北教大釧路校集中講義第1日目レジュメ

0. いま,なぜ,ヴィゴツキーを読むのか

教育になんらかの「問題」を見出す言説があります(言説とは,人が言ったり書いたりしたことのうち,多くの人が採用する定型的なもの)のことです。たとえば,学校でいじめが起こるのは道徳心や規範意識の低下があるからだ,というようなものです。

では,問題を解決するための最善の教育手法があるのでしょうか?たとえば道徳を教科化すれば解決するのでしょうか。ある程度の効果はあるのかもしれません。しかし,トップダウンによる改善策の提案とその実施によって,問題が一瞬にして解決するとは思えません。

教育とは,人々の毎日の暮らしのほんの些細なことの積み重ねです。いじめをさせないことといった具体的な課題もほんの些細なことの積み重ねでしか解決されないでしょう。

では学校の教師は毎日の授業のなかで何をしているのでしょうか。実は,何もしていないのかもしれない,と考えさせる言葉を読みました。それは,1970年の夏に,国語教育で著名な大村はま先生が富山県の小学校新規採用教員研修会で講演したことにあります(以下引用は,大村はま (1996). 新編教えるということ 筑摩書房 より)。

「私は今日,「教えるということ」を題にしました。なぜかと申しますと,「教える」ということをしない教師がたくさんいて,困るからです。それでは,「教えない」というのはどういうことなのでしょうか。」(p.37)

教師というのは世間一般では「教えること」を職業の内容とする人たちのことです。その人たちが教えないのだと大村はま先生は言っています。どういうことでしょうか。大村先生は中学校の国語の先生だったこともあり,国語を例にして述べている。

「…速く読む力は,文字が一度に意味になって,どんどん頭の中へはいっていくことをいうのです。一度音声化されたら,「音読」は絶対に「黙読」より遅いに決まっています。ところが,黙読できない子どもは,「黙って読みなさい」と注意されても音声化してしまっています。
こうした子どもは,小学校一年のうちに絶対に直さないと,時機おくれになります。それで,そういうことを発見したり,直したりするには,「家で読んでくる」のではだめです。ですから,「読んできたか」と聞く教師は,何も教えないで,いちばんたいせつなことを家でやらしてしまっていることになります。ただ検査官として,どの子が読めるようになったかを音声化させて聞いている。ペラペラと上手に暗唱するように読むと,「よく読めました」という。しかし,ほんとうに「よく読めた」のかどうか。それからその子が読んでいる時,他の子どもはどうしていたのか。「黙って読め」といわれても,声帯が動いてしまう子どもに,その時教師はどのように手当てをしたのでしょうか。このように,学校でやるべきことをしないのを,「教えない」と私はいうのです。」(pp.40-41)

少し長く引用しましたが,大村はま先生の言う「教えない」の意味は分かったでしょう。教師が学校を単に確認の場にしているのではないかと言っているわけです。

大村はま先生が1970年において苦言を呈したような教師が現在いるのかどうかは分かりません。しかし,もしもそういう教師ばかりだったとしたら,その帰結がどうなるかははっきりしていると思います。

大村先生の言う意味で,学校で教師が「教えない」としたら,その子どもの学業成績は何に依存するかというと,それは子どもの底力に依存します。もう少し正確に言うと,子どものもって生まれた素質のようなものです。これは筋肉の具合とか見た目といったものと同じ水準で個人差があるものです。勉強ができる子どもとは,そうした多様性を持つ子どもたちのうち,たまたま,ものを覚えたり考えたりするのに適した知的能力を持つ子どものことだと言えます。

さらに言うと,子どもの暮らす生活環境も「底力」を規定します。ある子どもが,どんな文化の,どんな社会の,どんな家庭で暮らすのか。のびのび健やかに育とうと思っても,さまざまな障壁があって,とにかく日々を生き延びるだけでせいいっぱいで,勉強をしようにも非常に難しいという子どもがいることも事実です。

教師が「教えない」のだとしたら,子どもはどこかで学んでこなければならないわけです。学校以外で教える人がいなくても,覚える素質があれば勝手に覚えていくでしょう。覚える素質がなくても,教える人がそばにいれば学ぶこともできるでしょう。しかしどちらも不十分な子は,どうでしょう。

かつて,1990年代から2000年代にかけて,子どもの学力低下論がさかんになされました。これも「言説」のひとつだったのですが,この問題について1989年に実施された学力テストと2001年に実施された学力テストを比較した研究では,その言説が具体的な数値で示されました。

当時東京大学にいた苅谷剛彦と清水宏吉らのグループは,1989年に大阪で実施された学力調査に目をつけ,それとほぼ同レベルの問題を,およそ10年後の2001年に同じ地域の小中学校の児童生徒に対して実施しました。

その結果わかったことがいくつかあるのですが,小中学校に共通することとしては大まかに言うと以下の3点です。
 ①国語と算数・数学のパフォーマンスは全体的に下がっている。
 ②得点上位の層が減少し,かわって得点下位の層が増加。中学校ではふたこぶ化がはっきりとしてきた。
 ③通塾している子としていない子の比較からすると児童生徒の家庭環境による差が拡大。

学校で「教えない」となると,こうした家庭環境の差がそのまま学校でのパフォーマンスの差となってしまうのです。公立小中学校の役割は,極端に言えば,できる層の「確認」ではなく,できない層の「底上げ」をきちんとすることだと,大村はま先生は言っていたのではないかと思います。

そこで,ヴィゴツキーの主張の今日的な重要性がうかびあがってきます。

ヴィゴツキーは,20世紀初頭のソヴィエトにおいて実施されていた教育を改革しようとしてさまざまな提言をしていました。そのひとつが「発達の最近接領域」にもとづいた教育の重要性の指摘です。

 

1. 「発達の最近接領域」とは何か

教育と発達の関係についてヴィゴツキーが述べたことの中で非常に重要な概念を紹介したいと思います。その前に正月に放映していたテレビ番組を見てみたいと思います。

みなさんは「ヨコミネ式」という教育法について聞いたことがありますか?横峯吉文さんという方が鹿児島県の保育園を舞台に長い間かけて作り出してきたという保育の考え方です。この横峯さんはプロゴルファーの横峯さくらさんの叔父さんにあたる方です。

ヨコミネ式の保育については様々なテレビ番組で紹介されてきました。それを見た方からは賛同を得ることもあれば,激しい反発を呼ぶこともあるようです。今回見る番組はその保育の仕方をだいぶ長く丁寧に追いかけたものですから,これを見ると判断の根拠が得られるかもしれません。なんにせよ,実態を見ないうちに賛成も批判もないです。

私自身は,判断保留です。また,ヨコミネ式を広めようという意図はありません。当然横峯さんからお金なんかもらっていません。この番組をお見せする理由は,ここに映っていることを元にして,ヴィゴツキーの発達論を説明するためです。

映像の中で,ピアニカを吹いている場面があったと思います。そこでのやりとりを思い出してみてください。この保育園の5歳の子どもたちにとって,「こいのぼり」という童謡を演奏することは2日でマスターしてしまうものでした。つまり,今の能力水準で容易に達成できてしまう課題だったと言えます。

保育者は,そこで「こいのぼり」を延々演奏させることはしませんでした。そうではなく,「あずさ2号」という懐メロを演奏させることをしました。これには理由があったようです。せっかく絶対音感をもっているのなら,たとえばリストの超絶技巧練習曲のように難しい曲もチャレンジしても良かったのではないでしょうか。それを子どもに弾かせなかったのはなぜでしょう。保育士の言葉によれば,「歌謡曲のメロディーは,5歳のこの子たちが弾くにはちょうどいい」のだそうです。このは非常に重要な点です。保育者は,この5歳の子どもたちがチャレンジしてちょうどいい課題曲として歌謡曲を選んだということができます。

この保育者の考えを整理しましょう。
A ある5歳の子どもにとって 「こいのぼり」(童謡)は2日でマスターしてしまう。これは現在の能力で1人でできる課題内容です。
B ある5歳の子どもにとって リストの超絶技巧練習曲はどう転んでも無理!これは,現在の能力でも,大人の手助けがあってもできない課題内容です。

このA,Bどちらの課題も,子どもにとってはおそらく興味が持続しない課題でしょう。大人や年長者が手助けをしながら,子どもが興味を持続させつつ取り組み続けられる課題内容の範囲というものがあるのです。映像に出ていた保育士は子どもたちに「あずさ2号」を弾かせることを思いついたのには,訳があると思います。訳がなければ,そもそも子どもに「あずさ2号」を,などという発想が出てくることは考えにくいでしょう。おそらくこの保育士は,子どもにちょうどいい課題曲は何かと探して探して見つけ出したのがこの曲だったのでは,と私は勝手に推測します。

保育ではなく,学校場面で考えてみましょう。教師が子どもに何かを教えるには,いま,たろうくんがひとりでできる課題(A)は何かを明らかにする必要があります。次に,たろうくんにはまったくできそうもない課題(B)を想定して,教師は,たろうくんに対してAよりも難易度が高く,Bよりは低い課題Cを与えます。課題Cにつまづきながら取り組む姿に基づいた手助けをしつつ,課題を乗り越えるのを支えてあげることが教師の役割だ,というのがヴィゴツキーの発想です。上記のAとBの間にあるCの領域がヴィゴツキーの言う「発達の最近接領域」です。

さて,現在の学校を考えてみましょう。もしかすると,Aに基づいた教育をしていないでしょうか?つまり,子どもにとってできることを確認することを「教育」と称していることはないでしょうか。たとえば,学校を単に宿題の確認をおこなう場にすること,すでに子どもが知っている知識をクラスメイトに教える場にすること,これは教師が教えることを放棄しているとして,大村はま先生が指摘したのはすでに見た通りです。

ですが,発達の最近接領域にはたらきかけるような教育を行うことは,現在の日本の一般的な学校では難しいのもまた事実だと思います。なぜなら、30人いたら30個の発達の最近接領域があり,それぞれに応じた手だてが必要だからです。これは想像するだけで大変な仕事だ,と思います。そういう意味では,少人数教育の実施や教師を増やすことは妥当な方針なのではないでしょうか。

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