文体としての教育

「ぼくは田舎教師でいるつもりです」

一日授業公開の振り返りの時間、おっしゃったこと。

「子どもたちは卒業後、このコミュニティで暮らしていきます。コミュニティで暮らす上で、仲間内で話し合う能力は絶対に必要です」

「自分たちの学校の図書館に必要なもの」をテーマにした子どもたちの議論を参観した先生の質問に対して、おっしゃったこと。

「オルタナティブな教育を求めて、自分でそういう場を作ってこられた方もいます。でもぼくは、公立の学校という制度の中でもう少しやっていきたい」

先日、上士幌中学校の石川晋先生が一日授業公開をされたので参加してきた。上の発言は正確ではないものの、記憶に頼って再現した石川先生の言葉。

公立学校は、公教育の理念を実体化する場である。これは多分にぼくの憶測を含むが、恐らく、先生は公教育の理念の「内容」ではなく、「方法」を方法において実体化しようとされているのではないだろうか。

内容はどうでもいい、という話ではない。内容にはそれに応じた方法がある、ということだ。そしてこの現在、目の前にいる子どもたちに応じた方法もあるだろう、ということだ。

文芸になぞらえるならば、言ってみれば文体としての教育である。文体とは、内容、読者、作者の三者による関係性のもとで生まれる何かである。内容と文体の関係はよく知られたものであるが、文体は誰が送り手で、誰が受け手かに応じても変わる。

石川先生は、この文体そのもののシフトに対して臆さない。授業における文体も柔らかい。硬直していない、と言った方がよいか。

自分の中では、まだあの一日のことを消化できていない。ただその印象を語るのに、これを書きながら「文体」という言葉がふと浮かんだ、というくらいである。

石川先生、参加者の皆様、上士幌中の先生方にはお世話になりました。子どもたちもすれ違うたびあいさつしてくれてありがとう。場違いなぼくが「ここにいていいんだ」という気持ちになりました。

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