佐伯先生の解説に基づいてLPPについて2004年に書いた文章が今見るとわりとちゃんとしていた

下記の文章は,私が2004年に書いた文章です。今見てみるとわりとちゃんとしたことを書いている(と言っても,それは佐伯胖先生の論文を解説しているだけですが)ので公開してみます。なお,LPPとは言うまでもないですがLegitimate Peripheral Participation(Lave & Wenger, 1991)のことです。

(ココカラ)

佐伯(2001)は,Lave & Wenger(1991)を日本に紹介した訳者によるLPP論の最近の解説である。そこでは,LPP論の「わかりにくさ」の原因が挙げられ,それに由来するいくつかの誤解が紹介される。さらに,これらの誤解をただす形で,LPP論の要点がおさえられている。短いながらも,Lave & Wenger(1991)の要諦を見渡すことができる文献である。以下,佐伯(2001)で挙げられたポイントをまとめてみよう。

LPP論の「わかりにくさ」の原因として2点挙げられている。1つは,LPP論が徹底した「関係論」を採用すること,2つ目はこれがあくまでも「分析の視座」にすぎないことである。まず,「関係論」という点から確認しよう。たとえば実体論的な立場からすれば,「学習」という言葉で指し示される現象は,脳内の神経系の変化として実際に観察可能である。一方,関係論は「学習」という現象を単に1つの実体の変化には還元できないと考える。この立場からすると,「学習」(も含むあらゆる現象)は人々が生きて暮らすうえでの関係性から立ち上がるものとして理解される。LPP論はこうした関係論に依拠する。

第二に,LPP論は「分析の視座」であり,そのため,あらゆる現象はLPP論の枠内で解釈が可能である。世界観の一種と言ってよい。ゆえに,LPPは既存の制度を理論的に深化させたものではないし,LPP論にふさわしい学習とそうでないものとがあるのでもない。もちろん,学校での暗記学習がLPP的に間違いで,徒弟制など学校外の学習制度において真正の学習が期待できるなどと言っているわけでもない。これらは佐伯(2001)が「誤解」として退けたものである(p.38)。我々はいついかなるときも何かを「学習」しているのである。それを「参加」や「実践」などの概念を用いて関係論的に分析する枠組みがLPP論なのである。

さて,このような特徴をもつLPP論は,学校での実践に対していかなる役割を果たすのか。すでに見たように,LPP論それ自体が望ましい学習制度を提起するわけではない。佐伯(2001)は,「私たちが子どもたちを本当に「参加」させたい共同体はどういう共同体なの」か,「そういう共同体に出会わせ,そこに参加させるにはどうすればいいか」,「そういう実践を通して,子どもなりにどういうアイデンティティをもってもらいたいのか」,といった問いを,実践に関与する共同体の成員一人一人に突きつける問題提起にLPP論の役割を見出した(p.40)。

「実践」「共同体」「参加」は,こうした問いを立てる上で,あるいは分析を進める上で,我々が注目すべき点をガイドする重要な概念である。ところがここにもいくつかの誤解が潜むと佐伯(2001)は言う。例えば,実践と共同体の関係性である。学校を例に取ろう。学級は複数の人々で構成されているため,一見,共同体の体をなしている。では,学級は,即,実践共同体だと言ってよいか。LPP論の立場に立つならば,そのように言うことはできない。LPP論によれば,はじめにあるのは人々が生成し,継承していこうとする「実践」である。Lave & Wenger(1991)は,「共同体」をあらかじめ規定しようとはしない。実践をめぐって関与する人々の集まりを,いわば事後的に,共同体としてみなすのである。もちろん,「共同体」を作ることそのものが「実践」になる場合もある。しかしこの場合も,まず実践の単位を切り出すことが重要なのである。したがって,「文化的に真正な実践」がどこかにあるわけでもなければ,そうした実践が営まれるホンモノの共同体があるわけでもない。佐伯(2001,p.40)が述べるように,これも誤解である。徒弟制の工房も,学級も,それぞれ等しく実践共同体なのだ。

最後に,最も難しい概念が残された。「参加」である。佐伯(2001)は,「学習」を「参加」として捉えるメリットの1つとして,その前提となる「共同性」に目を向けることを挙げた。我々は,ある実践に参加し,その実践にとって「学習したかどうか」が問題となる何らかの「知識」を「学習した成員」として立ち現れる。これは社会的共同の結果として成立する。たとえ一人での自学自習においてもそうである。

佐伯(2001)が指摘した誤解の最後のものは,この点に関わる。参加者にとって,「学習したかどうか」が問題となる「知識」の改変は可能なのだろうか。我々は実践共同体が認める「知識」をただ黙って受容するだけの存在なのか?これにかんしてLPP論ははっきりと否定する。だが,ときにLPP論は,参加者が実践共同体に存在する文化的知識を無批判に受けいれることとして受け止められてきた。しかしこの誤解は,Wenger(1990)がすでに「文化的透明性」という概念を用いて回避しようとしたものであった。

結論からすれば,我々はある実践において何が「知識」となるべきかを批判したり話し合ったりして,その都度決めていくという実践を構築することができる。その意味で,我々はまったく受動的ではない。ただし,ある実践に深く入り込んでしまった者にとって,この作業は容易ではない。先ほどの「文化的透明性」概念を使って解釈すれば,ある実践がよく「見える」ようになったとき,同時に,他の実践は「見えなく」なってしまっている。そのために十全的な参加者は,「知識」を決める実践があるなどとは思いもよらないし,あったとしても拒否してしまう可能性がある。Wenger(1990)によれば,何が「知識」かを決める実践に参加しやすいのは,逆に,本来の実践に「周辺的」「周縁的」に参加していた人々である。Wenger(1990)は,結びつきの弱い他の実践共同体から,「知識」としてふさわしいものを押し付けられるのではなく,当の「知識」を用いる実践共同体の内部において批判的に再定義していく実践を生み出すことを提案する。また,佐伯(2001)は,批判を当の実践共同体ではなく,外側の(あるいは,当の共同体の未来の姿としての)実践共同体へと向けていくことも可能性の1つとして提起する。

以上は,佐伯(2001)をほぼ要約したものである。ここから分かるように,LPP論は幾多の誤解を受けており,そのために無用の批判や不要な論争に巻き込まれてきた観がある。もちろん,きちんと応答すべき批判もその中には多かったはずだが,基本的な世界観は洗練されており,90年代初頭においてもきわめて完成に近い枠組みだったと思われる。その後,Wenger(1998)やLave(1996)といった論考において,「アイデンティティ」や「参加の軌道」といった概念の重要性が指摘されてはきたが,本質的に1991年の枠組みから離れるものではない。

今後我々は,LPPという世界観とどのようにつきあっていけばよいのだろうか。

文献
Lave, J. (1996). Teaching, as learning, in practice. Mind, Culture, and Activity, 3(3), 149–164.

Lave, J., & Wenger, E. 1991 Situated learning: legitimate peripheral participation. New York : Cambridge University Press.(佐伯胖(訳) 1993 状況に埋め込まれた学習:正統的周辺参加 産業図書)

佐伯胖 2001 学習とは,実践共同体への参加である 子どもの文化, 33(8), 36-43.

Wenger, E. 1990 Toward a theory of cultural transparency: elements of a social discourse of the visible and the invisible. Doctoral dissertation, University of California, Irvine.

Wenger, E. 1998 Communities of practice: learning, meaning, and identity. New York: Cambridge University Press.

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