any activity which they may display is an ideal purpose presiding over the [p.8] activity from its outset and soliciting or drawing it into being by a sort of vis a fronte.
そうしたものの示す活動の目的が,そもそものはじめから活動全体を統御し,ある種前方からそれを引き出す心的な目標であると想定する者はいまや誰もいない。

The end, on the contrary, is deemed a mere passive result, pushed into being a tergo, having had, so to speak, no voice in its own production.
反対に,目的は単なる受動的な結果であって,言わば,結果から呼ばれることなく後ろから押されて現れるものだとみなされている。

Alter, the pre-existing conditions, and with inorganic materials you bring forth each time a different apparent end.
生きていない物質について,前もって存在する条件を変えると,その結果はその都度さまざまな明白な帰結に導かれる。

But with intelligent agents, altering the conditions changes the activity displayed, but not the end reached; for here the idea of the yet unrealized end co-operates with the conditions to determine what the activities shall be.
しかし知性を持つ行為主体について,条件を変えることによって,それが到達する目的ではなく,それが示す活動が変わる。これにより,まだ実現していない目的についての観念は,条件と結びついて,その活動がいったい何であるかを決定するのである。


The Pursuance of future ends and the choice of means for their attainment, are thus the mark and criterion of the presence of mentality in a phenomenon.
未来の目的を追求すること,それを達成するための手段を選択すること,これらはしたがって,ある現象において精神性が存在することの標識と基準である。

We all use this test to discriminate between an intelligent and a mechanical performance.
このテストを使えば,知性のある行動と機械的な行動とを区別することができる。

We impute no mentality to sticks and stones, because they never seem to move for the sake of anything, but always when pushed, and then indifferently and with no sign of choice.
棒や石に精神性を見出さないのは,何かのために動いているようにはけっして見えずに,押されたら常に,選んだ様子もなく決まったやりかたで動いているようにしか見えないからである。

So we unhesitatingly call them senseless.
なので我々は躊躇することなくそれらを感覚を持たないものと呼ぶ。

英語の文献を翻訳してみよう(4)

JamesのPrinciples of Psychology,Ch.1の第7~9パラグラフを訳してみる。

以下の原文は,Christopher D. Greenによる,Classics in the History of Psychologyに基づく。


In still another way the psychologist is forced to be something of a nerve-physiologist.
心理学者は神経生理学者のような存在であるよう強いられているのには他の理由もある。

Mental phenomena are not only conditioned a parte ante by bodily processes; but they lead to them a parte post.
精神現象は身体的な過程において前もって条件付けられているだけではない。それはその後に身体過程を導く。
★参考:OED: 2. Infinite time. The total eternity, which has neither beginning nor end, may be regarded as divided by any moment into two eternities: the past eternity (in scholastic language eternitas a parte ante), and the future eternity (eternitas a parte post).

That they lead to acts is of course the most familiar of truths, but I do not merely mean acts in the sense of voluntary and deliberate muscular performances.
精神現象が行為を導くのはもちろんおなじみの事実であるが,私が言うところの行為とは自発的,随意的な筋肉のパフォーマンスという意味だけではない。

Mental states occasion also changes in the calibre of blood-vessels, or alteration in the heartbeats, or processes more subtle still, in glands and viscera.
精神状態が引き金となり,血管の収縮・弛緩,あるいは心拍数の変動が起こるし,内分泌腺や内臓の動きも気がつかないくらいであるが起こる。

If these are taken into account, as well as acts which follow at some remote period because the mental state was once there, it will be safe to lay down the general law that no mental modification ever occurs which is not accompanied or followed by a bodily change.
こうしたことを考慮すると,なんらかの精神状態がいったん起こったことによって時間をおいて行為が起きたのと同様に,身体的変化を随伴しない精神的調整はないという一般法則のあることを断言してもよさそうである。

The ideas and feelings, e.g., which these present printed characters excite in the reader's mind not only occasion movements of his eyes and nascent movements of articulation in him, but will some day make him speak, or take sides in a discussion, or give advice, or choose a book to read, differently from what would have been the case had they never impressed his retina.
たとえばここにある印字された文字が表現する観念や感情は読み手の精神を興奮させ,眼球運動や発声のための初期運動の引き金となる。それだけでなく,後には読み手は話したり,議論に参加したり,助言をしたり,読む本を選んだりすることにもなるだろう。こうしたことは,文字が彼の網膜を刺激しなかった場合に起きたはずのこととはまったく違っている。

Our psychology must therefore take account not only of the conditions antecedent to mental states, but of their resultant consequences as well.
それゆえ,我々の言う心理学は,精神状態に先行する条件を考慮するとともに,それによって起こる帰結も検討しなければならない。


But actions originally prompted by conscious intelligence may grow so automatic by dint of habit as to be apparently unconsciously performed.
しかし,もともとは意識的に起こしていたはずの行為は,何度も繰り返され,あたかもへこみがつくように慣習になると,自動化されて明らかに無意識的に遂行されるようになるだろう。

Standing, walking, buttoning and unbuttoning, piano-playing, talking, even saying one's prayers, may be done when the mind is absorbed in other things.
立つこと,歩くこと,ボタンのつけ外し,ピアノの演奏,話すこと,あまつさえ,祈りの言葉をつぶやくこと,これらは精神が他のことに気を取られているときでも行われるだろう。

The performances of animal instinct seem semi-automatic, and the reflex acts of self-preservation certainly are so.
動物の本能による遂行は半自動的であるように見えるし,自己防衛のための反射行動もまた確かにそう見える。

Yet they resemble intelligent acts in bringing about the same ends at which the animals' consciousness, on other occasions, deliberately aims.
しかし,それらは知的行為にも似ている。あるとき,動物が意識的に慎重にねらって行う目標は,本能により達成される目標と同じでもある。

[p.6] Shall the study of such machine-like yet purposive acts as these be included in Psychology?
このような機械のようでいて,しかし目的的な行為に関する研究を,心理学の中に含めるべきだろうか?

英語の文献を翻訳してみよう(3)

JamesのPrinciples of Psychology,Ch.1の第4~6パラグラフを訳してみる。

以下の原文は,Christopher D. Greenによる,Classics in the History of Psychologyに基づく。


However firmly he may hold to the soul and her remembering faculty, he must acknowledge that she never exerts the latter without a cue, and that something must always precede and remind us of whatever we are to recollect.
唯心論者は魂とその想起能力にかたくなにこだわるかもしれないが,魂もきっかけがなければその能力を発揮しないこと,想起を我々にもたらすものは常に想起という出来事よりも前に起きていなければならないことは認めるはずである。

"An idea!" says the associationist, "an idea associated with the remembered thing; and this explains also why things repeatedly met with are more easily recollected, for their associates on the various occasions furnish so many distinct avenues of recall."
「それこそ観念だ」と連合主義者は言う。「想起されることと連合した観念。これによって,繰り返し出会う物がより容易に想起できるのはなぜかを説明できる。というのも,さまざまな機会でそれとともに起こることが想起のためのはっきりしたたくさんの通路をしつらえるからである。」

But this does not explain the effects of fever, exhaustion, hypnotism, old age, and the like.
しかしこれでは,発熱,疲労,催眠,加齢などによる効果を説明できない。

And in general, the pure associationist's account of our mental life is almost as bewildering as that of the pure spiritualist.
一般的に,純粋な連合主義者による生の精神的側面についての説明は,純粋な唯心論者のそれと同じくらい訳の分からないものである。

This multitude of ideas, existing absolutely, yet clinging together, and weaving an endless carpet of themselves, like dominoes in ceaseless change, or the bits of glass in a kaleidoscope,-whence do they get their fantastic laws of clinging, and why do they cling in just the shapes they do?
絶対的存在である複数の観念が互いに結びついており,それら自体で無限のじゅうたんを織りなしている。切れ目なく変化するドミノのように,あるいは万華鏡の中のガラスのかけらのように。このような不思議な結束の法則はどこからやってきたのか。それらがそうあるように結束するのはなぜなのか。


For this the associationist must introduce the order of experience in the outer world.
であるから,連合主義者は外的世界における経験の秩序を導入しなければならないのである。

The dance of the ideas is [p.4] a copy, somewhat mutilated and altered, of the order of phenomena.
観念の戯れは,現象における秩序の,いくぶん変化して色あせた写しである。

But the slightest reflection shows that phenomena have absolutely no power to influence our ideas until they have first impressed our senses and our brain.
しかし,ちょっと考えれば,現象がまず我々の感覚や脳に刻印を残すまで,それには観念に影響を与える力のまったくないことが分かる。

The bare existence of a past fact is no ground for our remembering it.
裸のままの過去の事実は想起の根拠とはならない。

Unless we have seen it, or somehow undergone it, we shall never know of its having been.
我々がそれを見て,何かが起きて初めて,その現象の存在を知るのである。

The experiences of the body are thus one of the conditions of the faculty of memory being what it is.
したがって,身体における経験が,ある出来事の記憶能力のひとつの条件である。

And a very small amount of reflection on facts shows that one part of the body, namely, the brain, is the part whose experiences are directly concerned.
しかも事実についてちょっと考えればただちに分かることだが,身体のある一箇所,特に脳は,そこで経験することが直接的に関係する部位である。

If the nervous communication be cut off between the brain and other parts, the experiences of those other parts are non-existent for the mind.
脳と他の身体部位との間の神経的な連絡を絶ったとしたら,精神にとってその身体部位で起きたことは存在しない。

The eye is blind, the ear deaf, the hand insensible and motionless.
目は見えず,耳は聞こえず,手は感じないし動かない。

And conversely, if the brain be injured, consciousness is abolished or altered, even although every other organ in the body be ready to play its normal part.
反対に,脳が傷を負ったら,たとえ他の身体器官が各自通常の箇所で通常の機能を果たせているとしても,意識はなくなるか変容する。

A blow on the head, a sudden subtraction of blood, the pressure of an apoplectic hemorrhage, may have the first effect; whilst a very few ounces of alcohol or grains of opium or hasheesh, or a whiff of chloroform or nitrous oxide gas, are sure to have the second.
頭への一撃,貧血,脳卒中が第一に効果を持つものである。次いで効果をもつのはわずかなアルコールやアヘンやハッシシの摂取,クロロホルムや笑気ガスの吸引である。

The delirium of fever, the altered self of insanity, are all due to foreign matters circulating through the brain, or to pathological changes in that organ's substance.
熱による錯乱,精神疾患による人格変容はすべて,脳を巡る夾雑物あるいはその器官の物質における病理学的な変化に由来する。

The fact that the brain is the one immediate bodily condition of the mental operations is indeed so universally admitted nowadays that I need spend no more time in illustrating it, but will simply postulate it and pass on.
精神が機能するにあたっての直接的な身体的条件のひとつが脳であるという事実は,確かに今日では広く認められており,これ以上の証拠を示す必要はない。ここでは提起するにとどめ,先に進もう。

The whole remainder of the book will be more or less of a proof that the postulate was correct.
本書の残り全ては,ここで提起したことが正しいということを多少なりとも証明することになるだろう。


Bodily experiences, therefore, and more particularly brain-experiences, must take a place amongst those conditions of the mental life of which Psychology need take account.
身体における経験,さらに特定するなら脳の経験は,それゆえ,心理学が説明する必要のある生の精神的側面をもたらす諸条件の中に位置を占めるはずである。

The spiritualist and the associationist must both be 'cerebralists,' to the extent at least of admitting that certain peculiarities in the way of working of their own favorite principles are explicable only by the fact that the brain laws are a codeterminant of the result.
唯心論者と連合主義者はどちらも,彼ら自身のお好みの原理がもつある種の奇妙な点については,その帰結に対して脳の法則を同時に考慮に入れないと説明できないという事実は少なくとも認めるはずである。彼らはこの点において「脳主義者」である。

[p.5] Our first conclusion, then, is that a certain amount of brain-physiology must be presupposed or included in Psychology[1].
すると我々の最初の結論は,一定程度の脳の生理学が心理学には前提され,含まれるべきであるということである。