我ん坊にて

 読み聞かせシンポの打ち上げで、石川先生をお連れして「我ん坊」へ。

 久しぶりに入るとあいかわらずのマスター。前回来たのはもう2年くらい前だが、顔を覚えていてくれたようで、子どもいくつになったと聞いてくれた。産院がこの店の裏にあって、出産直後の祝杯をここであげたのだった。

「マスターも髭が白くなっちゃったね」
「そうだよ、俺もう還暦過ぎたもん」
「娘さんは?もう高校?」
「今度入試だよ」

 時の経つのは早いものだ。

 ビールが安いのでがぶがぶとクラシックを飲む。焼酎も安いのでお湯割りをがぶがぶと。

 酔っぱらったN君が石川先生とこんこんと語り合う。

 なんか久しぶりに時間を忘れて飲んだ気がする。

読み聞かせについて考えるのココロだー(3)

 石川先生は、読み聞かせ実践を「パーソナルなもの」と呼んでおられました。「なぜ読み聞かせなんですか」という問いかけに、「好きだからですね」というお答え。自分が好きだから読むという原点を指して「パーソナルなもの」とおっしゃっているものと理解しました。

 こういう考え方は重要な問題を提起してくれると思います。

 実のところ、現代の日本では、読み聞かせは社会的な事業のひとつになっています。その例が、ブックスタートでしょう。自治体が赤ちゃんのいる家庭に1冊ずつ絵本を贈るという事業で、北海道だと恵庭市で実施されているものが有名です。昨年から札幌でも始まりました。

 目的については詳しくは知りませんが、赤ちゃんへの絵本の読み聞かせを通じて親子の関係性を良好なものに保ってもらおうというねらいはあると思われます。

 親が子に対して読み聞かせをすることそのものについては害悪はないでしょう。問題は、読み聞かせを一種の薬のように道具的に見る、その見方にあります。薬ですから、読み聞かせが好きだろうがなんだろうが読まねばならない、さもないと…という考えがその見方の背後にはある気がします。

 これは石川先生のおっしゃる「パーソナルなもの」という考え方とは真っ向から対立します。対比的に整理すれば、パーソナルな読み聞かせはそれ自体が目的であるのに対して、薬としての読み聞かせは目的が外にあるわけです。親子のふれあいの時間を作るとか、子どもの頭をよくするとかですね。

 もちろん後者の目的そのものは否定されるべきものではありません。しかしその場合、読み手はきちんと本に「出会って」いるのだろうかという疑問は残ります。「頭がよくなる!」といった「肩書き」ばかりを見てしまい、本そのものの面白さを見過ごしてしまうのではないかという危惧です。

 今回の研究発表会の話になっていまいますが、学生は読み聞かせについての先行研究を調べました。心理学や教育学のテーマとして、読み聞かせを含む読書研究はオーソドックスなものです。知見の蓄積が大量にあることは間違いない。しかしすべての結果を総合しても隔靴掻痒感は常に残り続けます。なぜか。ある本の「面白さ」を示すことには成功していないからだと思います。不可能だというわけではないと思います。ただ、現在の心理学研究の枠内ではうまくいっていないのです。研究者も、絵本と向き合っていないのだろうと思います。

(続くかも)

読み聞かせについて考えるのココロだー(2)

 石川先生は読み聞かせ実践を始めた後、なぜ中学生に読み聞かせるのかということを改めて以下のように考えられたそうです。

 義務教育の中で絵本の読み聞かせを経験する機会といえば、多くの場合小学校低学年まで。高学年になると絵本なんてという気恥ずかしさが先行して手に取ることもなくなっていく。そうして次に絵本と出会うのは、せいぜい自分に子どもができてからということになる。中学生に読み聞かせるのは、絵本にもう一度出会わせるためでもある、と石川先生はおっしゃっていました。

 今回参加した学生のひとりが「高学年向けの絵本は少ないのではないかと思っていた」とコメントしてくれました。先生はそれに対して、幼児の場合は集中力の問題があって、どうしても一定の時間で終えなくてはならないが、小中学生ともなればそういう問題はいっさい考えなくてすむ。したがって、絵本の選択肢は逆に幅広くなると答えられていました。

 このご指摘は身に覚えがあります。確かにぼく自身、絵本を手に取ったり読んだりする機会は、今の子どもが生まれるまで皆無でした。『ぐりとぐら』も『がらがらどん』もまったく読んだことがなかったのです。いや、読んでもらったかもしれませんが、まったく記憶にありません(唯一、小さいときに本棚に並んでいた『チャイクロ』が、とある古本屋に全冊そろって千円で売られていたのを見て懐かしさのあまり買ったくらいです。それは今、アマネのお気に入りになっています)。

 そういう意味では、自分でお気に入りを選択することができる年代に、改めて読み聞かせを通して物語と出会うことはとても大事なことでしょう。

 石川先生は最後まで「自分は好きだから読み聞かせをする」ということを強調されていました。自分は読み聞かせが苦手だ、嫌いだという人はいるでしょうし、それは仕方ないことです。それならば、読み聞かせを通して得られていたはずの経験を、なんらかの形で子どもたちにさせてやるにはどうしたらいいか、知恵をしぼればいいだけの話だと。

 逆に、好きでもない人が無理に読み聞かせをした場合どうなるのでしょうか。あるいは、自分にとって面白くもない本を「みんなが面白いと言っているから」という理由で読み聞かせたらどうなるのでしょうか。自戒をこめると、ぼく自身、何がいい絵本なのか分からないため、ロングセラーや、有名なもの、持ち運びしやすいもの、そんなに高くないもの(!)をどうしても選んでいたと思います。

 読み聞かせってなんだか楽しくないんだよねと思うなら、すぐにやめればよいのでしょう。その後、子どもに紹介してあげたい、読んであげたいと思えるような楽しい本に出会えば、そのときに読み聞かせを再び始めればよいのでしょう。

(続きます)

読み聞かせについて考えるのココロだー(1)

 先週の金曜日に、学部で開講する「基礎演習Ⅱ」の総仕上げとして、半年のリサーチを公開して発表する機会をもうけました。さらに、上士幌中学校の先生で、教室の中で絵本の読み聞かせをされている石川晋先生をゲストに迎え、読み聞かせ実践について語っていただきました。

 石川先生が中学校の授業中に読み聞かせを始められたきっかけについては、ご自身で書かれたものがこちらで読めます。拝見すると、授業が成立しないという本当に切羽詰まった状況下で、とにかく自分の好きなことをしようと開き直ったことが事態の打開につながったようです。

 だからといって、荒れたクラスを立て直すためにすべての教師が読み聞かせを始めればいいかと言えばそんなことはありません。そこにはいろんな方法があるはずで、石川先生の場合、読み聞かせだったというわけですね。

 ですが、一般に敷衍できるとすれば、こういうことは言えるかもしれません。石川先生はお話の中で、読み聞かせは本を間にはさんだコミュニケーションだとおっしゃっていました。このとき、話し手と聞き手はお互いに目を合わせずにすますことができるので、たとえ聞き手にとって嫌いな人間が読み聞かせをしていたとしても、コミュニケーションの場そのものは維持することができると。

 間に一枚なにかが入ることで、それまでぎこちなかったコミュニケーションがすっとうまく流れることはおうおうにしてあります。そういう意味では、本はうまくいかない関係性を立て直すきっかけになるかもしれません。

(続きます)

ジャイアントコーン

 近所の酒屋でつまみとして売られていた「ジャイアントコーン」なるもの。

 トウモロコシの粒をばらして油で揚げて塩をふっただけのものなのだが、その粒の幅が1~2センチほどもある。ペルーの高地で育つ品種なのだそうだ。

 これが妙にうまくて、作業の合間にぼりぼりぼりぼりぼりぼりとかみしめている。

 Amazonにも売っていた。ホントになんでも売ってるなAmazon。

書くのが苦手

 インプットは大好きでアウトプットの苦手な私です。

 論文というのが本当に書けないのですね。研究者が行う実践として調査,分析,執筆がありますが,私は調査は大好きであとの2つは大の苦手です。「データ取りはやりますからあとはお願い」と放り出せたらどんなに楽だろうと思うのですが,そうはいかのなんとやらであります。

 そんな私なので公刊された論文というのは皆無です。

 しかしそんな人が学府に居座っているのは誠に不合理きわまりないので,がんばって書いてみました。書いた,というのが分かる証拠に,この文章の読点を眺めてみてください。

 データはなんと2001年のもの。今から10年も前のものです。今年の正月からデータの再分析を始めて,何が言えそうかを整理して,文章に仕上げて,もろもろくっつけて,いまさっき電子投稿しました。

 まだ分析と執筆を待っているデータが山のようにあります。古くは2002年のものから今に至るまで。調査協力者の方と連絡が取れるうちに早く救い出さねばなりません。

2周年

「ごーやちゃんぷる」が開店2周年になるというので、シャンパンを抱えてうかがった。

 常連さんのひしめくなか、歌を歌いながらお祝い。おばあは元気でした。

 古くからの常連さんとお近づきになれたのもよかった。みなさんおばあをよろしくね。

 日付が変わる前に退散。ほんといいパーティでした。

段落について

 ただいまレポートの返却中。

 教育心理学実験ではピアジェの保存課題を3~5歳児に対して実施してもらった。その結果をもとにいろいろ書いてもらったのだが、どうしても気になる点がひとつ。

 段落の頭の字下げをしない人がやたら目につくのである。なぜ、段落頭の字下げをしないのだ?学校ではそう習っているはずである。

 もちろんただの慣習ではなくて、1文字下げることによって、どこからどこまでがひとまとまりの段落なのかがぱっと見て分かるように視認性が高まる。目的は段落の区切りを分からせることだから、このブログのように、段落間を1行空けるのであれば本来1字下げは不要である。なのに下げているのはそうしないと気持ち悪いからというまったく個人的な理由である。

 ともあれ、レポートや論文では段落間を1行空けることはしないので必然的に字下げは必要になる。なので、細かいことだが、その点は注意するようにしている。

 そうは言っても、字下げは本質的な問題ではない。

 もっと大事なことは、段落を作れるかどうかである。やみくもに文章をぶちぎればいいのではなくそこには構造が必要。それがまだできない(まだできないではすまされない問題なのだが)人もいる。できない人は、段落を切らずにだーっと文章を埋めていく。なので何が書いてあるのかよく分からない。

 段落のうまい使い方については3年生の実習でやる予定。

がんばらねば

 朝から、調査でお世話になっている小学校へ。

 5年生の算数と国語の授業を見せていただいた。調査の対象としているのは国語だが、担任の先生の希望もあって算数も見せていただく。

 見学の後、校長先生とも少しお話をする。夏前に行った調査から分かってきたことをかいつまんでお伝えすると、とても面白がっていただくことができたようで、先生方の前でお話をする機会を設けていただけることとなった。おまけに新聞社の取材も呼ぶとのこと。

 身の引き締まる思いである。がんばらねば。

勉強のリズム

 金曜日に教育心理学実験が終わって、今年度の授業はすべて終了。

 実験は毎週水曜の開講なのだが、今年度は水曜に休みが入ることが多く、授業日数が確保できないために、最後の週の金曜に水曜授業を行うという変則的な日程が組まれた。そのせいで、3日で2度も2時間ぶち抜き実習をすることとなったのである。

 講義ならあまり問題ないのかもしれないが、実験などの演習の場合、1週間空くことを想定して課題を出したりするので、日程がつまるとその辺を考慮しなければならず、やりづらい。学生もどうなんだろう。きついのではないかと思うが。

 勉強というのはただひたすら量をこなせばいいというものではなく、それなりにリズムやインターバルに気を遣う必要があるものである。

 もう少し自由に教員が時間割を組めれば、学生の理解の程度に応じて進行を早めたり遅くしたりすることもできるだろうし、何より楽である。もちろん、そんなことはとうていできるはずもないが、半期16時間を強制するのであれば、その16時間を自由に使わせて欲しいと考えるのはさほどおかしい話でもないのではないか。