2017年をふりかえる

2017年もあと残りわずかである。

ブログに記事をアップすることもほとんどなく、過ぎ去ってしまった。

もちろん、何もしていなかったわけではなく、本業はきちんとこなしていたつもりである。

今年1年ずっと肩にのしかかっていたのは、本の原稿であった。とある出版社より、入門書の執筆のご依頼を受け、それをしこしこと書き続けていたのである。

昨年の5月に計画がスタートし、その後私の筆がさまざまな理由で遅々として進まず、今年1月になってようやく軌道に乗り始めた。

ほぼ1ヶ月で1章(8~10ページ)のペースで脱稿し、先日ようやく全14章書き終えた(それでも当初は全15章の予定だったのを、力不足で1章削ったのである)。

というわけで、今年の重大事件は執筆完了という話であるのだが、それでは面白くないので今年1年で印象深かった出来事を7つ挙げてみる。

7位 平取町の方々と仲良くなる
 大学の国際交流イベントの関連でここ数年平取町のアイヌの方々と交流を続けている。今年は同僚の先生といっしょにプライベートでも訪れていろいろとお話をさせていただいた。

6位 アマネ歯を抜く
 夏休みに入ってすぐ、公園で遊んでいたアマネが遊具に顔をぶつけ、上の前歯を歯茎に陥没させるという事件が起きた。ひどく陥没していたため、けっきょくそれらの歯を抜いて、もういちど埋め直すという手術をした。結構な大騒動であった。

5位 ゼミ始まる
 言語発達論なる海のものとも山のものともつかぬゼミを始めてみて、ぼちぼちと人は来ている。特に後期は、ヴィゴツキー『思考と言語』を読むよ、そうとう難しいよ、と言っておいたにもかかわらず、6人の2年生が来た。古典を読むのは若いうちがよい。

4位 海外出張続く
 大学の国際交流イベントの関連で、今年の9月にタイのチュラロンコン大学とロシアのサハリン国立大学を立て続けに訪問した。なかば学生の引率のような形であったのだが、ノルマがさほど大きくない出張だったので、それぞれの地の事情や大学の様子を拝見できてとても意義深い出張だった。

3位 とある小学校での調査続く
 国内のとある小学校での調査を継続的に行っている。今年は3回の調査を実施し、特にそのうち1回は、子どもたちが合宿に行くのについていった。ビデオカメラをもってシャドウイングするのは久々だったので要領を思い出すのに苦労した。

2位 東京での監禁続く
 共同研究者の先生からのお誘いで、このところしばしば東京にてデータ討議や執筆のための缶詰になる。それを「監禁」と呼ぶ。監禁の後は飲み屋に繰り出すのだが、おかげで銀座のお店に詳しくなった。

1位 いろいろ書く
 というわけで、自分としては1冊の本を書き上げたというのが一番大きかった。

来年はぼちぼちアカデミックな場所に赴いてアウトプットをしていく予定である。

「おかしな問題」

5枚入りのデュエマのパックを8パック買いました。全部でだいたいいくらでしょう。

川床(2007)を読んでいて,上のような問題を思いついた。これ,うちの息子は解けるだろう。「ここで買えばいくらだけど,あそこで買えばいくらになる」といった,問題の文脈を自分で作り出すこともできるだろう。

6kgの小学生が8人います。全部で何kgですか。

これは非現実的な問題として挙げられている。確かにそうなのだが,これは「6kgの小学生がいたとして」「1kgは私たちの世界での4kgだとして」と仮定した上で問題をとく行為と捉えるならどうだろう。


川床靖子 (2007). 学習のエスノグラフィー:タンザニア,ネパール,日本の仕事場と学校をフィールドワークする 春秋社

研究の方向を見定める

データなんていくらでも取ろうと思えば取れるわけで,大事なことはそれでもってどちらに行くか,だ。

方向を見定める作業に10年以上かかっているのだが,そろそろ1つの方向性がまとまってきた。キーワードは,「子どもによる環境作り」である。

一方で,「大人による大人のための環境作り」もまた同時並行で進めている。

その一つが,現在もっぱら携わっている研究で,コミュニケーションを可視化する装置を学校の先生向けにカスタマイズする作業である。

先日の研究会では政策提言に食い込むのかどうか,という問いかけがなされた。大事なのはキャッチフレーズではなかろうか,と思う。ぼくならばこのツールは「もう1本のペン,もう1冊のノート」とでも呼ぶだろう。

「新しいペン,新しいノート」と呼ばないのは,今もこれからも授業記録の基本はペンとノートだという発想に基づく。先生が自分の目で見たこと,耳で聞いたことを主観をたっぷりとまじえて書き続けることが大事だ。いまカスタマイズしている作業は,先生のそうした主観に分析の結果を近づけることが中心となる。だから先生は自信を持って主観を研ぎすましてほしいのである。

そうなってはいけないのは,機械の分析結果に引きずられて先生が主観を曇らせることである。いってみれば,検査の結果に悪いところがないため,痛い痛いと叫ぶ患者を放り出す医者のようなものだ。先生がそうなってはいけない。まず人としての関係性において患者の痛みの尊重があって,それを和らげる手段としての検査でなければならない。

言語は質的研究のツールとして適切か?

心理学研究における質と量の対立については無益だ,というのが私の立場です。

それよりも,ことさらに両者の対比をするのが質的方法を採用する側であることが気になります。

質だ質だという場合に,ではその研究が採用する「言語」というツールはどうなのよ,と思うのです。

ここにタマというネコがいて,あそこにミケというネコがいます。これら2匹は,当然,個として固有の人格ならぬネコ格をもったネコです。

にもかかわらず,言語の水準においては,私は2匹を「ネコ」というカテゴリーによってアイデンティファイし,同じ「ネコ」という表現形式を用いて指し示します。

ネコという単語があるからそう認識するのか,それともネコが実体としてあるのかは古典的すぎる問題なのですが,いずれにせよ,ネコという単語を用いることにより,固有のネコ格が捨象されることは事実です。

つまり,言語は,質的な差異を無視するツールなのです。

しかし,固有のネコ格を捨象するからこそ伝わるものもあるのであり,トレードオフの関係にあると言えるでしょう。

そういう言語というツールの特質を分かっていて質的研究のツールとして言語を採用しているのですか,と問いたいのです。きょとんとされるのでしょうけどね。

タンスの3段目

早いもので娘ももう1歳を過ぎました。歩くのもだいぶ上手になり,家の中をポテポテとうろつき回っています。

動くのがうまくなるということは,こちらの目が離せないということでもあります。視界から消えてしばらく静かにしているなと油断していると,たいていはろくでもないことを夢中になってやっています。

部屋に置かれたタンスから服を引っ張り出すのも日常茶飯事。せっかくたたまれてしまわれていたのに,全部外に出してしまいます。それで,出した服の山に埋もれてみたり,ズボンを首に巻き付けてみたり,「洗濯物をたたむマネ」をしてみたり。集中して遊んでいるので怒ることもできず,こちらとしてはため息をつきながらもニコニコと眺めています。

しかしながらその様子をよく見ていますとあることに気づきます。部屋のタンスは5段あるのですが,なかでもよく狙われるのは「3段目」のようです。もちろん背の届かない,上から1~2段目はそもそも開けられないのですが,もっと楽に中身を見渡せる,下から1~2段目はあまり開けようとしません。

なぜ3段目なのでしょう。

上の映像を見てみますと,なんとなく理由が分かりそうです。

彼女は引き出しの中をあさるのに「つま先立ち」していますね。つま先立ちをして手の届く範囲(3段目)とは,彼女にとって無理せずに手の届く範囲(下から1~2段目)と,無理をしても絶対手の届かない範囲(上から1~2段目)の,ちょうどあいだにあります。これが決め手になっているように思われます。

彼女が3段目を狙う理由,それは,そこがちょうど「今」の彼女にとって「おもしろい」範囲だから,だと考えられないでしょうか。

ちょっと頑張れば手が届く,ちょっと頑張ればのぞくことができる。この「ちょっと頑張れば」が知覚でき,かつ,実行に移すことができるとき,そのときどきの「おもしろさ」が沸いてくるのでしょう。逆に言えば,簡単に手が届く範囲にある下から1~2段目をあさることは,今の彼女にとっては「おもしろくない」のです。

注意したいのは,あらかじめ「おもしろさ」を感じることが分かっていて引き出しを開けようとし始めるわけではないだろう,ということです。要するに,「おもしろさ」の知覚→引き出し開け行動,という順序で発生しているわけではないだろう,ということです。おそらくは,つま先立ちをして手をのばしたところ,見えるか見えないかというギリギリの目の高さに服が詰め込まれているのを発見し,それをポイポイと外に出しはじめたらおもしろかった,という順番だと思われます。要するに,引き出し開け→「おもしろさ」の知覚という順序で発生したと考えられます。

このように,つま先立ちをして手が届く範囲におもしろさを感じるとともに,それがその後に続く学びを主導していくという考え方は,私のオリジナルではありません。フレッド・ニューマンとロイス・ホルツマンという,アメリカの哲学者・心理学者が,学びとは何なのかを考える上で,「頭一個分背伸びをすること」がもつ,学びにとっての本質的な意義について議論しています。その議論の背後には,ロシアの心理学者ヴィゴツキーの発達学習理論が横たわっています。

心理学をちょっと勉強した方ならば,もしかすると「最近接発達領域」の話かなと思われるでしょうが,その通りです。ただし,私がニューマンとホルツマンの議論に同調するのは,2人は学習者が感じる情動的な側面,ここで言うところの「おもしろさ」が,学びの成立に欠かせないと看破しているところです。娘の話に戻れば,彼女はほんとうに夢中になって服を取り出しています。この行動の背後には情動的な衝動があるように見えるのです。

学びというと私たちはつい,何かを意識的に記憶したり,自分自身を自己反省的にふりかえったりといった認知的な側面ばかりを重視してしまいがちです。しかし,その発生時点までさかのぼると,むしろ情動が大きな役割を果たしているでしょうし,そう考えると情動と認知を区別することはできないだろうというのが,ニューマンとホルツマンの考え方です。

この考え方を,例えば学校教育に敷衍するならば,教師は子供の学びをどのように導けばよいのかという問いと結びつくように思います。子供の学びを発生させる初発の情動的な衝動を起こすことがうまくできているでしょうか。「なんだろう?」という好奇心もそうでしょうし,「え?ほんと?」といった驚きもあるでしょう。そうした情動を起こすような問いであるとか素材を子供に提示できるといいんじゃないかな,と思います。

子供の学びを引き起こすもの,それは,1歳児にとっての「タンスの3段目」のような対象の存在だと言えるでしょう。

指定討論の恐怖

kamogawa.jpg

先週末は京都大学へ。発達心理学関係の学会に参加してきました。

学会に参加して何をするのかと言いますと,個人やグループでの個別研究発表を聞いて動向を確認するのはもちろんのこと,講演会や,複数の研究者によるあるテーマをめぐるシンポジウム,そしてもう少しラフな場で議論をするラウンドテーブルといったイベントに出席するのです。

そうしたイベントにただ聴講しに参加することがたいていですが,どういうわけか,自分の研究について「話題提供者」として話しをする機会をいただいたりもしますし,提供された話題に対して「指定討論者」として質問したりコメントしたりすることもあります。

ぼくはこの「指定討論」がほんとうに苦手です。いままで,学会が終わってから後悔しなかったためしがありません。

多くの場合は話題提供者の方から事前に発表資料をいただきますので,それを読んでおいてだいたいのコメントを考えておきます。ただ,個別の発表にコメントを返すことが果たしていいのかと悩むこともあります。どういうときかと言いますと,そのシンポジウムなりラウンドテーブルでの全体の議論を活性化することが求められるような場合です。これに失敗すると,「おとしどころ」が分からずに場の空気を読めないコメントばかりが口をつくという最悪の事態に陥ります。

案の定,先日の学会でもそういうことになってしまい,学会終了後は憂さを晴らすべく痛飲しました。

発達心理や教育心理の領域で著名なヴィゴツキーという研究者について,その理論の背後にいる哲学者のスピノザとの関係性について議論するシンポジウムを企画し,ご高名な先生方に来ていただくことができました。ぼくは僭越ながらその先生方への指定討論を仰せつかったのですが,ぎりぎりまで何を話せばいいのかよく分からないまま,結局その場ででっちあげたのは自分とヴィゴツキーとの出会い方というどうでもよい話しでした。

こういうときは,帰りの飛行機の中で「ああ,こう言えば良かった」というアイディアがぽんぽん出てくるのです。

そういうわけで,思いついたことを書き付けておきます。ヴィゴツキーが格闘したのは彼が生きていた時代や社会における具体的な諸問題であったはずであり,そういう諸問題について考える上でスピノザを参考にしたのでしょう。つまりヴィゴツキーはスピノザと「ともに」具体的諸問題を考えようとしていたはずです。一方,私たちはこの時代,この社会における具体的な諸問題と格闘しており,その方向性を考える上で「スピノザを読むヴィゴツキー」を読むのが適切なのだとしたら,その問題とはいったい何だろうか,という問いを,話題提供の先生方に投げかければよかったなあ,と思いました。

「あらゆる時代,あらゆる社会,あらゆる心理的諸問題」に適用可能な心理学理論や心理学概念はありません。ある理論やある概念は,個別の具体的な問題状況から生まれ,それを解きほぐすために用いられます。ヴィゴツキーの理論や概念もまたしかり,でしょう。だとしたら,どういう問題状況にとって,スピノザ経由のヴィゴツキー理論の適用が適切なのだろうかという疑問だと言い換えられます。

ある先生はこの資本主義化された社会における個人の解放を問題としたいと言うでしょうし,ある先生は幼児期におけるごっこ遊びの意義について考えるため,と言うでしょう。理論をめぐって空中戦を戦わせるよりは,よっぽど具体的な話しができただろうと今にして思います。

指定討論を,学会が終わって3日後くらいにメールで行うとかいったルールにすればいいのになあ。

環境を変える/自分が変わる

「水曜どうでしょう」の新作がはじまるまでの時間を使ってさくっと書いてしまう。

明日から横浜へ行く。横国大の有元典文先生のゼミを,こちらの院生と一緒に訪問させていただくのだ。

そこで見聞きしたことをなんとか消化/昇華して自分の研究に活かしてもらいたいというのが指導教員の思惑。

本音のところを言えば,教員が「あそこへ行け」と言う前に,さっさとどこかに行って情報を仕入れてくるような院生であってほしい。

関東にいたときは,わりとあちこちに出かけていたように思う。自分でも驚くのは,当時ATRにいらした岡田美智男さんのところに見学におしかけたことだ。筑波から「けいはんな」まで,よく院生の財力で行けたものだと感心するが,とにかく行ってしまった。

現下の環境では自分にとって必要な情報が手に入れられない可能性が小さいと直感的に感じたならば,さっさと行動に移して「よさげ」な場所に移動してみることだ。環境に自分を合わせるのではなく,環境を作りかえてみる。そうすることで自分も変わる。

教えられないものがあることへの恐怖?

このツイートが埋め込まれた文脈を追えていないので最後の一文にだけ反応すると。

「教える-教えられるという社会的関係性の一方に居続けること」が破綻する瞬間を避けようとする傾向は,ぼくにはある。その傾向は,「恐怖」という言い方が適切かどうかは分からないけれども,確かに情動的なもの,つまりは頭では分かっていてもどうしようもなく生じる身体的反応の水準において起こるものである。

この情動的反応を避けようとして何をするかがぼくには問われている。

ひとつは,教える-教えられるという社会的関係性をひたすら維持しようとすること,しかも,教える側に居続けようとすること。

もうひとつは,この情動的反応を利用してさらに先に進むこと。例えば,教えられないことがないくらいにまで専門性を高めるべく学び続けること。つまり,「恐怖」によって移動することを「逃げ」とするのではなく「前進」として捉えること。

後者はなんだかよさそうである。しかしストイックであり辛い作業である。しかも,それでもやはり教えられないことはなくならないのである。

教えられないことがあることへのみずからの情動的反応をぼくがどのように利用するか。これを記述できたらけっこうなものになるのだけどなあ。

観察者を傍観者から当事者に変える実践

障害者イズム ~このままじゃ終われない~ Part1 [DVD]

先週に引き続き,「障害者イズム」から別の1シーンを使って,詳細な行為の分析をいかにすべきか,実習を行いました。以下は,人々のやりとりを細かく見るといろいろなことが浮かび上がってきますよ,ということを伝えるために,実習の最後に配布したお試しの分析レジュメの内容です。

私は会話分析・相互行為分析について誰かから系統立てて学んだことはありませんので,見る人が見たら多分におしかりを受ける内容ではあるでしょう。にもかかわらず掲載するのは,その見る人がもしもこれをご覧になったらいろいろと教えていただければなあと思ったからです。あつかましいですね。

見えない参加者—撮影者

N氏が県営住宅を借りる相談をしに,N氏とH氏は連れだって某県庁住宅課の職員(職員AとB)の元に訪れた。参加者による一連のやりとりが終わった直後の場面を見ると,2人の職員は立ち上がって,相談者N氏とH氏のいる場所とは逆の方向に顔を向けて背中をかがめていた。これは一連の相談が終わった後のあいさつと解釈されるが,果たして誰にあいさつをしているのだろうか。

それは,「撮影者」である。撮影者はカメラの後ろ側にいる限り決して画面に映り込まないが,参加者としてその場に共在する。

中立的立場の撮影者?

この場面での職員たちの行動は,かれらが撮影者をどのような存在として理解していたのかを推測する手がかりになるように思われる。仮に職員たちが撮影者を「壁の虫」のように無視していたのだとしたら,あいさつと目されるような行動は取らなかったであろう。では,撮影者は職員たちにとって相談者の1人であったのであろうか。実は,そうでもなさそうである。まず,相談の一部分を書き起こししたものを見てみよう。

シークエンス 住宅を借りる相談をする(B:職員B H:H氏)

01 B あのー車イスで使えるような設備も整ってるんですよね
02 H はい
03 B ここが空いてるんですよ
04 B だけどなかなかねこんだ逆にこちらのほうが募集していても
05 B なかなか需要者がいないっちゅうね
06 B こうちょっとこうふうね
07 H 場所て場所的にはどこらへんになるんですか
08 B ほ

抜粋したシークエンスでは,主に職員Bが相談に対して返答していた。その内容は,住宅への居住が可能な条件に適した応募者がなかなかいない,というものであった。職員Bの発話に対して相づちを打ったり問いかけをしたりしているのはH氏であった。その他の職員AやN氏はこのシークエンスでは発話していなかった。

相談の当事者はN氏であった。N氏が希望していた県営住宅の部屋は自分の職場からも近く理想的であったのだが,そこは世帯用であり,家族がいなければ(N氏は独身であり,さらに親元から独立しようとしていた)借りることはできない。一方で,職員Bが勧めていたのは単身用の部屋であった。しかしN氏にとって問題だったのはそこが職場から遠く離れていたことであり,車でもないと通勤できない(N氏は脳性マヒ患者であったために自動車の運転は困難であった)。

職員Bがこのシークエンスで行いたかったことは,おそらく,「相談者を説得して単身用の部屋で妥協させること」であったと推測される(このことは直前のナレーションによって明らかとなる)。職員Bのねらいがこれであったという前提で議論を進めると,職員Bが相互行為を通して行いたかったことの1つは「味方を手に入れること」であったと推測される。

説得する相手である相談者以外で味方になる可能性をもつ参加者として,まず職員Aが想定できる。ただし,職員Aは職員Bと同じ制度的な役割をもつ。相談者と相談を受ける者との間で思惑が対立していた場合,議論は平行線をたどることとなろう。そこで,相談者(車イス利用者)と相談を受ける者(職員)という対立する2つの役割以外の参加者が職員Bにとっては必要であったのではないか。つまり,中立的な立場の存在である。中立的な立場の参加者を味方とすることに成功した場合,人数において相談者を上回ることとなり,説得に成功する可能性は高くなるであろう。このような判断を職員Bが実際に頭の中で行っていたかどうかはまったく不明である。しかし,非合理的な推論ではないだろう。

このシークエンスにおいて中立的な立場に立ちうる唯一の参加者は撮影者であった。撮影者を味方につけることができれば,職員Bのねらい(=相談者を説得して単身用の部屋で妥協させること)が達成される可能性は高まる。このような前提であらためてシークエンスを見てみよう。

視線の分析を通して何が分かるか?

このシークエンスの映像を見ていて気がつくことは,職員Bが発話をしながら視線をあちこちに向けていたことである。発話だけを見ると,H氏と職員Bとの対話のように見えるため,職員BはH氏だけに視線を向けていたように考えてしまうが,実際には,視線を向ける対象を頻繁に変えていた。

このシークエンスでは映像の画面に2名の職員しか映っていない。そのため職員Bが相談者の誰に視線を向けているのか,明確ではない。しかし,シークエンス終了間際に,2名の相談者と2名の職員の座っていた位置関係が俯瞰的に映っている。その映像に基づくと,図2のような身体配置によってシークエンスが展開されていたこととなる。

20130523fig2.gif

図2 住宅を借りる相談をするシークエンスにおける参加者の身体配置

図2で想定された身体配置を背景として,発話の書き起こしに職員Bの視線の動きを重ね合わせ,さらに発話をジェファーソン・システムで書き起こしし直したものを次に示す。

シークエンス 住宅を借りる相談をする(発話の書き起こしの下にある記号は,職員Bの視線の向き先にある人/物を示す)

視線の向き先にある人/物の凡例
H:H氏  N:N氏  O:撮影者 D:書類 —(ハイフン)は,視線の移動を示す。

01 B あの::くるまいすでつかえるような(.)せつびもととのってるんですよね:
      HH—-NNNNNNNN—-DDDDDDDDD—-HHHHHHHHHHHHHHHH
02 H (はい)
03 B ここが(2.0)あいてるんですよ=
      HHHHHHHHHHH—O-N—–
04 B =だけどなかなかね(.)こんだぎゃくに:(.)こちらのほうがぼしゅうしていても=
      –DDD—-H—-NNN—OOOOO——N—OOOOOOO——HHHHHHHHH——
05 B =なかなか(1.0)じゅようしゃがいないっちゅうね:
      OOOONN–H-NNNNNNNNNNNNNNNNNN—
06 B こうちょっとこう.h[ふうね::
      HH—NNNNN—D-NO–H—N–
07 H            [ばしょてばしょてきにはどこ[らへんになるんですか
08 B                              [ほ
                 HHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHH

シークエンスにおいて,職員Bが撮影者を頻繁に見ていたのは,4行目と5行目の発話の最中であった。この発話は,「今度は逆にこちらの方が募集していてもなかなか需要者がいない」というものであった。ここにおいて職員Bは「こちら」という言葉を用いていた。これは,行政を担う職員という自分たちの制度的役割を指し示すものであったと言えるであろう。このような発話をしながら撮影者に視線を向けることにはどのような意味があると考えられるだろうか。

直前の発話が「単身用の部屋ならば空いている」ことを主としてH氏に視線を向けながらなされていたことと対比的にとらえるならば,4~5行目で職員Bはあたかも「行政の努力」を誰かに伝えようとしていたようにも見える。そして,視線が撮影者にも向き始めたことは,「行政の努力」を伝える相手としてH氏やN氏以外に撮影者が含められるようになったこととして解釈できるであろう。

参加の形式という観点からもう少し補強してみよう。

二者による会話(dyad interaction)を考えてみる。この場合,1人の参加者が話し手となった場合,他方が自動的に聞き手として扱われる。一方で三者以上の会話(multiparty interaction)の場合は,参加の形式に多様性が生まれる。1人の参加者が話し手となったとき,他の参加者の中で誰が聞き手なのかは自動的に決まらない。むしろ,誰が適切な聞き手となるのかはその相互行為を通して・その相互行為の中で即興的に決められていく。

会話中の参加者の視線の動きはこうした聞き手の決定過程と密接に関係していると考えられる。すなわち,話し手が視線を向けた対象は,優先的に聞き手として判断される傾向にあるのである。

撮影者に視線を向けることで,職員Bはその人を「聞き手」とすることができる。すなわち,相談という会話に臨場する単なる傍観者としてではなく,撮影者を相談に強制的に巻き込むことができるのである。撮影者は不可避的にカメラを通して職員を見ていたということも重要なポイントである。職員Bには撮影者が自分を見ていることが自明であり,だからこそ撮影者に視線を向けることで見つめあいを容易に達成することができた。

まとめると

職員Bは「相談をする者」でもなく「相談を受ける者」でもない参加者である撮影者を会話に巻き込むことに成功し,同時に,それを基盤として,撮影者に行政の努力を伝えていたと解釈できるであろう。

ともすると,ビデオ映像に基づくエスノグラフィーや会話分析・相互行為分析ではカメラの背後にいる撮影者の存在を無視して目の前で起きていることを分析してしまう。しかし,映像に映っている参加者が撮影者を参加者の1人として積極的に扱い,そのことが合理的な目的を持ちうる場合もありうるのである。

窓口で追い返す方法の分析

障害者イズム ~このままじゃ終われない~ Part1 [DVD]

大学院の講義「教育学研究法」では,音声・映像データの分析の仕方について,レクチャーと実習をあわせて行っています。

発話データの書き起こし法としては,会話分析の領域で開発されてきたジェファーソン・システムが有名なので,それを学んでもらうことにしました。

なぜジェファーソン・システムが有効かというと,相互行為の中のトークを通して人々が行っていることを書き起こしという形で具体的に示すことができるからです。

例示するために,今回は山田和也監督による『障害者イズム』(2003年)というドキュメンタリー映画から,あるシーンを題材としました。

重度の身体障害者であるKさん(映画の中では実名で登場されますが,ここでは仮名とします)が,現在生活する施設を出て地域で自立生活する道を探ろうとするいきさつをカメラは追います。自活するには障害者基礎年金だけでは足らず,生活保護費の受給の可能性が探られます。そこでKさんは,居住する某市(これも映画でははっきりと示されます)の福祉事務所に赴き,窓口の人と相談をもちます。

映画ではKさんと窓口の担当者(以下,Officerの頭文字を取ってOさんとします)とのやりとりが音声のみ示されます。このやりとりには,生活保護費を申請に来た人を窓口で追い返すためのストラテジーが見えるように感じました。

そこで実習は,そうしたストラテジーとして解釈可能な部分を受講者に見つけてもらうことから始めました。

■K氏が某市福祉事務所に生活保護費の申請をしに行くシーンの会話の書き起こし(映画冒頭から9分39秒経過後~10分20秒まで)

01 わたしはほら生活保護の仕事やってんだけど
02 はい はい
03 生活保護を 受けたいってこと
04 はい はいはいは
05 で いま年金はもらってるの
06 はい
07 年金で生活
08 月8万です
09
10 月8万
11 月8万で生活できないかね
12 ちょっと無理ですね
13 だって生活保護だってお金 出せないよ 月8万もらってる人に さらに生活保護なんつったって 出せないよ
14 そうすか
15 ね だから年金ももらってるし
16 ええ
17 ね 生活保護ももら 保護費ももらうってことはできない 相殺されちゃうの
18 ああそうですか
19 うん じゃ そりゃあ二つもらえば誰だって俺だってもらいたいさ
20 ええええええ
21 ね あちこちからお金たくさんもらいたいね
22 ええええ
23 そういうわけにはいかないの
24 ええ
25

まずは文字に表現可能な言葉だけを丁寧に追っていってもらいました。すると,次のようなことが受講者の解釈として出てきました。

  • OはKにクローズドエンドな質問をしていた(3行目,5行目)。質問をすることで相手の意向を尊重しつつ,「はい」「いいえ」という回答に誘導しているのではないか。
  • Oの言葉尻に強い言い切りが多用される(11行目「~かね」,13行目「~よ」)。威圧的な印象。
  • Oが話し始める際に「ね」という確認をするような機能を果たす間投詞が多用される(15行目以降)。
  • Oは21行目でKの意向をあたかも代弁するような表現を用いた(「あちこちからお金たくさんもらいたいね」)が,23行目で否定に転じた。相手によりそうような姿勢を見せつつ拒絶する。
  • Oの言葉数がKよりも多い。他方でKが意味のある言葉で主張をするのはわずか(8行目,10行目,12行目)。発話量の非対称性が力の非対称性と重なっている印象。

なるほど,どれもその通りだと思いました。私が見て興味深いポイントは,2点あります。

  • Oが用いる自称詞が前半と後半で異なる(1行目「わたしはほら~」,19行目「~俺だってもらいたいさ」)。特に「俺」というフランクな印象を受ける自称詞を使うことは,相対的に後半の「相手に寄り添う印象」を高めている可能性がある。
  • Kの数の使い方がOによって微妙にずらされる。前半でKは自分が現在受給している「金額」を具体的に挙げていた(8行目「月8万です」)。一方でOは金額の表現をいったん受け入れながらも(11行目「月8万で生活できないかね」),Kが「無理だ」と拒否すると(12行目),すぐに,「月8万もらってる人に “さらに”生活保護なんつったって 出せないよ」(13行目)と言う。
    Oは,「額」ではなく「利用可能な制度の個数」の多寡が問題であると「すりかえた」。2つの制度を利用するとなぜか額が「相殺され」(17行目)るという制度上の問題を指摘されると,Kは「ああそうですか」(18行目)と納得せざるを得なかったように思われる。その後もOは「二つ」「あちこち」のように制度の個数が問題であるという論理で通そうとしていたと解釈できるだろう。

文字で示されたこと以外にも,OとKの2人による相互行為的な出来事も受講者から指摘されました。ひとつが割り込みで,前半ではKの発話にOがかぶせるようにして発話する箇所がありました。相手が話しているうちに自分の発話をかぶせることにはいろいろな機能があると思いますが,ここでのやりとりにとっては相手の話を「聞かない」ことが重要だったのでしょう。

受講者には割り込みを書き起こすことによって見えることがあるのだ,という点に気づいてもらった後で,ではジェファーソン・システムでは割り込みを記述する具体的なやり方を資料に基づいて確認してもらいました。

それにしても1行目の「生活保護の仕事」というOの表現は非常に意味深ですね。

自分でもおもしろい発見があった1時間でした。受講生に感謝です。