040-発達障害をめぐる違和感

杉山登志郎 2007 発達障害の子どもたち 講談社

 私は「発達障害」を問題として扱ったこともなければ,それを問題として抱えた人の支援に携わったこともない。また,自らそこへ赴こうとも思わない。

 私は「発達障害」を問題として扱う人がいることを知っているし,それを問題として抱えている人がいることも知っているし,そうした人やそうした人を支援する人が懸命にその問題に取り組んでいることも知っている。

 自らとかかわりをもたない問題についてそのような知を,きわめて断片的ながらも形成することができたのは,なんらかの形で教えてくださった方がいたからである。直接に,あるいは間接的に。会話のなかで,あるいは本を通して。

 ほんとうにありがたい。

『発達障害の子どもたち』もまた,私にとって最良の教師の一人であった。

 特に,特別支援教育に対する誤解や,その誤解に翻弄される子どもたちの事例について,知ることができた。長年支援に携わってこられた著者の言葉の重さにただただ感じ入るとともに,それを受け止めきることのできない我が身の不明を恥じるばかりである。

 ただ。2点だけ,違和感をもった言葉があった。

 ひとつは,「発達障害」という言葉の定義についてである。45頁に,「発達障害とは,子どもの発達の途上において,なんらかの理由により,発達の特定の領域に,社会的な適応上の問題を引き起こす可能性がある凹凸を生じたもの」とある。

 疑問を持ったのは,「社会的な適応上の問題」という個所。その前の頁で,発達の目標として,「自立」が挙げられている。自立とは,自活でき,迷惑をかけず,社会の役に立つことができる状態のことであり,そこへいたる過程が「発達」であるという(p.32)。自立できていれば,社会的な適応ができたことになる。なんとなくもっともだと思う。

 思うが,なぜ自立なのだろうか,とも思う。それに,発達に目標があるのだろうか,とも思う。発達に目標を設定し,それを自立とするような考え方の背後には,ある価値観があるだろうし,それを支える現在の日本の社会経済的基盤も,文化的背景もあるだろう。

 発達障害をもつ個人を,その価値観のもとで,ある目標に向かわせるよう強いることもひとつの解法であろう。もう一つの解法として,その価値観を発達障害を持つ個人にあわせて変えるということも考えられる。なぜ後者が問題にされず,前者が採用されるのか。これが第一の違和感である。

 第二の違和感。

 本書の冒頭に,筆者がかかわったという2人の青年の子どもの頃からの生育歴が紹介される。この2人は対照的に描かれる。A君は学習障害との診断を受けたが,普通学級に通った。授業についていけないA君はドロップアウトし,社会とのかかわりももちにくくなった。まさに「自立」が障害によって阻まれたケースである。

 他方のB君は自閉症という診断を受け,中学校に入ってからは特殊学級,高校からは特別支援学校へ通った。そうした場所で彼は,技術を習得し,グループ活動に参加して社会性を涵養した。そのかいあって卒業後は一般企業へ就職,まさに「自立」が達成されたケースとして描かれる。

 筆者はA君について,筆者にとっての「治療の失敗例」(p.14)と書く。筆者は過去の自分の対応を反省したのち,その後の人生において社会に出ていくことを望む。

 確かにA君の治療は失敗かもしれない。記述を読む限り,私も,介入がうまくいけば彼はもっと「いい人生」を若い時期に過ごすことができたかもしれないと考えてしまう。しかし彼の人生は彼のものだ。いい人生かどうか,人がとやかく言うことではない。彼自身にとってその人生がどうであるかを,まず考える必要があろう。

 確かに障害に由来する苦しみ,悩みは人一倍なのかもしれない。それは取り除いた方がいいのかもしれない。しかし同時に彼には,生活のどこかでささやかながらも幸せや楽しさを味わった瞬間もあっただろう。その幸せは,苦しみを生み出したのと同じ原因に由来するのかもしれない。たとえば教師をなぐるようそそのかした「悪い同級生」といっしょにいるとき,彼は楽しかったかもしれない。少なくとも,親や,あるいは教師よりは,よっぽど人間味のあるつきあいができていたかもしれない。分からないけれど。

「失敗」という言葉に対して,私が必要以上に警戒しているだけなのかもしれない。単なる誤読なのかもしれない(その危険性はおおいにある)。ただ,その「失敗」は筆者にとってのものだという記述にはやはりひっかかりをおぼえる。

 筆者はいくつもの人生をながめており,そこには筆者の目から見て治療が成功した例も失敗した例もあろう。しかし,ながめられていたそれぞれの人生は,それぞれの生を生きており,そこには成功も失敗もない。そのときどきの選択と結果があるのみだ。ただ生があるのみだ。ということは,成功/失敗の線引き,第一の違和感で取り上げた言葉を使えば,自立の達成/未達の線引きは,誰か他者の目から見た判断に基づく。

 その他者とは誰か,そして,その線引きとはどのようなものなのか。線を動かすことはできないのか。

 線引きを行う他者の中に,発達障害者・児当人は含まれるのか。含まれないのか。含まれるとしたらどのような実践となるのか。

 この問いには,残念ながら本書は答えてくれない。

 そこで私は,他所に教師を求めたのである。

039-被験者ってぼくのこと?

マイケル・シーガル 鈴木敦子・鈴木宏昭・外山紀子(訳) 1993 子どもは誤解されている:「発達」の神話に隠された能力 新曜社

(以下の文章は、かつてウェブ日記にさらりと書いたものの再掲です。にぎやかしに。)

 子どもの認知発達研究を開拓したピアジェとその後継者たちの実験方法について,語用論的な視点から批判を加えたもの。

 たとえば子どもに2つのビーカーに入った水を見せる。ビーカーは同じ形,水量も同じ。続いて,底面積が小さいが背は高いビーカーと,底面性が広く背は低いビーカーにそれぞれ移し替える。ここで子どもに,どちらの方が水の量は多いかと尋ねる。すると子どもは,同じ量だった状態を見ていたにも関わらず,「こっち」と一方を指さす。

 これは「ピアジェの保存課題」として知られるもので,この結果から,ピアジェ派心理学者は,子どもは量の保存ができずに主観的な見かけに判断が引きずられてしまう,ひいてはアタマの中での操作が困難だ,と解釈してきた。

 ところが,われわれが日常的に行なう会話では,こうした質問は何か特別な意図があってなされたものだと判断してしまうようなものだ,というのがシーガルの指摘だ。

 シーガルはこのような実験場面で子どもが失敗する原因について,5つのあり得る候補を指摘する。

 (1)不確かな場合は反応を変更する(大人はなんでも知ってるはずなのに,質問をするということは,きっと自分の考えていること(それが実は正解かもしれないのだが)を越えた何かがあるのかも…,と子どもは思う)
 (2)不誠実さ(実験がいやなので,適当な答えを言って切り上げようとする)
 (3)面白すぎる課題(大人がこんなばかげたことを聞くなんて,きっと子どもっぽい答えを期待しているに違いない,と子どもが思う)
 (4)実験者への信頼(大人は間違ったことや子どもを害するようなことを言ったりしたりしない,と子どもは考える)
 (5)使われる言葉(「同じ」という言葉の意味が,大人と子どもとで共有されていない)

 実際に,これら(1)~(5)の可能性を排除した実験をした場合,子どもは適切な回答をするようになったという。被験者は実験者の思惑の内側だけで行動するわけではないという,言われてみれば実に当たり前なことだが,それを再認識させられた。

 そもそも,実験者と被験者というカテゴリーは,ある状況を「実験」としてとらえている人間が,そこに参加する人びとを同定するのに用いる言葉だ。その状況を実験とは見ない人間からすれば,そこにいる人びとは「大人と子ども」であったり,「先生と生徒」であったり,「男と女」であったりするかもしれない。そして,私たちは自分の行動をそうした社会的カテゴリーにふさわしいものとなるように常に気を遣っている。

 とすれば,実験に参加する子ども自身がその状況をどのように捉えているのか,そのこと自体をもう一度問い直す必要があるのである。なぜなら,子どものパフォーマンスが,果たして認知能力の反映なのか,それとも社会的な役割カテゴリーに適切な行動の選択の結果なのか,このままでは決めかねるからだ。

 紹介されている実験自体はシンプルで,それでいて結果が見事に出ているものばかり。非常に参考になる。

038-マンガと心理学におけるキャラとキャラクター

伊藤剛 2005 デヅカ・イズ・デッド:ひらかれたマンガ表現論へ NTT出版
伊藤剛 2007 マンガは変わる 青土社

 マンガ評論の領域がとても元気である。そうした中で「萌えから生まれた新しいパラダイム」(東浩紀)としてとりわけ名高い伊藤剛の2冊を読む。

 マンガはなぜ面白いのか。従来,この問いにはマンガのストーリーの解題が充てられていた。ストーリーが,登場人物が,読者にとってある種のリアリティを持つがゆえに面白いのである,と。

 確かにそうだろう。しかし,ストーリーや登場人物は,文学にも演劇にも映画にも現れる構成要素だ。それをマンガに固有の面白さの根本的な起源とすることはできない。私たちは他のメディアでは得られない面白さを求めてマンガを読むのではないか。それは何か。伊藤は,この問いに対して,マンガ固有の表現論を打ち立てることによって答えていく。

 マンガはただの絵ではない。マンガは絵の連続をある手法で見せ続けることにより,そこに時間を生みだす。生みだされた時間が,絵の連続にストーリーを「読む」ことを可能にする。そうしたことができるのは,マンガが「コマ」,「言葉」,そして「キャラ」の3つの要素から構成されているからだという。そのようにとらえた上で,伊藤はそれぞれがマンガのリアリティを担うものとする。

 伊藤(2005)における論の見通しは,以下のようにまとめられるだろう。すなわち,日本の近代のマンガは,「キャラ」のもつリアリティに頼らずに,「コマ」と「言葉」によってストーリーと登場人物のそれぞれにリアリティをもたせようとしてきた。言葉はそれを語る登場人物に内面を形成し,コマによるフレームの切り方は背後に一台のカメラが存在するかのような読みを生みだした。一方で,いがらしみきお『ぼのぼの』を分水嶺として,最近では「キャラ」のもつ特質からストーリーを作りあげていくという手法が現れている。

 論の中で重要な位置を占める概念である「キャラ」という言葉。キャラとは何か。「キャラクター」と何が違うのか。キャラとキャラクターの区別,ここが伊藤の議論のポイントとなる。

 キャラは以下のように定義される。

多くの場合,比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ,固有名で名指されることによって(あるいは,それを期待させることによって),「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの(p.95)

 キャラは,複数のエピソードにまたがって登場する人物が同一であることを指し示す機能を持つ。読み手は異なった絵を同一のものとして認識する。これにより,非連続的なものに連続性が与えられる。ちなみに,月刊IKKI(小学館)連載中の相原コージ・竹熊健太郎『サルまん2.0』では,キャラとは「キティちゃんだーっ」と看破されていた。

 キャラは図像としての「強度」をもつ。同じ作品の異なるコマに現れても同一の対象を描いていると分かるような存在感。さらには,作り手の異なる複数のテクストに現れても,要は描かれ方が変わってしまっても「それ」と分かるような「同一性存在感」。それが強度である。存在感が強ければ,二次創作やパロディ,アイコンとして利用可能となるわけだ。最近では「初音ミク」が強度の強いキャラであろう。なにしろ,緑の髪を両脇で結んでいればなんでも「ミク」なのである。

 さて,キャラに対して,キャラクターは以下のようなものとして示される。

「キャラ」の存在感を基盤として,「人格」を持った「身体」の表象として読むことができ,テクストの背後にその「人生」や「生活」を想像させるもの(p.97)

 重要な点は,キャラを定義してはじめてキャラクターがどういうものかが分かる,という順序である。言い換えれば,キャラクターとキャラの関係は,キャラの上にキャラクターが成立するといったものである。

 マンガをめぐって私たちは,登場人物について語り,登場人物の生き方に影響され,さらには登場人物を生身の人物のように分析する。これはキャラクターのレベルで可能なことである。そして,このレベルで従来のマンガ評が書かれてきた。伊藤によれば,こうしたキャラクターのレベルでの読み解きを下支えするのがキャラである。

 キャラにキャラクターを読み込むこと。私たちがマンガを読む際に無意識的に行っている作業を,伊藤はこのように定式化し,その起源を手塚治虫『地底国の怪人』に見いだした。

 手塚治虫による『地底国の怪人』は,「「記号的身体」を用いながら「傷つく心」と「死にゆく体」を描き得る」(p.130)ことを示した最初のマンガだとされる。死にゆく記号的身体を最初に具体化した「キャラ」こそ,二本足で動き言葉をしゃべる「ウサギのおばけ」,耳男である。

 耳男は変装をして活躍する。浮浪児として,大学の技師として。変装のためのアイテムは,帽子にカツラである。他の登場人物たちは「どうもおかしいなア」と訝しみながらも耳男=浮浪児=技師とともに活動する。

 こうしたプロットが可能となるには,キャラのもつ「簡単な線画」という特性が利用されていなければならない。伊藤は,写実的に描かれた耳男の顔にはおそらく毛が密生しているだろうとし,キャラであるからこそそれが描かれずに済み,そのことを利用して帽子やカツラのみの変装が通用していたのだと主張する。

 このように徹頭徹尾キャラであるはずの耳男は,「人間なのだろうか」という苦悩を抱え,「人間ではない」という迫害を受けながら,「人間たろう」と努力し,「ぼく人間だねえ」と言いながら死ぬのである。キャラがかかえる矛盾をリアルに引き受けながらそれをストーリーに組みこむ,するとそこから悲劇が生まれた。

 耳男の死以降,マンガを読む者に起こった不可逆的な変化とは,キャラの強度を否認した上でそこにキャラクターを読むという知覚の成立であったのである。ウサギを写実的に描くことによってウサギのリアリティを引き出すことはできない。読者は,すでにそう読めなくなっている。そこで,コマと言葉だったのである。コマと言葉という表現技法によるリアリティ獲得の道はこうして始まったというわけだ。

 この議論と関連して,伊藤が掲題2冊では触れていない点がある。手塚治虫のいわゆる「スター・システム」である。手塚のマンガを多く読んだ者ならすぐに分かることだが,彼は同じキャラを別の作品の中で別のキャラクターとして登場させることがたびたびある。たとえば,ロック・ホームや,ハム・エッグや,アセチレン・ランプや,スカンク草井や,ヒゲオヤジ。かれらは,どのような登場人物(キャラクター)にもなりうる,同一の図像(キャラ)である。ただ,「どのような人物にもなれる」というのはおかしい。それぞれのキャラにはそれぞれ「ふさわしい配役」が与えられる。たとえばスカンク草井はたいてい悪役だし,ハム・エッグはたいてい小悪党だし,ヒゲオヤジはたいてい人のいい助言者,あるいは狂言回し役だ。そしてそれぞれのキャラはそういう役に「ふさわしい風貌」をしている。

 キャラをこのような形で利用する漫画家は手塚以外にもたくさんいる。藤子不二雄の小池さん,吾妻ひでおの三蔵や不気味が思い浮かぶ。

 さて,スター・システムという謂いは,キャラを「俳優」,キャラクターを「役」と見なすたとえだと言うことができる。木村拓哉というキャラが,新海元(パイロット)や久利生公平(検事)や万俵鉄平(財閥令息)といったキャラクターを演じるのと同じ構造である。ちなみにぼくはテレビドラマをまったく見ない。ここに挙げた役名はWikipediaで調べたものだ。

 マンガにおいて,スター・システムはキャラにキャラクターをかぶせることを自覚的に行うことではじめて可能になる製作技法である。これはドラマ,あるいは演劇と言い換えてもいいだろうが,それと同じ構造となっている。製作者の立場でもそうだが,それを受け止める観客の方も,おそらく同じ心理機制でマンガにも演劇にも感動するのだろうと推測される。演劇を観るわたしたちは,キャラ(=役者)があるキャラクターを演じるものとしてそれを観,また,感動する。同時にわたしたちは,キャラクターを離れたキャラ(=役者)の善し悪しについて話すこともできるわけである。

 そう考えると,マンガについての議論を,演劇に敷衍することはできないか,と思えてくる。ひいては,人が人について判断するその心理的なしくみについてモデル化するのに利用することはできないか。これが,現在ぼくが関心を持っている問題である。

 人間をマンガにたとえるとは不謹慎甚だしいと思われるかもしれないが,現実を考えてみよう。キャラにキャラクターを読むというマンガの読み方を,わたしたちは誰かに教わっただろうか?教わるということはないだろう。それは,わたしたちが自分なりの理解の文法として発見し,学習したもののはずである。そうした発達を可能にする条件が,人間に人格を読むという対人認知のしかたの形成にも寄与していると考えるのはあながち間違いでないように思う。

 マンガとは異なり,実際の人間は姿形がころころと変わる。髪を切ったり,ひげを生やしたり,太ったりやせたり。なにより,赤ちゃんから老人まで成長してしまう。だから,「キャラ」としては本当は失格である。マンガの場合でも確かにキャラが成長することがあるが,そうした場合,ある特徴を残す場合が多い。たとえば『ドラゴンボール』では,孫悟空の髪型は終生変わらなかった(超サイヤ人変身時除く)。

 人間の相貌は変わる。にもかかわらず,わたしたちはころころと姿を変える存在に一貫した人格(=character)を容易に見て取っているではないか。そうしたことが可能ならば,マンガのキャラにキャラクターを見いだすことはだいぶ簡単なことだと想像できる。

 わたしたちは何をもって他者の人格を構成しているのか?こうした問いに,マンガ評論から現れた概念は何かをもたらしてくれるのではないかとちょっと期待している。

037-短歌への武装解除命令

 穂村弘 2007 短歌の友人 河出書房新社

 歌人、穂村弘が2000年から2007年までに発表した論考を集めた歌論集。朝日新聞の文芸時評で加藤典洋が採りあげていたのを見て買った。

 元は『國文學』からウェブにいたるまで幅広いメディアに掲載されていた文章だが、そのテーマにはさほどの変化はない。2000年以降の現代短歌に起きているある一つの動向に注目し、それに対して起きたとまどいと、そのとまどいの起きた理由を書いているのである。

 その動向の一つの側面は、穂村の言う「棒立ち感」である。これは、詠み人の想いとその表現とのあいだの段差のなさ、フラットさを指す。

 たくさんのおんなのひとがいるなかで   今橋 愛
 わたしをみつけてくれてありがとう

 きのうの夜の君があまりにかっこよすぎて私は嫁に行きたくてたまらん   脇川飛鳥

 あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな   永井 祐

 引用したのは、穂村弘が「棒立ち」を例示するときに挙げたもの数首である。最初の歌は加藤典洋の時評にも採りあげられていて、僕はこれを見て驚いて本書を手にした次第である。

 正岡子規にはじまり、アララギ派に流れ込んだ「普段着の私語り」的な歌風は、戦後の歌人たちによる技法の変革、すなわち「妙な位置での句切れ」や「口語体の使用」や「虚構を詠むこと」を呼び込んだ。そこには、穂村によれば、文語体という形式の惰性にあらがおうとする詠み人の「私」の力強さがあった。

 一方で、先に引用した現代短歌には形式に対する自覚のようなものは感じられない。僕の印象では、ひとりごとを数えてみたらたまたま三十一文字になってしまっただけという感じ。では挙げられた歌人たちが伝統について無知なのかというとそうではなさそうだ。かれらの歌集には文語体のものもあり、また戦後短歌特有の技法も用いられているという。つまり、意図的なものなのである。これを穂村は「短歌的武装解除」(p.70)と呼ぶ。短歌の伝統が編み出してきたさまざまな武器を捨てた、というのである。

「棒立ちの歌」の他方で、穂村が指摘する動向のもうひとつの側面は、「現在」への嫌悪感である。

小さめにきざんでおいてくれないか口を大きく開ける気はない   中澤 系

徘徊老人を人工衛星に監視しゆくを「進歩」といふ   小池 光

あそび子が夢中か否か評価する名門私立幼稚園あり   池田はるみ

 いずれにも、詠み人のいらだち、諦め、皮肉を読むことができる。それも、直接的に。ここにもやはり、そうした想いとそれを表現する言葉の段差がまったく欠けている。

日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも   塚本邦雄

 1958年に出た塚本邦雄の歌集に見るこの歌の背後には、戦争の影を強く感じる。と同時に日本人を「飼育係り」とあえて呼び(何の飼育をしているのかはあえて書かないが)、「おまえらそれでいいのか」と檄を飛ばしているかのような印象も受ける。現状への抵抗のための武器、それが強靱な主体であり、形式の破調であった。まずはしっかりとした、怒れる軸足たる主体があり、それがあるからこそ、技巧も成り立つ。逆に言えば、技巧の顕著さが目立つほど、背後に確固とした想いを感じさせる。

 2005年の塚本邦雄の死、は、戦後と現代を対比させる穂村の動機のひとつくらいにはなっているだろう。しかし、ただ一人の人間の死が動向のすべての決定づけることは現実的にありえない。すでに変化は起きていたのである。それが、先に挙げた動向の二つの側面である。すなわち、現状への怒りではなく嫌悪、その技巧的表現ではなくフラットな表現である。

 言葉の主人として使いこなそうとする強靱な意志を持つ「私」は退場した。いまや現れたのは、言葉の友人として、フラットな関係を結ぶ「私」である。しかし穂村が指摘するのは、まずはオトモダチにならねば生きていけない現代の人づきあいのありようであり、それに疲弊し口をぱくぱくさせている私たち自身のありようである。歌人として、そうした現代をどうこうしようとは考えていない。ただ、そういうものところから生まれたものとしてある歌の鑑賞の作法が示されているのである。

たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔   飯田有子

としとってぼくがおほねになったとき   今橋 愛
しゃらしゃらいわせる
ひとは いる か な

036-正しさのない辞典

エリザベス・マレー 加藤知己(訳) 1980 ことばへの情熱:ジェイムズ・マレーとオクスフォード英語大辞典 三省堂

(以下の文章は、かつてウェブ日記にさらりと書いたものの再掲です。にぎやかしに。)

オックスフォード英語大辞典(OED)の初代(正確には二代目,ということは本書で知ることとなる)主任編纂者である,ジェイムズ・マレー(James Murray)の伝記である。日本でいえば,大槻文彦か新村出か。

著者はジェイムズの孫で,彼にはあたたかく,彼をとりまく人々には冷たく,筆致はいかにも身内らしい。

OEDの最大の特徴は,「歴史主義」と呼ばれるもので,ある単語の用例をAD1150年にまで遡って探し,意味の変遷を実証することにあった。

簡単に言うが実際にはこの基準がマレーや続く編纂者たちを苦しめた。単語の歴史と言っても「語源」ではなく,あくまでも使用例の変遷である。マレーは頑固にも,当時(今もか?)通用していた他の辞書からの意義,語源説,用例の孫引きをいっさい認めず,すべて自分の目で確認してから,紙に意義を書き残した。編纂者による作例もほとんどない。

OEDを辞書の最高峰たらしめているのは,「現在」を書き留めるという,マレーが残した方針である。当時の辞書とは,古典に書かれた用例のみを「良い意義」として,それを英語に残すべきだと考えていた。現在の「日本語の乱れ」論に通じる論旨である。

しかしマレーは,そうした意見に耳を貸さず,”Times”などの新聞や雑誌の記事も積極的に用例リストに加えた。現在がなければ過去もない。あくまでも辞書は,意味の歴史的変遷を列挙するのが目的だ,というのが彼の主張だったのだ。

そのときにマレーを突き動かした最大の疑問,それは「英語とは何か?」だった。マレーは答える,英語と他の言語とのはっきりとした境界などない,と。また,「良い言葉」「良い意義」などない,と。すべての言葉は歴史というひとつの軸をめぐり,あらゆる場所で話されていた,記すに等しい価値を持つものである。

マレーはスコットランドとイングランドの境界地方出身,つまり方言話者なのだった。クイーン・イングッリッシュのネイティブスピーカーでないがゆえに,持つことのできた見識なのかもしれない。

035-役割語とは何か

金水敏 2003 ヴァーチャル日本語 役割語の謎 岩波書店

金水敏(編) 2007 役割語研究の地平 くろしお出版

 久々に、言語学関係の本をぱらぱらと読んだ。

 役割語とは何か?金水(2003)は次のように定義する。

ある特定の言葉づかい(語彙・語法・言い回し・イントネーション等)を聞くと特定の人物像(年齢、性別、職業、階層、時代、容姿・
風貌、性格等)を思い浮かべることができるとき、あるいはある特定の人物像を提示されると、
その人物がいかにも使用しそうな言葉づかいを思い浮かべることができるとき、その言葉づかいを「役割語」と呼ぶ。(p.205)

 上記2冊は、現代日本語における役割語として、以下のようなものを挙げる。ひげを生やした高齢の博士がしゃべる「博士語」(ex. わしが親代わりになっとるわい)、男性特に少年がしゃべる「男性語」(ex. 君、ぼく、~したまえ)、お嬢様が話す「てよだわ言葉」(ex. ~よろしくってよ、滑稽だわ)、中国人が話す「アルヨことば」(ex.
そうある、~するよろし)、軍隊言葉(ex. 自分は、~であります)、美男美女が演劇的に話す西洋人語(ex. おお、ロミオ!)などなど。標準語ですら、役割語でありうる。物語のヒーローは、標準語しかしゃべらない。

 私たちは、こうした形式の変異を手がかりに、話者の人物像を特定することができる。たとえば、現代の日本語話者の大半は、以下の問いに難なく答えられるだろう。これも、金水(2003)からの引用である。

問題 次のa~hとア~クを結びつけなさい。




































a そうよ、あたしが知ってるわ(  ) ア お武家様
b そうじゃ、わしが知っておる(  ) イ (ニセ)中国人
c そや、わてが知っとるでえ(  ) ウ 老博士
d そうじゃ、拙者が存じておる(  ) エ 女の子
e そうですわよ、わたくしが存じておりますわ(  ) オ 田舎者
f そうあるよ、わたしが知ってるあるよ(  ) カ 男の子
g そうだよ、ぼくが知ってるのさ(  ) キ お嬢様
h んだ、おら知ってるだ(  ) ク 関西人

 a~hが役割語、ア~クが対応する人物像である。人物「像」というのは、それが観念的な存在、つまり私たちの頭のなかにだけ存在する人物だから。実際のところ、上に挙げた言葉を実際に話す人にお目にかかることはめったにないだろう。たとえば、仕事柄、私の周りには学位をもつ「博士」がゴロゴロしている。だが、その人たちは、たとえ年を取っていたとしても、「わしが知っておる」とは言わない。中国の方ともおつきあいしたことがあるが、「知ってるあるよ」と言う人はいなかった。さらに、現代に生きる私たちはお武家様が実際にどう話してたか知らないはずだ。この点が、役割語が「ヴァーチャル日本語」と呼ばれるゆえんである。


 したがって、私たちが役割語と接するのは、現実の、日常的な会話の場ではない。金水らが役割語渉猟の場としているのは、もっぱら小説やマンガといったフィクションの世界である。特にマンガなど子ども向けの読み物にはこれら役割語がふんだんに用いられている。


 私たちは、役割語をどのようにして知るにいたったのか。このことを説明するのに金水(2003)は幼少期の環境、特に子ども向けにつくられた読み物やアニメなどが決定的な影響を及ぼしているのではないかと述べる。そうしたものを通して、子どもには人を判断する際のカテゴリーが形成され、それが社会心理学者デヴァインの言うところの「文化的ステレオタイプ」の一部を構成する、という仮説である。管見では、今のところ、この仮説に直接アプローチする研究はないようである。ごくごく素朴に、幼稚園から小学生くらいにかけての日本の子どもたちに、上に挙げたような質問をするとどのような解答が返ってくるか確認するだけでもおもしろいかもしれない。


 さて、こうした役割語はどのように形成されたのか?現代の日本における通常の会話には見られないのに、フィクションの世界には豊かに存在するのはなぜか?この点については、金水(2003)が歴史的な跡付けを試みており、おもしろい。


 たとえば博士語の特徴である「~じゃ」「知らん」「知っとる」といった形式は、現代の西日本方言の特徴と似ている。このことから、金水は江戸時代における上方方言と江戸方言の対立に、博士語の起源を見ている。かつての江戸は、さまざまな地域から住人が流入した方言雑居地域であった。1760年代以降、東国の言葉をベースにした江戸語が若い町人階層に形成されたが、それにともない、上方から移り住んだ移民第一世代の言葉が武家の言葉、あるいは年寄りの言葉として標識化された。つまり、方言間の差異が、階層間の差異へとスライドしたわけである。 


 また、てよだわ言葉は、現代ではお蝶夫人のようなお嬢様を指標するのに用いられるが、もとは下町の階層の低い女性の使う言葉だった。これが若い女性の間での話し言葉となったのは、明治期以降、女学校が普及したためである。


近年女学の勃興するに従ひ比較的下流社会の子女が極めて多数に各女学校に入学するに至りしより所謂お店の娘小児が用ゆる言語が女学生間に用ひらるゝに至れること左に掲ぐる例の如し

○なくなつちやつた○おーやーだ○行つてゝよ○見てゝよ○行くことよ○よくッてよ

(1905(明治38)年3月16日『讀賣新聞』 金水(2003) p.149)


 博士語にせよ、てよだわ言葉にせよ、これらは当時においては実際に話されていたものであった。実際に話されていたからこそ、小説などフィクションの世界に入り込めたのである。ところが後に、現実における使用は消滅した。一方でフィクションには根強く残った。これが、役割語がフィクションにしか見られない理由として考えられることである。


 では、現代の日常会話で役割語的な言語運用がなされないかというとそうでもない。たとえば、職業カテゴリーと結びついた役割語であれば、普段耳にしているものも多いのではないか。思いつくのは、「~でよろしかったですか」「~円からのお返しとなります」など、いわゆる「ファミコン言葉」は、ぼんやりとではあるが、ある人物像と結びついていないだろうか。


 現代の日本語運用において役割語的なものが見られるのかどうか、それはどのような役割と結びついているのか、いったいどのような場面で使用されるのか、こうした社会言語学的な観点から役割語という問題にアプローチしていくのもおもしろいだろう。


 あるいは、バフチンのいう「メタ言語学」とのからみで考えていくと、もう少し深みのある問いを出していくことができるかもしれない。心理学的にもおもしろい題材となるだろうと思う。

034-「僕たち語り」と「おとな陰謀史観」の甘い関係

堀井憲一郎 2006 若者殺しの時代 講談社

 堀井憲一郎『若者殺しの時代』(講談社新書)を、通勤電車の中で読んだ。

 かつてテレビで見た堀井憲一郎は、素朴な疑問に独自に調査したデータを用いて検証するというスタイルを売りにする、ユニークなコラムニストであった。今でもそのようだ。そのユニークさは本書でもちらりと見ることができる。

 本書にはいくつかデータが登場するが、著者「らしい」ものを挙げれば、こんなところがおもしろかった。

  • 女性誌・男性誌クリスマス記事の変遷
    • 1970年アンアン「2人だけのクリスマス」
    • 1983年アンアン「クリスマス特集 今夜こそ彼の心(ハート)をつかまえる!」
    • 1987年ポパイ「クリスマス、今年こそ決めてやる」
  • 月9トレンディドラマでの携帯電話使用場面の変遷
    • 最初に使った俳優→石田純一:1989年1月『君の瞳に恋してる!』(ただし自動車電話)
    • 携帯電話同士による最初の通話場面→1995年『いつかまた逢える』
    • 最初の折りたたみ式ケータイ使用→中山美穂:1996年『おいしい関係』
  • 週刊文春ミステリーベスト10国内部門に入った本の”重量”の変遷(ページ数ではなく、”重さ”というのが、いい)
    • 1983年6冊平均404.0g
    • 2000年10冊平均522.9g

 いずれも、当時の雑誌や録画してあるビデオをかたっぱしからすべて見た(あるいはバイトに見てもらった)り、あるいは本を実際に秤に乗せたりして調べたもの、だそうだ。調査内容はばからしいが、きちんとやろうとしたら、案外こういう調査は難しい。

 こういったサブカル関連の調査をする際、ソースが雑誌や本であれば、国立国会図書館に行くことでなんとか調べがつく。しかし、テレビ・ラジオを媒体とするコンテンツについては、いったん放送されたものをソースとすることが難しい。そういうとき、ビデオに録画したものをきちんと残しておいてくれている人がいると大変助かる。著者はどうも月9ドラマを4作目からすべて保存してあるようで、そういうマニア的な努力は大事だと思う。最近では、Youtubeやニコ動など動画共有サイトに、えらく昔のテレビ番組が投稿されていることがあり、あるところにはあるんだなと嘆息する。

 さて、本書のタイトルはえらく物騒である。その含む主張は以下のようにまとめられる。1980年代のある頃から、未熟な大人を「若者」としてカテゴライズした上で、かれらの生活をえらく金のかかるものに仕立て上げ、スーツを着た「おとな」がかれらから金を巻き上げることを通して日本経済が動いてきた。その過程を通して、「若者」と呼ばれる人たちは、便利な生活は送れるが何の目標も持てず、かといって何もせずにいると「おとな」から怒られるという状態に追い込まれた。

 言っていることはどこかで聞いたことのあるようなものであり、新鮮味はない。また、著者の経験とその周囲に起きた出来事を具体的な例として話が進んでいくので、日本社会全体についての主張としては説得力はまるでない。

 それでも本書をおもしろいなと思うのは、ひとつは先程述べたように、一次データを自分で集めるという姿勢。もうひとつは、「僕」や「僕たち」という一人称的な語り方と、「おとな」批判という内容とがぴったりと結びついていること。著者自身があとがきでふりかえるように、これは一つの「書き方」である。おそらく、自らの置かれた状況を作り出したなんらかの外的な力を対象化した瞬間に、「僕たち」というどことなく弱さのともなった共同体的な人称が妥当性を持ったのではあるまいか。

「おとな」なるものは具体的な者でも物でない。「おとな」的な側面を内面化し、表現する者はいる。同様に、「若者」的、さらに言うなら「こども」的な側面を表現する者もいる。ある種の社会学の伝統に従うなら、こども、若者、おとなは、いずれも特定の社会的場面で妥当性を持つカテゴリーにすぎない。

 きちんと書く準備はないが、たとえば「”僕たち”という人称を用いた、おとな陰謀史観」とでも名付けられるような語り口があるのかもしれない。この語り口は、「おとな」という圧倒的な力を持つ存在の陰謀により、「僕たち」が迫害を受け、現在ひどい暮らしをしている、というストーリー構造をもつものと考えられる、かもしれない。ここでの「僕たち」とは、少なくとも本書の文脈では、「若者」の代名詞と考えてよい。

 要は、世代間の対立をある種の語り口によって構成されているものとして見ることができる、ということである。さらにおもしろいのは、そういう見方自体が、とっても80年代的なもののように思われることだ。本書の場合、本文とあとがきとの関係が80年代的である。つまり、本文の方で「おとな」対「僕たち」の対立を例証しておいて、あとがきで「でもそれは語り口だからね」とひっくり返す。この「なーんちゃって」的態度がぼくには80年代的に見える。

「なーんちゃって」以後に「若者」あるいは「おとな」になった人たちは、これでは途方に暮れるしかない。ひっくり返ったちゃぶ台は誰が片付けるのか。いまだに「なーんちゃって」でしか語れない著者でないことは確かだ。

033-タテとヨコから遊びを見る

ロジェ・カイヨワ 多田道太郎・塚崎幹夫(訳) 1990 遊びと人間 講談社

 私たちは、遊びについて何か知っているような気がしている。しかし、その「知っている」の中身について述べることはなかなか容易ではない。

 たとえば、遊びは子どもの日常生活に結び付いているような気がするものの、大人だって立派に遊んでいる。また、遊びの対極には真面目があるような気がするものの、遊びに没入するさまは真面目と呼びたくなる。

 かようにとらえどころのない対象を論じる際には、まず常套手段として、対象の範囲を確定することから始めることが多い。要は、定義である。

 カイヨワも遊びを定義することから始めた。彼によれば、遊びとは次の6つの側面をもつ。(1)自由な活動であること、(2)時空間的に明瞭な境界をもつこと、(3)先が読めないこと、(4)生産的ではないこと、(5)規則があること、(6)虚構であること。世に遊びと呼ばれる活動はこれら6項目において現実にあるその他の活動と区別される、と彼は言う。遊びとは、現実の世界から「隔離された活動」(p.89)なのである。

 定義によって他の活動から区別された遊びは、分類作業に移される。カイヨワは、ここでかの有名な4類型、すなわちアゴン(競争)、アレア(運)、ミミクリ(模擬)、イリンクス(眩暈)を、そしてそれぞれに共通するタテの軸として、パイディア(遊戯)とルドゥス(競技)を設定した。パイディアとは奔放な気散じ、ルドゥスとは我慢を要する規律正しさを、それぞれ概念化する言葉である。カイヨワによって提起された分類にしたがって整理すると、以下の表のようになる(p.81の表1を改変)。

         アゴン       アレア      ミミクリ     イリンクス
パイディア  取っ組み合い   じゃんけん   ごっこ遊び   ぐるぐる舞い


ルドゥス   スポーツ競技      くじ       演劇      スキー

 さて、問題はこの分類表の使い方なのである。

 ひとつには、現実に起こった遊びがこの分類表のどこに当てはまるのか検討することが考えられる。たとえば、ベーゴマはアゴンとアレアの中間でルドゥス寄り、シンナー遊びはパイディア寄りのイリンクス、といったように。

 この使い方は、現状の整理にはたいへん役に立つ。言ってみれば、遊びの現在を水平的に横断する視点を提供する。

 もうひとつ、この表は何かの変化を説明するモデルの下地にも使える。どういう現象がそれに当てはまるのかはともかくとして、たとえば、イリンクスからミミクリへ、そしてアレアからアゴンへという発展のプロセスをたどる何かがある、といったように。

 この使い方は、言ってみれば、遊びの歴史を垂直的に縦断する。

 カイヨワは、横断と縦断を同時におこなおうとしたわけだ。文化史を遊びから読み解き直した偉大な先人ヨハン・ホイジンガを受け継ぐにあたり、この表をもってその任に当たろうとしたのである。

 横だけを見てもいけない。それだと、ある時代に何が遊びであり、何が遊びでないのかは分かるかもしれないが、その境目にはたらく動きが分からない。また、縦だけを見てもいけない。それだと、かつて大人が大真面目に執り行っていた社会的活動と、現在の子どもの遊びとの形式的類似を比較することはできるが、似たものがなぜ現代において残存しているのかを説明できない。これについてカイヨワはこういうことを書いている。

「遊びの縦の歴史、すなわち、幾時代にもまたがる遊びの形態変化-典礼が輪舞に終わる運命、魔術の道具や崇拝の対象物が玩具になる運命-は、これらの細々とつながってきた血縁関係を発見した碩学たちが予想したほどには遊びの本質について教えるところはなかったということだ」(p.118)。

 よく似た形態をもつ現実的活動と遊びとは、同時代に併存しうる。カイヨワによれば、「まじめな活動の〔機能の〕退化によって子供の遊びが生まれたのではなく、むしろ二つの違った分野の活動が同時的に存在するということではないか」(p.116)。

 この、同時代的な併存のありようと、歴史的な発展の軌跡とを、同時にながめるパースペクティブが必要なのだと、カイヨワは言っているようだ。

 さきの4分類にしたがえば、確かに現代の私たちの生活にはいずれにも該当する活動は存在する。しかし、それぞれのもつ社会的な機能が、時間を追って変化してきた、カイヨワはこのように言う。「いわゆる文明への道とは、イリンクスとミミクリとの組合せの優位をすこしずつ除去し、代わってアゴン=アレアの対、すなわち競争と運の対を社会関係において上位に置くことであると言ってもよかろう」(p.166)。

 このようにしてカイヨワは、人間の精神史を突き動かしてきた動力を、遊びとして湧出したものの形式の中に見出そうとする。現実的活動と遊び活動とを共通して生み出す力を問おうとするわけだ。そうすることによって、おそらく究極的には、ある文化でのどの遊びを見れば、その文化での現実的活動の本質が分かるのか、という問いを提出し、それに答えようとしたのだろう。

 蛇足だが、本書に収められた補論に、心理学における遊び研究の検討がある。そこではピアジェの研究にも触れられており、遊びにおける子どもたちの約束が、後の道徳の形成に重要な役割を果たすという彼の指摘に賛意を示している。

 しかしカイヨワは、ピアジェが遊びにあるアレア(運)の側面をすっぱりと切り捨てた(というよりも、はじめから見ていなかった)ことに不満を述べる。たとえば、ある種の歌遊びでは、鬼役の割り当てと交替が不可欠の要素であるが、状況に応じて「たまたま」鬼役になるから参加者はそれを引き受けるのだろう。これがもしも、男が鬼の役、女が逃げる役といったように、遊びの外にある現実的属性と結びついた必然的役回りであったとしたら、まったく楽しくないのではないか。あくまでも、遊びの範囲内において、予測のつかない出来事として現れるから、さらに、そのうち誰かと鬼を交替するという期待があるからこそ鬼役は引き受けられるのだろう。

 この、規則の枠内における偶然の要素をカイヨワは無視せずに概念化したことは、なにかとても大切なことだったように思う。

032-第三の性

橋本秀雄 2000 性のグラデーション:半陰陽児を語る 青弓社
橋本秀雄 2004 男でも女でもない性・完全版:インターセックス(半陰陽)を生きる 青弓社
大谷幸三 1984/95 ヒジュラに会う:知られざるインド・半陰陽の社会 筑摩書房
石川武志 1995 ヒジュラ:インド第三の性 青弓社
セレナ・ナンダ 蔦森樹 カマル・シン(訳) 1999 ヒジュラ:男でも女でもなく 青土社

 萩尾望都の名作『11人いる!』には、フロルという名の(地球人から見れば)異星人が登場する。その故郷の星では、人は皆生まれたときには男でも女でもない姿だという。外性器が未分化な状態で生まれ、二次性徴期に単性へ変化する。ただし、男女の人口比を一定に保つため、長子以外が二次性徴期に入ると女性ホルモンが注射され、強制的に女性化されるのだという。フロルはホルモンをうたれる前の姿なのだった。

 ぼくたち地球人の場合、性腺および内性器、外性器の分化は胎内にいるあいだに起こってしまう。これが出生時から見ることのできる一次性徴で、二次性徴はその延長線上にある。フロルのような、性に関するモラトリアムは、地球人には用意されていない。

 だからなのか、性別をみずから選ぶこと、選ぼうとすることに対して、ぼくたち地球人の見る目はなぜか厳しい。逆に、性を選んだ人も、それに手を貸した人も、そのことを隠そうとする。

 ところで、ここで言う性とは何なのか。

 フェミニズムの議論を一通り通過してきたぼくたちにとって、性概念とは、セックス、セクシュアリティ、そしてジェンダーといった側面に分けられ、それらが複雑にからみあってできているものだ。そう信じていても、信じていなくても、人間にはオスとメスしかありえず、オスはメス、メスはオスを求め、オスにはオス特有の、メスにはメス特有の性質が生得的に備わっている、という主張を単純に認めるわけにはいかない。いずれにも反例が見つかるからだ。同性愛指向はセクシュアリティの側面における、メスの気質を持つオスはジェンダーの側面における、それぞれ反例だ。では、人間にはオスとメスしかない、という主張には?

 半陰陽と呼ばれる人たちがいる。胎内で性腺が分化する際に、ちょっとしたタイミングや成長の加減によって、外性器形態からは男女の区別がつきにくくなった人を言う。ギリシャではヘルマフロディトスという神がその姿に描かれ、日本ではふたなりと呼ばれた。外見や性腺検査の結果では、オスメス両方の特徴を持つ、あるいは持たない。オスメスとは互いに互いの成り成りての部分を持たないことによって定義されるのだとしたら、半陰陽と呼ばれる人たちはその定義から漏れることとなる。このことが、先の、人間にはオスとメスしかいないという主張の反例となる。

 インドには、ヒジュラと呼ばれる人たちが、少なくとも1980年代には4、50万人ほどいた。ヒジュラとは半陰陽の謂いである。真性半陰陽として生まれた人も中にはいるが、多くない。ほとんどは男性器を持って生まれ、二次性徴期にみずからがヒジュラであることに気づき、ヒジュラコミュニティに入る。ヒジュラとして生きていく決心がついた後に、去勢手術を受ける。

 ヒジュラは女性の着る服をまとい、結婚式や新生児誕生の祝いをして歩く。そうした門付け芸のほか、喜捨も重要な収入源であるが、都市部では売春をして糊口をしのぐ者もいる。ヒンドゥー社会の悪名高きカースト制の内からもはじき出されたこの社会集団は、その分、非日常の文化的空間にしっかりと根を張り、貪欲にそこを利用しまくっている。呪いなどなんらかの超常の力とヒジュラとが結びつけられるのもそのためだ。

 日本にも、女の子になりたい男の子だって、男の子になりたい女の子だって、いる。実際に外性器整形に踏み切る人も、いる。そうした人たちを、オカマとかオナベとかニューハーフとかトランスセックスとか言うわけだが、ではヒジュラも同じようなものなのか。

 どうやら、ちょっと違うようだ。オカマやオナベは、オカマやオナベになりたいのではなく、女や男になりたいのである。いや、あろう。しかしヒジュラは、女になりたいのではなく、ヒジュラになりたいのだ。あるいは、そもそも彼/女らは生まれつきヒジュラだったのだ。

「…もちろん、最初は戸惑ったけど、私がヒジュラであることはまぎれもない事実。この運命を素直に受け入れることにしたのです」(石川、1995、p.56)

「私は生まれたときからヒジュラです。ヒジュラになったんじゃない。もっともっとヒジュラになりたい。だから去勢したんです」(大谷、1984/95、p.119)

 ここが、男/女二分法的カテゴリーしか持たないところと、男/女を超えたカテゴリーを持つところとの違いである。前者において、オスとして生まれ、男として育ちながらも、性指向が男性であるなら、自己を男と規定できない以上、女になるしかない。なにしろ分類枠は2つしかない。ところが後者においては、性指向が男性であっても、女になる必要はない。オルタナティヴは複数用意されているのである。ここが面白いところだ。

 ただし、ヒジュラが「男/女を超えたカテゴリー」だとしたとき、また不思議な問題が出てくる。オスメスの対立軸を超えているジェンダーアイデンティティには、メスも接近可能であるはずだ。しかしヒジュラになるのはオスが大半なのである。これでは、男女を超えたカテゴリー、と言うよりも、男だけが特権的にトランス可能なジェンダー、と言った方が適切ではないか。インドでは女性は性を変えることすらままならないほど抑圧されているのだろうか?

 また、ヒジュラはほとんどが女性の着るような服を着ている。ヒジュラ専用の服装というのが、とりあえず現代では、存在しないのだ。また、言語的に見ると、女性特有の言葉づかいを採用しているらしい。したがって、ヒジュラ自身が自分は女ではなくヒジュラになのだと言っていたとしても、それは結局のところ、表面的にはオスが女性の姿を取ることでしかない。

 なぜ、メスがヒジュラにならない、あるいはなれないのか。この問いを解かない限り、男女を超えた性としてヒジュラを捉えることはできない。この問いに答える手がかりは、ヒジュラについて日本語で書かれたたった3つの文献に不思議とまったく出てこない女性の姿を、インドの現実の世界に追うしかないのだろう。

031-教育の「場」を論じる

柳治男 2005 〈学級〉の歴史学:自明視された空間を疑う 講談社

 『8時だヨ!全員集合』を生で見た最後の世代に当たる。親が見せてくれなかったので、祖父の部屋のテレビで見ていた覚えがある。荒井注はすでに抜けていて、ぼくが見たときにはすでに子どもの人気は加藤茶ではなく志村けんに移っていた。腹がよじれる、おかしくて息ができない、という経験はあの番組を見ていたときが最初で最後ではなかったか。それくらいおかしかった。

 番組前半のコントのうち、好きだったのは「幽霊屋敷もの」であった。家のあちこちから現れる幽霊に志村だけが遭遇し、ほかのメンバーからオオカミ少年扱いされるというものだった。会場(全員集合は公開生放送だった)に来ている観客から、「志村、うしろー!」と声が上がるのは、こういうコントのときだった。志村が歩いているうしろに幽霊がついて回っているのである。彼の、振り返った表情、逃げまどうときの格好、そのタイミング、いずれも絶妙で、もう本当に涙が出るほど笑った。

 ドリフのコントと言うと、しかし、どうも一般には「学校コント」の受けがいいようだ。いかりや先生に、メンバー4人が生徒、ゲストの女性歌手が女生徒という設定のものである。なぜか男がみな長袖半ズボンの小学生風なのに、女生徒はセーラー服だった。かつて紅白にドリフ揃って出演したときも、確か学校コントを披露したように記憶している(記憶があいまいなので、違っていたらご指摘ください)。

 ドリフの学校コントは、学校というフォーマットを一種のパロディとしたものと考えることができる。たとえば、いかりや先生が問いを発し、女生徒がまじめに正答する。これは前振りであり、次に指されたメンバーがお馬鹿な回答をするのが学校コントの基本的なプロットである。質問-回答とは、学校に特有のコミュニケーション・フォーマットであるが、コントではまさにそこが抽出され、利用されているのである。

 コントには、すべての視聴者がイメージとして持つ、典型的な学校の姿が反映されているのだろう。だからこそ視聴者が見て笑うのだし、そのことがひいては学校コントの人気の高さにつながっていくのだろう。質問-回答フォーマットはそうしたイメージのひとつである。

 しかしもっと視点をひけば、コントの舞台そのものが、学校というものに対して現代の日本にいるわれわれの抱くイメージを具現化している。舞台下手に黒板を背にして先生が立ち(これはテレビで教室を映す際の基本的なアングルなのである)、机を前にして生徒が全員同じ向きにいすに座る。教室内にいる全員が同じ進度で授業を受け、時間が来たら一斉に始まり、そして終える。そこは壁と廊下で区切られたひとつの部屋であり、教師と生徒がともに半日間の生活を送る。ドリフの学校コントはいずれをも備えており、われわれはそこに学校のイメージを見て安心するのである。これが理科室や体育館では学校コントにならない。あの教室の形、そして教室内の社会・制度的な陣形が、学校コントには必要なのだ。

 誰もが知っていて、コントでパロディ化される、学校の社会・制度的基盤たる「学級」は、どのようにして「誰もが知っている」状態になったのか。学級が自然の造形ではない以上、誰も知らなかった時代もあったはずであるし、それを作った誰かもいるはずである。本書は(ソデの紹介によれば)教育社会学を専門とする研究者による、学級が成立するまでの過程を追った文献渉猟の結果である。

 時代は19世紀にさかのぼる。イギリスはロンドンの貧民街に、ジョセフ・ランカスターなる青年が作った学校にはひとつの特色があった。それまでの学校では、大きな部屋に学校中の子どもたちを一堂に集め、一人の教師が彼ら全員を教えるというのが通例であった。ところがランカスターは、教師と生徒の間に「モニター」と呼ばれる役割を置いたのである。生徒に対する直接指導は複数のモニターが行い、教師は彼らを指導した。モニターを任されたのは、子どもたちの中でも年長の、すでに教科内容を習得した者であった。

 当時の教科内容は、いわゆる「3R」、すなわち「読み書きそろばん(Reading, wRiting, aRithmetic)」に限られていた。これらはさらに、単位の大きさや規則の包含関係にしたがって学ぶ順序が定められた。たとえば読み書きならば、文字に始まり、短い単語から長い単語へ、そして文章へと至るステップがあらかじめ設定された。計算でいえば、足し算、引き算、掛け算、割り算、そして三角法といった具合である。

 ランカスターの学校では、こうしたステップは、モニターと生徒とを組み合わせるためのリソースとなった。まず、生徒がステップに応じて習熟度別に分けられた。入学したばかりの生徒は、はじめ足し算を学ぶよう割り当てられ、それをマスターしたら引き算の学習へと移る、といったふうである。あるステップの学習内容をマスターした生徒の中には、そのステップを担当するモニターとなる者がいた。モニター役を担ったのは生徒だったのである。

 この、習熟度ごとに分けられた生徒の集団と、彼らを指導するモニターという1セットが、こんにちわれわれの社会に普及した「学級」の始まりである。このあたりの事情は、教育史の分野では「ベル・ランカスター法」という教授システムの成立として語られる。なお日本では、習熟度別に生徒を編成するやり方は明治5(1872)年の「学制」において採用されている。

 本書のポイントと関連して重要なことは、子どもをある程度の人数のまとまりに分け、彼らに対してあらかじめ設定された均一の内容を提供するという教授法が、きわめて限定された教科(3R)の教授を目的として開発され、実施されたということである。そしてまた、経済的な効率性を追求した結果、そうした方法が選ばれたということも重要だ。

 なぜ重要なのか。その後のイギリスや日本で、学級編成方法のたどる変化を追うと、そのことが分かる。大きく2つの変化があった。第一に、習熟度別学級編成から年齢別編成へという変化、そして第二に、学校の教化対象が子どもの道徳的感情へと拡張されたという変化である。

 まず第一の変化について。われわれにとってはなじみ深い「学年」という概念がイギリスに登場したのは、1862年の改正教育令以降であった。ランカスターがモニター制度を提案してから60年近く経った頃である。この変化の背景には、学校が全国的に普及したこと、政府がそれに対して補助金を出したことがある。改正教育令では、補助金がまっとうに使われているかどうかを確認するため、全国の学校へ監督官が政府から派遣され、指導の効率が査察対象となった。

 ここから、全国の学校の経営効率を同じ基準で比較する必要性が生まれた。この必要性を満たすべく生まれたのが、まず教科内容を全国で統一すること、そして、一定の期間で生徒がその教科内容をマスターした程度を経営効率の指標とすることであった。教科内容は6段階に分けられ、それぞれの1年間の学習期間が設けられた(計6年間の就学期間があったことになる)。それまでは、生徒がより高度な学習内容に移るのは、それをマスターしたときであった。ところが、改正教育令の結果、マスターしようがしまいが、移動の機会は同一時期に定められたのである。本書はここに学年制の誕生を見た。

 第二の変化は、学級が生徒に対する道徳的訓練の場となったことである。実はこれは第一の変化とも関連している。習熟度別学級編成の場合、教師と生徒の関係は目的的、一次的なものである。生徒が教師の担当する教科内容をすべて学んでしまえば、次の学級へと移ることとなり、それきり彼らの関係は切れる。ところが1年間という短くもない期間を強制的に過ごすこととなると、話は違ってくる。集団を維持するには、それを支えるだけの別の目的が必要となる。本書はこれを、教師と生徒とのあいだの「司牧」的関係の成立に見た。

 司牧とはキリスト教で言うところの、迷える羊としての信者を宗教指導者が導くことを指す。つまり、教師は原罪説に基づき、放っておけば悪人になってしまう子どもを救済する他愛的な感情を持ち、3R以外の生活にも介入を始める。同時に生徒も、教師の下で自分を律する。こうした関係は、授業時間だけでなく寄宿舎への入寮を通して朝から晩まで教師と生徒がひとつところで生活するパブリック・スクールを想像すると分かりやすい。

 かつての学級は、社会生活を送る上で基礎となるスキルを習得させるため、経済的事情を鑑みた場合の最適解として誕生した。ランカスターの学校は、いかに安い授業料で、多くの子どもに適切な指導を行うか、こうした問いに対する解答だったのである。

 ところがこの解答は、いずれ問いに変質する。つまり、いかにして学級を維持するのか、という問いである。学校を維持するには、政府から突きつけられた、生徒の成績向上という要求をクリアし、補助金を獲得しなければならない。こうして学年別編成という解答が生まれる。また、無関係な人間同士、1年間もの長きにわたり顔をつきあわせるためには、感情の統制という仕組みが必要となる。

 著者が一番に言いたい点は、おそらくここだろう。何を教えるべきかという問いと、どこで誰がどうやって教えるべきかという問いは、かつては不可分なセットだったのだ。ところが現代の教育政策は、前者のみを扱い、後者を背景に置いてしまった。だから、教科内容を減らす減らさないが議論の対象となっても、学級それ自体に手をつけることはなかなかなされない。ドリフの学校コントは、教室ではなく、教科内容をパロディの対象とした。このことの意味は小さくないと思われる。

 もちろん、学習内容に応じて子どもを組織しようとする動きはある。私立校や塾ならば、習熟度別学級編成や少人数制は現在でも実現しているし、公教育でも少人数学級や複数担任制、飛び級制度、小学校での教科担当制など、テストケースを終えて全国的な実施に向けた動きも聞く。しかし、何を教えるべきかという問いと、どこで誰がどうやって教えるべきかという問いとを、つながったものとして行おうとする議論はなかなかできないでいる。

 歴史が提起するのは、具体的な解決方法ではない。議論の仕方なのである。