038-マンガと心理学におけるキャラとキャラクター

伊藤剛 2005 デヅカ・イズ・デッド:ひらかれたマンガ表現論へ NTT出版
伊藤剛 2007 マンガは変わる 青土社

 マンガ評論の領域がとても元気である。そうした中で「萌えから生まれた新しいパラダイム」(東浩紀)としてとりわけ名高い伊藤剛の2冊を読む。

 マンガはなぜ面白いのか。従来,この問いにはマンガのストーリーの解題が充てられていた。ストーリーが,登場人物が,読者にとってある種のリアリティを持つがゆえに面白いのである,と。

 確かにそうだろう。しかし,ストーリーや登場人物は,文学にも演劇にも映画にも現れる構成要素だ。それをマンガに固有の面白さの根本的な起源とすることはできない。私たちは他のメディアでは得られない面白さを求めてマンガを読むのではないか。それは何か。伊藤は,この問いに対して,マンガ固有の表現論を打ち立てることによって答えていく。

 マンガはただの絵ではない。マンガは絵の連続をある手法で見せ続けることにより,そこに時間を生みだす。生みだされた時間が,絵の連続にストーリーを「読む」ことを可能にする。そうしたことができるのは,マンガが「コマ」,「言葉」,そして「キャラ」の3つの要素から構成されているからだという。そのようにとらえた上で,伊藤はそれぞれがマンガのリアリティを担うものとする。

 伊藤(2005)における論の見通しは,以下のようにまとめられるだろう。すなわち,日本の近代のマンガは,「キャラ」のもつリアリティに頼らずに,「コマ」と「言葉」によってストーリーと登場人物のそれぞれにリアリティをもたせようとしてきた。言葉はそれを語る登場人物に内面を形成し,コマによるフレームの切り方は背後に一台のカメラが存在するかのような読みを生みだした。一方で,いがらしみきお『ぼのぼの』を分水嶺として,最近では「キャラ」のもつ特質からストーリーを作りあげていくという手法が現れている。

 論の中で重要な位置を占める概念である「キャラ」という言葉。キャラとは何か。「キャラクター」と何が違うのか。キャラとキャラクターの区別,ここが伊藤の議論のポイントとなる。

 キャラは以下のように定義される。

多くの場合,比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ,固有名で名指されることによって(あるいは,それを期待させることによって),「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの(p.95)

 キャラは,複数のエピソードにまたがって登場する人物が同一であることを指し示す機能を持つ。読み手は異なった絵を同一のものとして認識する。これにより,非連続的なものに連続性が与えられる。ちなみに,月刊IKKI(小学館)連載中の相原コージ・竹熊健太郎『サルまん2.0』では,キャラとは「キティちゃんだーっ」と看破されていた。

 キャラは図像としての「強度」をもつ。同じ作品の異なるコマに現れても同一の対象を描いていると分かるような存在感。さらには,作り手の異なる複数のテクストに現れても,要は描かれ方が変わってしまっても「それ」と分かるような「同一性存在感」。それが強度である。存在感が強ければ,二次創作やパロディ,アイコンとして利用可能となるわけだ。最近では「初音ミク」が強度の強いキャラであろう。なにしろ,緑の髪を両脇で結んでいればなんでも「ミク」なのである。

 さて,キャラに対して,キャラクターは以下のようなものとして示される。

「キャラ」の存在感を基盤として,「人格」を持った「身体」の表象として読むことができ,テクストの背後にその「人生」や「生活」を想像させるもの(p.97)

 重要な点は,キャラを定義してはじめてキャラクターがどういうものかが分かる,という順序である。言い換えれば,キャラクターとキャラの関係は,キャラの上にキャラクターが成立するといったものである。

 マンガをめぐって私たちは,登場人物について語り,登場人物の生き方に影響され,さらには登場人物を生身の人物のように分析する。これはキャラクターのレベルで可能なことである。そして,このレベルで従来のマンガ評が書かれてきた。伊藤によれば,こうしたキャラクターのレベルでの読み解きを下支えするのがキャラである。

 キャラにキャラクターを読み込むこと。私たちがマンガを読む際に無意識的に行っている作業を,伊藤はこのように定式化し,その起源を手塚治虫『地底国の怪人』に見いだした。

 手塚治虫による『地底国の怪人』は,「「記号的身体」を用いながら「傷つく心」と「死にゆく体」を描き得る」(p.130)ことを示した最初のマンガだとされる。死にゆく記号的身体を最初に具体化した「キャラ」こそ,二本足で動き言葉をしゃべる「ウサギのおばけ」,耳男である。

 耳男は変装をして活躍する。浮浪児として,大学の技師として。変装のためのアイテムは,帽子にカツラである。他の登場人物たちは「どうもおかしいなア」と訝しみながらも耳男=浮浪児=技師とともに活動する。

 こうしたプロットが可能となるには,キャラのもつ「簡単な線画」という特性が利用されていなければならない。伊藤は,写実的に描かれた耳男の顔にはおそらく毛が密生しているだろうとし,キャラであるからこそそれが描かれずに済み,そのことを利用して帽子やカツラのみの変装が通用していたのだと主張する。

 このように徹頭徹尾キャラであるはずの耳男は,「人間なのだろうか」という苦悩を抱え,「人間ではない」という迫害を受けながら,「人間たろう」と努力し,「ぼく人間だねえ」と言いながら死ぬのである。キャラがかかえる矛盾をリアルに引き受けながらそれをストーリーに組みこむ,するとそこから悲劇が生まれた。

 耳男の死以降,マンガを読む者に起こった不可逆的な変化とは,キャラの強度を否認した上でそこにキャラクターを読むという知覚の成立であったのである。ウサギを写実的に描くことによってウサギのリアリティを引き出すことはできない。読者は,すでにそう読めなくなっている。そこで,コマと言葉だったのである。コマと言葉という表現技法によるリアリティ獲得の道はこうして始まったというわけだ。

 この議論と関連して,伊藤が掲題2冊では触れていない点がある。手塚治虫のいわゆる「スター・システム」である。手塚のマンガを多く読んだ者ならすぐに分かることだが,彼は同じキャラを別の作品の中で別のキャラクターとして登場させることがたびたびある。たとえば,ロック・ホームや,ハム・エッグや,アセチレン・ランプや,スカンク草井や,ヒゲオヤジ。かれらは,どのような登場人物(キャラクター)にもなりうる,同一の図像(キャラ)である。ただ,「どのような人物にもなれる」というのはおかしい。それぞれのキャラにはそれぞれ「ふさわしい配役」が与えられる。たとえばスカンク草井はたいてい悪役だし,ハム・エッグはたいてい小悪党だし,ヒゲオヤジはたいてい人のいい助言者,あるいは狂言回し役だ。そしてそれぞれのキャラはそういう役に「ふさわしい風貌」をしている。

 キャラをこのような形で利用する漫画家は手塚以外にもたくさんいる。藤子不二雄の小池さん,吾妻ひでおの三蔵や不気味が思い浮かぶ。

 さて,スター・システムという謂いは,キャラを「俳優」,キャラクターを「役」と見なすたとえだと言うことができる。木村拓哉というキャラが,新海元(パイロット)や久利生公平(検事)や万俵鉄平(財閥令息)といったキャラクターを演じるのと同じ構造である。ちなみにぼくはテレビドラマをまったく見ない。ここに挙げた役名はWikipediaで調べたものだ。

 マンガにおいて,スター・システムはキャラにキャラクターをかぶせることを自覚的に行うことではじめて可能になる製作技法である。これはドラマ,あるいは演劇と言い換えてもいいだろうが,それと同じ構造となっている。製作者の立場でもそうだが,それを受け止める観客の方も,おそらく同じ心理機制でマンガにも演劇にも感動するのだろうと推測される。演劇を観るわたしたちは,キャラ(=役者)があるキャラクターを演じるものとしてそれを観,また,感動する。同時にわたしたちは,キャラクターを離れたキャラ(=役者)の善し悪しについて話すこともできるわけである。

 そう考えると,マンガについての議論を,演劇に敷衍することはできないか,と思えてくる。ひいては,人が人について判断するその心理的なしくみについてモデル化するのに利用することはできないか。これが,現在ぼくが関心を持っている問題である。

 人間をマンガにたとえるとは不謹慎甚だしいと思われるかもしれないが,現実を考えてみよう。キャラにキャラクターを読むというマンガの読み方を,わたしたちは誰かに教わっただろうか?教わるということはないだろう。それは,わたしたちが自分なりの理解の文法として発見し,学習したもののはずである。そうした発達を可能にする条件が,人間に人格を読むという対人認知のしかたの形成にも寄与していると考えるのはあながち間違いでないように思う。

 マンガとは異なり,実際の人間は姿形がころころと変わる。髪を切ったり,ひげを生やしたり,太ったりやせたり。なにより,赤ちゃんから老人まで成長してしまう。だから,「キャラ」としては本当は失格である。マンガの場合でも確かにキャラが成長することがあるが,そうした場合,ある特徴を残す場合が多い。たとえば『ドラゴンボール』では,孫悟空の髪型は終生変わらなかった(超サイヤ人変身時除く)。

 人間の相貌は変わる。にもかかわらず,わたしたちはころころと姿を変える存在に一貫した人格(=character)を容易に見て取っているではないか。そうしたことが可能ならば,マンガのキャラにキャラクターを見いだすことはだいぶ簡単なことだと想像できる。

 わたしたちは何をもって他者の人格を構成しているのか?こうした問いに,マンガ評論から現れた概念は何かをもたらしてくれるのではないかとちょっと期待している。

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