データ取/撮り完了!

今日の調査で、この2年間継続して行ってきた、小学校の授業観察を一段落させることにした。

「継続して観察」と書くとご大層なことをやっているように思われるかもしれないが、たかだか、1年に2度ほど、1時間の授業をビデオにおさめるだけの話である。本当にきちんと「継続的に観察」されている研究者や、それこそ毎日授業をされている教師の方からすれば、ちゃんちゃらおかしいだろう。

それでも、昨年は1、3、5年生を各2学級ずつを観察し、今年はそれぞれ2、4、6年生になったところをフォローした。さらに今年は、新1年生2学級を3度にわたって観察させていただくことができた。

観察の方法として、ぼくはいつもビデオを使っている。原則として自分もその場にいるが、分析はビデオの映像に基づいて行う。そこに写った人々のやりとりをできるだけ細かく見ていくことによって、コミュニケーションの基底にある何らかの仕組みを探りたいと思っている。

中田基昭先生が、ビデオを見たって授業の本質は分からないというような主旨のことを書いておられた。ぼくはそうかもしれないなと思いながらも今のところは反発している。ビデオでなければ分からないことがあるのだし、現にそうしたことを見つけ出せている。

そうした方法上の副作用として、分析にやたら時間がかかる。この2年間、観察の合間合間に映像の分析をしてきており、その一部を切り売りして発表してきたが、まだまだ膨大にデータがある。映像の分析はともかく、同時に録った子どもたち一人一人の発話も書き起こしできていない。よくある、気になるところだけ、という書き起こし方針はとらない。定量的な分析をしたいので、できればすべて書き起こしをしたいのである。

そんなわけで、今年一年は分析とアウトプットにかまける。というようなことを正月の抱負に書いた気がする。

今回の調査には、協力をしていただいた学校の先生方、保護者のみなさん、そして児童の皆さんの助けが不可欠でした。札幌に根のないぼくにとって、学校とのコネを作るところから始めなければならないところ、当たって砕けろと飛び込み営業しにきた若造を受け入れてくださった校長先生、教頭先生には感謝してもしきれません。

ご厚意に報いるにはとにかく分析を完成させることしかない。がんばりますよ。

文体としての教育

「ぼくは田舎教師でいるつもりです」

一日授業公開の振り返りの時間、おっしゃったこと。

「子どもたちは卒業後、このコミュニティで暮らしていきます。コミュニティで暮らす上で、仲間内で話し合う能力は絶対に必要です」

「自分たちの学校の図書館に必要なもの」をテーマにした子どもたちの議論を参観した先生の質問に対して、おっしゃったこと。

「オルタナティブな教育を求めて、自分でそういう場を作ってこられた方もいます。でもぼくは、公立の学校という制度の中でもう少しやっていきたい」

先日、上士幌中学校の石川晋先生が一日授業公開をされたので参加してきた。上の発言は正確ではないものの、記憶に頼って再現した石川先生の言葉。

公立学校は、公教育の理念を実体化する場である。これは多分にぼくの憶測を含むが、恐らく、先生は公教育の理念の「内容」ではなく、「方法」を方法において実体化しようとされているのではないだろうか。

内容はどうでもいい、という話ではない。内容にはそれに応じた方法がある、ということだ。そしてこの現在、目の前にいる子どもたちに応じた方法もあるだろう、ということだ。

文芸になぞらえるならば、言ってみれば文体としての教育である。文体とは、内容、読者、作者の三者による関係性のもとで生まれる何かである。内容と文体の関係はよく知られたものであるが、文体は誰が送り手で、誰が受け手かに応じても変わる。

石川先生は、この文体そのもののシフトに対して臆さない。授業における文体も柔らかい。硬直していない、と言った方がよいか。

自分の中では、まだあの一日のことを消化できていない。ただその印象を語るのに、これを書きながら「文体」という言葉がふと浮かんだ、というくらいである。

石川先生、参加者の皆様、上士幌中の先生方にはお世話になりました。子どもたちもすれ違うたびあいさつしてくれてありがとう。場違いなぼくが「ここにいていいんだ」という気持ちになりました。

子どもの特権

ケータイで撮った写真を整理していると、昔の子どもの姿がぞろぞろ。

多いのは、何かの衣装を着ているもの。ショッピングセンターとかで開催されるイベントに顔を出すと、だいたい決まって警察や消防署の方々が来ていて、PR活動をされている。その一環で、子ども用の衣装を着せてくれるのである。

親はバカなので、まんまと子どもにそれを着せてもらい、にやにやと写真を撮る。そんなコスプレ写真をどうするというわけでもないのだが、なんだか撮りたくなってしまうのである。

たとえば、こんなふうに。アリオにて。

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あるいは、こんなふうに。雪まつり・つどーむ会場にて。

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これは、キドキドという遊び場に置いてある衣装。イーアスにて。

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七夕飾りの将来の夢に「八百屋になる」と書いていた(代筆で)時代。なじみの居酒屋のおばあに着せてもらう。居酒屋ごーやちゃんぷるにて。

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ミュージシャンが来れば、楽器を奪い取り、マイクも奪い取り。居酒屋ごーやちゃんぷるにて。

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最後はちょっと違うけど、貴重なので。夕張市のキャラクター、夕張夫妻。負債とかけてるわけで。メディア芸術祭巡回展にて。

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衣装を着せてもらうのだって、楽器を貸してもらうのだって、着ぐるみのそばに行くのだって、実は大人もやりたいかもしれない。少なくともぼくは、着ぐるみの肌触りを確かめたくなることがよくあるし、コスプレだってたまにはしてみたい。

しかし、子どもたちが集まって手を出そうとするそれを大人である自分が奪うわけにはいかないし、なにより大人の目がある。それは許されない。そう考えると、子どもには大人が持っていない特権があるのだ。

まあいまのうちに存分にその特権を行使しておいてくれ。大きくなったらできなくなるんだから。