責任逃れも、単にめんどくさいのも、管理が行き届かないのもあるだろうけど、先生より生徒の方が詳しいものがあるのが、なんとなく、こわいんじゃないのかな(ω)教えられないものがあることへの恐怖
— はるかぜちゃん✿春名風花 (@harukazechan) July 18, 2013
このツイートが埋め込まれた文脈を追えていないので最後の一文にだけ反応すると。
「教える-教えられるという社会的関係性の一方に居続けること」が破綻する瞬間を避けようとする傾向は,ぼくにはある。その傾向は,「恐怖」という言い方が適切かどうかは分からないけれども,確かに情動的なもの,つまりは頭では分かっていてもどうしようもなく生じる身体的反応の水準において起こるものである。
この情動的反応を避けようとして何をするかがぼくには問われている。
ひとつは,教える-教えられるという社会的関係性をひたすら維持しようとすること,しかも,教える側に居続けようとすること。
もうひとつは,この情動的反応を利用してさらに先に進むこと。例えば,教えられないことがないくらいにまで専門性を高めるべく学び続けること。つまり,「恐怖」によって移動することを「逃げ」とするのではなく「前進」として捉えること。
後者はなんだかよさそうである。しかしストイックであり辛い作業である。しかも,それでもやはり教えられないことはなくならないのである。
教えられないことがあることへのみずからの情動的反応をぼくがどのように利用するか。これを記述できたらけっこうなものになるのだけどなあ。