ヴィゴツキーの心理学理論に含まれる概念に基づいて,現在ではさまざまな実証的研究やそれに基づく新たな理論が生まれています。
そうした,ヴィゴツキー心理学理論を源流にもつ研究の流れは「社会文化的アプローチ」とか,「文化歴史的活動理論」(Cultural Historical Activity Theory; CHAT)などと呼ばれています。
これらの研究のうち,今日は2つを紹介することを通じて,ヴィゴツキーのアイディアが現在どのように継承されているのかを明らかにしたいと思います。
1. 対話論との接続
いきなりですがTEDのスピーチを見てください。これからお話しすることと深く関係している内容です。
いかがでしたでしょうか。リミックスということについてちょっと考え方が改まったのではないでしょうか。
いまから私が言いたいのは,リミックスにかんするこの考え方は,人間の心理についてもあてはまるのではないか,ということです。極端に言うと,私という存在そのものがリミックスなのです。
「私」とは何でしょうか。心理学では,自己selfと呼ばれる,自分自身についての意識はいつから存在するのでしょうか。もしもそれが発達の後の段階で生まれたとすれば,どのようにして生まれたのでしょうか。
心理学や哲学には対話的自己dialogic selfという考え方があります。これは,自己とは人が他者と社会的にやりとりをすることを通して意識のなかに作り上げられるものだ,という発想です。この発想からすると,自己とはそもそも純粋に自分自身だけのものではなく,さまざまな人の考え方が複合的に入り交じったものだと言えます。注意しておきたいのは,誰かの考え方に影響を受けたとか,誰かの考え方を知っているといったレベルの話ではなく,そもそも他者がいなければ自己は成り立ち得ないという発想をこの考え方はとるのです。
対話的自己という考え方のもとのひとつは,ミハイル・バフチンというソヴィエトの文学者・言語哲学者の考え方でした。バフチンのいう「対話」とは,人間という存在のありようについての考え方です。この考え方によれば,自己とは孤立した個人のなかで変化することなく純粋な形で存在するものとみなすことはできません。むしろ,相容れない異質なものが並び立つことを通して現れてくるものとして理解されます。
バフチンは『ドストエフスキーの詩学の諸問題』(1963)において「在るとは対話的に交通することを意味する。… 生き、存在していくには、最低限二つの声が欠かせない」と書いています。彼は言語哲学者なので言葉をモチーフにして語っていますが,ここに言われているように,対話という概念が強調するのは,複数の言葉が並置されている状態です。これを多声性(ポリフォニー)と呼び、誰にも向けられていないモノローグ的発話と対立させられます。
この対話的な自己がどのようにして生まれたのかを説明してくれるのが,ヴィゴツキーの発達理論なのです。先取りして言えば,ヴィゴツキーによれば自己とは他者から手に入れた媒介手段を通して自覚できるようになった意識のことです。このときにもっとも重要な媒介手段が言葉です。
ヴィゴツキーの発達論によれば,学童期から思春期にかけて子どもに起こる重要な変化は,筋道の通った思考ができるようになることです。たとえばピアジェは形式的操作期になると論理的な思考ができるようになると述べています。たとえば三段論法を使って,前提が満たされれば演繹的にある帰結が導かれることを考えることができます。ピアジェは形式的操作期までの発達的変化を,子ども自身による,課題のなかの論理性の発見という観点から記述しました。あくまでも,子どもが自分自身で発見しなければならないという点がミソです。
一方でヴィゴツキーの場合,筋道の通った思考とは言語と思考が結びついた思考のことです。言語的思考と呼びます。彼によれば,言語と思考は発達の初期においてはつながりをあまりもたずにそれぞれ機能していました。動物を見ればわかると思いますが,たとえばケーラーによるチンパンジーの実験ではかれらは言葉を話さなくても状況を全体的に捉えて問題解決に至る筋道を探して実際に解決しています。ここから,思考そのものは動物にも見られる心理機能だとヴィゴツキーは考えます。言語,つまり口から規則的に音声を発することも,動物に見られます。鳥やイルカの鳴き声は仲間同士のコミュニケーションのために使われていることは知られています。言語も動物に見られるわけです。
これら2つの心理機能が結びついて新しい機能を果たすようになったのが言語的思考だとヴィゴツキーは考えています。思考の特徴は同時に全体を把握することです。チンパンジーは課題解決状況を全体的に捉えます。一方,言語の特徴は単語と単語を順番に並べていって作られることです。音楽と同じように,時間とともに展開していくのが言語です。同時的・全体的なものと,時間的なものとが結びつくとどうなるでしょう。そう,思考のなかに「順番に考える」という機能が生まれるわけです。これをヴィゴツキーは言語的思考と呼びました。順番に考えることとは言い換えれば筋道立てて考えるということです。
ではこの言語的思考はどのようにして生まれるのでしょうか。ヴィゴツキーが述べた心理学的な概念のうち,外言(external speech)と内言(inner speech)は著名でしょう。ヴィゴツキーはこれらを,子どもの言語的思考の発達過程を述べる際に導入しています。ヴィゴツキーによる結論を先に言えば,外言から内言へという方向性で発達は起こるわけです。
ヴィゴツキーによれば,言葉はまず,幼児の生活のなかでは,他者とのコミュニケーションのための機能を果たすものとして発生します。これは他者とのコミュニケーションのための機能を果たすのですが,次第に,自分自身に向けても使われるようになります。いわゆる「独り言」private speechです。子どもの遊ぶ姿を見ていますと,独り言をぶつぶつつぶやいていることがよくあります。次の段階として,音声化されることのない,頭なのなかでだけで響く言葉が使われるようになります。これを「内言」と言うわけです。そして,後になると思考と内言とが結びつき言語的思考が可能となります。こうした過程をヴィゴツキーは,「精神間機能から精神内機能へ」というフレーズで表現しています。
実際のところ,思考はさまざまなものと結びつきます。たとえば計算をするとき,小さな子どもは指を折って数えますが,指を折ることと思考とが結びついているわけです。後になると,頭の中の数のイメージと計算とが結びつくようになりますが,この発達過程は,思考がどのような道具を使うのか,その使われる道具の変化過程として考えることができます。
ここまで聞けばわかるように,私たち人間の思考はさまざまな道具と結びついて力を発揮するわけです。この道具のことを社会文化的アプローチやCHATでは媒介とか媒介手段と呼びます。
媒介ははじめ人間の内側ではなく,人間の外側で使われていたものです。それは,発達する子どもが初めて発明したものではなく,ほかの誰かがすでに使っていたり,作り出したり,置いていったりしたものです。子どもは,それを借りて使うなかで他者とのコミュニケーションを図ります。そして,そうして他者から借りた媒介が,最終的には自分自身のことを反省的に振り返るための内的な媒介手段として用いられるようになります。
以上をまとめてみますと次のように言えます。まず,人間は対外的にはたらきかける際に他者から借りた媒介を用いること,そして,その媒介は自分のなかで機能するようになることです。自己を自分自身についての思考だとすると,そこにははじめから他者から借りた媒介が欠かすことができないといえます。
では,この私が他者の寄せ集めのようなものだからと悲観すべきなのでしょうか。最初のTEDスピーチを思い出してみてください。クリエイティブであることと,オリジナルであることは同じことではないのです。クリエイティビティは外側からやってくる,と言っていました。ヴィゴツキーの考え方によれば,私は他者から盗んださまざまな媒介を通して行為しています。私が私として何かを行うことには,他者に由来する媒介が不可欠なのです。
ここから話は急展開します。この媒介は無味無臭のものではありません。媒介は他者から借りたものだと言いましたが,媒介にも固有の歴史があります。つまり,その媒介が生まれた具体的な経緯があるのです。つまり,誰が,どのような目的で,その媒介を作り出したのかという具体的な理由があるわけです。言ってみれば,媒介には生み出した過去の人の怨念のようなものが宿っていると言ってもいいでしょう。後の世代の私たちが,すでにこの社会のなかにある媒介を使うということは,そうした怨念も引き受ける,ということになります。
たとえば,この社会には「使ってはいけない言葉」がいくつもあります。いわゆる卑俗な言葉とか,差別的な言葉です。そうした言葉は,人間をあるカテゴリーで分類し,正常と異常の枠のなかに囲い込むという文化社会的な実践において使われていたわけです。言葉に厳しい人というのは,何もルールとして使ってはいけないから使わないのではなく,ある言葉が生まれた経緯やその背景を批判するという意味でそこで用いられた言葉も使わないようにしている,ということなのだと思います。
そうしますと,媒介というのは自己を構成するわけですから,自己は媒介に潜在する固有の歴史を通してなんらかの社会的な実践や文化,歴史に位置づけられると言うこともできます。いわゆる思春期のアイデンティティ形成というのはまさにこの過程のひとつでしょう。自己を学生として認識すること,つまり「学生」という言葉を媒介として自己を構成することには,「学生」という言葉にひそむ他者の怨念が含まれます。たとえば「勉学にいそしむ」というイメージや「暇な時間がある」といったイメージがこの学生には含まれるわけです。しかしそうした媒介のイメージと自分自身の実際の行動が矛盾するときには,アイデンティティが揺らいでしまうこともあるでしょう。たとえば他者から「学生は時間があっていいよな」と言われても実際にはバイトで忙しいとか。そういうときには腹が立つわけです。あるいは学生なのにこんなことをしていいのだろうかと言って自分で勝手に悩んだりするわけです。
他者から借りた媒介が自己を形成することから,以上のような問題も同時に起きてくるのです。こうした悩みは人間が人間である限りなくなることはないでしょう。
★講義ではもう1つの話題を出しましたが,その内容はすでに以下に書きましたのでリンクのみ紹介します。
ホルツマンについてはこちらのサイトを参考にしてください。