ISCAR Asia2010

 掲題の催しが開かれるようです。

 ISCAR(International Society for Cultural and Activity Research)に関与するアジア圏の研究者(と言っても主に日本ですが)によるこの催し、数年前に第1回が横浜で開かれ、今回が第2回となります。

『心の声』などの著書が邦訳もされている、ジェイムズ・V・ワーチ先生が今大会にいらしていただけるそうです。

 参加できる人数に限りがあるようですので、お早めのお申し込みを。これで正月ボケをふっとばしましょう。

(以下、現段階での案内文を転載、一部改変)


大会テーマ:リゾーム的社会における新しい生と学習のネットワークの可視化とデザイン
日時:2010年1月4日
場所:筑波大学学校教育局(〒112-0012 東京都文京区大塚3-29-1)
    地下鉄丸ノ内線 茗荷谷駅徒歩3分)http://www.tsukuba.ac.jp/access/otsuka_access.html
参加費:2000円(当日会場で申し受けます)
申込:茂呂までメイルでお願いします。会場狭小のため150人で打ち切りとさせていただきます。
   ymoro [at] human.tsukuba.ac.jp
問い合せ:茂呂

テーマについて
 ヴィゴツキー、バフチン、ベンヤミンが1920年代に遭遇したのは、映画、演劇、小説等の新しいメディア(あるいは従来メディアの転形)の出現が、人々の生活の形式を劇的に変えるという危機的な事態だった。私たちも、いま、そのような、いやそれ以上の変化を、新しいメディア使用に遭遇しつつ経験している。今日の新しいメディアが生み出した複雑きわまりない生活と社会のあり方を、リゾーム社会と呼ぼう。リゾーム社会を生きぬくためには、リゾーム社会の源泉である新しいメディアを自分の道具にしながら、かつてなかったような新しい他者の出会い方とつながり方が必要となる。その出会いとつながりは、様々なローカルな場所で、共同的な新しい学習を生み出しつつある。今回のISCARは、この新しい生と学習のスタイルをいかに分節化し可視化すればよいのか、を提案しあう。そして、さらに踏み込んで、人々の行なう日常的なデザイン実践に加担して、このリゾーム化の事態をいかに先鋭化できるのかを議論する。

プログラム(暫定版です、今後変更もあり得ます。)
午前1 9:00~10:30
セッション1 教師の学びと子どもの学び
 企画発表 宮崎清孝(早稲田大学)
    発表 石黒広昭(立教大学)
        有元典文(横浜国立大学)
        高屋景一(國學院大學)

セッション2 医療現場における新しい学習・発達・ネットワーク
 企画発表 山口悦子(大阪市立大学病院)
    発表 原田悦子(法政大学)
   コメント 交渉中

午前2 10:45~12:15           
セッション3 新しいつながりとしてのサブカルチャー
 企画発表 岡部大介(武蔵工大)
        石田喜美(筑波大)
        土橋臣吾(法政大学)
   コメント

セッション4 (交渉中)

ラウンドテーブル 韓国社会と日本社会のリゾーム化:今後の共同研究へむけて
 参加者 朴東燮(釜山大学校)茂呂雄二(筑波大)ほか(交渉中)
       ジェームズ・ワーチ(ワシントン大)

昼食休憩

午後1  13:15~14:45
 講演 James V. Wertsch (Marshall S. Snow Professor in Arts and Sciences. Director, McDonnell International Scholars Academy. Washington University in St. Louis)
    Vygotskian concept on mediation in New Social Media Era

午後2 15:00~17:30
シンポジウム 流動的なメディア社会のバウンダリークロッシング 
企画話題提供 上野直樹(武蔵工大) 
   話題提供 香川秀太(筑波大)
          茂呂雄二(筑波大)
          杉万俊夫(京都大学)
    コメント  ジェームズ・ワーチ(ワシントン大)
     司会  伊藤 崇(北海道大学)

かいじゅうたちのいるところ

 先週の土曜日、サッポロファクトリーで開催された絵本のイベントに家族で行ってきました。

 そこで知ったのですが、センダックの絵本『かいじゅうたちのいるところ』が実写映画になって公開されるんですね。

 映画「かいじゅうたちのいるところ」公式サイト

 この絵本はぼくが小さい頃からありましたが、絵がなんだか気持ち悪くて好きじゃなかったんですよ。古い教会の装飾のようなグロテスクな「かいじゅうたち」が苦手だったんでしょうね。

 今回の映画ではその「かいじゅうたち」が存分に動き回るようです。ファクトリーのイベントでは、予告編を流していましたが、あの「かいじゅうおどり」も再現されるんですね。時間があれば観に行こうかと思います。

研究者自身で何ができるか

 研究に対する事業仕分けについてもう少し考えてみましょう。

 ちょうど、自分の入っている学会から、学会として意見を申し述べた方がよろしいのではという旨の会長名義メールが届いたところです。研究費の削減は、研究者の自由なアイディアに基づく研究を不可能にするがゆえに、この国の科学技術の発展を妨げるという趣旨のメールでした。

 その通りだなと思います。思いますが、もう少し立ち止まって考えてみましょう。

 実際のところ、他の事業も含めた予算総額は限られています。その中でのパイの奪い合いが起こっているわけで、いくら研究が大事だと言ったところで、現在以上に使える予算が回ってくることはないでしょう。

 だとすれば、余力のあるうちに、税金を効率よく使うシステム、税金に頼らずに研究を推進するシステムを部分的にでも作っておく必要があるのではないでしょうか。恒久的な研究基盤づくりをする上で、今後再びの政権交代もあり得る政府はアテにならないことははっきりしたわけですから。

 じゃなきゃ、そんなシステムすら自前で考案できないような(人文社会科学も含めた)研究者には、やはり予算を渡すわけにはいかないよね、と言われてしまいます。では、何がシステムとして可能でしょうか。私には思いつくことはわずかです。

 (1)単年度予算をやめること。年度末になると、予算が余ってるからという理由でどうでもいいものを買っていたりあちこち出張していたりする研究室を私は知っています(ちなみに私は年度途中でほぼ使い切ってしまいます)。現実としてこうした「ムダ」な執行はあるわけですから、それをいかに「ムダ」にしないかが求められる。そこで、複数年度に渡る予算執行をさっさと認めて欲しいわけです。ただ、これは財務省の協力が確実に必要ですね。

 (2)研究成果による儲けを研究費にまわすこと。あまりにも単純といえば単純ですが、一番健全な姿なのかもしれません。儲けを産み出しにくい研究領域ももちろんあるわけで、そのような場合には、たとえば一般書などを執筆した場合の印税をプールするための仕組みを作っておくことも有効では。微々たる印税も積もり積もれば億の単位になるかもしれません。

 あまり鋭いアイディアは出ませんね。これが私の限界ということでしょう。

 ともかく、これからの研究者が税金に頼り続けることはもうできないと認識しておくべきでしょう。うまいシステムはないもんでしょうかね。

若手支援事業の仕分けについて

 科学技術政策関連の事業仕分け結果に対して、研究者から批判が出ていることはご存知のことでしょう。

 人から教えていただいたサイト、<a href=”http://mercury.dbcls.jp/w/index.php?FrontPage“>事業仕分けWS3 まとめウィキ</a>をつらつら眺めていると、研究者集団の末席を汚す者としてはいろいろと思うところもあります。

 現在の私に直接的にかかわるのは、事業番号3-21として挙げられた「科学技術振興調整費(若手研究者育成改革)」です。ここでは、(1)テニュア・トラック制導入と学位持ちの民間企業就職支援に関する事業、(2)科研の若手研究、(3)学振の特別研究員という3つの若手研究者支援事業が検討されたようです。

 事業番号 3-21 科学技術振興調整費(若手研究者育成改革)(PDF)
 事業番号 3-21 論点説明シート(予算担当部局用)(PDF)

 実際にどのような議論が行われたのか、テクストに書き起こしてくださった方がいるようで、読むことができます。→こちら

 今回の結論としては、文科省の出してきた要求額から減らしますよ、ということ。来年度以降の減額はおそらく確実ではないかと。

 私個人としては、(2)の若手研究にお世話になっていることもあり、内心おだやかではないですが、決まったことには粛々と従うつもりでいます。

 何らかのアクションを起こすとすれば、研究者ではない方々に対して、研究の重要さ、面白さ、大切さを地道に伝えていくことしかないのではないかと。日本でも最近は科学コミュニケーターの重要性が認知されはじめ、サイエンスカフェなど催しが行われています。そういったことを通して、税金の使い道として認めてもらうしかないのではないかと思います。

 弱気ですかね。

書き起こし随想(2) 聞き手のタイプ分け

 授業中のコミュニケーションを「聞き手」の側から描こうと目論んでいる。その際にどのような枠組みをもってくるか。Goffmanの参加役割は使えないか。

 Goffmanによれば会話の聞き手は多様に分化しうる。話し手の発話を聞くことができる範囲には、承認された聞き手とそうでない聞き手とがいる。通常、承認された聞き手と話し手を含めて「会話の輪」と呼ぶ。が、輪の外には、輪のメンバーとして承認されていないものの、聞いている人というのは存在する。食堂の隣のテーブルに座っている人なんかそうだ。

 この水準では、教室内のメンバーはすべて承認された聞き手である。参与観察者はどうか?一般的には承認されていない聞き手なのだが、学校の先生のなかにはそれを許さない人もいて、「ちょっとあそこにいる先生にも聞いてみよう」と話を振ってくれることがある。

 承認された聞き手もいくつかに分かれうる。どのように分けるかが分析のポイントになるだろう。

 話し手との協働性、相互行為の連鎖といった観点からは、発話に返答すべき者とそうでない者という分け方ができる。これは聞き手が自分で決定することができない、という意味で話し手との協働の結果であるし。さらには、自分がそのうち何者であるかは発話連鎖という文脈のなかで決まってくる。

 教室の子どもたちは自らをどのように位置づけるのだろうか?ある子どもが指名されて発言する。それに対して、子どもたちのなかには「ふーん」「あー」と相づちをぼそっと言う者もいる。挙手をして「似ていまーす」「同じでーす」「違いまーす」と自分の意見との比較を言う子もいる。彼らは「返答すべき者」として位置づけているのかもしれない。

 一方で、何もしない子、何か授業に関係していないことをしている子もいる。そもそも、授業とは別の会話の輪を作っている子もいる。彼らは「返答すべきでない」あるいは「しなくてもよい」と位置づけているのかもしれない。

 このように聞き手としての参加のありようをいくつかの種類に設定し、そのカテゴリーをもって子どもたちの立ち位置の時系列的な変化を記述してみたい。その際の行動指標は、発話内容、そのタイミング、視線といったものが想定しうる。

オタマトーンの練習の成果

 作業の合間合間にオタマトーンをいじくっております。小さくて縦置きできるので、机の隅にひょっと置いておくことができます。なので、つい手に取ってしまうのです。

 しばらく「う゛~」とうならせていたら、なんとか歌に聞こえなくもないレベルにまで到達しました。来年はこれをもってヨサコイに殴り込みしようと思います。一瞬で蹴散らされると思いますが。

オタマトーン

 オタマトーンを手に入れた。

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 オタマトーンとは、アーティスト明和電機が開発を行った電子楽器。白黒2色あるのだが、どちらも入手。

 使い方について、社長自ら説明している動画があるのでご紹介。

 さてどんなことをしてみようかと、いろいろ弾いてみるも、リボンスイッチの音域がせまくて(ラシドレミファソラシドレのあいだ)ちょうどいい曲がない。思いついたのは民謡とかわらべ歌。これらは音域が狭いことが多い。

 で、演奏してみた。

 まだまだだね。忘年会の余興のためにも精進せねば。

Youtubeの動画をPowerPointに埋め込むアドイン

 某先生よりYoutubeの動画をPowerPointに埋め込みたいと問い合わせのメール。つらつら調べていたら、こちらのサイトを発見。

 メディアデザイン専門部会 Webサイト-Power Point Power Use

 発見したエントリーで、こんなアドインが紹介されていました。

 YouTube Video Wizard (YTV)

 PowerPointのアドインとして組み込むと、メニューの「挿入」(2003の場合)にYoutube Videoというコマンドが現れます。それを選択すると、ウィザードが出現。埋め込みたい動画のURLをコピペして、どのくらいのサイズで出すかなどを決定すると、プレゼンに直で動画を埋め込むことができます。

 ただし、ネット環境がなければ使えないようです。ネットにつながっていないPCでプレゼンするしかないのであれば、やはりflvで落として貼り付け可能な動画形式に変換するのが一番の近道なのかな。

『精神』

 映画『精神』を観た。

 映画『精神』公式サイト

 夏にシアターキノでかかっていたのを見逃していたのだが、このたび北大の学生が企画する「クラーク・シアター」というフィルムフェスティバルで上映すると聞いて観に行った。

 心を病んだ人が、「山本先生」の元を訪れる。待合所は居場所となり、たばこを吸いながらくつろいだり、話し合ったり。それだけではなく、診療所を中心として、患者さんによる自立支援事業(牛乳配達、食堂)も展開されている。そうした日常を淡々と観察する映画である。

 同様のテーマを扱った、ニコラ・フィリベールの『すべての些細な事柄』を思い出した。どうしてもそれと比べながら観てしまう。

 比べたときに、2つの映画の異同がとても興味深い。

 本作の撮影、編集を行った想田和弘監督と、フィリベールは、ともに同じような精神病患者の所属するコミュニティに入り込んだ。

 入り込み方がとても似ていて、許可をもらった患者さんに対してカメラをもったまま対峙し、対話する。医療事業者は背景であり、あくまでも対象は患者さん。

 映画の作り方もよく似ている。字幕、ナレーションはほとんどなし。要は、第三者的な説明がない。我々は唐突に人々の中に投げ込まれ、彼らの日常につきあう。

 これほどよく似ているのだが、当の患者さんたちが行っていることがまるで違う。

 フィリベールのカメラが追ったのは、ラ・ボルドというクリニックを舞台に行われた、患者さんによる演劇の練習風景だった。一方で想田のカメラが追う人々は、徹底的にあるものに振り回されているように思われた。それは、お金である。

 親なき後の生活をどうする。住むところをどうする。家族をどうする。これらの語りの端々で、お金のことが触れられる。金銭の多寡から言えば、患者さんの生活は苦しい。苦しい中でそれなりに暮らす人々の姿として描かれているように見えた。

 撮影が行われたのが、例の自立支援法が成立に向けて動いていた頃なので、どうしてもそういう話ばかりになったのかもしれない。しかし、おそらくは時期が違っていたとしても、金の話はどうしても出てきただろうし、それは映画本編の中で不可欠な要素となっていたのではないか。

 日本に住んでいると、しかし、そういう描き方が自然なようにも思えてくる。むしろ、フランスのクリニックで演劇をする患者さんたちの方が、どこか浮世離れした印象になってくるからおもしろい。なにしろ、どうやって糊口をしのぐかといった話はほとんど出てこないのである(記憶に頼っているのでもしかすると金の工面に悩んでいる場面が出ていたかもしれない)。だからといって、フランスの患者がそうした問題と無縁かと言えばそんなことはないだろう。

 この違いはいったいなんなんだろうか。