人を傷つけずに生きることは難しいと、このところ思い悩んでばかりいる。
わたしが普段研究の対象としている会話は、子どもを中心とした何気ない、たわいのないものである。話すこと自体が目的の、ただつながっていることを確認するための会話、言語のそのような用いられ方をヤコブソンは交話的機能と呼んだ。
その一方で、ある言葉ひとつ間違えるだけで恐ろしく重大な結果の生む場もある。切ったはったの世界では、言葉によるやりとりには相当気を遣うはずであろう。うまくいけば手打ちとなり、いかなければ抗争となる。
であるから、昔から人は、抗争を避けるために手打ちの仕方をパッケージ化し、言語のレパートリーの中に残してきた。一番簡単なのは「ごめん」である。これを出されると人はいったん怒りの手を止めることになっている。それでも許せなければ、「『ごめん』ですめば警察は要らない」と、コードの無効性をメタ言語的に宣言しなければならない。
わたし自身は切ったはったの世界に不慣れであるものの、給料をもらっているのはそういう世界からなのである。そこでは言葉選びの慎重さと段取りのそつのなさが有能さを示すスキルだ。かつてはそれができることが大人の条件であった。34にもなって言うのは恥ずかしいが、わたしはまだ大人になりきれていない。