040-発達障害をめぐる違和感

杉山登志郎 2007 発達障害の子どもたち 講談社

 私は「発達障害」を問題として扱ったこともなければ,それを問題として抱えた人の支援に携わったこともない。また,自らそこへ赴こうとも思わない。

 私は「発達障害」を問題として扱う人がいることを知っているし,それを問題として抱えている人がいることも知っているし,そうした人やそうした人を支援する人が懸命にその問題に取り組んでいることも知っている。

 自らとかかわりをもたない問題についてそのような知を,きわめて断片的ながらも形成することができたのは,なんらかの形で教えてくださった方がいたからである。直接に,あるいは間接的に。会話のなかで,あるいは本を通して。

 ほんとうにありがたい。

『発達障害の子どもたち』もまた,私にとって最良の教師の一人であった。

 特に,特別支援教育に対する誤解や,その誤解に翻弄される子どもたちの事例について,知ることができた。長年支援に携わってこられた著者の言葉の重さにただただ感じ入るとともに,それを受け止めきることのできない我が身の不明を恥じるばかりである。

 ただ。2点だけ,違和感をもった言葉があった。

 ひとつは,「発達障害」という言葉の定義についてである。45頁に,「発達障害とは,子どもの発達の途上において,なんらかの理由により,発達の特定の領域に,社会的な適応上の問題を引き起こす可能性がある凹凸を生じたもの」とある。

 疑問を持ったのは,「社会的な適応上の問題」という個所。その前の頁で,発達の目標として,「自立」が挙げられている。自立とは,自活でき,迷惑をかけず,社会の役に立つことができる状態のことであり,そこへいたる過程が「発達」であるという(p.32)。自立できていれば,社会的な適応ができたことになる。なんとなくもっともだと思う。

 思うが,なぜ自立なのだろうか,とも思う。それに,発達に目標があるのだろうか,とも思う。発達に目標を設定し,それを自立とするような考え方の背後には,ある価値観があるだろうし,それを支える現在の日本の社会経済的基盤も,文化的背景もあるだろう。

 発達障害をもつ個人を,その価値観のもとで,ある目標に向かわせるよう強いることもひとつの解法であろう。もう一つの解法として,その価値観を発達障害を持つ個人にあわせて変えるということも考えられる。なぜ後者が問題にされず,前者が採用されるのか。これが第一の違和感である。

 第二の違和感。

 本書の冒頭に,筆者がかかわったという2人の青年の子どもの頃からの生育歴が紹介される。この2人は対照的に描かれる。A君は学習障害との診断を受けたが,普通学級に通った。授業についていけないA君はドロップアウトし,社会とのかかわりももちにくくなった。まさに「自立」が障害によって阻まれたケースである。

 他方のB君は自閉症という診断を受け,中学校に入ってからは特殊学級,高校からは特別支援学校へ通った。そうした場所で彼は,技術を習得し,グループ活動に参加して社会性を涵養した。そのかいあって卒業後は一般企業へ就職,まさに「自立」が達成されたケースとして描かれる。

 筆者はA君について,筆者にとっての「治療の失敗例」(p.14)と書く。筆者は過去の自分の対応を反省したのち,その後の人生において社会に出ていくことを望む。

 確かにA君の治療は失敗かもしれない。記述を読む限り,私も,介入がうまくいけば彼はもっと「いい人生」を若い時期に過ごすことができたかもしれないと考えてしまう。しかし彼の人生は彼のものだ。いい人生かどうか,人がとやかく言うことではない。彼自身にとってその人生がどうであるかを,まず考える必要があろう。

 確かに障害に由来する苦しみ,悩みは人一倍なのかもしれない。それは取り除いた方がいいのかもしれない。しかし同時に彼には,生活のどこかでささやかながらも幸せや楽しさを味わった瞬間もあっただろう。その幸せは,苦しみを生み出したのと同じ原因に由来するのかもしれない。たとえば教師をなぐるようそそのかした「悪い同級生」といっしょにいるとき,彼は楽しかったかもしれない。少なくとも,親や,あるいは教師よりは,よっぽど人間味のあるつきあいができていたかもしれない。分からないけれど。

「失敗」という言葉に対して,私が必要以上に警戒しているだけなのかもしれない。単なる誤読なのかもしれない(その危険性はおおいにある)。ただ,その「失敗」は筆者にとってのものだという記述にはやはりひっかかりをおぼえる。

 筆者はいくつもの人生をながめており,そこには筆者の目から見て治療が成功した例も失敗した例もあろう。しかし,ながめられていたそれぞれの人生は,それぞれの生を生きており,そこには成功も失敗もない。そのときどきの選択と結果があるのみだ。ただ生があるのみだ。ということは,成功/失敗の線引き,第一の違和感で取り上げた言葉を使えば,自立の達成/未達の線引きは,誰か他者の目から見た判断に基づく。

 その他者とは誰か,そして,その線引きとはどのようなものなのか。線を動かすことはできないのか。

 線引きを行う他者の中に,発達障害者・児当人は含まれるのか。含まれないのか。含まれるとしたらどのような実践となるのか。

 この問いには,残念ながら本書は答えてくれない。

 そこで私は,他所に教師を求めたのである。

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