031-教育の「場」を論じる

柳治男 2005 〈学級〉の歴史学:自明視された空間を疑う 講談社

 『8時だヨ!全員集合』を生で見た最後の世代に当たる。親が見せてくれなかったので、祖父の部屋のテレビで見ていた覚えがある。荒井注はすでに抜けていて、ぼくが見たときにはすでに子どもの人気は加藤茶ではなく志村けんに移っていた。腹がよじれる、おかしくて息ができない、という経験はあの番組を見ていたときが最初で最後ではなかったか。それくらいおかしかった。

 番組前半のコントのうち、好きだったのは「幽霊屋敷もの」であった。家のあちこちから現れる幽霊に志村だけが遭遇し、ほかのメンバーからオオカミ少年扱いされるというものだった。会場(全員集合は公開生放送だった)に来ている観客から、「志村、うしろー!」と声が上がるのは、こういうコントのときだった。志村が歩いているうしろに幽霊がついて回っているのである。彼の、振り返った表情、逃げまどうときの格好、そのタイミング、いずれも絶妙で、もう本当に涙が出るほど笑った。

 ドリフのコントと言うと、しかし、どうも一般には「学校コント」の受けがいいようだ。いかりや先生に、メンバー4人が生徒、ゲストの女性歌手が女生徒という設定のものである。なぜか男がみな長袖半ズボンの小学生風なのに、女生徒はセーラー服だった。かつて紅白にドリフ揃って出演したときも、確か学校コントを披露したように記憶している(記憶があいまいなので、違っていたらご指摘ください)。

 ドリフの学校コントは、学校というフォーマットを一種のパロディとしたものと考えることができる。たとえば、いかりや先生が問いを発し、女生徒がまじめに正答する。これは前振りであり、次に指されたメンバーがお馬鹿な回答をするのが学校コントの基本的なプロットである。質問-回答とは、学校に特有のコミュニケーション・フォーマットであるが、コントではまさにそこが抽出され、利用されているのである。

 コントには、すべての視聴者がイメージとして持つ、典型的な学校の姿が反映されているのだろう。だからこそ視聴者が見て笑うのだし、そのことがひいては学校コントの人気の高さにつながっていくのだろう。質問-回答フォーマットはそうしたイメージのひとつである。

 しかしもっと視点をひけば、コントの舞台そのものが、学校というものに対して現代の日本にいるわれわれの抱くイメージを具現化している。舞台下手に黒板を背にして先生が立ち(これはテレビで教室を映す際の基本的なアングルなのである)、机を前にして生徒が全員同じ向きにいすに座る。教室内にいる全員が同じ進度で授業を受け、時間が来たら一斉に始まり、そして終える。そこは壁と廊下で区切られたひとつの部屋であり、教師と生徒がともに半日間の生活を送る。ドリフの学校コントはいずれをも備えており、われわれはそこに学校のイメージを見て安心するのである。これが理科室や体育館では学校コントにならない。あの教室の形、そして教室内の社会・制度的な陣形が、学校コントには必要なのだ。

 誰もが知っていて、コントでパロディ化される、学校の社会・制度的基盤たる「学級」は、どのようにして「誰もが知っている」状態になったのか。学級が自然の造形ではない以上、誰も知らなかった時代もあったはずであるし、それを作った誰かもいるはずである。本書は(ソデの紹介によれば)教育社会学を専門とする研究者による、学級が成立するまでの過程を追った文献渉猟の結果である。

 時代は19世紀にさかのぼる。イギリスはロンドンの貧民街に、ジョセフ・ランカスターなる青年が作った学校にはひとつの特色があった。それまでの学校では、大きな部屋に学校中の子どもたちを一堂に集め、一人の教師が彼ら全員を教えるというのが通例であった。ところがランカスターは、教師と生徒の間に「モニター」と呼ばれる役割を置いたのである。生徒に対する直接指導は複数のモニターが行い、教師は彼らを指導した。モニターを任されたのは、子どもたちの中でも年長の、すでに教科内容を習得した者であった。

 当時の教科内容は、いわゆる「3R」、すなわち「読み書きそろばん(Reading, wRiting, aRithmetic)」に限られていた。これらはさらに、単位の大きさや規則の包含関係にしたがって学ぶ順序が定められた。たとえば読み書きならば、文字に始まり、短い単語から長い単語へ、そして文章へと至るステップがあらかじめ設定された。計算でいえば、足し算、引き算、掛け算、割り算、そして三角法といった具合である。

 ランカスターの学校では、こうしたステップは、モニターと生徒とを組み合わせるためのリソースとなった。まず、生徒がステップに応じて習熟度別に分けられた。入学したばかりの生徒は、はじめ足し算を学ぶよう割り当てられ、それをマスターしたら引き算の学習へと移る、といったふうである。あるステップの学習内容をマスターした生徒の中には、そのステップを担当するモニターとなる者がいた。モニター役を担ったのは生徒だったのである。

 この、習熟度ごとに分けられた生徒の集団と、彼らを指導するモニターという1セットが、こんにちわれわれの社会に普及した「学級」の始まりである。このあたりの事情は、教育史の分野では「ベル・ランカスター法」という教授システムの成立として語られる。なお日本では、習熟度別に生徒を編成するやり方は明治5(1872)年の「学制」において採用されている。

 本書のポイントと関連して重要なことは、子どもをある程度の人数のまとまりに分け、彼らに対してあらかじめ設定された均一の内容を提供するという教授法が、きわめて限定された教科(3R)の教授を目的として開発され、実施されたということである。そしてまた、経済的な効率性を追求した結果、そうした方法が選ばれたということも重要だ。

 なぜ重要なのか。その後のイギリスや日本で、学級編成方法のたどる変化を追うと、そのことが分かる。大きく2つの変化があった。第一に、習熟度別学級編成から年齢別編成へという変化、そして第二に、学校の教化対象が子どもの道徳的感情へと拡張されたという変化である。

 まず第一の変化について。われわれにとってはなじみ深い「学年」という概念がイギリスに登場したのは、1862年の改正教育令以降であった。ランカスターがモニター制度を提案してから60年近く経った頃である。この変化の背景には、学校が全国的に普及したこと、政府がそれに対して補助金を出したことがある。改正教育令では、補助金がまっとうに使われているかどうかを確認するため、全国の学校へ監督官が政府から派遣され、指導の効率が査察対象となった。

 ここから、全国の学校の経営効率を同じ基準で比較する必要性が生まれた。この必要性を満たすべく生まれたのが、まず教科内容を全国で統一すること、そして、一定の期間で生徒がその教科内容をマスターした程度を経営効率の指標とすることであった。教科内容は6段階に分けられ、それぞれの1年間の学習期間が設けられた(計6年間の就学期間があったことになる)。それまでは、生徒がより高度な学習内容に移るのは、それをマスターしたときであった。ところが、改正教育令の結果、マスターしようがしまいが、移動の機会は同一時期に定められたのである。本書はここに学年制の誕生を見た。

 第二の変化は、学級が生徒に対する道徳的訓練の場となったことである。実はこれは第一の変化とも関連している。習熟度別学級編成の場合、教師と生徒の関係は目的的、一次的なものである。生徒が教師の担当する教科内容をすべて学んでしまえば、次の学級へと移ることとなり、それきり彼らの関係は切れる。ところが1年間という短くもない期間を強制的に過ごすこととなると、話は違ってくる。集団を維持するには、それを支えるだけの別の目的が必要となる。本書はこれを、教師と生徒とのあいだの「司牧」的関係の成立に見た。

 司牧とはキリスト教で言うところの、迷える羊としての信者を宗教指導者が導くことを指す。つまり、教師は原罪説に基づき、放っておけば悪人になってしまう子どもを救済する他愛的な感情を持ち、3R以外の生活にも介入を始める。同時に生徒も、教師の下で自分を律する。こうした関係は、授業時間だけでなく寄宿舎への入寮を通して朝から晩まで教師と生徒がひとつところで生活するパブリック・スクールを想像すると分かりやすい。

 かつての学級は、社会生活を送る上で基礎となるスキルを習得させるため、経済的事情を鑑みた場合の最適解として誕生した。ランカスターの学校は、いかに安い授業料で、多くの子どもに適切な指導を行うか、こうした問いに対する解答だったのである。

 ところがこの解答は、いずれ問いに変質する。つまり、いかにして学級を維持するのか、という問いである。学校を維持するには、政府から突きつけられた、生徒の成績向上という要求をクリアし、補助金を獲得しなければならない。こうして学年別編成という解答が生まれる。また、無関係な人間同士、1年間もの長きにわたり顔をつきあわせるためには、感情の統制という仕組みが必要となる。

 著者が一番に言いたい点は、おそらくここだろう。何を教えるべきかという問いと、どこで誰がどうやって教えるべきかという問いは、かつては不可分なセットだったのだ。ところが現代の教育政策は、前者のみを扱い、後者を背景に置いてしまった。だから、教科内容を減らす減らさないが議論の対象となっても、学級それ自体に手をつけることはなかなかなされない。ドリフの学校コントは、教室ではなく、教科内容をパロディの対象とした。このことの意味は小さくないと思われる。

 もちろん、学習内容に応じて子どもを組織しようとする動きはある。私立校や塾ならば、習熟度別学級編成や少人数制は現在でも実現しているし、公教育でも少人数学級や複数担任制、飛び級制度、小学校での教科担当制など、テストケースを終えて全国的な実施に向けた動きも聞く。しかし、何を教えるべきかという問いと、どこで誰がどうやって教えるべきかという問いとを、つながったものとして行おうとする議論はなかなかできないでいる。

 歴史が提起するのは、具体的な解決方法ではない。議論の仕方なのである。

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