『海賊戦隊ゴーカイジャーVS宇宙刑事ギャバン』

掲題の映画を家族で観てきました。

去年から今年にかけて,ライダー40周年,戦隊35周年と,アニバーサリー企画が続々と展開されていて,ただいま絶賛放送中の「ゴーカイジャー」そのものが企画の一環だったりするわけですが,なんとギャバンに始まるメタルヒーローものも30周年なんですね。

子どもの頃は特撮が大好きで,それこそ今の息子とまったく同じで,「てれびくん」「テレビマガジン」は愛読していました。さすがに小学生になってからは興味を失ってしまいましたが。

ただ,自分にとって「ギャバン」だけは特別だったんですよね。作品とは別のところでちょっとした悲しい思い出があって。

まさかもう見るまいと思っていたその姿を,まさかこの年になって拝めるとは。劇中,串田アキラさんの歌う主題歌が流れたときには不覚にも泣いてしまいましたよ。

セリフでも所々で「あばよ涙!」「よろしく勇気!」というフレーズがちりばめられていてね。かつて男の子だったおっさんの心をいたくくすぐるわけです。

もちろん変身時のアレもありました。さらにそれをゴーカイジャーが真似するとはね。心得てるなあ。

あまり映画の話はしないんですが,懐かしさをおさえきれずに書いてしまいましたとさ。

障害者イズム

 DVDを借りてきて観た。

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 脳性麻痺による身体障害をかかえた3人の方々が自立生活をしたいと奮闘し、実際に自立生活を送る日々を追ったドキュメンタリー。

 自立支援の文脈で観ると、役所との対立という図式はとても分かりやすくて、実際に本作でもそういう場面(たとえば、年金に生活保護を足せるかどうか、とか)は多々出てくる。

 でも、本当に嫌ったらしいのは役所なんかじゃなくて、本作がこういう形で世に出ることも含めて、うすーく社会に漂う何かである。それが何かは分からないが。

 観ていてとても気になったのは、自立生活を送ったときの食事である。うまそうなもん食ってない。レトルトのカレーを袋ごとトースターで温めて、「爆発しないように見張ってるんです」というのはもう。栄養があってうまいものを腹一杯食べてもらいたいと強く思った。

 が、当の本人にとっては、そんなことどうでもいいんだろうなとも思った。「自分の意志でそういう食事を選んで食べている」という実感の方がとても大事なんだろうな。自立前の生活では、施設にせよ、家庭にせよ、そもそも「食べるものを選ぶこと」そのものがかなわなかったわけで。

かいじゅうたちのいるところ

 先週の土曜日、サッポロファクトリーで開催された絵本のイベントに家族で行ってきました。

 そこで知ったのですが、センダックの絵本『かいじゅうたちのいるところ』が実写映画になって公開されるんですね。

 映画「かいじゅうたちのいるところ」公式サイト

 この絵本はぼくが小さい頃からありましたが、絵がなんだか気持ち悪くて好きじゃなかったんですよ。古い教会の装飾のようなグロテスクな「かいじゅうたち」が苦手だったんでしょうね。

 今回の映画ではその「かいじゅうたち」が存分に動き回るようです。ファクトリーのイベントでは、予告編を流していましたが、あの「かいじゅうおどり」も再現されるんですね。時間があれば観に行こうかと思います。

『精神』

 映画『精神』を観た。

 映画『精神』公式サイト

 夏にシアターキノでかかっていたのを見逃していたのだが、このたび北大の学生が企画する「クラーク・シアター」というフィルムフェスティバルで上映すると聞いて観に行った。

 心を病んだ人が、「山本先生」の元を訪れる。待合所は居場所となり、たばこを吸いながらくつろいだり、話し合ったり。それだけではなく、診療所を中心として、患者さんによる自立支援事業(牛乳配達、食堂)も展開されている。そうした日常を淡々と観察する映画である。

 同様のテーマを扱った、ニコラ・フィリベールの『すべての些細な事柄』を思い出した。どうしてもそれと比べながら観てしまう。

 比べたときに、2つの映画の異同がとても興味深い。

 本作の撮影、編集を行った想田和弘監督と、フィリベールは、ともに同じような精神病患者の所属するコミュニティに入り込んだ。

 入り込み方がとても似ていて、許可をもらった患者さんに対してカメラをもったまま対峙し、対話する。医療事業者は背景であり、あくまでも対象は患者さん。

 映画の作り方もよく似ている。字幕、ナレーションはほとんどなし。要は、第三者的な説明がない。我々は唐突に人々の中に投げ込まれ、彼らの日常につきあう。

 これほどよく似ているのだが、当の患者さんたちが行っていることがまるで違う。

 フィリベールのカメラが追ったのは、ラ・ボルドというクリニックを舞台に行われた、患者さんによる演劇の練習風景だった。一方で想田のカメラが追う人々は、徹底的にあるものに振り回されているように思われた。それは、お金である。

 親なき後の生活をどうする。住むところをどうする。家族をどうする。これらの語りの端々で、お金のことが触れられる。金銭の多寡から言えば、患者さんの生活は苦しい。苦しい中でそれなりに暮らす人々の姿として描かれているように見えた。

 撮影が行われたのが、例の自立支援法が成立に向けて動いていた頃なので、どうしてもそういう話ばかりになったのかもしれない。しかし、おそらくは時期が違っていたとしても、金の話はどうしても出てきただろうし、それは映画本編の中で不可欠な要素となっていたのではないか。

 日本に住んでいると、しかし、そういう描き方が自然なようにも思えてくる。むしろ、フランスのクリニックで演劇をする患者さんたちの方が、どこか浮世離れした印象になってくるからおもしろい。なにしろ、どうやって糊口をしのぐかといった話はほとんど出てこないのである(記憶に頼っているのでもしかすると金の工面に悩んでいる場面が出ていたかもしれない)。だからといって、フランスの患者がそうした問題と無縁かと言えばそんなことはないだろう。

 この違いはいったいなんなんだろうか。

『白痴』

 久々にDVDで映画を観る。

 黒澤明監督の『白痴』(1951年、松竹)。原作はドストエフスキーの同名の小説であり、舞台を札幌にうつした以外はほぼ原作通りのストーリーをなぞる。主演は原節子、森雅之、三船敏郎、久我美子。

 黒いコートに身を包み魔女のような立ち居振る舞いをする原節子と、終始おろおろしてばかりで何をしたいのかよくわからない三船敏郎が、新鮮であった。

 ストーリーや人物よりも、背景となる昭和20年代の札幌の町の姿の方がおもしろい。2月の雪深い札幌でのロケだったそうだ。

 冒頭にちらりと見える旧札幌駅舎。駅前にはまだ高いビルなどひとつもなく、市電はたくさん走っている。馬車もまだまだ元気だ。

 最近の札幌で暮らしていると、年長者の方から、雪が降っても「昔はこんなもんじゃなかった」という話をよく聞く。じゃあどんなもんだったんだろうと思っていたが、なんとなくわかった。なにしろ雪が屋根の高さまで積んであるし、つららは大根のように太い。除雪車もまだあるまいし、どうやって雪かきをしていたのだろうか。

 そんなところばかり気にしながら観ていた。

 

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だから、映像なのだ

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 ニコラ・フィリベール監督の『かつて、ノルマンディーで』を観る。

 1976年公開の、ルネ・アリオ監督の映画『私、ピエール・リヴィエール』。フィリベールはかつて助監督としてこの映画の撮影に参加した。映画に登場する多くの役者は、ロケが行われたノルマンディー地方の小さな村の農民たちだった。その役者たちを、撮影から30年たった2005年にフィリベール自身が訪ね歩くドキュメンタリー。

 モチーフとなっている映画のタイトルにあるピエール・リヴィエールなる人物は実在の農夫で、 1835年に実母と弟妹を殺害した罪で捕らえられた。という記録を、ミシェル・フーコーが発掘したのである。

 彼は捕らえられて後、いかにして罪を犯すに至ったかをつらつらと書き残した。この事実から、彼が正気なのか狂っているのかが裁判で争われることになる。「精神病理学」が法の権力と結びついた瞬間であった、とフーコーは捉える(中山元)。ちなみにフーコー自身、 1976年の映画に出演していたらしいが、その場面はあえなくカットされたようだ。

 さて、『かつて、ノルマンディーで』。この映画はブタの出産シーンから始まる。子ブタは大きくなり、つぶされ、解体される。このブタを世話するのはロジェという農夫なのだが、彼も村の一員としてかつての映画撮影に参加していたらしい。が、その出演シーンはフーコー同様、編集でカットされた。しかし新しいドキュメンタリーでの扱いは大きい。映画のクライマックス、ロジェとその妻となる女性が村の教会(らしきところ)で結婚式を挙げる。

 通常のドキュメンタリーならば、リヴィエール役だった青年クロード・エベールを追うだろう。彼はいったんは訳者を志しながらすぐに引退し、カナダに渡った後、ハイチで伝道師となったのである。波瀾万丈ではないか。しかし、エベールはこの映画の中では終盤になってちょろっと登場し、さっさと荷物をまとめてどこかへ去る。それに対する、ロジェの存在感はどうだろう。

 私は、ルネ・アリオにとってのリヴィエールが、フィリベールにとってのロジェなのだ、と理解した。二人とも、フランスの片田舎に住み、糞尿や藁にまみれ、せせこましく暮らす農夫である。時代を超えて、2人の監督は、フランスの農夫のありようを描きたかったのではないか。

 取るに足らないもの、些末なもの、薄汚れたもの、ささやかなもの、できれば避けて通りたいもの。これらを光の下に曝し、そこにひそむ栄光を見いだすこと。ラブレーからフーコーにいたるまで一貫して流れるある感覚に、フィリベールは確かに連なっている。そのことは、彼の他の作品、たとえば『音のない世界で』や『すべての些細な事柄』を観れば分かる。そこに映された聴覚障害者や精神病院の患者は、ある権力構造のもとでは表に出てこない存在だ。なにしろ、彼らには「言葉」がない。

 だから、映像なのだ。

 取るに足らないとみなされた人々は、端的に、言葉がない。もちろん、しゃべるし、独自の言葉を持つ。しかし、ジャック・ランシエールならこう言うだろう、それは端的に「言葉ではない」。動物の「わめき」に等しいのである。そういえば、『かつて、ノルマンディーで』は、ブタのわめきから始まった。

 ピエール・リヴィエールが捕らえられて書いた言葉(「私、ピエール・リヴィエールは母と妹と弟を殺しました」)は、法廷において審理の対象となった。農夫の胸のうちの吐露は、精神医と弁護士にとっては、あろうことか「狂気の証拠」だった。農夫の口をつく言葉はまともなものとはみなされない。対して、言葉のない農夫の器用さ、たとえば死にそうな子ブタの蘇生法、牙の抜き方、うまい捌き方(ほんとにあっという間)を、フィリベールの映画の中にわたしたちは確かな言葉として見るのである。実践という言葉。

食材生産の現場をかいまみる

 近所のレンタルビデオ屋に、ドキュメンタリー映画のDVDがじわじわと入荷されつつある。テレビにおけるドキュメンタリーばやりと何か関係があるのか?ともかく、ドキュメンタリー好きなのでこの動きはありがたい。

 最近見たのは次の2本。

 まず1本目、『おいしいコーヒーの真実』のキーワードは、「フェアトレード」。

 おいしいコーヒーの真実 公式サイト

 コーヒーショップで売られているコーヒー1杯の値段が330円だとして、そのうちコーヒー豆の生産農家が得られる額は多く見積もっても9円だそうだ。330円の大半、というか9割方を取っているのが輸入業者と小売。これはあまりにも不公平だ、輸入する企業が一方的に不当な安価をおしつけているのだ、という声から出てきた概念がフェアトレード。

 輸出業者の中にも、豆があまりにも安く買いたたかれていると感じる人がいるようで、映画の中ではなるべく「適正価格」になるよう世界各地を飛び回って努力する業者(タデッセ・メスケラ)の姿が描かれている。

 「コーヒーショップで働けてよかった!」とニコニコするスタバの店員の顔が映ったすぐあとに、「俺はコーヒー作りはやらない。暮らしていけない」と呆然とするエチオピアの農家の顔が映る。映画はこのような落差を通じて観る者になんらかの感情を起こすわけである。

 もう1本、『いのちの食べ方』。

 いのちの食べ方 公式サイト

 静かな、本当に静かなドキュメンタリーである。人間の声はほとんど入っていない。聞こえるのは、機械のたてる音と、動物の鳴き声だけ。

 別に今更、という感じではある。たとえばニワトリを絞めるであるとか、ブタのキンタマをぶっこぬくとか、ウシをノックするとか、ショッキングな映像としてはそのあたりだろうが、それらは田舎の人間であれば今でも日常的に行うことだ。

 そうしたことが、機械の力を借りて、とても楽に、しかも大量に可能になっていることが描かれる。機械化万歳である。だって、ウシ1頭を人間の手だけでさばこうとしたら、相当きつい。1人か2人は足で蹴られる。だから、動物が工場のような場所で機械的にさばかれていること自体は、しかたのないことだ。

 そのことは、コストの面にも反映される。人の手を入れない分、コストを削減することができる。大量に飼育し、大量に栽培し、一気に食材化することで、コストをぎりぎりまで落とすことができる。

 要は、食材に関してはそうまでしないともうけは出ない、ということなのである。大量に栽培しているわけでもないし、機械を導入しているわけでもないエチオピアのコーヒー農家に、もうけが出ないのもむべなるかな。

 言いかえれば、私たちは、食材に対して金を払わないということでもある。マルクスのひそみにならえば、食材の使用価値に対する、その交換価値の相対的な低さと言えるだろう。

 安く買いたたかれるか、コストをかけずに大量に生産するか。食材の生産に携わる世界中の多くの人々の置かれている現状が少し見えてきた気もする。

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いのちの食べかた [DVD]
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ヴィゴツキーのドキュメンタリー!

 ヴィゴツキーに関するドキュメンタリー映画ができたのだそうだ。これは、青山学院大の高木光太郎先生のブログからの情報。高木先生は、Holzmanのブログを参照している。

 Lev Vygotsky Documentary 公式サイト

 解説を読むと、映画はおよそ2時間。その生涯、理論解説、実践の3部で構成されているとのこと。そうそうたる方々が出演している。

“Lev Vygotsky: one man’s legacy through his life and practice” explores the compelling story of this father of Russian Psychology. This documentary uses a mixture of interviews and commentary from family members Gita L. Vygodskaya and Elena Kravtzova, renowned professors/educators including Michael Cole, Lois Holzman, Vera John-Steiner, Alex Kozulin, Tamara Lifanova, Luciano Mecacci, James Wertsch, and others, archive photos, film footage, narration, and Vygotskian practice examples. (公式サイト解説より)

 サイトではDVDが販売されており、1枚400ドル。だいたい4万円弱?ISCAR会員だと2割引だそうだ。私は非会員。会員のどなたかにお願いしよう。まずはM先生か。

ニコラ・フィリベール『すべての些細な事柄』

 ナレーションの一切省かれたドキュメンタリー。観る者は、「そこ」に唐突に投げ出される。「そこ」がどこであるかは、事前情報なしには分からない。妙な人々が妙なことをしている日常が延々と視界に投影される。

 「そこ」は、ラ・ボルド。フランスにある、精神科のクリニックである。院長はジャン・ウリ。フェリックス・ガタリはここの創設に携わり、ここで息を引き取ったそうだ。

 たとえば病床があり、給食室があり、薬の分配があることで、かろうじてそこが病院であることが分かる。が、カメラの追う出来事は、およそ病院らしくない。劇である。

 人々が台本を片手にセリフを叫び、歌を歌い、体を動かす。演じるのはゴンブロヴィチの『オペレッタ』。与えられた役をこなすのも骨が折れる人もいる。しかし各人が相応の仕事を着実にこなしながら本番を迎える。

 この映画で面白いのは、映る人がカメラをじろじろと見ることであり、ときにカメラを回す人(フィリベール?)に話しかけることである。

 当たり前だが、カメラが人々を見るのと同時に、人々もカメラを見る。「見ることは見られること」だ。見られるという私の経験の確からしさを経由して、フィルムに映る人々のもつ確からしさもまた感じられるのである。

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