021225 「路上やその地域の空間は,のっぺらぼうの舞台などではなく,様々な地縁,利害,感情のからみあった有機的なものだ。ヤクザもおれば,警官も,うるさい商店会長も,行商人も,子どももいる(林幸次郎・赤江真理子「ぼくたちのちんどん屋日記」p.28)。」
021223 グールド「フラミンゴの微笑」読了。ガーゲン(杉万俊夫ら訳)「もう一つの社会心理学」,太田和彦「新精選東京の居酒屋」が届いた。21日には早稲田でコール「文化心理学」を読む会があった。コメンテーターのA先生が予定より30分遅れで到着し,世話人の先生をやきもきさせる一幕もあったが,今回の研究会は自分にとって実りあるものだった。というのも,コールの言わんとすることを理解するには,実は進化論的な発想が必要なのだということに気づいたからだ。原書で読んだ4年前にも,邦訳を買った直後の2ヶ月にも見落としていた点だ。焦点を合わせてくれたのは,最近もくもくと読んでいるグールドの一連のエッセイである。コールは系統発生と文化歴史的発達の違いを表現するメタファとして,「パンダの親指」から,ダーウィン的進化とラマルク的進化の対比を引用している。前者の骨子は以下のようになる。遺伝子の突然変異によって,生命に多様性が発生する一方で,自然淘汰(あるいは性淘汰も含まれるかもしれないが)によってその多様性から一部が生き残り,他の系統が途絶える。これが気の遠くなるような時間にわたって繰り返されることにより,太い幹から何本の側枝が生えた系統樹が出来てくる。これによると人間は,一直線のはしごを登りきった先にいる最高の存在なのではなく,生命の膨大な多様性の一つに過ぎない。ではラマルク的進化観とは何が違うかというと,ダーウィン的の方は自然淘汰を進化の方向性を決定する原理に据えているのに対し,ラマルク的の方は「用不用説」をそれとして唱えている点である。これはたとえば,キリンの首が長いのは食べられる木の実がどんどん高いところに生えるようになったことにより,キリンも首を伸ばす努力をして,伸ばした結果が子孫の体に伝えられていく,すなわち使用する器官は発達し,逆に使用されない器官はなくなっていくという説明である。この説には,個体発生後の後天的な変化が遺伝子に作用するメカニズムが必要なのだが,残念ながらそれはない。つまり,ラマルク的進化は,遺伝子のレベルでは否定されているのである。しかし,グールドは人間の文化はこのようなメカニズムに沿って発達しているのではと,ちらりと述べた。後天的に学習したことを,モノとして外部に取り出しておく(たとえば書物として残す)ことにより,子孫はある学習が済んだ時点を踏み台としてそこから再出発できる,というのである。コールやわれわれにとってここからが理論展開のしどころなのだが,では,ダーウィン的進化とラマルク的進化は,どのような関係を持ちつつ併走しているのか。これを明らかにするのは,これからの問題である。
021217 グールド「個体発生と系統発生」とみかんを受け取りに行く。
021216 林幸次郎・赤江真理子「ぼくたちのちんどん屋日記」,綱島徹「ちんどん屋」が届く。チンドン屋の話はおもしろいなあ。グールド「ニワトリの歯」読了。読んでて思いついたこと。ある環境Eに完璧に適応した行動パターンを示す100体の個体群Aがいる。他方,同じ環境Eに完璧に適応しているのは50体だけで,残りの50体は適応度がだんだん低くなる個体群Bがいる。環境Eが持続している状態ならば個体群BよりもAの方が有利なのは自明だ。しかし環境Eが変動し,E’になったとき,生き残る可能性があるのはBである。なぜなら,個体群Bのなかにいる個体のうち,環境Eに対する適応度の低い変異は,もしかするとE’には適応的な行動パターンであるかもしれないからだ。変異を作り出すのは遺伝子的なパターンであり,適応的な環境が変化するなどして繁殖がついえるのが自然淘汰である。さて,これは個体群とか種を単位とした話だったが,これをひとつの個体の話として考えるとどうなるか。決まりきったことしかできないヤツより,ちょっとはみでるようなこともするヤツの方が,実は打たれ強いという話になるのだろうか。安易な密輸は禁ずべきだが,考えてみる価値はあるのではないだろうか。
021212 ああもうこんな時期だ破滅だ終わりだ絶望だと気ばかり焦っていると聞こえてしかるべき音も聞こえないということか郵便受けに配達物がささっているのを出掛けまで気づかなかった。大山真人「ちんどん菊乃屋の人びと」。チンドン屋大集合を紹介したときにちらりと触れた〆丸親方がこの菊乃屋の親父である。口絵の写真にはメイクも衣装も付けていない「素」の親方が写っていたがチンドンをかかえてすっくと立つその姿は普通のじいちゃんであった。まだ中身をきちんと読んではいないが元瞽女(ごぜ)という老女を正面から写した写真が妙に気になった。
021209 先週の水曜,ふとしたはずみでキャリングバックごとノートPCをアスファルトに落としてしまった。おそるおそる立ち上げてみると,正常に起動はするものの,液晶画面のバックライトが真っ暗。手の打ちようもなく,東芝修理センター行きである。木曜に日通パソコンポが引き取りに来て,金曜の夜に修理費用の見積もりがファックスで届いた(12,100円也)。そして,月曜の午後,雪のため蟄居していたところ,修理されたものが届き,今この文章を書いている。その間5日。別の機械を以前使っていたとき,電源がいかれたことがある。そのメーカーは修理に1週間以上かかった気がする(でも,保証期間内だったためタダですんだ)。戻ってきた機械だが,使用環境も元のままで,感動する。あの,時間ばっかり浪費する再インストールというのをやりたくないのだ。ようやく,まっとうな仕事ができる。さて,PCが使えないあいだに読み果せたものから,声についての考察をいくつか引用する。「人間の咽頭は社会生活を調整するのに必要なある限られた範囲で,音声を調音する”ため”にできたものなのかもしれない。しかし,その解剖学的デザインは,誰もがするようにシャワーを浴びながら鼻唄をうたうことから,まれに現われるプリマドンナの詠唱にいたるまで,はるかに多様なことができる可能性をもっているのだ(グールド「パンダの親指」(上)p.79)」。「最初の頃は,ベル電話会社の内部で,各交換局の主任が交換手たちの声について注意を喚起するという程度のものであった。だがやがて,産業はこの「声」を,新規に交換手を採用する際の判定基準としても用いるようになり,また現場の交換手たちの「声」をチェックし,矯正するシステムも発達させていく。回線加入者からの発話に対する応答や声の調子が規格化され,通話してきた顧客への応対と交換手相互の会話では声が明確に使い分けられるようになった。このような「声」の規格化を通じて交換手たちの発話における人格的要素は可能な限り排除され,彼女たちはネットワーカーとしてというよりも,一定の声のトーンで回線を接続していく交換機械の部品のような存在と化していくのである(吉見俊哉「「声」の資本主義」p.132-3)」。ここには,声についての,種類の異なる二つの進化が語られている。平岡正明「大歌謡論」届く。第二回チンドン博覧会の模様をつづったビデオ「チンドン屋大集合」も届く。これはいいです。〆丸親方の仁義が聴ける!
021203 鈴木裕之「ストリートの歌:現代アフリカの若者文化」。川田順造さんや菅原和孝さんなどのフィールドワークを通して知ったアフリカは,サバンナで生活する部族の姿だった。しかし本書で語られるアフリカは,都市化した世界で路上を住処に,言葉と音楽と肉体を駆使する若者たちの姿を通してのぞいたものである。まだ詳しく読んではいないが,この仕事は大事だ。あと,多田富雄「免疫・「自己」と「非自己」の科学」,兵藤裕己「<声>の国民国家,日本」も買った。多田富雄さんは,以前研究会で面白いという評判を聞いていたので。昨日は吉見俊哉「「声」の資本主義」が届いていた。声関係が多いなー。
021129 コサキン本「シュポ本」を買った。青い表紙だ。相変わらずレジに本を出すときの店員の目が気になる。
021128 午前中床屋へ行ってすっきりして部屋に戻ると,Schieffelin&Ochs(Eds.)”Language socialization across cultures”が,郵便受けに無造作につっこまれていた。
021127 すっかりグールドの虜となったわたしは,「パンダの親指」「ニワトリの歯」「フラミンゴの微笑」(いずれもハヤカワノンフィクションから上下巻)を棚から引き抜くと,レジへ向かった。あとついでに延藤安弘「「まち育て」を育む」も。自分でも買いすぎだと反省しきり。でもまだ1冊注文して届いてないのがあるんだよなああ。
021126 書籍部に注文しておいた本をまとめて受け取りに行く。平井玄「破壊的音楽」「引き裂かれた声:もうひとつの20世紀音楽史」「暴力と音」,大熊亘「ラフ・ミュージック宣言」,川俣正「アートレス:マイノリティとしての現代美術」,DeMusik Inter.(編)「音の力」,金砂大田楽支援の会(編)「金砂大田楽Q&A」。最後のは,来年の3月に茨城県北で行われる,なんと72年に一度のお祭りを解説したもの。茨城大の卒論生さんが,今,このお祭りを裏から支える女性たちについて,フィールドワークを実施している。すばらしい卒論になればいいですな。
021117 知りたかったのは,「前適応」という概念であった。これは,自然淘汰に基づく進化論にある,ある誤謬を指摘したものである。たとえば鳥の翼にある羽は,飛翔という鳥の行動に実によく適応した形状と機能をもっている。しかしこれをもって,「飛ぶために羽を進化させた(正確にいうなら,飛ぶ必要があって,それに適応した種だけが生存し得た)」とは言えない。気温の低下という環境要因に適応するために,爬虫類のウロコが羽毛状に変化して体温が維持された,というのが実際のところらしい。つまり,鳥の羽が飛ぶのに役立ったのは結果的にそうだっただけという話である。これを主張したのが,スティーヴン・J・グールド。買った本が「時間の矢,時間の環」であった。しかし,上記のような話は本書のどこにも載っていない。それもそのはず,単に買う本を間違えただけだから。だが,禍転じて福となるのだ。本書の内容は,17世紀から19世紀にかけて,地質学を牽引した3人の学者が抱いていた時間についての信念を,「矢」と「環」のメタファから読み解くものである。「矢」が表すのは,「反復しない事象の一方向の連鎖(p.27)」としての時間である。一方「環」とは,「根本的な状態は…常に存在するが決して変わらない。…さまざまな過去が,未来で再び現実のものとして繰り返される(p.27)」時間の表現である。単純に言えば,前者は歴史の一回性を,後者は歴史の循環性をそれぞれ指している。実は,これと同じようなことを,バフチンも指摘している。意味の一回性と反復性,あるいは遠心性(バラバラに拡散していく方向)と求心性(一つの中心にまとまる方向)として書かれた概念がそれで,ある具体的な発話が意味を呈しうるのは両方の働きが同時にあるからだと説く。われわれは一般に,ある思考領域では一回性を,別の思考領域では反復性を優先するくせがあるように思う。たとえば発達といえば前者だし,学習というのは後者だ。しかしグールドも言うように,どちらかが正しく,どちらかが誤りということはない。たとえれば転がりながら漸進する車輪のように,反復しながら位置を変えていく運動こそが,発達の正体かもしれない。これはいよいよ「差異と反復」か?
021116 市ヶ谷で,来年の発心RTの打合わせ。おれって,学問にのめりこむってことがないけど,これでこのままやってて,いいのかなあ,と思う,午後でした。そのままのメンツで八重洲で飲み会。とうていここには書けない話がえんえん。帰ってきたら段ボール箱いっぱいのお届け物が。高野文子「絶対安全剃刀」「ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事」「棒がいっぽん」,アインシュタイン「特殊および一般相対性理論について」。そういえばこんな本も来ていた。Various Artists「あはは、まんが」。ワーチ「行為としての心」,佐伯胖「幼児教育へのいざない」読了。ワーチが言う「他者」とは,ある子どもがどこかで出会った他者ではないのか。たとえば圧政者から押しつけられた語りは,それを専有した者から見てどのようなものだったのか。ってなかんじの,道具が道具とした立ち現れてくる部分がない,ってな批判が,高木さんとか川田さんの言うところなんだろなあ。佐伯先生の話だけど,幼児教育にせよ,学校教育にせよ,「子どもよ,しっかりせよ」という話はよくするが,「教育に全然関係のない大人よ,しっかりせよ」という話は全然しない。「文化的実践」への参加だと言うけど,文化を批判的に乗り越えることは問わない。しかしよいキーワードを知った。「円熟」。
021107 先日ボランティアの役を終えた母親サークルから図書券のお礼をもらった。市川伸一「学力低下論争」,倉田喜弘「『はやり歌』の考古学」に費やす。有意義に使わせてもらいました。
021102~05 東北家族旅行と調査旅行の融合を試みる。2日は花巻へ,ばあちゃんの米寿祝ということで,母方の親族,下は数ヶ月,上は88歳まで,総勢43人を温泉ホテルに集めて飲めや歌えの大騒ぎを遂行。今回,自分は出欠確認役だった。その後は奥さんとふたりで山形,温海温泉へ。ちょっと高級な宿でのんびりとくつろぐ。朝風呂の後ビール,そして朝飯のおかわり3杯と,胃を拡張させた3日間だった。奥さんを一足先に帰して,5日は三川の保育園で調査依頼を,役場へは以前の観察調査で協力してくださった親御さんに御礼を。帰り,山形道は大雪でした。そうそう,中古書店で唐沢なをき「カスミ伝(全)」を買った。
021028 学振2連敗決定。かと思うと,就職したから辞退したって話も聞く。いい。もー出さん。ホルクイスト「ダイアローグの思想」読破。ディアロギスムということばを,実はバフチンは使っていなかった。しかしホルクイストは,これにバフチンの流動的な思考の中心を見たのだ。だから本書のタイトルを飾るにいたった。
021022 午前中は母親サークルで子どもと遊ぶ。帰り道で本屋へ。高野文子「おともだち」,斉藤政喜「耕うん機オンザロード」。
021019 いらいらするとすぐ本屋に足を向け衝動買いする。この一週間で立て続けに何冊も買い込んでいるのはいらいらしているせい。今日も今日とて,渡辺純「ビール大全」と,手紙の書き方が書いてあるのを手に入れた。
021017 高野文子「黄色い本」,廣松渉「物象化論の構図」。
021016 わたわたと忙しい。小泉文夫・團伊玖磨「日本音楽の再発見」読了。堀淳一「ケルトの島・アイルランド」,コール(天野清訳)「文化心理学」を買う。そういえば教心に新曜社が来ていなかった。
021012~14 教育心理学会。熊本は暑かった。半袖と長袖のシャツを1枚ずつ持ってきたが,長袖の出番は無し。熊本に着くまで,自分のポスター発表は2日目だと思っていたが,ホテルの部屋でプログラムをもう一度ながめて初日だということを前日に知る。今回の発表はまるで自信なし。知った人しか来ない。意見をずばずば言ってもらえたので,まあ良かった。来てくださった方,ありがとうございます。いつも通り,本も買った。ワーチ(田島信元ら訳)「行為としての心」,Blum-Kulka&Snow”Talking to adults”,ブルーナー(岡本夏木ら訳)「意味の復権」。3日目は午前中で力つき,午後は熊本城見学,一人で飲み会。
021008 Lucy, J. A. Ed. “Reflexive language”を借りに,春日キャンパスにある筑波大学付属図書館へはじめて行った。つい先日まで図書館情報大学という名前だったところ。閲覧室へのゲートに,おっかなびっくり学生証をかざす。「ピッ」「ガシャ」と,さも当然といったふうに開いた。筑波センターから圧倒的に近いので,今度からイベントを開くときなどはこちらの部屋を借りると良いだろう。午後から読み始めたエリザベス・マレー(加藤知己訳)「ことばへの情熱」,夜中までかけて目を通した。オックスフォード英語大辞典(OED)の初代(正確には二代目,ということは本書で知ることとなる)主任編纂者である,ジェイムズ・マレーの伝記である。日本でいえば,大槻文彦か新村出か。著者はジェイムズの孫で,彼にはあたたかく,彼をとりまく人々には冷たく,筆致はいかにも身内らしい。OEDの最大の特徴は,「歴史主義」と呼ばれるもので,ある単語の用例をAD1150年にまで遡って探し,意味の変遷を実証することにあった。簡単に言うが実際にはこの基準がマレーや続く編纂者たちを苦しめた。単語の歴史と言っても「語源」ではなく,あくまでも使用例の変遷である。マレーは頑固にも,当時(今もか?)通用していた他の辞書からの意義,語源説,用例の孫引きをいっさい認めず,すべて自分の目で確認してから,紙に意義を書き残した。編纂者による作例もほとんどない。OEDを辞書の最高峰たらしめているのは,「現在」を書き留めるという,マレーが残した方針である。当時の辞書とは,古典に書かれた用例のみを「良い意義」として,それを英語に残すべきだと考えていた。現在の「日本語の乱れ」論に通じる論旨である。しかしマレーは,そうした意見に耳を貸さず,”Times”などの新聞や雑誌の記事も積極的に用例リストに加えた。現在がなければ過去もない。あくまでも辞書は,意味の歴史的変遷を列挙するのが目的だ,というのが彼の主張だったのだ。そのときにマレーを突き動かした最大の疑問,それは「英語とは何か?」だった。マレーは答える,英語と他の言語とのはっきりとした境界などない,と。また,「良い言葉」「良い意義」などない,と。すべての言葉は歴史というひとつの軸をめぐり,あらゆる場所で話されていた,記すに等しい価値を持つものである。マレーはスコットランドとイングランドの境界地方出身,つまり方言話者なのだった。クイーン・イングッリッシュのネイティブスピーカーでないがゆえに,持つことのできた見識であろう。
021007 柳瀬尚紀「猫舌三昧」,Peak”Learning to go to school in Japan”,大工哲広「ゆんたとぅじらば」が届く。アレンジがいいねえ。
020926 エドナ・オブライエン「ジェイムズ・ジョイス」(井川ちとせ訳)を見つけ,早速レジへ。
020923 ふと,まだ読んでいなかったアイザ・ボウマン「ルイス・キャロルの想い出」(河底尚吾訳)を本棚から抜き取った。キャロル晩年,すでにかのアリス・リデルも嫁いだ頃,見に行った舞台に登っていたのが少女アイザであった。二人は友達として,オックスフォードの学寮を散歩し,キャロルお手製の遊び道具やことば遊びや物語に打ち興じ,そのつきあいはアイザの婚約まで続いたという。本書はアイザがキャロルの死後,彼からの手紙を引っぱり出しながら往時を回想した文章。翻訳の巧みにぐいっと読ませられた。ハッチオン「パロディの理論」も読了。パロディとは「批評的なアイロニーを含んだ距離を持った模倣(p.87)」である,というのがハッチオンの主張。
020919 カボチャの煮物を作った。砂糖をガバチョと入れて煮たので,甘ったるいお菓子のような代物ができあがった。あとで奥さんに聞くと,カボチャ自体甘いので,砂糖はほんの少しでいいという。まあ料理は失敗を重ねてうまくなっていくものだと理解している。ところでモノ作りが好きで好きで仕方のない人たちの話,宮脇修一「造形集団海洋堂の発想」を一気に読んだ。「造形師」ということばをはじめて知った。かつて一人ひとりが手作りしていたおもちゃを,プラモという形で大量生産,マルチプルにしたのが一時期の模型であった。しかし,宮脇氏の父で海洋堂の創始者,宮脇修は「アートプラ(←商標)」を提唱し,マルチプルを土台にした表現の可能性を探っていたという。プラモはあくまでもキャンバス,そこに自分なりに細工し,彩色するのは表現なのだ。この心意気は,マルチプルを皮肉るウォーホルや,デュシャンといった人々に通じるだろう。そして今,造形師の表現は,食玩(という言い方もこの本で知った)を通じて,確実に人を魅了している。反復を目指すマルチプルと一回性を目指す表現・感動との交錯がここにあるのだろう。「お美術」の世界でこれを自覚的(戦略的)に現在進行形でやっているのが,明和電機である。
020918 ユリイカ7月号,特集は高野文子。そーか,そーいえば80年代ニューウェーブだったんだ,この人は。その他に,ゴフマン「出会い:相互行為の社会学」(佐藤毅・折橋徹彦訳),リンダ・ハッチオン「パロディの理論」(辻麻子訳)。長谷川寿一さんの集中授業を聞いた。「今日は進化心理学のセールスに来ました」と言っていたが,本当にそれだけだった。遺伝の「伝」の字も,適応の「て」の字も,世代も,選択圧も,出てこなかった。思いあまって内容とは全然関係のない,人間の認知の起源とされる類人猿の社会性について質問した。要は,同種の他者はもっとも複雑な環境だ,ということらしい。そして,チンパンジーの社会集団はせいぜい150頭(人?)だが,人間はさらに大きな集団を作ったために,より複雑となった人的環境へ適応するために,ここまで進化したのだということらしい。前者の話はギブソニアンも言っていることだ。ソヴィエトの社会歴史的アプローチならば,この主張に急いで経済と価値と道具という概念を付け加えるに違いない。
020914 DeMusik Inter(編)「音の力:ストリートをとりもどせ」が届いた。中川敬が対比させた「ムラ」と「チマタ」は,本書で展開されるさまざまなミュージシャンの語りのなかでは行政とストリートという変奏となっているように思われる。しかし実際にストリートに犇めき蠢くのは,自由闊達たるナンデモアリではない。本書でも語られるように,ヤクザ,テキヤ,自営業者,夜の女,ポン引き,浮浪者,労働者,クソガキ,そしてもちろん堅気の通行人,こうした人々が互いの縄張りを窺いながら住む「空間(ド・セルトー)」なのだ。チンドンはこうした縄張りの合間を縫うように歩く。ぼく自身は見たことがないのだけど。全国ちんどん博覧会(略称チンパク)というのが開かれているのをはじめて知った。今年は福岡だったそうだ。来年は上野あたりでやらないかな。行くのに。
020912 心理統計の授業をする前に書籍部に立ち寄ると長谷川寿一・長谷川眞理子「進化と人間行動」が2冊も置いてあったので財布と相談してそのうち一冊を買った。先生,いくつか質問があります。(1)自然淘汰が繰り返されると,より適応度の高い1種類の遺伝子に収斂していくように思うのですが,にもかかわらず,実際には遺伝子の多様性はいつまでも残ります。多様性が維持される原因としては,突然変異や環境の変化を挙げてますが,突然変異自体起こらないように遺伝子が進化することはないのでしょうか?(2)変化の方向性はランダムだ,とおっしゃいますが,今となっては人為的な方向付けが限定的ですが可能になってきています。デリケートな問題ですので,一概には言えないとは思いますが,先生たちご自身の見解として,それについてどう思われますか?(3)遺伝子の進化は,世代交代というメカニズムを必要としています。たとえばショウジョウバエやマウスなど世代交代が(人間の時間感覚のなかでは)早い集団では,比較的安定した環境のなかで,そこへ適応していく変化がありえると思います。しかし人間のように,相対的に世代交代がゆっくりとなされる種にとって,1世代内で環境は大きく変動する可能性があります。現に,この日本の20年間を例にとっても,さまざまな新しい道具が環境に現われました。しかし遺伝子がそれに適応することは時間的に無理です。この,世代交代と適応すべき環境の変化のスピードの逆転こそが,人間と他の(野生の)動物種とを区別する大きなポイントのように思われるのですが,いかがでしょうか?特に(3)の質問は,文化を主な関心とする私の立場と深くかかわるので,お答えには興味があるのですが。
020903 吾妻ひでお「産直あづまマガジン」2が届く。先生,かつてのリズムを取り戻しつつあるように思うが。ライターズ・ハイはまだ味わったことがないが,島田雅彦は15時間ぶっ続けで小説を書いていても平気だという。論文ごときでヒイコラするワタシの情けなさよ。
020901 奥さんが実家に帰ったのでひとりで銭湯に行く。帰り道,植芝理一「夢使い」3を入手。
020831 ソウルフラワーの「ラブ・プラスマイナス・ゼロ」がメール便で届く。静かにやかましく抗う歌がここにある。
020829 アイディアメモなるものをつけている。ふと思いついたことがらを書きつけるファイルの束だ。長くて一段落,短いと二語くらいの覚え書きなので,そのアイディアは放っておくと発展せずに散乱するばかりである。いま,散乱したメモを前にして一貫した主張を紡ぐべく奮闘している。そう言えば岡田美智男さんが「口ごもるコンピュータ」か何かで述べておられた。アイディアプロセッサを使うと,項目間のつながりがうまくいかず,単にアイディアを並べただけの文章になりやすい,と。それをいま実感している。これを防ぐには,書き出しでプロットを宣言しておくとよいだろう。読み手にとっての先行オーガナイザであると同時に,自分にとってのメモにもなる。あ,ここにもメモが。本当にメモだらけだ。
020820 コンロと換気扇まわりの掃除,布団を干し,洗濯。外は快晴,だが気温思うほど上がらず,過ごしやすし。鳥越信「子どもの替え歌傑作集」すぐに読み切る。「タンタンタヌキノキンタマハ~」という歌のメロディは聖歌(賛美歌ではなく。宗派が違うらしい)に由来するとのこと,面白い。網羅と言う割には考証がしっかりしていない。歴史的調査とプロセス分析の必要性を痛感。今日〆切の書類を一つ忘れていたことに気づき,慌てて学類事務に電話。
020817 大学時代のサークルの仲間が集まって飲む会の幹事になった。場所を,神保町の三省堂下にあるビアレストランに決めた。というのも,早めに神保町へ行っていろいろ本を物色しようと思ったので。うんざりするほど買った。中村とうよう「ニッポンに歌が流れる」,鳥越信「子どもの替え歌傑作集」,高橋康也(編)「声と身体の場所」,ドゥルーズ「スピノザ」,バフチン「バフチン言語論入門」「マルクス主義と言語哲学」,酒井直樹「過去の声」。飲み会はそこそこ盛り上がっていたのではないかと思う。ところが2次会でお湯割りを飲んだ後が大変。ころりと酔いつぶれ,植え込みに吐き,駅で戻し,同じ方向に帰る後輩に介抱されながら秋葉原のカプセルホテルに結局泊まることに。いやはや齢二十七にしていまだ気持ちよく酔う術を知らぬ。女房には呆れられた。アマゾンからは野本和幸・山田友幸(編)「言語哲学を学ぶ人のために」,山梨正明「認知言語学原理」,それに大工哲弘の歌う「ウチナージンタ」が届いてた。もう酒は飲まぬと三日空けず飲み,お粗末。
020808 風が部屋の中を通り抜けて涼しいので一日中家にいた。クーラーにはあまり頼りたくないのだ。そんな中でレイブ&ウェンガー「状況に埋め込まれた学習」を読みおおせた。業界的にはお恥ずかしいことだが初読である。LPPという考え方について,エッセンスはあちこちで見ていたので,なかなか大元に手を着けずにいた。それが,思うところあって手にしてみると,エッセンスが並大抵でない基礎の上に打ち立てられていることを知る。エッセンスはあくまでも氷山の一角に過ぎず,それでは考え方をつかんだとはとうてい言えないことを思い知る。たとえば,LPPがある種のマルクス主義的歴史観の上に成り立っていること。参加していく「共同体」という概念については,実はまだ本書の段階では明確になっていなかったこと。ナラティブと実践と学習の関係について,すでに大枠をまとめ上げていたこと。などといったことは知らなかった。そんな中,練馬区南大泉のアズママガジン社から産直アズママガジンの2巻が出るとのダイレクトメールが届いた。宛名が手書きだし,どことなく見たことのある書体なので,もしや吾妻ひでお先生ご本人の直筆ではと内心喜んでいるのだが,はて。
020806 ひとりで実験室の片づけ。3人同時に書き起こし可能なまでになんとか整理した。帰りがけ,Penという雑誌に東京と大阪のアイリッシュパブ特集が載っているというのでそれを入手しに本屋へ。もちろんそれっきりではおさまらない。手頃なところで平凡社ライブラリーの棚をざっとながめる。その中から小泉文夫・團伊玖磨「日本音楽の再発見」,黒田亘(編)「ウィトゲンシュタイン・セレクション」を購入。おお,ユリイカが島うたを特集しているではないか。もちろん買う。
020805 書籍部で全日本広域道路地図とBILINGUAL MAP OF JAPANを買う。アイルランドでお世話になった人へ贈り物にする。ついでに藤井貞和・エリス俊子(編)「創発的言語態」も買う。鎌田修「日本語の引用」読破。これは文法論ではないな。
020730 朝日新聞の天声人語で,高橋康也さんの逝去を知った。びっくりしてここ一週間の新聞をめくるが,訃報はない。気になってウェブをさまよったあげく,6月24日に亡くなられていたと分かった。そのころちょうどアイルランドにいたので耳に入ってこなかったのだろう。本棚の奥にしまいこんだ高橋康也「ノンセンス大全」を引っぱり出し,ながめた。高校生のぼくはこの本を古本屋で買い,読みふけっていた。今でも付箋がびらびらとつきだしている。たとえば7章「詩神としての少女」によって,はじめてキャロルとジョイスの近さを知った。また,キャロルを評したこの部分。「ジャバーウォックが妄語・騒音・混沌だったとすれば,スナークは言語そのものを否定する《沈黙》である(p.117 u)」。ジャバーウォックは「鏡の国の-」,スナークは「スナーク狩り」に出てくる怪物である。今は分からずとも,噛みしめておきたい。
020729 帰りがけにふらりと寄った近所の本屋で斉藤政喜「シェルパ斉藤の東海自然歩道全踏破」を買う。斉藤さんの処女作を文庫化したものらしい。文中,「一人暮らしのぼくは…」などと出てきたので,すわ離婚したのか?と驚いたが,独身時代のころの話だった。
020720~28 大阪大学で日本語教育を研究している人たちとともに大阪・箕面にて合宿。帰りの足で今度は岐阜・揖斐川町へ。芸術家の川俣正さんとゼミ生が集まり,幼稚園の庭に秘密基地を園児や親とともに作ろうというアートプロジェクトに参加する。と言ってもひたすら傍観者に徹するだけだが。基地製作も押し詰まった27日に,川俣さんはじめ宮崎清孝先生と茂呂雄二先生,豊田市立美術館のキュレーター青木さんらによるシンポジウムがあった。そこで買った「Tadashi Kawamata Work in Progress: Project in Toyota City」。Work in Progressということばに,息が吹き込まれたような気分。「進行中の作品」とは,ジョイスが執筆中の「フィネガンズ・ウェイク」に付けた仮題で,断片的な雑誌掲載時に用いられた。確かに,川俣さんのプロジェクトも,フィネガンズ・ウェイクも,終わりがない。むしろプロセスを生成する装置として機能し続ける。
020714 引き続き,読みやすそうなのから片づけてる。加藤典洋「言語表現法講義」。そう,書くとは脳から手への一方通行ではない。逆に,「書くことを通じて何事かを知る(p.13)」のでもある。みんなが守るべきモラルと,個人が守るべきマクシム→デカルト。桜玉吉「幽玄漫玉日記」6巻と明和電機「地球のプレゼント」が届く。そーかー,玉さんまた鬱かー。
020713 たまっている本を読む。河合隼雄ら「声の力:歌・語り・子ども」を手に取った。何ということのない,小樽で開かれたシンポジウムの記録であった。語り口調そのままなので読みやすく,2時間くらいで読み終えてしまった。歌や声の持つ力を再認識しようという動きは最近になって目に見える形で現れているが,「なぜ?」という問いのないまま対症療法的にもてはやされている感がある。「小泉さんならやってくれそう」という感じ。なぜ小泉さんがいいのか,なぜ歌がいいのかを問わねばならない。ところで,この本を読んで,谷川俊太郎の息子が作曲家だということを知った。
020707 摂氏17度の国から27度の国へ舞い戻った。月並みな言い方だが,皮膚にまとわりつく暑さに嫌気がさす。往復の機内で読んだウィリス「ハマータウンの野郎ども」だが,これで初めて,チップというものの持つ意味が分かった。要は,働きたくないのである。ただそこに立ってさえいれば,とりあえず月給はもらえる。それ以上の働きをするのは,サービスの見返りとして渡されるチップがあるがゆえなのだ。働くことが自我の一部となり果てている人間にとって,これはひどく怠惰なことと映るかもしれない。しかし,ウィリスが指摘するように,働くのは生活費を得るためなのであり,それ以上でも以下でもない。働きながらも,放埒な自我を満足させるべく,冗談を言い合ったり,悪ふざけをしたりする。このような伝統が肉体労働のみならず,サービス業にも受けつがれているがために,月給以上の働きを要求するのにチップが要るのではなかろうか。不思議なことに,チップの習慣はアイルランドにはない。