集団となって初めて生まれる動き

言語発達の研究をしているとずっと思っていたが、もう少し視点をずらして「集団となって初めて生まれる動き」の研究をしている、と考えてみてはどうかと考えている(ややこしいね)。

ある小学校の先生から教わったアクティビティに、フラフープを使ったものがある。数人で輪になり、それぞれ片手の人差し指を出す。出した指の側面にフラフープを乗せる。みなで協力して、フープにつけた指が離れないようにしながら、それを地面近くまで降ろしていく、というものである。

2人くらいでやればごく簡単なことである。肩の高さから、地面まですっと降ろすことができる。3人くらいでも大丈夫。だが、それ以上になってくるととたんに難しくなる。地面に降ろすことができないどころか、すすすっと上がってしまうのである。やってみるとすぐに分かる。

個々人の目標は集団内で共有されていて、みなそれに沿った動きをしようとする。そのために、強い結束を結ぶ。しかし、結果的に目標とは反対の方向に行ってしまう。この解決策は、目標の統一が同意された時点で、実際に活動にたずさわるメンバーを少数に減らすことである。逆に言えば、何人かはあえて傍観者にならなければならない。結束が強い分、傍観者は罪悪感を伴うかもしれないが、それが一番よい結果を生む。

これはゲームだから従事者と傍観者を切り離せるが、多くの社会的活動ではそうはいかない。特に教育の場には、子どもを集団的活動の従事者として動くよう圧力が強く働く。傍観者でいることはできない仕組みである。そうしたときに生まれる動きというのは、教育の場にはたくさん見られることだろう。

私が「集団となって初めて生まれる動き」と言うときに念頭に置いているのは、こうした現象である。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA