『生物と無生物のあいだ』

 を読みましたか、と、一人の男子学生が言った。2コマ続きの非常勤の講義を終えて帰り支度をしていたときだった。

「もちろん。おもしろかった?」
「はい。あれを読んで、精神というのは不思議だなと思いました」
「そうだよね。ただのタンパク質が、自分って何だろうって思えるようになるんだからね」 

 生得論をめぐる論争に関連して、DNAの機構について話をしたあとだったこともあったのかもしれない(ぼくの講義では、
ダーウィンの自然選択説に基づいた進化論をきちんと理解してもらうことをひとつの目標としている)。たぶん、彼の中で、
本を読んで考えたことと、講義を聴いて考えたこととが、何かの具合でカチリとはまったんだろう。

 ときどき(いや、たまに)講義が終わってから、「今日の話は○○と関係がありますか」と上気した顔で話しにくる学生さんがいる。
そのときの顔を見るとこちらはとても嬉しくなる。テーブルを同じくして卓上の問題をともに議論する、
それが大学という場の本分だとぼくは信じているので、そう感じるのである。「問題なるもの」に気づいてくれる人が1人か2人いれば、
講義というのはそれでいいと思っている。みんながみんな、心理学の専門家になるわけではないのだから。

 それにしても、『生物と無生物のあいだ』を読んだ学生さんがいるというのを知っただけで、なんかぼくは、
とても嬉しくなってしまったなあ。

オッキーチョッチョ=?

 子どもと過ごしているとき、間が持たなくなるとビデオについ逃げてしまいます。

 長らくアマネのお気に入りは『となりのトトロ』『魔女の宅急便』でした。手持ちのジブリ作品のなかで、喜びそうなのを順に見せていたのですが、どちらも夢中になって見ています。

 トトロが好きならこれも好きになるんじゃないかと、先日レンタルDVD屋で『パンダコパンダ』を借りてきました。「トトロの原点」とも評される作品ですが、実はまだぼくも見たことがなかったのです。

 お父さんのパパンダとちびのパンという2人(?)のパンダが、ミミちゃんの家に突然やってくる、というストーリー。丸っこくてちょこちょこ歩くパンダがかわいい。

 これがまたアマネのツボにはまってしまったようで、食いつきぐあいはトトロやジジの比ではありません。ご飯よりも、「いないいないばあ」よりも、「オッキーチョッチョ」が好き。

 オッキーチョッチョって?彼は、このDVDをかけてほしいときにはいつもこの言葉を言うのです。映像の中の何かを指していると思うのですけどね。パパンダのことかな。

 もう夢中です。いやはや。

2コマにも慣れてきた

 後期の非常勤がすでに始まり4週間がたとうとしている。とある大学で2コマ続けての講義。

 慣れている方にはそうでもないのだろうが、およそ3時間も立ち続け、話し続けるというのは至難の業である、と始業前には考えていた。実際始まってみても、そう考えていた。帰宅してそうそうに布団に潜り込んだほどである。

 4週間たち、だいぶ慣れてきたようで、さほどしんどくなくなった。ペース配分が分かってきたということだろうか。ただいま教えている内容を使えば、閾値が上がったということだろうか。なにはともあれ2コマにも慣れてきた。

 さて、あの二重らせんのジェイムズ・ワトソンが変なことをしゃべった、というのが話題になったらしい。

 黒人は知的に劣っている-科学者の発言

 ソースとなったインタビューはこちら

 問題となった彼の発言と、その訳を示しておこう。

all our social policies are based on the fact that their intelligence is the same as ours – whereas all the testing says not really
われわれのすべての社会政策は、われわれの知能とかれら(黒人、筆者注)の知能が同じだという事実に基づいている。 しかしあらゆる検査の結果、同じだというのは現実的ではない。

 この発言の直後、ワトソンは、すべての人間が平等に扱われることを望んでいる、とも発言しているのだが。天真爛漫とも評されるワトソンであるが、確かに素朴な人なのだなあと読んで思った。

 にしても、記事を読み、「あ、授業で使える」と反射的に考えてしまうのは、教員生活5年目の慣れのなせる技か。

はるばると北見へ

 土曜日、北見へ行った。北見は初めてである。札幌から鉄道で4時間半、往復で9時間の日帰り旅行である。

 何をしに行ったかというと、北見北斗高校にて開かれた「北大セミナー」に講師として参加するためである。近隣の高校生はもとより、
一般の方にも開かれた公開講座として開催されたもので、大学各学部から1名ずつがかつぎだされた格好である。ぼくは、
なんたら委員をしている関係でお呼びがかかった。

 汽車は旭川を越えると渓谷をぬいながらうねうねと走った。車窓から手を伸ばせば届くぐらいのそばに白樺木立が並ぶ。
山肌の木々はすでに色づいていた。

 北見の駅をおりると大きな空が広がっていた。青空につきささっていたのは東急と北見信金のビルくらいであった。

 駅前のこじんまりとした商店街を抜け、しばらくまっすぐ道を歩くと北斗高校がある。すでに他学部の先生方が昼食をすませており、
いそいでかきこむと教頭先生にご挨拶。

 教室で講義の準備をすませてのんびりと待っていると、生徒さんと一般の方(高校の先生が多かったか)が三々五々集まった。
12名で最初の話を始める。

 教育学部の説明、現在の学校的システムの来歴、リテラシーとは何か、読み書き習得期の子どもにおける音韻意識の役割。

 ただ聞くだけではつまらないだろうと、幼稚園生に促音「っ」の読み方のルールを覚えてもらう教材を考えてもらう課題を出した。
2~3人のグループに分けて考えてもらったが、ひとつもかぶるものがなく、聞いているこちらがおもしろかった。

 60分の講義時間が短く感じられたのなんの。90分の感覚に慣れているんだなあ。

 15分のお休みの後、参加者を入れ替えて10名でもう一度同じ講義。同じ話をしても反応が異なっておもしろい。

 4時半に全日程を終えてしばし休憩のあと、5時に高校を後にした。道北有数の進学校とのことだが、建物がきれいだし、
生徒さんも純朴そうであった。

 帰りの汽車までしばらく時間があるので、手近な居酒屋へ。生の白魚、冷や奴、おにぎりで夕食代わり。

 乗り込んだ札幌行きの特急はガラガラ。最後尾が自由席の「お座敷列車」になっているというのでのぞきに行った。初めて見たよ、
お座敷列車。畳に座椅子、掘りごたつにテーブルである。

 朝早かったのでうつらうつらしていると、いつの間にか札幌に着いていた。

北海道心理学会

 7日、北海道心理学会が北海道教育大学旭川校で開かれました。私は同学会の事務局を1人でつとめている関係で、出席することとなりました。

 予定よりも早く会場に到着。旭川校で大会準備委員会をされている、久能先生、懸田先生、宮崎先生、江上先生とご挨拶。これまでメールでのみやりとりをしてきたので、久能先生以外の方とお目にかかるのははじめて。アルバイトをなさる旭川校の学生さんがリクルートスーツを着て三々五々朝靄の中をやってきました。

 参加受付ブースの隣に学会事務局ブースを設営してもらい、年会費の徴収をおこなうのが、今回のメインの仕事であります。参加者のみなさんが今回ばらけて来場されたので、危惧していたほど混雑もせず、なんとか無事に波を乗り切ることができました。

 昼からの理事会には事務局として進行と説明を担当。お偉い先生方に混じって仕出し弁当をかきこんでから、冷や汗をかきながらも、恙なく理事会を終えました。

 引き続き総会ですが、こちらは理事会の内容とまったく同じなので、特に問題なくクリア。

 大会の最後は、名誉会員の相場覚先生による記念講演。視覚障害者の形態認知に、もしも法則のようなものがあるなら、それはどのようなものかをこれから調べていきたいとの決意表明とうかがいました。

 これにて大会は終了。ひきつづき懇親会です。駅前のホテルに荷物を置いた後、旭川グランドホテルへ移動。すでに始まっていました。もう料理はひととおり消え失せており、残された海苔巻きをぽそぽそと食べます。

 7時に会場をあとにし、投宿しているホテルへ。ここのロビーで、教育大旭川校におつとめの高橋亜希子さんと合流。高橋さんは昨年旭川に赴任されたのですが、それ以来、年に1、2回はお会いしています。

 高橋さんからお二方をご紹介いただきました。おひとりは、札幌で保育士をつとめられた後、海外青年協力隊でアフリカに行かれ、現在旭川校で学生をされている女性。元気な方でした。卒論のため、札幌の保育園でフィールドワークをされているとのこと。

 もうひとかたは黒谷和志先生。教育方法学をご専攻とのことですが、リテラシー教育を特にテーマとしてこられたとのこと。活動理論などにも関心があるとのことで、飲みながらお話をさせていただきました。

 ホテルに戻ってばったりとベッドに倒れ込みました。これでここ2ヶ月のバタバタが終わるかと思うと、ホッとしましたよ。

スポーツ新聞のインタビュー文体

 今年のセは巨人でしたね。応援する阪神にはぜひCSでがんばっていただきたい。

 さて、プロ野球の結果が気になる私はスポーツ新聞をネットでよく読みます。

 最近気になるのは、その独特の文体。それも、地の文ではなく、選手の発話内容の表現。たとえば、2007年10月4日のサンスポ、 タイガース今岡の復活4号ソロの記事には、こうあります。

 二回一死。フルカウントから、グライジンガーの高め144キロだった。自身も納得の一発。最多勝当確の助っ人右腕を叩き、 上園へ8勝目を贈るアーチを手土産に、試合後はただ真っ直ぐ、次の舞台だけを見据えた。

 「いい締めくくりが出来た? これからやからな、俺は。CSでいい仕事を出来るようにな」

 虎党の声援に応えながら、少ない言葉に気持ちを込めた。

 記事に書かれた発話は、当然今岡選手のものと思われます。実はこの記事中、鉤括弧で地の文と区別される3つの発話があるのですが、発話主が誰であるか、明記されていません。

 さて引用された発話は3つのセンテンスから構成されていますが、第一のセンテンス「いい締めくくりが出来た?」は、どうも今岡選手ではなく、インタビュアーの問いかけのように思われます。今岡選手の実際の発話は、2番目と3番目のセンテンスだったように思われるのですが、どうでしょうか。もしもこの推測が正しいとしたら、このカギカッコ内のセンテンスは2つのターンをあたかも1人の発話であるかのようにまとめあげていることとなります。

 一般的に、作文のルールではそのようなことはなされません。前衛小説とかSFでもない限り、発話主の交代は何らかの仕方で明示されるのが普通です。ところが、スポーツ新聞の場合、インタビュアーとインタビュイーのやりとりが1つのターンとして書かれることがしばしば見られる。最近気になると言ったのは、このスポーツ新聞独特と思われる文体のことです。

 さらに気になるのは、一般的なルールは侵犯しているものの、では理解しづらいかというと、そうでもないという点です。先の引用ですと、今岡選手がその通り発話したとしてもおかしくない、と感じられてしまう。つらつら考えてみますと、今岡選手がインタビュアーの質問を「聞き返した」ものとして「いい締めくくりが出来た?」の箇所を理解しているようですね、私は。つまり、「いい締めくくりができたかって?これからやからな…」のように、「かって」を補足して読んでいるようですね、私は。

 いや、作文のルールも知らないのかと怒っているのではないのです。まったく逆で、工夫に富んだおもしろい文体だと感心しているのですよ。

 おそらくはいくつかの理由から生み出されたのではないかと推測します。第一に、いちいち質問と応答を別のカギカッコに入れて書くのは、限られた紙面の無駄遣いという判断があったのではないか。第二に、読者は選手の発話を知りたいのであり、インタビュアーや記者の発話を知りたいわけではない、という判断があったのではないか(結果的には、読者は記者の手を通して知るわけですが)。

 こうしたもろもろの事情の果てに生まれた文体として読むと、また味わいがあります。