039-被験者ってぼくのこと?

マイケル・シーガル 鈴木敦子・鈴木宏昭・外山紀子(訳) 1993 子どもは誤解されている:「発達」の神話に隠された能力 新曜社

(以下の文章は、かつてウェブ日記にさらりと書いたものの再掲です。にぎやかしに。)

 子どもの認知発達研究を開拓したピアジェとその後継者たちの実験方法について,語用論的な視点から批判を加えたもの。

 たとえば子どもに2つのビーカーに入った水を見せる。ビーカーは同じ形,水量も同じ。続いて,底面積が小さいが背は高いビーカーと,底面性が広く背は低いビーカーにそれぞれ移し替える。ここで子どもに,どちらの方が水の量は多いかと尋ねる。すると子どもは,同じ量だった状態を見ていたにも関わらず,「こっち」と一方を指さす。

 これは「ピアジェの保存課題」として知られるもので,この結果から,ピアジェ派心理学者は,子どもは量の保存ができずに主観的な見かけに判断が引きずられてしまう,ひいてはアタマの中での操作が困難だ,と解釈してきた。

 ところが,われわれが日常的に行なう会話では,こうした質問は何か特別な意図があってなされたものだと判断してしまうようなものだ,というのがシーガルの指摘だ。

 シーガルはこのような実験場面で子どもが失敗する原因について,5つのあり得る候補を指摘する。

 (1)不確かな場合は反応を変更する(大人はなんでも知ってるはずなのに,質問をするということは,きっと自分の考えていること(それが実は正解かもしれないのだが)を越えた何かがあるのかも…,と子どもは思う)
 (2)不誠実さ(実験がいやなので,適当な答えを言って切り上げようとする)
 (3)面白すぎる課題(大人がこんなばかげたことを聞くなんて,きっと子どもっぽい答えを期待しているに違いない,と子どもが思う)
 (4)実験者への信頼(大人は間違ったことや子どもを害するようなことを言ったりしたりしない,と子どもは考える)
 (5)使われる言葉(「同じ」という言葉の意味が,大人と子どもとで共有されていない)

 実際に,これら(1)~(5)の可能性を排除した実験をした場合,子どもは適切な回答をするようになったという。被験者は実験者の思惑の内側だけで行動するわけではないという,言われてみれば実に当たり前なことだが,それを再認識させられた。

 そもそも,実験者と被験者というカテゴリーは,ある状況を「実験」としてとらえている人間が,そこに参加する人びとを同定するのに用いる言葉だ。その状況を実験とは見ない人間からすれば,そこにいる人びとは「大人と子ども」であったり,「先生と生徒」であったり,「男と女」であったりするかもしれない。そして,私たちは自分の行動をそうした社会的カテゴリーにふさわしいものとなるように常に気を遣っている。

 とすれば,実験に参加する子ども自身がその状況をどのように捉えているのか,そのこと自体をもう一度問い直す必要があるのである。なぜなら,子どものパフォーマンスが,果たして認知能力の反映なのか,それとも社会的な役割カテゴリーに適切な行動の選択の結果なのか,このままでは決めかねるからだ。

 紹介されている実験自体はシンプルで,それでいて結果が見事に出ているものばかり。非常に参考になる。

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