発達心理学会に参加してきました

 26~28日に神戸にて開催されていた日本発達心理学会に参加してきました。

 事情があって3日間フルで出席しましたが、最後にはくたびれ果ててしまい、話しを聞きながらうつらうつらしてしまいました。

 私の発表は初日の午前中。知っている方もそうでない方も含めて4~5人の方にはご説明したように覚えています。みなさん一様に「大変でしたね」と感想をおっしゃっていました。分析の仕方が、誰でも思いつくけど面倒でやらないものだったからです。

 同じデータを違う角度から検討したものを、今度は夏の教育心理学会で発表します。お楽しみに。

 今回の収穫は、来年の発心で開こうと思っているシンポorラウンドテーブルのメンバーに声をかけることができたこと、揖斐幼稚園の昨年の報告書をいただけたこと、Mさん&Kさんのお子さんにはじめて会えたことでした。

北海道の発達心理学者懇親会

 夕方より、北海道内にて発達心理学に関心をもつ人々が集まる集いに参加。見る人が見れば錚々たる方々がいらっしゃる。

 HG大のT先生。K大のKさん、Yさん。O大のHさん。HG大のK先生。HI大のN先生、K先生。B学部のN先生とその院生さんたち(Mさん、Uさん、Mさん)。K学部からはM先生と不肖私。

 K大A川のEさんにもお会いしたのだが、E大に行くことになったとのこと。Oさんと近くなりましたねとお話しする。

 道内の発達研究を盛り上げていこうという方向性を確認する。そのために、4月から1年かけて4回ほど集まる機会をもち、互いの研究を発表したり本州から人を呼んだりしようということになる。

 で、そのしょっぱなの研究発表をぼくが担うことになった。自己紹介のときに「データの分析が終わって面白い結果が出たんですよ」と喜々としゃべったのがあだをなした。いや、喜んで発表させていただきます。

 そのままの流れで居酒屋で懇親会。Yさんとずうっと近況報告。2人目ができたそうで、大変らしい。

 しかしあれだね、昔はこういう集まりに出ても見ず知らずの人ばかりでびくびくしていたのが、今ではほとんどが知り合いという状況。7年が過ぎて北海道にようやく根を下ろしたということか。

我ん坊にて

 読み聞かせシンポの打ち上げで、石川先生をお連れして「我ん坊」へ。

 久しぶりに入るとあいかわらずのマスター。前回来たのはもう2年くらい前だが、顔を覚えていてくれたようで、子どもいくつになったと聞いてくれた。産院がこの店の裏にあって、出産直後の祝杯をここであげたのだった。

「マスターも髭が白くなっちゃったね」
「そうだよ、俺もう還暦過ぎたもん」
「娘さんは?もう高校?」
「今度入試だよ」

 時の経つのは早いものだ。

 ビールが安いのでがぶがぶとクラシックを飲む。焼酎も安いのでお湯割りをがぶがぶと。

 酔っぱらったN君が石川先生とこんこんと語り合う。

 なんか久しぶりに時間を忘れて飲んだ気がする。

読み聞かせについて考えるのココロだー(3)

 石川先生は、読み聞かせ実践を「パーソナルなもの」と呼んでおられました。「なぜ読み聞かせなんですか」という問いかけに、「好きだからですね」というお答え。自分が好きだから読むという原点を指して「パーソナルなもの」とおっしゃっているものと理解しました。

 こういう考え方は重要な問題を提起してくれると思います。

 実のところ、現代の日本では、読み聞かせは社会的な事業のひとつになっています。その例が、ブックスタートでしょう。自治体が赤ちゃんのいる家庭に1冊ずつ絵本を贈るという事業で、北海道だと恵庭市で実施されているものが有名です。昨年から札幌でも始まりました。

 目的については詳しくは知りませんが、赤ちゃんへの絵本の読み聞かせを通じて親子の関係性を良好なものに保ってもらおうというねらいはあると思われます。

 親が子に対して読み聞かせをすることそのものについては害悪はないでしょう。問題は、読み聞かせを一種の薬のように道具的に見る、その見方にあります。薬ですから、読み聞かせが好きだろうがなんだろうが読まねばならない、さもないと…という考えがその見方の背後にはある気がします。

 これは石川先生のおっしゃる「パーソナルなもの」という考え方とは真っ向から対立します。対比的に整理すれば、パーソナルな読み聞かせはそれ自体が目的であるのに対して、薬としての読み聞かせは目的が外にあるわけです。親子のふれあいの時間を作るとか、子どもの頭をよくするとかですね。

 もちろん後者の目的そのものは否定されるべきものではありません。しかしその場合、読み手はきちんと本に「出会って」いるのだろうかという疑問は残ります。「頭がよくなる!」といった「肩書き」ばかりを見てしまい、本そのものの面白さを見過ごしてしまうのではないかという危惧です。

 今回の研究発表会の話になっていまいますが、学生は読み聞かせについての先行研究を調べました。心理学や教育学のテーマとして、読み聞かせを含む読書研究はオーソドックスなものです。知見の蓄積が大量にあることは間違いない。しかしすべての結果を総合しても隔靴掻痒感は常に残り続けます。なぜか。ある本の「面白さ」を示すことには成功していないからだと思います。不可能だというわけではないと思います。ただ、現在の心理学研究の枠内ではうまくいっていないのです。研究者も、絵本と向き合っていないのだろうと思います。

(続くかも)

読み聞かせについて考えるのココロだー(2)

 石川先生は読み聞かせ実践を始めた後、なぜ中学生に読み聞かせるのかということを改めて以下のように考えられたそうです。

 義務教育の中で絵本の読み聞かせを経験する機会といえば、多くの場合小学校低学年まで。高学年になると絵本なんてという気恥ずかしさが先行して手に取ることもなくなっていく。そうして次に絵本と出会うのは、せいぜい自分に子どもができてからということになる。中学生に読み聞かせるのは、絵本にもう一度出会わせるためでもある、と石川先生はおっしゃっていました。

 今回参加した学生のひとりが「高学年向けの絵本は少ないのではないかと思っていた」とコメントしてくれました。先生はそれに対して、幼児の場合は集中力の問題があって、どうしても一定の時間で終えなくてはならないが、小中学生ともなればそういう問題はいっさい考えなくてすむ。したがって、絵本の選択肢は逆に幅広くなると答えられていました。

 このご指摘は身に覚えがあります。確かにぼく自身、絵本を手に取ったり読んだりする機会は、今の子どもが生まれるまで皆無でした。『ぐりとぐら』も『がらがらどん』もまったく読んだことがなかったのです。いや、読んでもらったかもしれませんが、まったく記憶にありません(唯一、小さいときに本棚に並んでいた『チャイクロ』が、とある古本屋に全冊そろって千円で売られていたのを見て懐かしさのあまり買ったくらいです。それは今、アマネのお気に入りになっています)。

 そういう意味では、自分でお気に入りを選択することができる年代に、改めて読み聞かせを通して物語と出会うことはとても大事なことでしょう。

 石川先生は最後まで「自分は好きだから読み聞かせをする」ということを強調されていました。自分は読み聞かせが苦手だ、嫌いだという人はいるでしょうし、それは仕方ないことです。それならば、読み聞かせを通して得られていたはずの経験を、なんらかの形で子どもたちにさせてやるにはどうしたらいいか、知恵をしぼればいいだけの話だと。

 逆に、好きでもない人が無理に読み聞かせをした場合どうなるのでしょうか。あるいは、自分にとって面白くもない本を「みんなが面白いと言っているから」という理由で読み聞かせたらどうなるのでしょうか。自戒をこめると、ぼく自身、何がいい絵本なのか分からないため、ロングセラーや、有名なもの、持ち運びしやすいもの、そんなに高くないもの(!)をどうしても選んでいたと思います。

 読み聞かせってなんだか楽しくないんだよねと思うなら、すぐにやめればよいのでしょう。その後、子どもに紹介してあげたい、読んであげたいと思えるような楽しい本に出会えば、そのときに読み聞かせを再び始めればよいのでしょう。

(続きます)

読み聞かせについて考えるのココロだー(1)

 先週の金曜日に、学部で開講する「基礎演習Ⅱ」の総仕上げとして、半年のリサーチを公開して発表する機会をもうけました。さらに、上士幌中学校の先生で、教室の中で絵本の読み聞かせをされている石川晋先生をゲストに迎え、読み聞かせ実践について語っていただきました。

 石川先生が中学校の授業中に読み聞かせを始められたきっかけについては、ご自身で書かれたものがこちらで読めます。拝見すると、授業が成立しないという本当に切羽詰まった状況下で、とにかく自分の好きなことをしようと開き直ったことが事態の打開につながったようです。

 だからといって、荒れたクラスを立て直すためにすべての教師が読み聞かせを始めればいいかと言えばそんなことはありません。そこにはいろんな方法があるはずで、石川先生の場合、読み聞かせだったというわけですね。

 ですが、一般に敷衍できるとすれば、こういうことは言えるかもしれません。石川先生はお話の中で、読み聞かせは本を間にはさんだコミュニケーションだとおっしゃっていました。このとき、話し手と聞き手はお互いに目を合わせずにすますことができるので、たとえ聞き手にとって嫌いな人間が読み聞かせをしていたとしても、コミュニケーションの場そのものは維持することができると。

 間に一枚なにかが入ることで、それまでぎこちなかったコミュニケーションがすっとうまく流れることはおうおうにしてあります。そういう意味では、本はうまくいかない関係性を立て直すきっかけになるかもしれません。

(続きます)

ISCAR-Asia 2010開催される

 茗荷谷の筑波大大塚キャンパスにて、掲題の集まりが開催された。

 正月ボケをむりやり吹き払うかのように、朝9時からセッションの開始。夕方の5時半までみっちりとつまったプログラムだった。

 今回の目玉はやはり昼からのワーチの講演会だろう。話のアウトラインはおなじみのもので、ヴィゴツキーの革新性をどのアイディアに見るかというもの。ワーチは、発生的方法、高次精神機能の社会的起源、そして精神機能における媒介が重要なアイディアだとした。

 ワーチがソ連に向かった時、関心があったのは心理学と「言語学」だったのだそうだ。後者の素養が、ワーチの議論のオリジナリティの少なからぬ部分を構成しているように思われる。彼の著作には、言語学の用語が頻出しており、またそれが、分析の鍵となる概念ともなっている。

 心理学における言語の位置づけをもっと底にいたるまで徹底的に考えなければならない。

 この講演会以外にもプログラムは目白押しだった。私は、午前中は教育学のセッションなどをはしごし、午後からは件の講演会と最終シンポジウムに参加。最終シンポは司会としてマイクを持った。みなさん話すことはたくさんあり、結局終了時間から10分のびて閉会。司会の不手際が目立つのみであった。

ISCAR Asia2010

 掲題の催しが開かれるようです。

 ISCAR(International Society for Cultural and Activity Research)に関与するアジア圏の研究者(と言っても主に日本ですが)によるこの催し、数年前に第1回が横浜で開かれ、今回が第2回となります。

『心の声』などの著書が邦訳もされている、ジェイムズ・V・ワーチ先生が今大会にいらしていただけるそうです。

 参加できる人数に限りがあるようですので、お早めのお申し込みを。これで正月ボケをふっとばしましょう。

(以下、現段階での案内文を転載、一部改変)


大会テーマ:リゾーム的社会における新しい生と学習のネットワークの可視化とデザイン
日時:2010年1月4日
場所:筑波大学学校教育局(〒112-0012 東京都文京区大塚3-29-1)
    地下鉄丸ノ内線 茗荷谷駅徒歩3分)http://www.tsukuba.ac.jp/access/otsuka_access.html
参加費:2000円(当日会場で申し受けます)
申込:茂呂までメイルでお願いします。会場狭小のため150人で打ち切りとさせていただきます。
   ymoro [at] human.tsukuba.ac.jp
問い合せ:茂呂

テーマについて
 ヴィゴツキー、バフチン、ベンヤミンが1920年代に遭遇したのは、映画、演劇、小説等の新しいメディア(あるいは従来メディアの転形)の出現が、人々の生活の形式を劇的に変えるという危機的な事態だった。私たちも、いま、そのような、いやそれ以上の変化を、新しいメディア使用に遭遇しつつ経験している。今日の新しいメディアが生み出した複雑きわまりない生活と社会のあり方を、リゾーム社会と呼ぼう。リゾーム社会を生きぬくためには、リゾーム社会の源泉である新しいメディアを自分の道具にしながら、かつてなかったような新しい他者の出会い方とつながり方が必要となる。その出会いとつながりは、様々なローカルな場所で、共同的な新しい学習を生み出しつつある。今回のISCARは、この新しい生と学習のスタイルをいかに分節化し可視化すればよいのか、を提案しあう。そして、さらに踏み込んで、人々の行なう日常的なデザイン実践に加担して、このリゾーム化の事態をいかに先鋭化できるのかを議論する。

プログラム(暫定版です、今後変更もあり得ます。)
午前1 9:00~10:30
セッション1 教師の学びと子どもの学び
 企画発表 宮崎清孝(早稲田大学)
    発表 石黒広昭(立教大学)
        有元典文(横浜国立大学)
        高屋景一(國學院大學)

セッション2 医療現場における新しい学習・発達・ネットワーク
 企画発表 山口悦子(大阪市立大学病院)
    発表 原田悦子(法政大学)
   コメント 交渉中

午前2 10:45~12:15           
セッション3 新しいつながりとしてのサブカルチャー
 企画発表 岡部大介(武蔵工大)
        石田喜美(筑波大)
        土橋臣吾(法政大学)
   コメント

セッション4 (交渉中)

ラウンドテーブル 韓国社会と日本社会のリゾーム化:今後の共同研究へむけて
 参加者 朴東燮(釜山大学校)茂呂雄二(筑波大)ほか(交渉中)
       ジェームズ・ワーチ(ワシントン大)

昼食休憩

午後1  13:15~14:45
 講演 James V. Wertsch (Marshall S. Snow Professor in Arts and Sciences. Director, McDonnell International Scholars Academy. Washington University in St. Louis)
    Vygotskian concept on mediation in New Social Media Era

午後2 15:00~17:30
シンポジウム 流動的なメディア社会のバウンダリークロッシング 
企画話題提供 上野直樹(武蔵工大) 
   話題提供 香川秀太(筑波大)
          茂呂雄二(筑波大)
          杉万俊夫(京都大学)
    コメント  ジェームズ・ワーチ(ワシントン大)
     司会  伊藤 崇(北海道大学)

静岡居酒屋紀行その4

 学会最終日。ゆうべ一緒に飲んだグループによるシンポが午前中にあったので出席。

 学校教育での「体験」をどうデザインするか。ぼさっと聞いていたら、司会者のOさんに指名されたのでコメントする。教育のプロセスのなかで起こる「ズレ」が学習を促進するのだとして、ズレたまま活動を維持するためにはどんな仕組みが必要なのかという問いかけ。学校ならば目立たないが、高等教育や生涯学習の場だと目立つことで、ズレが嫌になってその場から離脱する、という事態も起こりうる(退学とか)。ズレに積極的な価値を見いだすようにしむける何かが必要。それは何だ?

 午後、ベライター&スカーダマリアでおなじみのスカーダマリア先生の講演会に出席。学びのコミュニティが創発する過程が、ネットワーク分析で浮かび上がってくるというプレゼンはとても面白かった。ただ、総じて「付属校研究」(ぼくの造語で、付属校の子どものように『できる子ども』を対象としてはじめて可能な研究のこと)であるようにも思った。多様性を抱えつつ可能な実践なのだろうか。そうだとしたら、それを可能にした教師の力こそ分析しなければならないのでは?

 途中で抜け出して、ポスター発表へ。Iさん、Tさんにご挨拶。

 学会が3時に終わった。M先生たちグループと合流し、タクシーで静岡駅に。駅接続の食堂街にある銀座ライオンで打ち上げ。

 他の院生さんなどはこれで帰宅するというので、M先生と2軒目へ。昨日、「鹿島屋」に行く途中のアーケード街にあって、提灯型のネオンが気になっていた「大村バー」へ。

 バーと名前がついているが、普通の大衆居酒屋である。これが大当たり。入り口そばにしつらえられた、焼き台を囲むようなカウンター、その奥に小上がりがあり、さらにその奥にもうひとつカウンターがある。盛況ぶりを物語るというもの。さらにその奥にはなんと室内にもかかわらず池があって、鯉と金魚が泳いでいる。

 酒をもらう。冷やしトマト、柳川など。よしなしごとを話す。

 店の方に話を伺うと創業90年になるそうだ。この店がトップに載っている静岡の居酒屋ガイドブックを見せてもらう。そこに若かりし頃の姿が映っている、齢80を越えたという店主のお母さんが焼き場に今も立つ。トウキビを焼いてくれた。

 次の店は、そのガイドブックに載っていたよさげな店。伝馬町の「大作」へ。

 写真を見て生シラスがうまそうだなと適当に選んだ店だが、ここも大当たり。時季外れなのかもしれないが、生シラスがあったので頼む。うまい。カウンター前の大皿には里芋の小さいのをゆでたやつ。これもうまい。ミョウガ酢味噌。うまい。合わせる酒は地元「初亀」。

 静岡の居酒屋は奥が深い。まだまだすばらしい店がありそう。

静岡居酒屋紀行その3

 学会2日目。午前中に正式に出番のあるシンポがあったので、出席。

 プロの音楽家である石川さんとともに幼児に対しておこなわれたワークショップを振り返るという企画。東大の丸山先生が企画され、早稲田の宮崎先生とともに石川さんから何かを引き出そうとした。ライブ感のあるセッションとなった。

 指定討論ということで引き出し役に回ったのだが、考えてきたことがほとんど使えず、その場で思いついたしょぼいコメントでお茶を濁す。難しいもの。

 シンポの流れで静岡駅まで行き、関係者の皆さんとともに韓国料理屋で食事。

 どうもくたびれていたらしく、そのままホテルへ戻って夕方まで眠る。

 夕方起き出して、M先生に誘われていた飲み会へ。横国大のA先生たちグループが集まる。

 上石町の「鹿島屋」。超有名店である。

 青葉交番から少し離れたところにあるアーケードの並びに店はある。その前で立って待っていると、今回幹事をお勤めのFさんが。Oさん、Mさんもぞろぞろと。「どうもどうも」と言いながら店に入ると3階に通される。

 結局総勢20名弱が集まる。並べられた卓をぐるりと囲み、乾杯。お通しは海つぼ。バイ貝のことだろうとみなで言い合う。分厚いカツオの刺身、桜エビかきあげ、黒はんぺんの焼いたヤツ、ぎんなん焼き、そば。その他にもいろいろ出てきたような気がするが、覚えていない。

 静岡の酒をがぶがぶと。「正雪」が口当たりよく、甘すぎず、くどすぎず、よかった。

 よしなしごとを話しているうちに解散。

 M先生、Aさん、それにKくんを合流させて引き続き飲みに。おでんとモツを食べるべく、目についた「忠太」に入る。

 L字型のカウンターのみの店。おでん、モツ煮に、海つぼ、まぐろすき身など。よしなしごとを話す。