032-第三の性

橋本秀雄 2000 性のグラデーション:半陰陽児を語る 青弓社
橋本秀雄 2004 男でも女でもない性・完全版:インターセックス(半陰陽)を生きる 青弓社
大谷幸三 1984/95 ヒジュラに会う:知られざるインド・半陰陽の社会 筑摩書房
石川武志 1995 ヒジュラ:インド第三の性 青弓社
セレナ・ナンダ 蔦森樹 カマル・シン(訳) 1999 ヒジュラ:男でも女でもなく 青土社

 萩尾望都の名作『11人いる!』には、フロルという名の(地球人から見れば)異星人が登場する。その故郷の星では、人は皆生まれたときには男でも女でもない姿だという。外性器が未分化な状態で生まれ、二次性徴期に単性へ変化する。ただし、男女の人口比を一定に保つため、長子以外が二次性徴期に入ると女性ホルモンが注射され、強制的に女性化されるのだという。フロルはホルモンをうたれる前の姿なのだった。

 ぼくたち地球人の場合、性腺および内性器、外性器の分化は胎内にいるあいだに起こってしまう。これが出生時から見ることのできる一次性徴で、二次性徴はその延長線上にある。フロルのような、性に関するモラトリアムは、地球人には用意されていない。

 だからなのか、性別をみずから選ぶこと、選ぼうとすることに対して、ぼくたち地球人の見る目はなぜか厳しい。逆に、性を選んだ人も、それに手を貸した人も、そのことを隠そうとする。

 ところで、ここで言う性とは何なのか。

 フェミニズムの議論を一通り通過してきたぼくたちにとって、性概念とは、セックス、セクシュアリティ、そしてジェンダーといった側面に分けられ、それらが複雑にからみあってできているものだ。そう信じていても、信じていなくても、人間にはオスとメスしかありえず、オスはメス、メスはオスを求め、オスにはオス特有の、メスにはメス特有の性質が生得的に備わっている、という主張を単純に認めるわけにはいかない。いずれにも反例が見つかるからだ。同性愛指向はセクシュアリティの側面における、メスの気質を持つオスはジェンダーの側面における、それぞれ反例だ。では、人間にはオスとメスしかない、という主張には?

 半陰陽と呼ばれる人たちがいる。胎内で性腺が分化する際に、ちょっとしたタイミングや成長の加減によって、外性器形態からは男女の区別がつきにくくなった人を言う。ギリシャではヘルマフロディトスという神がその姿に描かれ、日本ではふたなりと呼ばれた。外見や性腺検査の結果では、オスメス両方の特徴を持つ、あるいは持たない。オスメスとは互いに互いの成り成りての部分を持たないことによって定義されるのだとしたら、半陰陽と呼ばれる人たちはその定義から漏れることとなる。このことが、先の、人間にはオスとメスしかいないという主張の反例となる。

 インドには、ヒジュラと呼ばれる人たちが、少なくとも1980年代には4、50万人ほどいた。ヒジュラとは半陰陽の謂いである。真性半陰陽として生まれた人も中にはいるが、多くない。ほとんどは男性器を持って生まれ、二次性徴期にみずからがヒジュラであることに気づき、ヒジュラコミュニティに入る。ヒジュラとして生きていく決心がついた後に、去勢手術を受ける。

 ヒジュラは女性の着る服をまとい、結婚式や新生児誕生の祝いをして歩く。そうした門付け芸のほか、喜捨も重要な収入源であるが、都市部では売春をして糊口をしのぐ者もいる。ヒンドゥー社会の悪名高きカースト制の内からもはじき出されたこの社会集団は、その分、非日常の文化的空間にしっかりと根を張り、貪欲にそこを利用しまくっている。呪いなどなんらかの超常の力とヒジュラとが結びつけられるのもそのためだ。

 日本にも、女の子になりたい男の子だって、男の子になりたい女の子だって、いる。実際に外性器整形に踏み切る人も、いる。そうした人たちを、オカマとかオナベとかニューハーフとかトランスセックスとか言うわけだが、ではヒジュラも同じようなものなのか。

 どうやら、ちょっと違うようだ。オカマやオナベは、オカマやオナベになりたいのではなく、女や男になりたいのである。いや、あろう。しかしヒジュラは、女になりたいのではなく、ヒジュラになりたいのだ。あるいは、そもそも彼/女らは生まれつきヒジュラだったのだ。

「…もちろん、最初は戸惑ったけど、私がヒジュラであることはまぎれもない事実。この運命を素直に受け入れることにしたのです」(石川、1995、p.56)

「私は生まれたときからヒジュラです。ヒジュラになったんじゃない。もっともっとヒジュラになりたい。だから去勢したんです」(大谷、1984/95、p.119)

 ここが、男/女二分法的カテゴリーしか持たないところと、男/女を超えたカテゴリーを持つところとの違いである。前者において、オスとして生まれ、男として育ちながらも、性指向が男性であるなら、自己を男と規定できない以上、女になるしかない。なにしろ分類枠は2つしかない。ところが後者においては、性指向が男性であっても、女になる必要はない。オルタナティヴは複数用意されているのである。ここが面白いところだ。

 ただし、ヒジュラが「男/女を超えたカテゴリー」だとしたとき、また不思議な問題が出てくる。オスメスの対立軸を超えているジェンダーアイデンティティには、メスも接近可能であるはずだ。しかしヒジュラになるのはオスが大半なのである。これでは、男女を超えたカテゴリー、と言うよりも、男だけが特権的にトランス可能なジェンダー、と言った方が適切ではないか。インドでは女性は性を変えることすらままならないほど抑圧されているのだろうか?

 また、ヒジュラはほとんどが女性の着るような服を着ている。ヒジュラ専用の服装というのが、とりあえず現代では、存在しないのだ。また、言語的に見ると、女性特有の言葉づかいを採用しているらしい。したがって、ヒジュラ自身が自分は女ではなくヒジュラになのだと言っていたとしても、それは結局のところ、表面的にはオスが女性の姿を取ることでしかない。

 なぜ、メスがヒジュラにならない、あるいはなれないのか。この問いを解かない限り、男女を超えた性としてヒジュラを捉えることはできない。この問いに答える手がかりは、ヒジュラについて日本語で書かれたたった3つの文献に不思議とまったく出てこない女性の姿を、インドの現実の世界に追うしかないのだろう。

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