第2回PORO研

先週末,Kさんを中心に開催している研究会的集まりの,ちょっと遅めの新年会を開いた。研究会的集まりの方をSAP研,飲み会の方をPORO研という(命名はKさん)。PORO研は2回目。第1回は夏にサッポロファクトリーでジンギスカンだった。

第2回の会場は,大学を出てすぐ南にある「場末の和顔」。2階奥にある1室のみの個室に通してもらう。

参加したのは,Kさんをはじめとして9名。教育学院の院生さんはもちろん,文学研究科の院生さんも。一番若いのは23歳。その23歳にKさんがやたらと厳しく教育的指導を入れていた。

このお店は初めてだが,料理はそこそこいけるし,酒のそろえもそれなりによろしい。本醸造だけでなく純米も吟醸もなんでも燗つけてくれるというのも非常に好感度高し。

新年会らしく,ぎゃあぎゃあと馬鹿話やらここには書けない話やらをして3時間が過ぎた。いったんお開き。

飲み足りないので2次会に行く。店を出て歩いてすぐの「かんろ西店」。札幌駅北口合同庁舎前にある本店の支店である。去年の夏にオープンしたのを見かけてはいたのだが,なかなか行けずにいた。

2次会には全員が残った。すばらしいね。

暖簾をくぐると焼き台には本店でおなじみの「お兄ちゃん」の顔が。「お,しばらくです」とあいさつ。お兄ちゃんだけでなく,弟さんの姿も。予約してたわけではないものの,9人入れてもらえた(本店では金曜の夜に予約なしで9人いきなり行って座れるなんてことは,まずない)。

夜も更けてみなの酒量がアップ。お銚子が飛び交う。すばらしい。

終電がなくなる前にお開き。楽しい飲み会でした。結構飲んだのにもかかわらず,翌日にまったく引きずらなかったのもすばらしい。

子どもの会話に分け入る

p> 9月1日の読書会では,レポーターを含めて12名が参加。活発に議論が繰り広げられました。参加していただいたみなさんに感謝です。

 読んだのはGardner, H. & Forrester, M. (2010). Analysing interactions in childhood: Insights from conversation analysis. Wiley. この中から5章を選んで読みました。以下,感想です。


3章 Ethnomethodology and adult-child conversation: Whose development? (Michael Forrester).

 トップバッターとして不肖私が紹介したのは,エディターでもあるMichael Forresterの論文。Forresterはケント大学の先生。

 子どもの言語的スキルの発達過程を研究する上で,会話分析の手法が用いられることが増えてきたのはいいとして,会話分析にはもともとエスノメソドロジーという方法論的前提があったはず。発達という概念に対するエスノメソドロジー的な問いは,どのようにして「発達」が構築されるかというもの。そこで,子どもと大人による会話において,子どもが有能なメンバーとして社会的に取り扱われるためにはどういう条件が必要なのかが検討された。

 エラちゃんという女児が事例に出てくるが,1~2歳の頃は家族から「子ども扱い」されている。ところが3歳になると,自分を子ども扱いする親の発話実践に対して「それはおかしい」と異議申し立てをするようになる。

 ここからは,本論文を受けてのぼくの提案だが,子どもを含む人々の実践の帰結として達成される「発達A」と,「発達A」実践を可能にするある個人の「発達B」を分けた方がいいのかもしれない。なにしろ赤ちゃんは,話せない状態から話せる状態にならないかぎり,発達A実践に携わることもできないのだから,どうしたって発達Bは必要(成熟と言ってもいい)。

 では発達Bの帰結としての発話はすぐに「発達A認定実践」の網の目に取り込まれてしまうかというとそうでもなくて,発達Bとしてはなかなか達者なパフォーマンスをディスプレイできているにもかかわらず,発達Aとしてはずっと「子ども扱い」されていたというのがエラちゃんの事例から明らかになったことだった。

 読んでいるときは物足りなかったが,当日参加されていた札幌学院大の森先生からいただいたコメントで「なかなか面白いかも」と見方が変わった論文。なお著者のForresterの大学でのウェブページからこの論文で扱われている事例がムービーでダウンロード可能。

5章 Children’s emerging and developing self-repair practices (Minna Laakso). 

 2本目はMinna Laaksoの「幼児における自発的修復実践の発生と発達」。Laaksoはヘルシンキ大学の先生。所属はDepartment of Speech Sciencesってなかなか楽しそう。

 データは2002年から07年にかけてフィンランドで行われた大規模な縦断・横断研究からのもの。責任者はLaaksoご本人。そういうプロジェクトができてしまうところがまずすごい。

 子ども自身が自分の発話を「言い直す」(repair)事例を整理して示してくれている。早い事例では1歳0ヶ月でそのような場面が観察されたらしい。このことは,言語発達初期から「この言い回しは違うぞ」という気づきのようなものが芽生えていることを示すと述べられる。

 言い間違いの修正という実践は相当に高度で,というのもその前提にはメタ認知的な能力が想定されるから。そんなことは1歳代には無理だろうと一般には思われるかもしれないが,ぼくら大人は必要以上に小さな子どものことを無能扱いしているのかもしれず,この研究もそうした見方を改めさせる。

6章 Questioning repeats in the talk of four-year-old children (Jack Sidnell).

 3本目はJack Sidnellの「4歳児の会話における同じ言葉による問い返し」。Sidnellはトロント大学の先生。

 会話にはたまに同じ言葉を用いて問い返す実践が現れる。「こちら,4000円のご奉仕価格!」「えーっ,4000円?」とか。情報学的には,同じ言葉を繰り返すことには情報的な価値はまったくないが,会話の社会学的には,繰り返すことでいろいろな機能を果たすことができる。たとえば同意とか,批判とか。質問というのもそうした機能の一つだ。

 同じ言葉を繰り返すという言語使用が4歳児と5歳児の自由遊び場面にどのように見られたかを調べたのが本研究だが,結果から言えば,4歳児の方が5歳児よりもそうした問い返しを多く使用していた(約2倍)。この発達的(これは発達Bね)な違いは何によるものだろう?

8章 Feelings-talk and therapeutic vision in child-counsellor interaction (Ian Hutchby).

 4本目はIan Huchbyの「子どもとカウンセラーのやりとりにおけるフィーリングス・トークと治療的なヴィジョン」。Huchbyはレスター大学の先生。

 親の離婚を経験して,そのことでカウンセリングを受けさせられる子どもとカウンセラーの会話が分析される。面白いのは,「どう思う?」とカウンセラーが尋ねても,子どもの答えはたいてい素っ気ないこと。カウンセラーは自分の見立てを押し通し,子どもの発話をその枠組みにおさめて見ようとするが,あくまでも子どもの発話は素っ気ない。それはそうで,カウンセラーには会話を続けていく義務が職務としてあるのだが,子どもにはそんなものはないのだ。

9章 Intersubjectivity and misunderstanding in adult-child learning conversations (Chris Pike).

 最後の5本目はChris Pikeの「大人と子どもによる勉強中の会話における間主観性と誤解」。Pikeはカンタベリー・クライスト・チャーチ大学の先生。

 小学校の先生と1人の6歳児とが,算数の問題を解いているところを分析。子どもは何を話せばいいのかはよく分かっていて順調に会話をこなしているが,問題の構造はまだよく理解できておらず,結局同様の課題を何度も繰り返すことになっている。面白いのは,子どもの手が「誤り」だということが顕在化せずに円滑に会話が進んでいたこと。

 こうして見ていくと,子どもの会話にはまだまだ分け入っていく余地が大いにある感じです。その際に頼みになる理論はと言うと,まだちょっとぴんと来ないですが。このあたりを今後は考えていかねばならないと思います。

【ご案内】子どもの相互行為に関する文献を読む会

 以前ご案内しました,読書会の概要が決定しました!

 当日は,私の他,北大文学研究科の仲真紀子先生とゼミ生のみなさんが報告をしてくださいます。 

【日程】 2010年9月1日(水) 9:00~13:00
【会場】 北海道大学人文・社会科学共同教育研究棟 W507 

【文献】 Gardner, H. & Forrester, M. (2010). Analysing interactions in childhood: Insights from conversation analysis. Wiley.

【報告章】

3章 Ethnomethodology and adult-child conversation: Whose development? (Michael Forrester).
5章 Children’s emerging and developing self-repair practices (Minna Laakso). 
6章 Questioning repeats in the talk of four-year-old children (Jack Sidnell).
8章 Feelings-talk and therapeutic vision in child-counsellor interaction (Ian Hutchby).
9章 Intersubjectivity and misunderstanding in adult-child learning conversations (Chris Pike).

 参加をご希望の方は,レジュメ準備の都合上,8月30日までに伊藤(tito [at] edu.hokudai.ac.jp)までご連絡を。

 

1000時間の重み

 小中学校の先生方が企画された研修会,教師力BRUSH-UPセミナーに参加してきました。もちろん,受講者としてです。

 ぼくも大学で教える身ゆえ,どうすればいい講義になるのか,勘所をつかみたい気持ちがありますので,勉強しがいがあります。

 と同時に,研究者として,教師が授業をどのように構成するのか,いちいちの行為の裏にある思惑を明らかにしたいという目的もあります。そうした思惑のうちには,言語化できる部分もあるでしょう。ですからこういう場でそれについて講師の先生が話すことができるわけで。

 他方で,言語化できない部分もあることと思います。それは無意識に抑圧されているとかなんとかいった精神分析的な話ではなく,もっと単純に,教師が授業で見せる体の微細な動きです。ぼくらはどうやって歩いているのか,言葉にすることはできません。同じような意味で言葉にできない動きを教師はしているのではないかと思ったのです。

 そして案外,そういう微細な動きが,トータルに見たときに授業や学級経営に大きな影響を与えているのではないだろうか,それが研究者としての仮説です。

 小学校では年間で1000時間もの時間が授業に費やされている。1回の授業で教師と子どもが行うひとつひとつの行為はわずかなものかもしれませんが,1000時間もたまればそうとうな量になる。

 講師のおひとりであった,土作彰先生のお言葉を借りれば,子どもたち同士でプリントの受け渡しをするときに「どうぞ」「ありがとう」と交わし合うことを蓄積していけば,年間で何万回も「ありがとう」と言うことになるわけで,「ありがとう」を身にしみさせるにはそうするしかないわけです。

 まったく同じ理屈で,教師と子どものやりとりも1000時間積み重ねられる。教師の言語化できない「くせ」のようなものに対応する形で子どもの方にもなんらかの「くせ」が形成されるとするならば,1000時間という期間はそれに十分すぎることと思います。

 たとえば,今日模擬授業をされた先生の視線の動きをよくよく見ていますと,これは意図的なのかなんなのか,聞いてみたい現象がありました。国語の授業で,子どもに教科書を一文ずつリレー読みさせる。その際の子ども(実際には,大人である私たち参加者)の視線は,当然と言えば当然,教科書に落ちています。で,教師はというと,胸の前で右手に支えられて広げられた教科書に視線が落ちている。要は,教室の中にいるすべての参加者の視線が下を向いていることになります。

 でも,もっといろいろな視線の動きがあってもいいはずです。たとえば,教師は教科書を見ずに,文を朗読する子どものことを見るとか,ほかの子どもを見るとか。あるいは,子ども同士で見合うということもあってもいいのかもしれない。今回拝見した授業では,先生はそうされておられなかったわけで,それは意図をもった行為なのか,それとも意図しない行動なのか,そのあたりを確認したいわけです。

 いずれにせよ,総じて,今日お話をうかがった先生方の話し方,応対のされ方などを拝見していますと,聞く側によい「くせ」がつきそうな振る舞い方だなあと,偉そうな言い方で申し訳ないですが,そう思いました。それは意識してやっておられることなのか,それとも「なんとなく」できあがったものなのか,そのあたりを今後つっこんで考えてみたいと思っています。

 セミナーは2日間の開催だったのですが,大学はまだ夏休みではないゆえ,2日目には出席できず,残念でした。セミナーを企画,運営,登壇された先生方,どうもありがとうございました。

Gardner & Forrester “Analysing Interactions in Childhood”を読もう!

 唐突ではありますが,掲題の本を読む会を企画しました! 

 子どもたちの生の発話について,これまでずっと手探りで分析してきました。その際のパラダイムとして,相互行為分析や会話分析はある程度使えると考えています。

 と同時に,発達心理学の観点から言えば,相互行為分析や会話分析には,日々顔をつきあわせる人びと(たとえば親子)のインタラクションが発達すること,変化することを記述する枠組みがありません。

 これはないものねだりなのですが,逆に言えば,両者を組み合わせれば最強なのではないかとひそかに考えています。

 そうしたひそかな考えに,なんだか賛意を表してくれていそうなのが上記の本です。これは読まねば,というわけで,せっかくなので何人かで読むことにしました。

 1日では当然読み切れないと思いますが,読破することにはこだわらずに,上で述べたような目論見はうまくいくのかどうか,議論してみたいと思います。

 目次は以下の通りです。各章タイトルの先頭に○印がついている章は,すでにツバがつけられています。

SECTION 1 INTERACTIONS BETWEEN TYPICALLY DEVELOPING CHILDREN AND THEIR MAIN CARERS.

1 Next turn and intersubjectivity in children’s language acquisition (Clare Tarplee).
2 Hm? What? Maternal repair and early child talk (Juliette Corrin).
○3 Ethnomethodology and adult-child conversation: Whose development? (Michael Forrester).
4 ‘Actually’ and the sequential skills of a two-year-old (Anthony Wootton).
5 Children’s emerging and developing self-repair practices (Minna Laakso).

SECTION 2 CHILDHOOD INTERACTIONS IN A WIDER SOCIAL WORLD.

○6 Questioning repeats in the talk of four-year-old children (Jack Sidnell).
7 Children’s participation in their primary care consultations (Patricia Cahill).
○8 Feelings-talk and therapeutic vision in child-counsellor interaction (Ian Hutchby).
○9 Intersubjectivity and misunderstanding in adult-child learning conversations (Chris Pike).

SECTION 3 INTERACTIONS WITH CHILDREN WHO ARE ATYPICAL

10 Interactional analysis of scaffolding in a mathematical task in ASD (Penny Stribling and John Rae).
11 Multi-modal participation in storybook sharing (Julie Radford and Merle Mahon).
12 Child-initiated repair in task interactions (Tuula Tykkyläinen).
13 Communication aid use in children’s conversation: Time, timing and speaker transfer (Michael Clarke and Ray Wilkinson).

 読書会の日時ですが,今のところ,9月1日(水)10:00~13:00を予定しています。場所は未定。

 参加をご希望の方は当方までご連絡を。

言語科学会に行ってきた

 土日に調布の電気通信大学で開催されていた言語科学会に参加してきました。といっても発表してきたわけではなく、情報を収集してきたわけですが。

 言語科学会の初代会長が大津由紀雄先生だったことがあって、チョムスキアンのイメージがどうしても強く、なかなか足が向かずにおりましたが、自分の研究を対外的に発表する場を広げるためにどんなもんか確かめに来たのです(なんだか偉そうですが)。

 自分の関心に近い発表ばかり目に入ったせいなのかもしれませんが、言語獲得研究の中でもインプットの性質についてナチュラリスティックに調査した研究が目立ったように思います。

 たとえば複数の言語を話す子どもが家庭などでどのようにコードスイッチングしているのか、あるいは逆に、そのような家庭で親が子どもに対してどのように話しかけているのか。

 ナチュラリスティックな調査の宿命ではありますが、どうしても少ないケースしか相手にすることができない。で、そうしたデータをもってどのように説得力を持たせるかが鍵となります。このあたり自分も自戒を込めているわけですけれども、やはり理論が背景にある必要があります。

 もちろん言語獲得はものすごく複雑な現象ですから、理論化にはまだ早く、現状は博物学的に現象のリストアップをし続けなければならない段階なのかもしれません。

 このような状況を見るに、大津先生がかつて、インプットのナチュラリスティックな調査には理論がないと批判したことを思い出します。そして、言語学が科学であるためには理論が必要だと強調していました。

 かつての自分はそれに対しててやんでえと思っていましたが、最近ではそうかもねと納得するようになってきました。

SAP研

 Kさんと共謀して,SAP研なるものを立ち上げる。自分たちの仕事の進捗状況のランドマークとして,あるいは強制的な締め切り機能をもつものとして,定期的に研究発表を行うという会である。

 昨日はその第1回。院生さんやら職持ちの方やら,発表者含めて5人が集まってくれた。

 ぼくとKさんとで,それぞれ修正締め切りの迫る論文の中身を発表。

 ちなみにSAPとは,セキララ,アクチュアル,プラクティカルの略。セキララであるから,研究の裏話や審査者からのコメントもあけすけに開示。

 個人的にはこういう研究会を定期的に開くことが野望だったのでとても楽しかった。Kさんありがとうございました。

教育学を考える会・発達関連研究会

 今日は忙しかった。同じ日に2つの「会」。どちらも出番あり。

「教育学を考える会(仮)」は,若手有志の教員が集まって,自分たちの関心について放談するものとして企画した。専門科目を受け始めたばかりの学部2年生に教育学の全体像のようなものを提示したいという趣旨である。

 2年生全員にチラシを配って来てくれたのは4人(うち1人研究生)。3人くらいかなと予想していたのでまあこんなものかと。

 肝心な中身。4人それぞれの学問領域(心理学,社会学,教育福祉,教育学)とその中での自分の関心,それが社会とどのような接点をもつのかといったことについて。普段接している同僚ではあるものの,あまり知ることのない過去を知ることができて新鮮。聞き入る。

 その後,学生さんの発言を受けて4人で適当に雑談。いちおう司会的なことをしていたので,「学校」をお題として放り込んでみたらそこそこつながったのではないか。ここでいかに「教育学」にとどまってその場で議論できるかが大事。教育について本当に適当に話すだけなら居酒屋のおじさんでもできる。「学」として教育を語ろうと努力している姿に気づいてくれたらいいなと思う。

 夕方からは北海道の発達研究者が集まる会に参加。前回指名されたので発表者を相務めた。

 内容は今年の発心で発表したもの。小学校の授業データ。研究会用に頭とおしりに文脈を付け足してみた。

 コメントをいただく。すべて前向きにとらえたい。反復して現れて授業の進行や個人の評価に寄与するであろう特徴的なインタラクションのパターンを見つけ出していく方向性があるなとコメントを聞いていて考えた。

 打ち上げはエルプラザ下の「高田屋」で。発表者特権でごちそうしていただく。みなさまありがとうございました。

一日大野睦仁先生

 土曜日は、伊達に行っていた。加藤恭子先生たちによる、教師の力量を高めるための自主サークル「れら」主催の研修会に参加するため。加藤先生には昨年からずっとお世話になっていて、今回もお声をかけてもらった。

 今回は、札幌の小学校で教鞭を執られている大野睦仁先生のお話を一日たっぷりうかがうという企画。

 きらきらひかる@WEB(大野先生個人サイト)

 午前中は、先生の得意とされているPA(プロジェクト・アドベンチャー)の技法の体験、それと新学年が始まった時期に教師が心得ておくことについて。

 午後は先生が特に力を入れておられる「いのちの授業」について。実際に授業で用いた絵本や映像を使って。最後は参加者全員で今日一日の自分の学びについて振り返るワールドカフェ式のセッション。

 よく個別の経験によって形成してきた教師の潜在的な技能を「引き出し」にたとえるが、このように一人の教師の「引き出し」を開け広げて中身を大勢で眺めるという機会はそうないのではないか。そういう意味で得がたい勉強をさせていただき大野先生加藤先生はじめ関係されていた先生方に深く感謝する次第です。

 勉強の醍醐味は「分かるようになること」ではなく「ますます分からなくなること」だとはよく言われることだが、一日大野先生のお話を聞いて疑問が次々わいてきた。当日はなかなか言語化できずもやもやしていたが、一日おいてようやく形になってきた。

 Q-Uってそんなにすごいのだろうかとか、「学級」っていったい何のために必要なシステムなんだろうとか、「いのち」と言う理由はなんなのかとか。

 その日の夜、駅近くの焼鳥屋で開かれた懇親会にずうずうしくも顔を出したが汽車の時間もあって中座した。大野先生にはお互い同じ市内なので近いうちにお話しさせてくださいと告げて失礼した。