教室談話の感覚学

 今週はずっと小学校での調査。授業の様子を4台のビデオカメラで撮影し、そこでの子どもたちの発話をひとりひとりにつけたマイクで拾うというもの。発話と動作とが授業のなかでどのように組織化されていくのか、さらには逆に、それらがどのように授業を組織化していくのかを記述することが今回の調査の目的である。授業を即興演奏だとしたら、それをスコア(総譜)に採譜するというわけである。

 一般に、学級というのは少数の大人と多数の子どもによって構成される。こうした集団のありかたが、コミュニケーションの進み方を制約する。

 たとえば、教師による問いかけに、多数の子どもが同時多発的に返答することがある。一人ひとりの子どもにとっては、自分の答えこそが教師の問いに対する返答である。しかしこのとき教師は、複数の返答を同時に自分の返答とすることができない。そこから選ばなければならないのである。

 こうした出来事は、実に些細なものである。おそらく日本のみならず世界各地の教室で見られる普遍的なものであろう。しかし同時にとても興味深い出来事でもある。

 このとき教師が行っていることは、どういうことだろうか。おそらくは、複数の言葉のなかから、自分の発する問いと同格の言葉を「返答」として選択することである。と同時に、それ以外の言葉を「それ以外のもの」として脇に置いておくことでもある。この「それ以外」というのがクセモノだと思われる。

「それ以外」の指すところが「教師の発する言葉以外」であるならば、脇に置かれた言葉は端的に言葉ではない。であるから、たとえ「音声」としては聞こえていたとしても「言葉」としては聞かれない。「それ以外」の指すところが「たまたま選ばれた子ども以外」であるならば、それは「別の機会には『返答』に値するものとして取り上げられる可能性のある言葉」としてみなされる。

 このように、授業中のコミュニケーションにおいては、ある人の発する言葉についての見方や感じ方が複数ありうる。複数ある見方や感じ方のうち、子どもたちはどのような見方・感じ方を選び取っていくのだろうか。ここが問題である。

 言葉についての見方や感じ方についての研究であるから、原義的に「感覚学(aesthetics)」と呼んでよいだろう。エステティクスのこのような使い方は、ジャック・ランシエールによるものである。

 授業中に自分の発する音声が「言葉」として扱われない。教師には自分の発する音声が聞こえている(うるさい!と言ったりするから分かる)にもかかわらず、言葉同士のやりとりが成立しない。もしも子どもが、このような出来事を繰り返し経験した場合、自分の発する言葉についてどのような見方・感じ方を選んでいくのだろうか。

 自分では「言葉」として発している音声が「言葉」にならない恐れ、それは言葉以前の沈黙を選び取らせるのではないか。なぜなら、黙っている限り、自分が「授業の言葉」を発する者かどうかの判断が永遠に先送りされるからである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA