1000時間の重み

 小中学校の先生方が企画された研修会,教師力BRUSH-UPセミナーに参加してきました。もちろん,受講者としてです。

 ぼくも大学で教える身ゆえ,どうすればいい講義になるのか,勘所をつかみたい気持ちがありますので,勉強しがいがあります。

 と同時に,研究者として,教師が授業をどのように構成するのか,いちいちの行為の裏にある思惑を明らかにしたいという目的もあります。そうした思惑のうちには,言語化できる部分もあるでしょう。ですからこういう場でそれについて講師の先生が話すことができるわけで。

 他方で,言語化できない部分もあることと思います。それは無意識に抑圧されているとかなんとかいった精神分析的な話ではなく,もっと単純に,教師が授業で見せる体の微細な動きです。ぼくらはどうやって歩いているのか,言葉にすることはできません。同じような意味で言葉にできない動きを教師はしているのではないかと思ったのです。

 そして案外,そういう微細な動きが,トータルに見たときに授業や学級経営に大きな影響を与えているのではないだろうか,それが研究者としての仮説です。

 小学校では年間で1000時間もの時間が授業に費やされている。1回の授業で教師と子どもが行うひとつひとつの行為はわずかなものかもしれませんが,1000時間もたまればそうとうな量になる。

 講師のおひとりであった,土作彰先生のお言葉を借りれば,子どもたち同士でプリントの受け渡しをするときに「どうぞ」「ありがとう」と交わし合うことを蓄積していけば,年間で何万回も「ありがとう」と言うことになるわけで,「ありがとう」を身にしみさせるにはそうするしかないわけです。

 まったく同じ理屈で,教師と子どものやりとりも1000時間積み重ねられる。教師の言語化できない「くせ」のようなものに対応する形で子どもの方にもなんらかの「くせ」が形成されるとするならば,1000時間という期間はそれに十分すぎることと思います。

 たとえば,今日模擬授業をされた先生の視線の動きをよくよく見ていますと,これは意図的なのかなんなのか,聞いてみたい現象がありました。国語の授業で,子どもに教科書を一文ずつリレー読みさせる。その際の子ども(実際には,大人である私たち参加者)の視線は,当然と言えば当然,教科書に落ちています。で,教師はというと,胸の前で右手に支えられて広げられた教科書に視線が落ちている。要は,教室の中にいるすべての参加者の視線が下を向いていることになります。

 でも,もっといろいろな視線の動きがあってもいいはずです。たとえば,教師は教科書を見ずに,文を朗読する子どものことを見るとか,ほかの子どもを見るとか。あるいは,子ども同士で見合うということもあってもいいのかもしれない。今回拝見した授業では,先生はそうされておられなかったわけで,それは意図をもった行為なのか,それとも意図しない行動なのか,そのあたりを確認したいわけです。

 いずれにせよ,総じて,今日お話をうかがった先生方の話し方,応対のされ方などを拝見していますと,聞く側によい「くせ」がつきそうな振る舞い方だなあと,偉そうな言い方で申し訳ないですが,そう思いました。それは意識してやっておられることなのか,それとも「なんとなく」できあがったものなのか,そのあたりを今後つっこんで考えてみたいと思っています。

 セミナーは2日間の開催だったのですが,大学はまだ夏休みではないゆえ,2日目には出席できず,残念でした。セミナーを企画,運営,登壇された先生方,どうもありがとうございました。

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