小島信夫 2009 演劇の一場面:私の想像遍歴 水声社
ヴィゴツキー,L.S. 峯俊夫(訳) 1970 ハムレット:その言葉と沈黙 国文社
ヴィゴツキーは学生時代にシェイクスピアの「ハムレット」についての小論をものしている。そこでの議論の一部は後の「芸術心理学」に組み込まれたが、組み込まれなかった残りも十分におもしろい。
当然と言えば当然であるが、教育学や心理学の文脈では、彼の「ハムレット」論は顧みられることはない。私もかつて、心理学における彼の思想と、若き日の「ハムレット」論とのつながりについて考えてみたことがあったが、牽強付会の感があった。
ただ、芸術というものを一般にどのように考えるか、そうした思索を支えるひとつの議論であることは間違いないし、芸術はひとえに心理的な現象なのであるから、やはり心理学の文脈に置いてみてもう少し検討する余地はあると考えるのである。
ヴィゴツキーの「ハムレット」論が顧みられることはないと述べたが、数少ない言及が、小説家、小島信夫による演劇論をとりまとめた「演劇の一場面」という本の中にある。掲載されている文章の初出は1986~7年発行の「ユリイカ」誌であるから内容自体は古い。
「ヴィゴツキーの『ハムレット』論」と題されたその短い文章は、彼の「ハムレット」論を一番のお気に入りとする。ハムレットを観た後の観客に残る「もやもや」とした感じを突き止めようとしているところがいいようだ。
「ハムレット」には作劇にかんして、一見したところ不可解な話の流れがあり、そこでの一連の出来事はありえない形で進行する。たとえば、登場人物たちは「父の復讐」という基本的なテーマをまるで忘れているかのようにふるまう。ヴィゴツキーの言を借りれば「出来事はありそうもないように進み、ばかばかしく見えるおそれもある」。
しかし、その「ありそうもなさ」が、かえって現実らしさを観客にもたらすのかもしれない、そうヴィゴツキーは考えている節があり、小島もそこに自分の小説観を重ね合わせるのである。
「ありそうもなさ」とは、物語のわかりやすさにあえて背くことで現れるものだろう。認知心理学の概念で「代表性ヒューリスティクス」というのがある。たとえば、質問してみよう。サイコロを6回振ったときの出目の並びとして、「ありそう」なのは、ABのうちどちらか。
A: 1、1、1、1、1、1
B: 4、1、2、2、6、3
確率的にはABどちらも同じくらい「ありえる」出目である。しかし私たちは、AよりもBの方が、「ありそう」と感じてしまう。というのも、私たちが「サイコロを振る」と聞いたときに、「ランダムさ」をよりよく代表するような出目の並びを直感的にイメージしているからだとされる。これが代表性ヒューリスティクスである。
この概念にならえば、「ハムレット」のストーリーは、サイコロを6回ふって6回とも1が出るように「ありそうもない」運びをするわけである。しかし、ヴィゴツキーと小島は、むしろその方が現実味が増すのだと言うわけである。
これはどう考えたらよいのだろう。私たちの生活は、もちろん予定調和というわけにはいかない。しかしどこかで、予定調和的な物語として理解したがっているのかもしれない。現実はそこから絶えずズレ続けている。というよりも、私たちは常に現実を予定調和からの差分として理解している、ということになるかもしれない。私たちはどんなときでも自分の現実を「うまくいかない」「こんなはずではない」という形で理解しているのだと言えるだろうか。小説や戯曲の良さは、予定調和的な物語からどれほどずれることができるか、そのコントロール加減にあるのだろう。
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