書き起こし随想(2) 聞き手のタイプ分け

 授業中のコミュニケーションを「聞き手」の側から描こうと目論んでいる。その際にどのような枠組みをもってくるか。Goffmanの参加役割は使えないか。

 Goffmanによれば会話の聞き手は多様に分化しうる。話し手の発話を聞くことができる範囲には、承認された聞き手とそうでない聞き手とがいる。通常、承認された聞き手と話し手を含めて「会話の輪」と呼ぶ。が、輪の外には、輪のメンバーとして承認されていないものの、聞いている人というのは存在する。食堂の隣のテーブルに座っている人なんかそうだ。

 この水準では、教室内のメンバーはすべて承認された聞き手である。参与観察者はどうか?一般的には承認されていない聞き手なのだが、学校の先生のなかにはそれを許さない人もいて、「ちょっとあそこにいる先生にも聞いてみよう」と話を振ってくれることがある。

 承認された聞き手もいくつかに分かれうる。どのように分けるかが分析のポイントになるだろう。

 話し手との協働性、相互行為の連鎖といった観点からは、発話に返答すべき者とそうでない者という分け方ができる。これは聞き手が自分で決定することができない、という意味で話し手との協働の結果であるし。さらには、自分がそのうち何者であるかは発話連鎖という文脈のなかで決まってくる。

 教室の子どもたちは自らをどのように位置づけるのだろうか?ある子どもが指名されて発言する。それに対して、子どもたちのなかには「ふーん」「あー」と相づちをぼそっと言う者もいる。挙手をして「似ていまーす」「同じでーす」「違いまーす」と自分の意見との比較を言う子もいる。彼らは「返答すべき者」として位置づけているのかもしれない。

 一方で、何もしない子、何か授業に関係していないことをしている子もいる。そもそも、授業とは別の会話の輪を作っている子もいる。彼らは「返答すべきでない」あるいは「しなくてもよい」と位置づけているのかもしれない。

 このように聞き手としての参加のありようをいくつかの種類に設定し、そのカテゴリーをもって子どもたちの立ち位置の時系列的な変化を記述してみたい。その際の行動指標は、発話内容、そのタイミング、視線といったものが想定しうる。

書き起こし随想(1) 勝手に学ぶ

 小学校の授業について、可能な限りすべての子どもの発話を聞き取りながら書き起こしを作っている。ひとりひとりに専用のICレコーダを装着してもらったので、つぶやきが聞こえて大変に興味深い。

 それを聞いていて思うことは、教師の発話も他の子どもの発言も、ある子どもにとっては背景音のひとつに過ぎないということ。実際のところ、教室内の座席位置によっては教師の声の聞こえ方に著しい違いがある。

 加えて、子どもは学習のコンテクストを授業内でみずから選択し、作り出し、なんらかの達成を得ようとしていることも見えてきた。仮想的なたとえを出せば、授業中に消しゴムかすを一生懸命作ろうとしているとか、一言もしゃべらずにいようとしているとか。これを悪くとらえれば、「授業に参加していない」のであるが、もう少しポジティブに受けとめるロジックは作れないか。

 月並みな言い方であるが、「授業に参加していない」ように見える子どもも、学ぶことを放棄しているわけではない。みずから学習の課題を設定するなかでコンテクストを選択し、その枠内で課題達成しようとしているのである。要は、子どもは勝手に学んでいるのである。

いろいろと反省

 人を傷つけずに生きることは難しいと、このところ思い悩んでばかりいる。

 わたしが普段研究の対象としている会話は、子どもを中心とした何気ない、たわいのないものである。話すこと自体が目的の、ただつながっていることを確認するための会話、言語のそのような用いられ方をヤコブソンは交話的機能と呼んだ。

 その一方で、ある言葉ひとつ間違えるだけで恐ろしく重大な結果の生む場もある。切ったはったの世界では、言葉によるやりとりには相当気を遣うはずであろう。うまくいけば手打ちとなり、いかなければ抗争となる。

 であるから、昔から人は、抗争を避けるために手打ちの仕方をパッケージ化し、言語のレパートリーの中に残してきた。一番簡単なのは「ごめん」である。これを出されると人はいったん怒りの手を止めることになっている。それでも許せなければ、「『ごめん』ですめば警察は要らない」と、コードの無効性をメタ言語的に宣言しなければならない。

 わたし自身は切ったはったの世界に不慣れであるものの、給料をもらっているのはそういう世界からなのである。そこでは言葉選びの慎重さと段取りのそつのなさが有能さを示すスキルだ。かつてはそれができることが大人の条件であった。34にもなって言うのは恥ずかしいが、わたしはまだ大人になりきれていない。

【PMF】7月24日(金)

 PMFオーケストラはリハーサルの場所を本番が行われるコンサートホールKitaraに移した。

 朝10時からのリハの見学に参加。Kitaraに来るのは実ははじめて。以前、聞きたいコンサートがあって、チケットまで手に入れていたのだが、仕事の都合でキャンセルしたことがある。ようやく、噂のパイプオルガンを拝むことができた。

 ホール客席のライトが落とされ、ステージだけが照らされる。メンバーはめいめい、音を出している。黒いジャケットに黒いジーンズをはいた短髪の男性がステージの下に立ち左手をすっと上げると、音がやんだ。オーボエがAの音を出し、まずはブラスのチューニング。続いて、弦のチューニング。

 左手袖より、指揮のマイケル・ティルソン・トーマス氏が入ってくる。スタッフから、指揮台にイスを置くかどうか尋ねられて、いったんは断ったようだが、結局は置いた。

 今日もマーラーの5番の練習。

 指揮者というのはいったい何を直しているのだろうか。かれらの頭のなかには、自分なりの完璧な音楽が鳴り響いているのだろうか。それと照らし合わせて、今鳴っている音の善し悪しを判断しているのだろうか。おそらくはそうなのだろう。

 理想の音をつくるためにはどんなことでもするようだ。第一バイオリンに迫力がないと、体をそちらに向けて、足をドンガドンガと踏みならす。弦を思い切り甘ったるく歌わせたいと思えば、上半身を腰から曲げて左右にくねらせる。

 対する演奏者の方だが、まだ、まとまっていない感じ。ホルンやトランペット、オーボエなどのソロパートはとてもうまい。弦はというと、曲のイメージを十分に具体化しきれていないように感じる。今日は1度だけだったが、テンポを通常よりもゆっくりにした練習が見られた。第一バイオリン、第二バイオリン、ビオラの順で、同じメロディをタイミングをずらしながら演奏する個所。そのズレをそろえるためだろうと解釈。

 それにしても、Kitaraのシートは危険だ。すべての楽章を通して演奏している最中、座り心地がよくてすっかり眠ってしまった。不覚である。

【PMF】7月22日(水)、23日(木)

 しばらく間が空いてしまったが、PMFリハーサルに行ってきた。

 スケジュールももう終わりに近づいている。各国から指導を受けに集まってきた人たち(アカデミー・メンバーと呼ばれる)が、その成果をコンサートという形で発表する「PMFオーケストラ演奏会」が25日に迫っている。

 25日の公演で指揮をするのは、マイケル・ティルソン・トーマス。曲目はティルソン・トーマスの作曲による『シンフォニック・ブラスのためのストリート・ソング』と、マーラーの交響曲第5番。同じ演目で、大阪・東京でも演奏するらしい。22日、23日とも、私が聴いた時間帯はすべてマーラーのリハに費やされていた。

 芸術の森アートホール内にあるアリーナがリハの場。オープンリハーサル参加者は2階席から眺めることになる。すでに25日の公演の前売りが完売しているからか、参加者の数は20人弱とそこそこ多い印象。

 さて、リハの様子である。

 ティルソン・トーマス氏の指示の入れ方が、まず気になった。とても細かいという印象。ちょっと演奏してはすぐに止めて、指示をする。だから同じフレーズを何度も聞くことになる。しかも同じ部分を繰り返す。1、2度ですむこともあれば、4~5回も重ねることも。止めるやりかたはさまざま。タクトをもっていない左手を高く上げて手の平をひらひらとさせたり、両腕を広げてみたり、ただ単に振るのをやめたり。

 指示の仕方もおもしろい。曲想をイメージした言葉を、指示するパートの演奏するフレーズにのせて実際に歌ってみることがしばしば見られた。言葉によってイメージさせる時も具体的。たとえば、「野犬のように」と言いながら「ぶるぶるぶる」と首を左右に振ってみる。

 振っているときのアクションが大きい。バイオリンに向かって立ち、そのまま小刻みに飛び跳ねる。

 一方の演奏者側では、とてもおもしろいことが起きていた。演奏している最中や、指揮者が指示を出している最中に、演奏者の脇にするすると歩み寄って傍らに立ち、譜面と演奏者を交互に見ながらなにやら話しかける人がいる。1人ではなく、延べでは8人ほどそのような行動をとっていた。おそらくは、メンバーに指導をつけた講師だろう。演奏中は、オケと向き合うようにイスの並べられた客席側に、講師陣が座ったり立ったりしてその様子を眺めている。手には楽譜がある。ルイス・ビアヴァの姿も。

 つきっきりの指導に熱心なのは、ホルン、コントラバス、トロンボーン、トランペット、パーカッションを担当した講師。休憩時間にもメンバーを集めて話しかけていた。また、バイオリン、ホルン、コントラバスの講師はリハの最中にいっしょに演奏もしていた。

 つまりメンバーのなかには、リハの最中、少なくとも2人の指導者から指示を受けていた者がいたことになる。指揮者と、パートの講師。かれらがマラ5の解釈についてあらかじめ議論しているとか、コンセンサスの得られた指導をそれぞれが別々に行っているわけというわけではないだろう。推測でしかないが、おそらくは、指揮者の解釈を講師が解釈し、そのための技術的なアドバイスをおこなっていたのではないかと思う。(本人たちに聞けばいいのだがそれはちょっとできない)

 教育的な音楽フェスティバルならではのリハーサル風景とは何か、と言われればこれがそうなのかもしれない。

教室談話の感覚学

 今週はずっと小学校での調査。授業の様子を4台のビデオカメラで撮影し、そこでの子どもたちの発話をひとりひとりにつけたマイクで拾うというもの。発話と動作とが授業のなかでどのように組織化されていくのか、さらには逆に、それらがどのように授業を組織化していくのかを記述することが今回の調査の目的である。授業を即興演奏だとしたら、それをスコア(総譜)に採譜するというわけである。

 一般に、学級というのは少数の大人と多数の子どもによって構成される。こうした集団のありかたが、コミュニケーションの進み方を制約する。

 たとえば、教師による問いかけに、多数の子どもが同時多発的に返答することがある。一人ひとりの子どもにとっては、自分の答えこそが教師の問いに対する返答である。しかしこのとき教師は、複数の返答を同時に自分の返答とすることができない。そこから選ばなければならないのである。

 こうした出来事は、実に些細なものである。おそらく日本のみならず世界各地の教室で見られる普遍的なものであろう。しかし同時にとても興味深い出来事でもある。

 このとき教師が行っていることは、どういうことだろうか。おそらくは、複数の言葉のなかから、自分の発する問いと同格の言葉を「返答」として選択することである。と同時に、それ以外の言葉を「それ以外のもの」として脇に置いておくことでもある。この「それ以外」というのがクセモノだと思われる。

「それ以外」の指すところが「教師の発する言葉以外」であるならば、脇に置かれた言葉は端的に言葉ではない。であるから、たとえ「音声」としては聞こえていたとしても「言葉」としては聞かれない。「それ以外」の指すところが「たまたま選ばれた子ども以外」であるならば、それは「別の機会には『返答』に値するものとして取り上げられる可能性のある言葉」としてみなされる。

 このように、授業中のコミュニケーションにおいては、ある人の発する言葉についての見方や感じ方が複数ありうる。複数ある見方や感じ方のうち、子どもたちはどのような見方・感じ方を選び取っていくのだろうか。ここが問題である。

 言葉についての見方や感じ方についての研究であるから、原義的に「感覚学(aesthetics)」と呼んでよいだろう。エステティクスのこのような使い方は、ジャック・ランシエールによるものである。

 授業中に自分の発する音声が「言葉」として扱われない。教師には自分の発する音声が聞こえている(うるさい!と言ったりするから分かる)にもかかわらず、言葉同士のやりとりが成立しない。もしも子どもが、このような出来事を繰り返し経験した場合、自分の発する言葉についてどのような見方・感じ方を選んでいくのだろうか。

 自分では「言葉」として発している音声が「言葉」にならない恐れ、それは言葉以前の沈黙を選び取らせるのではないか。なぜなら、黙っている限り、自分が「授業の言葉」を発する者かどうかの判断が永遠に先送りされるからである。

【PMF】教育セミナー2日目

 教育セミナー2日目の集合は芸術の森。セミナー参加者には、ここで開催されるトークコンサートと野外コンサートのチケットが前の日に配られている。それを聞くことと、コンサートの合間に開かれる参加者同士の意見交換会が本日のプログラム。

 トークコンサートにはウィーンフィルのメンバーが出演。ヴァイオリン、ビオラ、チェロ、コントラバス、フルート、ファゴット、クラリネット、トランペットの各奏者がひとこと説明をした後に短い曲を演奏。伴奏には昨日講義をしていただいた赤堀さん。昨日の話を聞いていただけに、彼女がどういうタイミングでパートナーの方を見るのか、その視線が気になった。

 昼前のコンサートでもあり、リラックスした雰囲気。メンバーもラフな格好。けっこう人気のあるコンサートなのだそうだ。

 昼食後、芸術の森の山奥にあるアトリエにて、参加者相互の意見交換会。参加者のなかからお一人に司会をお願いして、とにかく言いたいことをしゃべる。

 小中学校の音楽の先生がほとんどかと思いきや、もちろんそういう方が三分の一くらいいらしたものの、多彩な方が参加していたようだ。参加の動機もいろいろ。まあぼくのようなのも混じっているわけだが。

 ぼくの方からは、今回のようなセミナーと、学校での音楽教育実践とがどのように結びつくのか、その結びつけ方についてフロアに問いかけた。それに対して出していただいた意見はどれも貴重なもの。

「指揮者を指導者と読み替えたら毎日のことに使える」
「エネルギーをもらえる」
「できないとはじめから思いこむのではなく、できると思って接するというビアヴァ先生の言葉。どういう視線でものごとを見るのかを学んだ」

 なかには、声楽科を出て教師になったため、他の楽器の良さを知らないので、一番いい音を聞くことにより、楽器について教える際のイメージに役立つというお話も。

 音楽教育者にとって、生徒のパフォーマンスを評価する基準として究極的なものは、教育者の感覚的なものだろう。そこを磨くことに今回のセミナーは貢献している、と参加者は考えている、と理解した。

 ついでに、小中学校で音楽の授業や音楽教師の置かれている現状についても聞いたが、望ましいとは必ずしも言えないようだ。ある中学校では音楽の時間が週に1時間。そこに指導要領で決められていることを盛り込むとなるととても大変。そのうえ、何か学校の行事があるごとに伴奏を求められたり、吹奏楽や合唱の指導を求められたり。

 もっと学校教育における音楽の地位を上げること、そのためには音楽にかかわる素養が他の科目でのパフォーマンス向上や生活態度の改善に寄与すると理論的、実証的に示すことが戦略として必要だろうね。アメリカなんかだと、荒れた学校が合唱で更正しました、なんていう実話がもてはやされるけど、日本ではどうなんだろうか。ともかく現状では、「音楽の時間を増やせ増やせ」と言い続けるだけでは何も変わらないだろう。

【PMF】教育セミナー1日目

 先週の土日で、PMF主催の「教育セミナー」が開催され、それに参加してきた。

 教育セミナーとは、音楽教育に携わる小中学校の先生や学生を対象とした研修会である。PMFのために来日している音楽家と交流したり、その実際の指導の様子を見ることができる。

 スタッフの説明によれば、PMFは3つの柱から構成されている。(1)教育部門、(2)演奏会部門、(3)教育普及部門である。このうち、教育セミナーは3番目の教育普及部門に位置づけられている。そもそもは、音楽教育を取り囲む方々に還元できないかということで始められた企画だそうだ。普及部門には青少年向け、一般向けトークセッションなどのイベントも用意されているが、なかでも教育セミナーは部門のメインに位置付けられているらしい。

 教育セミナーには2つのコンセプトがある。1つは、音楽教員に、指導の技術をつかみとってもらう機会となること。もう1つは、日々の教育実践とは直接関係ないかもしれないが、さまざまな国や地域の人々との文化的交流を図ること。

 初日のプログラムは、指揮者のルイス・ビアヴァによる小学生の金管バンドの指導見学、ピアニストの赤堀絵里子さんの講義、ウィーンフィルのマネージャーをしているザグマイスターさんのトークである。2つのコンセプトがきちんと反映されている。

 初日ということで参加者へのオリエンテーション。金管バンドへの指導が行われる、厚別の青葉小学校に朝9時半集合。校内の会議室に集まった参加者の数は、ざっと20人ちょっと。もう少し多いのかと思いきや、そうでもなかった。

 全員が集まったところでスタッフによるオリエンテーション。最後に名前と所属のみ自己紹介。あちこちから参集されている。栗山、千歳、日高、釧路、東京、福岡。

 体育館へ移動。体育館にはすでにイスが置かれている。ステージ前には扇形に並べられ、それと向かい合うように平行に並べられている。そちらには保護者の方だろう、十数人の女性が座っている。

 共栄小学校の子どもたちが、そろいの青いTシャツを着て、楽器を手に体育館に入場。先頭に指導の女性教諭。各自の席に座る。子どもたち全員の準備ができた頃を見計らって先生が「下のドを出します、よーい」と言うと、ロングトーン、音階練習。

 そこに、ルイス・ビアヴァ先生登場。会場、拍手で出迎え。スタッフの司会でビアヴァ先生の紹介。

 子どもたちによる演奏。全体をまずは通して。演奏終了。ビアヴァ先生「この日のために用意したの?短い期間で練習したにしてはうまいね」。このように、終始、まずはほめるところから指導を始めていた。

 いよいよ直接指導。セクションごとに分けて最初の1~4小節を練習。トロンボーンとユーフォが演奏するスフォルツァンドピアノについて。ピアノを意識、クレッシェンドを意識。指揮者の先生に対しては「最初の音がフォルテだということを見せて」。

 以下、ビアヴァ先生の指導中の言葉。

「導くために指揮者はいます」
「君たちはグループの一員。指揮者というリーダーに合わせることが必要」
「音をはっきりと意識させるためには、楽譜通りのテンポではなく、遅めに演奏させるとリズム感がよくわかるようになる。そうすると自信につながる」
「オケが悪いのではなく、指揮者が悪いのだと敬虔な気持ちを持つことが大事だ」
「子どもにはできないと思いこんではいけない。子どもたちはすごくよくできる」

 全体で記念撮影をしてビアヴァ先生退場。

 午後からは場所を移動して、中島公園そばの渡辺淳一記念館講義室にて。PMFピアニストの赤堀絵里子さんの講義。赤堀さんがPMFに参加するのは5年目だそうだ。今はボストンにいて活動中。

 もともとは作曲を学んでいたものの、室内学に出会ってから演奏をはじめた。人と一緒に演奏することの楽しさを知ったそうだ。

「音楽とは何でしょうか?」という問いかけに参加者は「?」。赤堀さんがホワイトボードに下のような図を書く。

作 ←←← 演
曲 →楽→ 奏 ⇒(音楽)⇒ 観
家 →譜→ 家 ⇒(音楽)⇒ 客

 作曲家が楽譜を書き、演奏家が楽譜を読んで演奏し、それを観客が聞く。重要なのは、どのパーツが欠けても音楽は成立しないということ。

 しかし、楽譜をただ機械的に再現するだけではそれは上手な演奏とは言えない。解釈し、フレーズを作り込んでいく作業が必要となる。その際の解釈は1つではなく、多様に変わりうる。

 独奏ならば解釈は単独の作業だが、コラボレートする場合は解釈をすりあわせて、1つのメッセージとなるようにする必要がある。たとえば2つの楽器が1つのメロディーを交代で奏でるような曲もあるが、その場合、先に演奏していた楽器の音の大きさを、後から演奏する楽器は引き継がねばならない。そうしないと1つのつながったメロディーには聞こえない。

 そうしたことができるようになるために、赤堀さんは相手のパートを歌うようにしている。頭のなかで歌うことで、全体のイメージをつくることができる。

 最後に、参加者のなかでブルガリアからいらしていたビオラ弾きの方と、赤堀さんが1曲披露。まったくの初対面であったらしく、「演奏者同士が初めて出会って楽譜を渡されて一発目の練習」の雰囲気がよく分かった。

【PMF】7月4日(土)

 4日午前に芸術の森アートホールにて札幌交響楽団とPMFオーケストラメンバーによるリハーサル。
次の日にKitaraで開かれるウェルカム・コンサートのリハ。

 本番の演目は、最新パンフによれば、メンデルスゾーンの序曲「フィンガルの洞窟」、モーツァルトの
「フルートとハープのための協奏曲ハ長調」、リヒャルト・シュトラウスの「英雄の生涯」。

 10時45分から午前のリハ開始と事前の案内があったので、アートホールに10分前に到着。練習室にはすでに奏者が集まっていた。
弦が65人、木管が16人、金管が19人、ハープが2人、パーカスが5人の計107名。大所帯だ。まだ指揮者は入室していないように見える
(2階席なので、真下にある1階入り口付近の様子は見えない)。個々人がめいめい音を出す。自席に着いている人もいれば、
荷物置き場で音を出す人も。チューニングではない。みなラフな格好。

 コンマスは男性、白い細身の半袖シャツにジーンズ。若い。後で気づいたが、彼だけイスの種類が他の人とは異なる。
他は折りたたみイス、彼はピアノを弾く時に座るようなイス。

 45分になり、長身の男性が指揮台の脇に立ち、奏者たちの方を見ながら手を挙げ、かれらが音を出すのを止める。
「2コマ目の途中で終わります」「フィンガルが」後から気づいたが、彼はバスクラの奏者だった。その日本語での説明の後、
ワイシャツを来た男性が英語で同じ内容を説明。今日の予定を全体に対して説明する機会はこれだけだった。

 47分、指揮者の尾高忠明氏入室。黒いTシャツに黒いパンツ、黒いスニーカー。指揮台に置かれたイスに腰を置き、
「おはようございまーす」。指揮棒を右手に持ち、30度ほど腕を持ち上げ、そのまま振り上げるとすぐさま演奏に入った。
指揮者からは何の説明もない。

 曲目は「英雄の生涯」。40分以上ある曲だが、そのまま最後まで通して演奏。その間、演奏していない奏者たちは退屈そうにしている。
たとえば出番がない時は、腕や足を組み、目をつぶっている人もいる。パーカスはほとんど出番なしのためずっと座って腕を組みっぱなし。
文庫本(?)を読んでいる人も。

 トランペット3人、演奏の途中で席を立ち、後列に置かれた3つのイスに座り直す。何だろうと思っていると、
そこでファンファーレを鳴らした。指揮者はその3人に対して左手で何か合図。元の席にもどれということだろう。

 終了。指揮者、各パートごとに指示を出す。英語で。パートが日本人だけで編成されている場合は日本語で指示。
英語でも日本語でも擬音ばかり。「ティヤーッタッタッタ」「ティヤーティヤー」「ヤカタカタカタカ」「ポンポンポン」「ヤーラリラリ」
「タリラリラリラリラリ」

 譜面のどの個所を吹くのか、ピッコロ間違える。頭を下げ、左手をひょこっと上げる。チューバへの指示の出し方。「もう少し遠くで」。
吹き込む息の量が少なすぎ、音が出ず。「遠すぎです」。

 11時45分、指揮者が15分休憩の指示。建物の外に出てタバコを吸う者、コーヒーを飲む者、本を読む者、音を出す者、話す者。

 11時58分、尾高氏入室。Tシャツが変わっている。汗をかくから?それでもやはり黒。

 「英雄の生涯」の続き。パーカス、座っている席の後ろにあるゴングを鳴らしてしまう。
真正面に座っているトランペットパートの年配の男性、両手を顔の脇に置いて前後に揺らす。スネアの男性(ゴングを鳴らしたのではない人)、
両手を頭の上で合わせる。指揮者に謝っているふう。

 バリトンオーボエの奏者に、指揮者が「○○さん、□□からもう少し大きくできる?できないなら…」。バリトンオーボエ、
「やってみます」。はじめて双方の発話をともなうインタラクションが見られた。これ以外にインタラクションはなかった。たとえば、
セカンドバイオリンの席に座る女性に、指揮者から細かな注文が頻出。例としては曲想について。「老人が天国に行く際の平安を」とかなんとか。
女性はただだまって聞くだけ。練習終了後、隣のセカンドバイオリンの女性と楽譜を見ながら話し合う。

 12時30分、尾高氏がメンバーに「2時に戻ってきてくれ」と英語で言い、午前の練習終了。

 13時からの野外ステージで開かれる開会式を見る。ファンファーレ、市長挨拶、エッシェンバッハ挨拶など。
ウィーンフィルから来た奏者によるモーツァルト「クラリネット五重奏曲イ長調」。そこで立ち、再びアートホールへ。

 14時からのリハーサルはすでに始まっていた。メンバーが減っている。日本人のみ。曲目の違いによる?弦40、木管8、金管4、
パーカス2。午後最初の練習曲目は「フィンガルの洞窟」。午前中最初にバスクラの男性が話していた「2コマ目」とは2つ目のこと?
尾高氏のTシャツが替わっていた。また黒。

 「結婚式が遠くに聞こえる」「モルダウと同じで」

 14時30分頃、「ここで休憩していきましょ」と指揮者が告げる。メンバーのうち三分の一くらいが帰り支度をしていなくなる。

 休憩時間中、指揮台の隣にハープが運び込まれる。コンマスのイスが移動。このあたりの作業をするのは、演奏者ではない男性。
ピンク色のTシャツ。移動させたイスに座って見え方の確認(?)。

 14時45分、練習再開。尾高氏のTシャツがまた違う。今日4着目。ハープとフルートはゲスト。それぞれ、クサヴィエ・ドゥ・
メストレ氏とヴォルフガング・シュルツ氏。指揮者がイスに腰掛けながら左手を2人の方へ上げる。メンバーは足を踏みならす。
ハープとフルート、コンマスと握手。次いで指揮者と握手。

 曲目は「フルートとハープのための協奏曲ハ長調」。指揮者による指示はほとんどない。3曲流す。1度、
曲を止めてセカンドバイオリンに対して指示。

 15時15分、3曲が終了。「どうするんだろう」というようにハープがきょろきょろ。フルート、「ヤンタラータラー」ではなく
「タランタラン」だと指揮者に伝える。「同じことをさきほど伝えていました」と指揮者。フルート、コンマスの楽譜を見ながらコンマスと話す。

 メンバーはほぼ全員帰り支度を始めている。今日はもうリハはないのだろうと判断、帰途につく。

【PMF】リハーサルから見るPMF

 Pacific Music Festival、略してPMFが本日開幕します。PMFとはレナード・
バーンスタインが提唱して開催されるようになった、若手音楽家のための教育音楽祭です(公式サイトより)。
今年で20回目の節目を迎えて関連するイベントも企画されているようです。

 札幌に住んでいますと、毎年この時期になると通りのあちこちに音符の描かれた旗がひらめいて気にはなっていましたが、
これまで足を運んだことはありませんでした。今年はできるだけ音楽を聴く機会をつくりたいと思っています。というのも、
9月の学会で音楽教育に関するシンポに出ることになったのですが、そうした分野にはこれまで触れたことがなかったのです。
なんとか何かひとこと言えるようになっておこうと、PMFに参加することにしたのでした。

 参加と言ってもコンサートを聴くだけでは「音楽教育の成果」しか知ることができません。ですので、リハーサルを聞くことにしました。
申し込むと、開催期間中に開かれる芸術の森やKitaraでのリハーサルを見学することができます。
私は開催期間中すべてのリハーサルを自由に観られる通しチケットというのを取りました。15,000円。

 それに加えて、来週末に学校の音楽教育関係者や学生を集めて開かれる音楽教育セミナーというのにも参加することにしました。
私自身は音楽教育に携わっているわけではありませんが、何か糸口がつかめるかもしれないという思いです。

 先日、芸森でのリハーサルを少しだけ見てきました。弦のみの編成で45人。やはり奏者は皆若い。指揮は(おそらく)ルイス・
ビアヴァ。見るといっても、アリーナ席で上から見下ろすような感じです。近づいて話しかけたり楽譜の書き込みを見ることはできません。

 私自身ブラバンでラッパを吹いていたのですが、練習の様子はオケもあまり変わらないというのが今のところの印象。
実際はだいぶ違うのでしょうね。たとえばビアヴァは「タラリタラララ」「パンパンパン」「ターンターン」「シーパパパパ」
と擬音で欲しい音のイメージを伝えます。また、奏者と指揮者とが楽譜をともに見ながら演奏について相談するという場面は、
いまのところコンマスとだけ見られました。オケと指揮者との関係とはそういうものなのでしょうか。

 知りたいのは、このリハーサルがいかにして「教育」の場として成立しているのかということです。
おそらく奏者は何かを学びに来たのであり、指揮者もまた何かを教えようとして来ているのでしょう。
そこがプロとプロのやりとりとの違いだと思われます。では、その関係性はどういう場面において見られるのか。もしかすると、
私のブラバンでの練習の仕方と同じだなと感じたのは、両者共に「教育であること」を前提として組織されているからでしょうか。
よく分かりません。

 ひとまず今日も終日芸術の森にいりびたってリハーサルを見てきます。楽譜が手に入らないかなあ。