沈黙を見ねばならない

 沈黙は多様である。このことを分かりやすく示しているのが、小津安二郎の映画『お早よう』(1959年、松竹)である。

 高度経済成長期の日本の庶民生活をユーモラスに描いたこの映画は、「黙っていること」が主要なモチーフだと思われる。そこでは2種類の沈黙が登場する。

 第一の沈黙は、発話の不在という形式をとる。映画に登場する林家の2人の子どもは、テレビを両親にねだる。そのあまりのやかましさに、父親の笠智衆は「男の子は黙っていろ」としかる。へそを曲げた子どもたちは、誰とも口をきかなくなる。

 家族や隣近所の人々とも口をきかないし、学校の授業中にもしゃべらない。結局このストライキは、父親がテレビを買ったために終了する。ここで、子どもたちのしたことが第一の沈黙である。

 一方、第二の沈黙の場合、発話が存在する。子どもたちはある青年(佐田啓二)の家に英語を習いに通っていた。その青年の元へ、子どもたちの若き叔母(久我美子)が仕事を依頼しにたびたび訪れる。青年の姉は彼に、彼女に対する好意を指摘するが、青年は答えをはぐらかす。

 こうして映画のラストシーン、当の2人が駅のホームで偶然出会う。天気のことなどたわいない話題を交わすだけで、結局2人のお互いに対する気持ちははっきりとは語られない。ここで観客が、2人の会話の背後にあると感じるものが、第二の沈黙である。

 第一の沈黙が典型なのが狭義の沈黙、すなわち不在の発話である。一方で、第二の沈黙の場合、発話は存在するものの、聞く者にとってその発話は、会話の核心だとは思われず、結果的に、「話し手が話すべき核心」の存在が浮かび上がる。つまり、聞き手は話し手について、あることについては話し、それとは別のあることについては沈黙している、と推測するのである。こうして第二の沈黙は、未遂の発話として捉えられる。

 ひるがえって、言語発達研究、あるいは相互行為研究の文献を読むと、沈黙が単にデータの不在としてしか捉えられていないことが分かる。人々にとっては話すことが至上の命題なのであって、沈黙とは「話す」という必死の作業の合間の止まり木のようなものでしかない。そのように描かれるのだ。

 しかし上で見たように、沈黙はシンプルなものではない。そこでも人々はいろいろなことをしているのである。ある人は、生命について知るには死についても知らねばならないと言ったそうだが、発話について知るには、沈黙についても知らねばならないようだ。

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